第21話 二度目の入学式
――また朝が来る。同じ朝だけど、決して同じではない朝が。
窓から差し込む日差しを眩しいと感じ、無意識に手で覆う。息を吐き出し、吸い込む。意識がはっきりしてくると見える部屋の天井は、もうすっかり見慣れた。左の方へ視線を転がすと、ごまアザラシのごまたんの愛くるしい顔があった。毛布を取り払って身体を起こし、脚をベッドの外へと投げ出してから、縁に片手を突いて立ち上がる。カーテンを広げ、窓の外に広がる住宅街の一角を見下ろし、同じこの世界の住人である近所のおばさんが何気ない朝の一コマを送っているのを見て。
「……おはよう」
つぶやいた声は、寝起きであるにも
小鳥のさえずりが耳を
窓の外に広がる景色は昨日と同じ。それはきっと、これからも変わらない。
不変の景色はつまらない。でも、そのつまらなさが愛おしい。
今日もまた、同じ景色を眺めることが出来たと安堵し――
コンコン。
とそこへ時計を見るまでもなく正確なタイミングで、部屋のドアがノックされた。
「ユウキ、起きてる?」
家族であり俺と瓜二つな少女、ユウナがひょっこりと顔を出した。毎朝決まって七時になると同じ言葉を投げ掛けてくれるが、今朝はいつもとまた違って聞こえた。
「……お、起きてるよ」
「おはよう。どうしたの?」
「ううん、なんでもない」
はぐらかすと、ユウナは「先に降りてるね」と言ってドアを閉めた。
ふと、ユウナの足音が遠ざかるのと行き違うように忍び寄ってくる痛みに、思わず胸に手を宛てた。それから小さく溜息を吐き、その痛みから逃れるように一階へと降りた。
「いってきまーす!」「いってきます」
「おう、車に跳ねられんじゃねえぞ。まあ万が一跳ねられても俺が慰謝料ふんだくってやるから安心しろ、フハハッ!」
庭で花壇の土をいじっていた明夫さんに声を飛ばすと、物騒な言葉が返ってきた。本人は冗談のつもりだろうが、万が一でも怪我をするのはごめん被りたい。できれば優希の身体は傷つけたくない。
「明夫さんならやりかねないなあ……」
「ふふっ、かもね」
義父の腹黒さを想像して独りごちると、隣にいるユウナがくすりと笑った。
これはユウナから聞いたことだが、大塚明夫は知る人ぞ知る敏腕弁護士で、彼が弁護すると必ず勝てると評判らしい……のだが、先の発言から見ても、あの腕の筋肉と強面渋面で揺さぶりをかけてるんじゃないかと疑わしく思えてくるが、それはさておき。
「いこっか」と言ってユウナが歩き出すのを確認してから、俺は小走りでユウナに並ぶと歩調を合わせた。ちらり、とユウナがこちらを確認してから口を開く。
「明夫さんってどんな人? って初めて
「その言葉、明夫さんをよく表してるね」
「ふふっ、だよね。私は、もう少し厳格な人なのかな、って思ってたんだけど」
「あの顔と筋肉を見たらそりゃあ、ね。弁護士ってあんなに筋肉必要なのかな?」
「もしかしたら弁護士っていうのは肩書だけで、」
「ウラで何かやってるかもね」
他愛ない会話でユウナが吹き出し、それに俺もつられ笑い合う。
子供っぽいけど、どこか大人な凛々しさを併せ持つユウナの笑顔はやっぱり可愛くて、見ているとこっちまで心が弾む。
6月も中旬になると、梅雨シーズンの到来を無理やり体感させられる。視界いっぱいに広がる曇天の空は見ていて重たいし、湿気を含んだ空気はちょっぴり鬱陶しい。今にも空から雫が落ちてきそうな天気でもこうも清々しい気持ちなのは、初めてユウナと一緒に登校したときよりも、距離が縮まっているからだろうか。
こそばゆいような、気恥ずかしいような距離を間に、変ににやけた顔を悟られぬように駅までの道をユウナと歩いた。
二ノ宮家に越してから変わったことは多々あるが、その一つに通学距離がある。以前より近いはずなのだが、新しい通学路を目に焼き付けながら歩いていたせいか予想以上に時間を食ってしまい、気付けば予鈴ギリギリの時間になっていた。
「ここまでくれば、もう大丈夫だよ」
「そう……? よかった……っ」
照月学園の正門が見える角まできたところで、道中後半のほとんどを駆け抜けた俺達は膝に手をついて立ち止まった。退院してから久しぶりの運動でかなり息が切れたが、それ以上に隣でユウナが辛そうに肩を上下させていた。そういえばユウナは小さい頃から病気がちで身体があまり丈夫ではないことを思い出し、俺はユウナが顔を上げるのを待つことにした。
その時ふいに、ユウナの薄くなった制服の胸元から下着が覗けているのが目に留まり、落ち着いてきたはずの心臓が再加速してしまった。む、むぼうびだ……! 今は周りに誰も居ないからあまり気にしていないのだろうが、目の前にいる優希の中は男なんです……! なんて言えるはずもないけれど。
早いようで季節は春から夏に移ろい、ユウナだけではない、周りの女子も肌の露出が増える。色んな意味で危険なシーズンになりそうな予感を抱きながら視線を彷徨わせていると、正門前で登校する生徒に向かって声を張り上げている生活指導の大坂教諭の姿を発見した。
生徒達の間では親しみと愛情を込めて『ハゲ坂爺さん』と呼ばれている(川越談)。たしかにその呼称どおりの容姿ではあるが、本人はまだエネルギーに満ち溢れた四〇そこいらの熱血教師である。生徒会が定めた遅刻取締りキャンペーン中に正門前に出没するともっぱらの噂だが、本人の気まぐれで立っていることもあるためあまり情報はあてにならない。ちなみに今日はその期間中ではないので後者だ。
「おまたせ」とユウナの復帰報告を聞いて、再び並んで歩き出す。「遅刻してたらやばかったね」とユウナがおっかなそうに囁いてきたところで、
「そ、そうだね――」
「おう、天羽じゃないか!」
ハゲ坂が聞き覚えのある名を叫んだ。
「おう今日は約束通りちゃんときたんだな。偉いとは言わんが、先生は嬉しいぞお!」
ハゲ坂は背の高い男子生徒の肩をバンバンと叩いた。「あれって……」とユウナが気付くのと同時に、俺は頷く。
その男子生徒が何やら言葉を返したが、この距離では聞こえない。ハゲ坂はそれを受けてわははと笑った。
「まあそう言うなぃ。また俺んとこいつでも来い。なんなら西野先生のとこでもいいぞお」
「っせぇな、ほっとけよクソジジイ――ッ!!」
朝の静かな学園前に、怒声が響き渡った。周囲の生徒の視線が一点に集められ、張り詰めた緊張感が漂い出す。しかし場の空気を作り出した本人は一切意に介さず、乱れた制服を着直すように肩を回してからつかつかと正門を潜っていった。周りの生徒たちは、さり気なく距離をとるものや歩調を落として彼を先に行かせるなど、それぞれの反応を示している。「なんであんな奴がこの学園にいるの」という疑念を口にするものもいて、それはハゲ坂にも聞こえたのか、
「おう、お前ら! ぼけーっとしてないでさっさと教室に行けぃ! 本鈴なってもこの場にいたら遅刻カウントだ! 正門潜ったらセーフじゃねえぞぉ!」
わざと煽るように声を張り上げたが、直後のハゲ坂には先ほどのような威勢は感じられなかった。
「おはようございます。大坂先生」「おはようございます」
遠くなっていく彼の背中を眺めていたハゲ坂に声をかけると、年季の入ったしわくちゃな顔を振り向かせてきた。
「おう、おはよう。おう二ノ宮ぁ、退院おめでとう」
「逆です、先生。退院したのはユウキです」
「おうなんだ、そうかぃ。ははっ、言っちゃあ何だが、並ばれると俺の目にはどっちがどっちだか……」
「担任の先生も間違えるくらいですから、しょうがないです。でも次は当ててくださいね、期待してますから」
「おう、任せろぃ。二ノ宮妹、退院おめでとう」
「お陰様です。……ところで先生、天羽くんはいつもあんな感じなんですか?」
話を切り出すと、先生はバツの悪そうな顔で後頭部をボリボリと掻いた。
「おう……なんだ。その、今朝は虫の居所が悪かったんだろうな。そういや、二ノ宮妹はあいつと同じAクラスだったかぃ?」
「はい」
「そうかぃ。……無責任なお願いだとは思うが、せめて同じクラス同士なら、あいつのことは見捨てないでやってくれないかぃ。あいつは……天羽は敵ばっかり作るからよぉ」
ハゲ坂は腕を組み仁王像たる堂々とした立ち居振る舞いだったが、誰よりも低い姿勢でそうお願いしてきた。別に彼に特別な情があったわけでもなければ、場を逃れるためだけに取り繕ったわけでもない。
「大丈夫ですよ。私は見捨てたりなんかしません」
そう、自然と口にしていた。
「おう。その言葉が聞けて安心したぃ」
「先生は大丈夫ですか? さっき思いっきり拒絶されてましたけど……」
「ん、俺のことは心配すんなぃ。それよりお前ら、もうすぐ本鈴鳴るぞ。おう、さっさといったいった」
ユウナの心配に力強く言葉を返すと、ハゲ坂はパンパンと手を叩いて急かしてきたので、俺達は教室への道を早足で進んだ。
教室の扉の前に立ち、俺は深呼吸をした。綾乃以外のクラスメイトと顔を合わせるのは久しぶりだ。どんな顔で挨拶をすればいいだろう。入院中にAクラスの面々が何人か病室を訪ねてくれたようだが、寝ている時間がほとんどだった俺は知らない。休んでた事を色々聞かれるだろうか。そしたらなんと説明しよう……。
「やあっ」
「ひゃんっ!?」
いきなり脇腹につつき攻撃をくらい、変な声をあげて体が飛び上がってしまう。羞恥からあまり顔を見られたくはなかったが、攻撃者を確認するために振り返ると、
「おお、ほんとだ」
と呑気に感心しているのは、同じAクラスの
「い、いきなりそういうことするのはやめてよ……」
「よいではないかよいではないか~」
文句を言うと、どこぞの悪代官のセリフを無表情で
「という前フリは置いておいて、」
……普通に声かけてくれ。
「ユウキどうして入らないの?」
教室の扉を指差して首を傾げる茉利奈さん。表情からは全く読めないが、心配してくれていたらしい。
「え、えっと……まあ、その……色々と」
久しぶりにみんなと顔を合わせるのが恥ずかしい、なんて恥ずかしくて言えるわけない。言い
「ゆうううううううううきいいいいいいいいいいいいぃぃぃぃぃぃぃ――!!」
「おほぉっ!?」
いきなり何かが抱きついてきて、顔全体が甘い匂いと柔らかい感触に包まれた。
「あぁ、ズルイ綾乃っち!! 私も抱きつこっ」
「むぎゅっ!?」
続けて後ろから体をピッタリと押し当てられ、完全に身動きが取れなくなってしまった。
「ユウキちゃん、完全にハーレムですね」
「オ~、ハーレム!」
「む~! む~!」
「嬉しそうですね~、幸せそうですね~」
「「あいたっ」」
頭上から短い悲鳴が聞こえたかと思うと、体が解放され、俺はその場にへなへなと崩れ落ちた。
「茅ヶ崎、川越、本鈴鳴ったんだから席に着け」
「ザイセン! 感動の再会に水差すなんてどういうことですか?」
「もう少し学園ドラマ見たほうが良いですよっ!?」
「二ノ宮を骨抜きにしておいてよく言えるな」
「べ、べつに骨抜きになんかしてませんよ……!」
「ん」
「おぅふ、ほんとだ! ……ごめんね、ユウキりん。大丈夫かい?」
川越さんから手を差し伸べられたが、知らん振りして立ち上がった。
「ま、まだ……あまり触らないで……?」
でないと意識が持ちそうにない。
綾乃や川越さんの顔を見られず俯いていると、革靴が視界に入ってきた。
「二ノ宮、退院おめでとう」
顔をあげると、我らが担任の安西が眼鏡のレンズ越しにこちらを見ていた。
「休んでいたとは言え、授業は待ってはくれないからな。ちゃんと着いてこいよ?」
「はい。えっと……頑張ります」
安西先生なりの激励の言葉に頷いて見せると、両サイドにいた綾乃と川越が不服さたっぷりに、
「うっわ、ザイセンきも……」
「学園ドラマの見すぎですよ……? ちゃんとついてこいよ(キリッ)、だって。聞きました、奥さん?」
「聞いた聞いた」
「お前ら、セクハラされたくなかったらさっさと席着け」
「ザイセン、アウト!」
「先生、サイテーですね」
「素直に言うことを聞いてくれる良い生徒を持てて俺は幸せだよ」
教室に戻る二人に続いて、俺も自分の席へと着いた。
流れで教室の中へと入ったが、落ち着いてくるとどこか懐かしい場所へ帰ってきたような安心感が去来した。またここへ戻ってこれるとは思わなかっただけに、その感動も
「よぉし、ホームルームを始めるぞー。まずは出席だー。赤城ぃ」
「はい」
「天羽。……生田ぁ」
「はーい」
安西先生が俺の隣を一瞥したあと、微妙な間を空けてから次の生徒の名前を呼び始めた。俺の隣の席には、今日も誰も座っていなかった。
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