第1章

第20話 ~二ノ宮家へようこそ~

 6月に入り、暦上では季節が夏へとシフトした今日。無事に退院した俺はユウナに連れられ霊園を訪れていた。

 御影セツナ――もとい二ノ宮セツナに退院報告をするためだ。

「お母さん、やっと二人でこれたよ。それもこれも、お母さんのおかげだね……」

 ユウナは墓碑の手入れをしながら、そうやって今は亡き母に語り掛けていた。愛する母親を亡くしてからまだ4ヶ月も経っていない彼女の言葉は、俺自身の心に重く響いてきた。

 双子の母親であるセツナさんの死は、第三者の意思の介入があったにせよ結果的に優希の手によって引き起こされたものだった。罪の意識を感じないという方が無理な話だ。その自らの手で母親を殺めた優希の記憶は、どうやっても消えることはない。俺の魂が優希の中にある以上、その罪悪感から逃れることもまた、できはしないのだ。

 事件以後一時は断裂しかけた双子の絆だったが、今はまたこうして二人でお墓参りをすることが叶っている。俺は何度も生死の淵を彷徨ったが、ふたりのわだかまりが解けたことに満足していた。

 お姉ちゃんらしくなると宣言して以来、ユウナは決して悲しい顔は見せない。最初はどこかで無理をしているのではないかと思っていたが、心の底から嬉しそうに母親に語りかけている姿を見る限り、彼女なりに乗り越えることができたのだろう。

 彼女が笑いかけてくれる。それが、優希にとっての救いであり、癒しだった。それは俺にとっても同じだ。

「――それでね、ユウキが私の前で悲鳴上げるんだよ? 笑っちゃうよね」

「ちょっ、余計なことまで言わなくていいからっ!」

 ユウナの言葉に動揺して不均一に切断してしまった花束の茎を切り揃えて挿し、彼女の隣にしゃがみ込んだ。

 つい数日前までは埋められなかった距離を、今ではなんてことはなく埋めることが出来る。触れることだって簡単だ。ただ、少女優希の身体を借りている男の俺からすると、容易に触れることはできないのだが。

 そんな苦労は、誰も知らない――。

 合図をするでもなく、俺たちは二人同時に合掌した。

 俺はすぐに顔をあげたが、隣にいる優雫は長いこと目を瞑ったままだった。きっとまだいろいろと話し足りないことがあるのだろう。

 俺はその横顔を見ながら、入院しているときに明夫さんから見せてもらったセツナさんの写真を思い出していた。セツナさんは写真に写るのがあまり好きではなかったらしく、事実アルバムにもほとんど残されていなかった。

 その写真は明夫さんが陰からこっそり撮影したもの。いわゆる盗撮だった。仮にも弁護士がそんなことしていいのか。

「どうだ。綺麗だろ?」

 当の犯人は罪の意識など微塵も見せずに、誇らしげに語った。

 最初は写りのことかと思ったが、それは違うとすぐに分かった。

 写真で見ただけでも、セツナさんはかなり美人だった。30を超える女性には到底見えない少女のような垢抜けた笑顔を浮かべ、甘えるために擦り寄ってくる娘たちに微笑みかけていた。その面影は双子にも残されている。思わずこの親にしてこの娘ありと納得してしまった。いい歳こいたおっさんがデレデレになるのも頷ける。

 それほど、彼女は愛されていた。俺も一度でいいから、会ってみたかったな。――お母さん。

 ――シャリーン。

 ユウナが立ち上がり、鞄に付いた鈴が優しい音を奏でた。それを聞いて、俺も立ち上がった。

「よしっ、いこっか」

 ユウナの言葉に頷き、簡単に墓碑の周りのゴミ拾いをしてから俺たちは霊園を後にした。


 双子の生家である御影家の土地は売り払ったらしい。

 俺が入院している間にも引っ越しの準備は進められ、いざ退院して帰る場所はもうあの家ではないという。引っ越しは入籍したときには決まっていたことで、残された双子が二ノ宮家で暮らすことはセツナさんの意思でもあった。

 あの家に帰ることはもうない。

 そのことに寂寥感せきりょうかんを覚える俺とは違い、残された身となったユウナにとっては別の意味合いの方が強いはずだ。笑ってばかりいるとはいえ、目の前で眠っている不器用な彼女のことだ。また無理をさせないように、少しでも俺が支えてやりたい。

「本日もご利用いただきありがとうございました。次は――」

 目的の駅へ到着を告げるアナウンスが鳴り、ユウナの肩を揺らした。

 二ノ宮家は駅から歩いて15分ほどの住宅地の一角に立地していた。霊園からは遠く感じたが、御影家からは実際のところ1駅しか離れていない。意外と近い。

「ただいま!」

 すでに通いなれていたユウナに続き、俺も「お――ただいま」と多少つっかえながらも広い家の中に向かって叫んだ。

 声の響き方が違う。玄関だけでも御影家の家より3倍以上の広さがあった。外観は建築会社のCMに出てきそうなくらい立派なものだったが、中は想像以上に広々としていた。

「おぉ……」

 俺は思わず感嘆の声を漏らした。

 誰からの返事も無いなか、いつの間にか靴を脱ぎ揃えていたユウナが言った。

「明夫さんは仕事だし、茜くんは塾かな?」

「そっか」

 日曜日だというのに、お疲れ様です。茜は少し勉強を休んだ方がいい。それよりも、もう一人の家族が気になっていた。

「なゆちゃんは?」

 未だに一度も顔を見ていない妹という幻の存在。写真で見た時は小っちゃくてかわいツインテールの女の子だった。

「部活は今日はないって言ってたから居ると思うよ。……ユウキ、いつまでも突っ立ってないであがりなよ」

「う、うん」

 ユウナは一足先にリビングへの扉を開けて姿を消した。

 わかる。わかるよ。でもね、こうも広い家に上がるためには、心の準備が必要なんだよ。これは俺自身の天性の貧乏性の現れなのか……?

 余計な埃をたてないようおっかなびっくり縁に腰をおろして靴を脱いでいると、背後から今にも消え入りそうなくらい小さな声が聞こえてきた。

「……おかえり」

 びっくりして振り返ると、階段の上からひょっこりと顔を出して降りてくる少年の姿があった。

「あ、えっと……だれ?」

 一瞬だけ七夕ちゃんの顔が頭をよぎったが、彼女はツインテールの女の子だ。今目の前にいるのは髪がサッパリとしていておまけに目鼻立ちがスッキリしている、どこかのイケメンばかりが入るような事務所に入っていてもおかしくない美少年だ。

 そう。あまりにもイメージがかけ離れているため、俺は気付かなかった。

「あ、七夕ちゃん、探したよー」

 リビングから出てきたユウナが、目の前にいる少年にそう言いながら抱き付いた。

「なゆちゃん!?」

 俺は思わず大声をあげていた。

「のんたん……やっぱり……」

 俺の反応を見て、七夕と呼ばれた少年――いや、少女が見るからに悲しそうな顔をする。

「ああ、いやあその! 久しぶりですっごい変わってたからびっくりしただけだよ! うん! 覚えてた、覚えてましたとも、もちろん!」

 大根役者もびっくりの演技だったが、七夕はうっすらと表情を和らげた。表情の変化が乏しいのは茜譲り、いや明夫譲りか。

「そうなんだ。よかった……。わたしね、実はお見舞いに行ったんだけど……タイミングが悪くて、のんたん眠ってたみたいなの……だから、久しぶり」

 両手を組んで、首を左に傾けて微笑んで見せる七夕。茜と兄妹というだけはあり、無表情だとたしかに少年っぽい。だが、表情や仕草は見紛うことなき女の子。実に可愛らしい。俺でさえ心と身体の性別がややこしいというのに、余計に頭がおかしくなりそうだ。

 靴を脱ぎ揃えて立ち上がると、顔の少し下に移動した七夕の瞳が追いかけてきた。何をそんなに見ているんだろう。俺もユウナのように抱き付いた方がいいのだろうか。

 とりあえず、

「う、うん……久しぶりだね」

 頭を撫でてみる。

「えへへ」

 と、猫のように目を細めて笑った。

(な、なんだこの可愛い生き物――ッ!?)

 驚愕した。今まで兄や姉ばかりであったが、妹という生き物は最高に良いものじゃないか! パッと見弟に見えなくもないが、とにかく弟妹がいるということは素晴らしい!

「久しぶりだね! 本当にかわいくなって七夕ちゃんは! 今年で中学二年生だっけ? そっかもうそんな時期かー!」

 思春期に目覚めるのも時間の問題――この子にどこぞの輩がさかり出すやもしれん。そちらの方の監視もしなければならぬなこれは……。

「……のんたん、苦しい」

「ああ、ごめんごめん」

 思わず抱きしめてしまった。男だったら通報待ったなしだが、これも女子だから許される特権である。フーハハハ。

「……のんたん、顔気持ち悪いよ」

「ああ、ごめんごめん」

 七夕からの指摘に、顔をぺしぺしと叩いてにやついた表情を戻す。

「ああ、そうだ。せっかくだから、おねえちゃんって言ってみてよ?」

 本当ならば「おにいちゃん」と呼んでほしいところだが、そこは妥協する。

「……なんで? のんたん……じゃいや?」

「いや、その、呼ばれてみたい、から?」

 正直に言うがしかし、七夕は嫌そうな顔をした。

「そんないきなり……恥ずかしいよ」

 なんだかよくないことをしている気分になってきた。だが、ここは引き下がれない。

「一生のお願い! 一回だけでもいいから!」

 俺の場合は本当に一生一度のお願いになりかねないが、そんな重要性はさておき七夕は言いづらそうにもごもごさせた後顔を赤くして、

「おねえ、ちゃん……」

「ふぉっほぉぉぉ――あぶなッ!!」

 そのあまりの破壊力に身悶え、玄関の段差から落ちそうになった。その異常なまでの発狂ぶりを傍から見ていたユウナが七夕に向かって言った。

「七夕ちゃん、ユウキを一度病院に行かせた方がいいかな……」

「病院から帰ってきたばっかりだよ!?」

「……うん。薬の使用を疑った方が」

「ちょっとそれシャレになんないよ!」

 俺が全力でツッコミをすると、ユウナと七夕が笑った。

「あはは……本当だ。たしかにおかしいね」

「だよね?」

「うん、別人みたい」

 訂正、笑われた。というか「別人みたい」は本当にシャレにならない。

 とはいえ、怪しまれているわけではなさそうだが、「ユウキはからかうと面白い」なんて変な情報を七夕に吹き込むのだけはやめてほしい。

「シャワー浴びてくる」

「浴室は突き当り左だよ」

 何はともあれ、これ以上墓穴を掘らないようにその場から離れるに越したことはない。ユウナの言葉通りの扉を開け、逃げるように身体を滑り込ませた。

 優希の身体になってからお風呂に入るのは、これで何度目だろう。さすがにそろそろ耐性がついてもいい頃なのだが、相変わらず下着を脱ぐ時から大変だ。

「そっか、ブラ付けてないから下だけでいいのか……」

 もうこれから付けなくてもいいんじゃないだろうか。その方が脱ぐとき楽だし。そもそもなんでブラ付けるんだ?

「まあいいや……んしょ」

 今ブラジャーのことで頭を悩ませていても仕方がない。しかし別のことに気が向いたおかげですんなりと脱衣できた。

 畳んだ制服のスカートとブラウスの間に下着を挟んで籠に入れてから、浴室の扉を開けた。

「わぉ……」

 一人で入るのはもったいないくらいゆったりとした真新しい浴室の空間に言葉を失くした。この光景はショウルームでしか見たことがない。

「今日からここで生活するのかあ……」

 あまり実感が沸かない。学校でしか顔を合わせることのなかった茜と、あの小っちゃくて可愛い妹の七夕と同じ屋根の下で暮らすことになるのだ。

 ひとつの家族として。

 ちょっと前まではユウナのことでドギマギしていたばかりなのに、生まれ変わってから周りが目まぐるしく変化していく一方だ。

 レバーをひねり、ノズルの先からでてくる水が程よく温まったのを確認してから髪を濡らす。ユウナが三つ編みに結ってくれたサイドの髪を解き、手で梳きながらまんべんなく水が浸透したところで、水を止めてバスチェアに腰を下ろした。

 お風呂とトイレの時間は、瞑想の時間になっていた。まあそうでもしていないとやっていられないという理由もある。

 だが、このときの俺にそんな時間が訪れることはなかった。

 髪を洗っているところで、背後で扉が開く音がした。

「え?」

「来ちゃった。せっかくだし、一緒に入ってもいいかな?」

「ちょっ――うわぁ!?」

 許可を求めている割には既に入る気満々な恰好でユウナが目の前に立っていた。

「な、ななななんで入ってくるのさぁ!?」

 俺は慌てて身体をひねり、前に向き直った。幸い鏡は曇っていたためにユウナの艶姿を映し出すことはなかった。

「だって、ユウキと久しぶりにお風呂一緒に入りたかったんだもん。あ、心配しなくても夕飯は七夕ちゃんが作ってくれるって」

 俺が心配しているのはそこじゃない!

「せっかくだし、あらいっこしようよ」

 ほわっと!? あらいっこ……アライッコ……蠱惑的こわくてきな響き……イケない! イケないよ!?

「ど、どこを……っ!?」

 分かってはいても聞いてしまう。

「どこって、セナカだよ、セナカ」

 ユウナが発する言葉に変な艶がこもっている! そんな錯覚すら覚えてしまう俺は末期だ。

「せ、背中かあ、そうだよね。うん、背中のあらいっこかあ……」

 もう既に妄想がはかどり過ぎてキャパシティオーバーを起こしそうだ。

「昔はよくやったんだよ。ユウキは覚えてないかもしれないけど」

 そう言うユウナの手が背中に触れたかと思うと、ユウナの手が俺の身体を滑るように前まで回ってきて、次の瞬間いきなり胸を揉まれた。

「ひああっ!? なっ、なにするのぉっ!?」

 やばい、ユウナに犯される! ユウナってこんなに大胆だっけ!? 確かに触れられるようになってからはボディタッチの回数は増えたけど、まさか本当に――

 全身を襲う妙な感覚に悶えていると、ユウナが唸り声をあげて俺を解放した。

「……なるほどねぇ」

「な、なにがなるほどなんでしょうか……」

「わたしたち、胸そんなに大きくならないなあって思って。前とあんまり変わってない……」

 なぜお風呂場でこんな話をせにゃならんのか。真顔で自分の胸に触れながら悲嘆するユウナの姿が頭に浮かんだ。

「そ、そうなんだ……」

 適当に相槌を打っていると、ユウナがまたしても爆弾を投下してきた。

「うん。ユウキ、今度綾乃ちゃんの触らせてもらいなよ。綾乃ちゃんの胸、けっこう大きいんだよ?」

「そっ、ばっ、何を言ってるの出来るわけないでしょ!」

 いきなり何を言い出すんだユウナは!

「綾乃ちゃんならお願いすれば触らせてくれるって。ユウキ仲良いから、大丈夫だよ」

「綾乃ちゃんはそんなに軽いじゃないよ!」

 女子の感覚はおかしい。男の俺には踏み込めない領域を嘆願一つで解決してしまうというのか……!

 いや、冷静になるんだユウキ。ユウナはあくまで双子の妹に対して提案しているに過ぎないのだ。ここで俺が動揺してどうする。それよりも今のこの状況をどうにか改善しなければオーバーヒートしてしまいそうだ。

「べ、べつに一緒に入るのはいいけど……こ、高校生にもなって恥ずかしいからあらいっこはなしね」

「そんなに照れなくてもいいのに」

「照れてないよ」

「はーい」

 背後でバスチェアを引いてユウナが座った音がした。さすがに横に並んで座ることはできないので、縦に並ぶ形になる。このまま視界に入れずにさっさと出よう……。

「前ごめんね」

 シャワーのホースを伸ばし、背後で水を被るユウナ。

 そういえば髪が短くなったためにシャンプーに時間を要さなくなった。そろそろ髪を流したいところだが、ユウナが使っている。

「……ユウナ、つぎ貸して?」

「ん」

 たしかにスペースは十分だが、わざわざ窮屈な思いをしてまで一緒に入る必要があるのだろうか。それとも、家族だから……?

「昔は、よくやったんだよね。あの家で」

「……うん。前の家ではこんな風に並んで座ることなんてできなかったから、ふたりとも立ってたけど」

「狭いもんね」

「うん、狭い。――はい」

「ありがとう」

 ユウナからノズルを受け取り、シャンプーを洗い流す。背後ではユウナが泡をたて始めた。

「狭かったけど、私たちも小さかったからね。浴槽なんてふたりで入れるわけないのに、無理して入ってた。その時たくさん水こぼして、二人で大笑いしたんだよ」

「…………」

 想い出を語るユウナは笑っているようだった。その話の中の二人を想像するのは容易だっただけに、俺は申し訳ない気持ちになった。

「……ごめんね」

 べつに許してほしかったわけではないが、自然とその言葉が漏れていた。水の音でかき消えたから、ユウナには聞こえていなかったかもしれない。

「だからね、また想い出をユウキと作りたかったの」

 水の音が止まった。背後でわしゃわしゃとユウナが髪を洗う音がちょっとの間だけ聞こえて、ユウナは言葉を続けた。

「この家には、思い出がないから。私と、ユウキの思い出が。べつにあらいっこなんかしなくたって、ユウキが初めてこの家に来た日に『一緒にお風呂に入ったんだ』って。それだけでいいんだよ。の、ちょっとした思い出を作りたかったの」

 俺は強めの水圧で今一度髪を洗い流し、フラワーボールスポンジに多めにボディソープを出して必至で泡をたてた。そしてユウナが髪を洗い流したところで泡まみれになったスポンジを渡した。俺はユウナを直視できないので、よそ見しながら渡した。ユウナから見れば嫌々ながらにそうしているように見えてもおかしくはない。

 でも俺はユウナの言葉が嬉しくて仕方がなかった。恥ずかしさに勝るほどに、心からそうしたいと思った。

 ユウナとの、思い出が欲しかった。

 それはきっと、ユウキも一緒だ。

「背中、お願いしてもいい……?」

 不躾な申し出だったが、ユウナは口もとを緩ませて頷いた。

「うん。もちろん」


「ふぃー……」

 自分でもじじくさいと思ったが、思わずそんな声が漏れてしまった。

 入院中は入浴が禁止されていたため、実に数日ぶりの入浴ということになる。そしてなんといっても、二ノ宮家の浴槽が広い。御影家の脚を曲げないと入れない手狭てぜまなあの感じも良かったが、ゆったりとできる空間は格別だった。

「よし、私もはいるー」

 ユウナが俺と向かい合う形で湯船に足を入れ、身体を入れてきた。俺は目を瞑りながら、足を少しだけ曲げた。

 ユウナが入るのと同時に、水が大量に浴槽から溢れ出ていった。

「いひひ、これこれ。いやー水を無駄にしてますねー」

 それを見てユウナが子供のようにはしゃいだ。俺はどちらかというとそんなユウナを見ている方が面白かった。

「そういえば、お湯張ってくれてたんだね」

 シャワーで済ますつもりだったが、まるで予定されていたかのようにお湯が張られていたのだ。

「頼んでたからね。ユウキ入りたかったでしょ?」

「……うん」

 ユウナには頭が上がらないなあ。

「あ、そうだ。ちょっと立って」

「え?」

「いいからいいから」

 ユウナに促されるまま、躊躇いつつ俺はその場に立ち上がった。こういう時無意識に手が動いてしまうが、ユウナは至って真剣な顔で、俺の腹部のとある個所を見つめていた。

 それは、新田誠治に刃物で刺され縫った傷跡だった。

 ユウナはその傷跡に触れると、ぼそりと呟いた。

「傷、残っちゃったね……」

「でも、あんまり目立たないよ」

 縫合ほうごうした医師の腕が良かったのか、もともとの傷が浅かったのか、今では注視しないと分からないくらいまでになっていた。

「だ、だいじょうぶだから、もう座るねっ」

 いつまでもユウナがじろじろ見てくるものだからいてもたってもいられなくなり、湯船の中に逃げ込んだ。

「ユウキ、そっちいっていい?」

「へ? じゃあ、入れ替わろうか」

「そういうことじゃなくて――」

 ユウナは身体を俺の脚の間にもぐりこませ、俺に体重を預けて座りなおした。挙げ句の果てには俺の腕を自分の前でクロスさせ、結果的に俺がユウナをあすなろ抱きする形になってしまった。

 肌と肌がふれあう面積が広すぎて、意識が朦朧としてくる。

「あったかいね……」

「ウン、ソウダネ」

「お母さんにね、こうやってしてもらってたんだよ」

「ウン、ソウダネ」

 ユウナの首筋にのぞくうなじが、いつの間にかつぶらな瞳に変わっていた。恐ろしいまでに顔が近い。ユウナの白い肌が上気し、うっすらと赤くなった頬と汗ばんだ身体が、ユウナの火照った息遣いがすぐそばにあり、五感がかつてないほどに刺激される。

「ユウキ、だいじょうぶ?」

「大丈夫じゃないかも……」

 のぼせてきたかもしれない。色んな意味で。とにもかくにももう限界だった。

「たいへん、もうあがった方がいいよ。着替えは洗濯機の上に用意してあるから」

「うん、そうするよ……」

 緩慢な動作で立ち上がると、俺は浴室を後にした。

 脱衣所へ出てから、しばらくぼーっとしていた。バスタオルを手に取って身体を拭きつつ、思考能力の鈍った頭を冷やすために外気に身体を宛てて放置していた。

 そこへ、今度は脱衣所の扉が開かれる。

「うっ」

 声の主は茜だった。俺の方を向いたままみたことのない表情をしていた。

「あ、茜だ。どうしたの? そんな顔して」

「どうって……お前、その――ないのか?」

 最後の方が聞き取れなかった。茜はこちらを見ないように視線を明後日の方へ向けている。

「なんだって?」

「だから、ほら、あるだろ……ふつう、裸見られたらすることが」

「あっ……」

 そこまで指摘されて初めて、自分がまだ服を着ていないことを思い出した。急速に脳が回転をはじめ、ふつふつと身体の奥底から込み上げてくるものを感じる。

 同じ屋根の下で暮らすということは、時としてこういうことが起こるのはお約束である。急いでバスタオルを体に巻き付け、茜の傍まで歩み寄る。

 茜は制裁を覚悟したように明後日の方を向いたまま目を閉じ、待っていた。

 ここからの選択肢は色々あるが、考え得る限り一番男がされて困ることをしてやることにした。

 恥ずかしいが、これは仕返しだ。

 そして俺は、バスタオルを取り払い、そのまま床に落とした。

 俺は裸のまま茜に抱き付き、言った。


「こんなことした……せきにん、とってよ?」


「――――――――――――ッッッ!?」

 そして茜を突き放し、扉をしめた。

 

 その後、茜がユウナと七夕から総攻撃を食らったのは言うまでもない。


 こうして波乱な展開が続くことになったが、優希に生まれ変わった俺の二ノ宮家での新たな生活が始まった。

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