第19話 ~はじまりと終わりのプレリュード~

 目を覚ますと、そこは一面真っ白な世界だった。

 というのは比喩で、以前にもみたことがある――病室だった。

 それにしても、異様に白い。まるでここが天国なのではないかと思ってしまうほどの白さだ。

 以前と違うことと言えば、ベッドの傍らでりんごの皮を剥く音がすること。俺が目を覚ましたことなど気付かず、熱心に皮を剥いていらっしゃるご様子。

「おはよう」

「あ」

 むくりと上半身を起こして初めて、彼女がりんごの皮を剥く手を止めた。

「きゅうきゅう」

 と、挨拶の代わりに返ってきたのは謎の声。

「なに、それ?」

「なにって、うさぎの鳴き声だよ」

 当たり前じゃん。とでもいう風に、綺麗に皮を剥いたりんごを口元にあててみせた。

「はい、あげる」

 そして、キスをしたうさぎさんりんごを差し出してきた。

「……ありがと」

 もらって赤面しながら、一口かじる。

「きゅうぅぅ~」

 悲鳴のつもりか、先ほどと同じ調子で鳴くユウナ。言いながら自身も小さくさせているところがまた可愛らしいのだが、なんとも食べ辛いりんごだ。

 俺のツッコミを待っていたのか、微妙な沈黙が訪れた後、ユウナは再びりんごの皮を剥きだした。俺は、りんごの皮を剥く手元に視線を集中させているのをいいことに、ユウナの顔をまじまじと見つめた。

 記憶に一番新しい、ユウナとの記憶。死を確信した俺は、最後の望みとしてユウナに……キスをしてもらった。だが意識が朦朧としていたせいか、悲しいことにそれがどんな感触だったのか鮮明に思い出すことができない。……ちくしょう。

「人ってさ、簡単だよね」

 なんて考えながら悶々としていると、ユウナが果物ナイフをかざして妖しく微笑んだ。

「これひとつで、何十年という人の命を一瞬で奪えるんだから」

 そして人差し指を添えたナイフの切っ先で、俺を指して言った。

「ユウナ……?」

 はたして不気味な雰囲気を漂わせるユウナの目には、生気が――

「なあーんって、冗談ジョーダンだよ? 本気にしちゃった?」

 ケロッと笑い出すユウナに、緊張していた空気がどこへやら消え去った。俺は浅くなっていた呼吸に関係なく、吸っていた空気の何倍もの空気を吐き出した。

「……びっくりさせないでよ、ユウナ」

 また寿命が縮まるかと。

 と、そこで俺はハッとした。寿命と言えば、俺は一週間経てばこの世から去ることになっていた。

 辺りを見回す。キャビネットの上にデジタル表記の置き時計を発見し、手に取って確認する。


 5月25日 月曜日 0時00分

 

 昼の12時? いや、それでは一週間がとっくに過ぎてしまっている。では夜中の12時? それにしては、この部屋も窓の外も明るすぎる。

「あーそれね、壊れて止まってるみたいなの」

 思考を巡らせていると、いつのまにやら皮むきをやめていたユウナが教えてくれた。

「そ、それじゃあ……今は?」

「まあ、いいじゃん。時間なんか気にしなくったって。私たちには、それこそ何十年という時間が残されているんだから」

 はぐらかされたのか、なんなのか。ユウナは無邪気な笑い顔を見せて、椅子を前後に揺らしてガタゴトいわせていた。

「よくないよ……時間なんか残されてないんだから……」

 次に天使が俺の前に姿を現したときが、俺にとっての最期なのだ。25日を越えて時間が止まっているということは、すでに一週間が経過していることになる。つまり、今すぐにでもお迎えが来てもおかしくはない。

「それじゃあまるで、死んじゃう人みたいだね」

 無垢な瞳が、俺を見ていた。確かに、ユウナからすれば俺の身に起こっている事態なんて知る由もないことであり、どちらかと言えばこの体の本当の持ち主が戻ってくるのだから良いことだ。

「ユウキは、死にたいの?」

 素朴な疑問だった。その真っ直ぐな問いに、俺は正直に答えていた。

「……死にたくなんか、ないよ。だって……ユウナとも、綾乃とも、みんなとも……お別れしなくちゃいけないなんて。そんなの……寂しいよ」

「そうだよね。私もユウキが死んだら、辛いし悲しいよ」

「だけど……生きる資格が……」

「だからさ、これからもずっと、私の傍にいてよ、ね?」

 うっかり漏らしてしまった俺の本音をかき消すように、ユウナが俺の手を取って言った。そしてまた、破顔一笑してみせる。

 俺は、この笑顔にどうしようもなく弱かった。穢れの無い、喜色満面の笑みの前では、すべてのことがちっぽけに思えてしまう。

「……うん。いるよ、そばに。これからも、ずっと」

 俺自身にとっては、できもしない約束であるにもかかわらず。

 でも、俺ができなくても優希が代わりに守ってくれるだろうと信じて、約束してしまった。

 やはり、俺の一生は彼女の笑顔には替え難い。

 もともと一週間の命だ。これ以上、欲はかくまい。

「良かった。それじゃあ、わたしはちょっとやることあるから外に出てくるね。どこにもいっちゃ、ダメだからね? 前みたいに病院抜け出すのも、なしだからね?」

「わかったよ。どこにもいかないから、大丈夫だよ」

「よろしい」

 再三俺に忠告をして、ユウナは満足げに頷いて部屋から出ていった。

 その背中はひどく小さくて、儚いものだった。

 どこかで見たこと上がると思ったら――記憶の中の少女のものと、重なる。

 ――俺は、いつもあの背中を見ていた。

 初めは、羨望だった。自分にはないものを持っている彼女がうらやましくて、同時に興味があって、一歩間違えばストーカーと思われるほどの距離を保ちつつ、毎朝後ろにくっついて歩いていた。

 結果的にその行為が彼女の危機をいち早く察知し、彼女を守って死ぬことができた。

 それだけは、あの世へ行っても未来永劫誇れることだ。

 これからも、彼女は笑い続けていく。

 その誇りと、一週間分の幸福を抱いて。

 俺は閉ざされた扉をしばらく見つめた後、ベッドに横たわり静かに目を閉じた。

 ――次の瞬間、世界が変化した。

 身体が重力に押さえつけられる感覚と、瞼の上に差し込む熾烈な陽の光に目がくらみ、俺は咄嗟に目元を覆った。

 何事かと目をこすりながら体を起こすと、先ほどまで白かったはずの部屋の中は、目に入るものすべてが綺麗な橙色に染色されていた。

 腕には点滴のチューブが取り付けられており、すぐに立ち上がろうにもそうはいかなかった。さっきはこんなものなかった気がするのだが。

 ドサ。

 っと、何かが落ちる音が扉の方から聞こえてきたのでそちらを向くと、ついさっきまで隣に座ってリンゴの皮を剥いていたユウナが唖然としながら立ち尽くしていた。

「ユウナ? どうしたの?」

 しかし、俺の問いかけには答えなかった。

 ユウナの目元から小さな雫が一滴、頬を伝うのが見えたかと思うと、突然ユウナは俺に飛びついて来た。

「うわっ!?」

「ユウキ……よかった、戻ってきたんだね……よかった……よかったよぉ……っ!!」

 俺のお腹の上に顔をうずめ、わんわんと泣いているユウナはまるで子供のようだった。

 視界の隅に映った、キャビネットの上にある時計をみると、日付は5月27日を示していた。

 あれから一週間過ぎて3日目。不思議なことに、俺はまだ……生きていた。

「あっ……ごめん。ユウキのこと考えないで飛びついちゃって……」

 ユウナは目元を真っ赤にはらしながら、俺のそばを離れた。

「ううん。もう大丈夫だよ」

「そう、なの……?」

 はなをぐずぐずいわせているユウナの手を取り、俺は笑顔で言った。

「ただいま、ユウナ」

 嘘偽りのない、心からの笑顔で。


 それからユウナは学校に行く時間を除き、ずっと病室に通い続けてくれた。先に退院した綾乃や、島袋さんと梢さんも見舞いに来てくれたりもした。退院までの数日間は特に何かをしたわけではないが、誰かと会い、誰かとお喋りをし、誰かと触れ合う。たったそれだけで、毎日がとても楽しかった。

 そして退院を明日に控えたその日。俺はユウナに連れられ外へ散歩に出かけた。広い病院の敷地内には庭園があり、そこでユウナから散髪してもらうことになった。

 というのも、ナイフで無理やり後ろ髪を切り落としたために、不格好になっていた襟足をユウナが見兼ねたからだ。

「おきゃくさま、本日はどれくらいの長さにしましょう?」

 背後からおどけて尋ねてくるユウナに、

「ユウナみたいな可愛い髪形にしてください」

 とお願いをすると、「またそんなこと言ってー」とユウナは照れくさそうに笑った。それにしても、いつみても可愛い。

 髪を梳いたり払ったり、形を気にしつつ慣れない手つきでユウナが俺の髪を切っていく。前に切ったことがあるのか聞いてみると、子供のころにこうして何度か優希の髪を切っていたらしい。

 優希と優雫の過去は聞かなければ分からない。それはつまり、記憶は完全に戻ったわけではなかった。ただ、大塚祐樹の記憶と優希のごく一部の記憶は今でははっきりと思い出せる。ところどころ記憶に空白があるのは相変わらずだが、自分が何者か、自分にとって何が大切かは、もう見失うことはない。

 作業に集中するためか、ユウナは自然と無言になっていった。俺は手元に掲げた鏡で黙々と手を動かすユウナの顔を映し見ていた。

 ユウナに髪をいじられるのがくすぐったくて、それでいて心地よくて。春の穏やかな気候を感じて欠伸が出そうになり、手鏡を椅子の傍らに置いてから目を閉じた。

 最初のうちは触れられるようになったとはいえ、触れることにビクビクしていたものだが、ユウナが問答無用で引っ付いてくるうちにすっかり慣れてしまった。

 今では触れられることに対して安心感を覚えている俺がいる。

 なんて、ユウナから触れられていることを意識していると、気を失う前に交わしたユウナとのアレを思い出してしまった。

「……そういえば、ユウナ……あのとき、き……キス、してくれたんだよね……?」

 夢だったのか現実だったのか曖昧な記憶を裏付けるためにユウナに確認をとってみると、

「え……? ソウダッタカナ?」

 もはや潔いレベルでとぼけるユウナ。

 本当にしたのか……! 自分からお願いしたくせに無性に恥ずかしい。だがあんまり覚えてない。あの時の感覚はどんなだったっけ――はっ。

「あ、あれってさ……ファーストキス……?」

 さらに踏み込んで聞いてみる。もしもユウナのファーストキスがあれなら、無論キスなんて前世でもやったことがないのだから、お互いに初めての接吻を交えたことになる。

 この際キスがどんな感じだったかなんてどうでもいい――既成事実が大事なのだ!!

 そう考えたら胸が騒ぎだしてきた。じっとしていなきゃいけないのがこそばゆい。

 鏡で背後にいるユウナの顔を確認する勇気はなかったが、少しだけ鋏を動かすペースが乱れた。というか止まった。

「ん……」

 短く肯定した。

「そっか……」

 顔がかなり火照っていた。ユウナはどんな顔をしているだろう。へへへ――おっといけない。

 変な笑い声が出そうになるのを堪え、唇を固く閉ざすが口角は自然と上がっていった。

 そうしてしばらく無言が続き、


「ファーストキスが家族って……なんだか、アブナイ関係……だね」


 ふぁっ!?

 ふいにユウナがそんなあやしい響きのある言葉を呟き、落ち着きを取り戻していた心臓がさらに高鳴った。

 どんな想いでユウナがそう言葉を発したのか分からず、反応できずに俺が黙っていると、

「でも、家族はやっぱりノーカンだよっ」

 ユウナがはさみをシャキシャキと鳴らせながら言った。

「ま、まあ……そうだよね」

 解っていたこととはいえ、ちょっと残念。逆にここから見かけは禁断の恋に発展したら大問題だ。

 そう。本来キスは好きな人同士でするものだ。家族は挨拶でキスするかもしれないが、そこにある感情はまた別物だ。

「――じゃあ、好きな人ができたら、ユウナもいつか……本当のファーストキス、するの?」

「そうかもね……いつになるかは分かんないけど」

 それはいつのことだろうか。その相手はどんな人だろうか。それが俺だったらいいのになんて、叶わない願いはやめておこう。

 優希がどうかは知らないが、俺にとっては大事なファーストキスだったのだ。

「でも、わたしは正真正銘あれが……ファーストキス、だよ?」

 顔を赤く染めながら大胆にも言ってみた。こんなことを言ったらどんな反応を見せるだろう。少しだけ、困った顔を見るのもいいかもしれない。

 熱い。もう季節は夏ですね!

 俺の精一杯の悪戯のつもりだったが、ユウナは困った様子は微塵もみせずに、前に回り込んでくると悪戯に笑って見せた。

「じゃあ、わたしもユウキがファーストキスでいいよ♪ ――ほらできた」

「……う、うん」

「どう?」

 ユウナから手鏡を受け取り、髪の長さを確認するふりをして顔を隠した。

 その返しは反則だ……。

 家族に対して高鳴らせている鼓動を悟られまいと、なんとか平静を繕って、

「うん、いい、ね」

 ユウナと同じ長さになった髪を触りながら、応える。短くなり風通しのよくなった後ろ髪を触って、ふとあることを思い出す。

「そういえば、ヘアゴム失くしちゃった……」

 それを聞いてがさごそとポケットを探るユウナ。

「そしたら、髪飾りあげるよ」

 そういって、前髪が短くなり見やすくなった視界をさらに広げ、おでこの左側で前髪を留めてくれた。

「どんなのどんなの?」

 鏡を求める俺の手にユウナは鏡を渡さず、顔が同じ高さにくるようにしゃがんだ。

「私とおそろだよ。鏡見なくても、これでほら――ね?」

 と、自分のおでこの右側を指さした。

 そこにあるのは、花柄の髪飾りだった。

 鏡で見るのとは違う顔が目の前にあり、俺は直視できずに結局目を逸らし続け髪飾りを見る暇がなかった。

「ついでに、少し遊んでいい?」

 なんのことか分からなかったが、髪をいじっていいかという確認のようだった。

「いいよ。むしろお願いしますっ」

 ユウナとのこの時間が終わってしまうのもなんだかもったいない。喜んで頭を下げた。

「じゃあじっとしててね……」

 今度は横に移動すると、ユウナが俺の髪を指で梳いてからまとめ、引っ張ってはまとめと何かを始めた。

 再び無言で作業をするのかと思いきや、ユウナの声がすぐそばで響く。

「ユウキ……私ね、ユウキに謝らないといけないことがあるの」

 何を言わんとしているのか。神妙な空気からなんとなく察した。おそらくそれは、ずっとユウキもユウナと話したかったことだ。

 黙って聞いていると、ユウナが懺悔の言葉を紡ぐ。

「私、ずっとユウキに迷惑かけてばっかりだった。お父さんとお母さんが離婚するときもワガママいって、ユウキとお母さんをずっと困らせていたし……気に食わないことがあればすぐユウキに八つ当たりしてた。あの時だって――。私、お姉ちゃんなのにね」

 そこでユウナは反対側に回り、また俺の髪を同様にいじり始めた。

「ユウキのことを一番信じてあげなくちゃいけないのに、私は自分のことばかり考えてた。私はきっと、ユウキを――恨んでいたんだと思う」

 優希もそれは感じていただろう。だが「違う」と、優希はそれを否定した。

「でも、」

 例えどれだけ恨まれようが、優希はユウナのことがずっと大好きだった。だからこそ、触れることを恐れるようになった。これ以上自分の大切なものが壊れてしまわぬように。

 もう壊さぬように。

「それは、私の心がはっきりしていなかったから」

 いつの間にか手を止めていたユウナが背後に回り、後ろからやさしく抱きしめてきた。

「……でも今は、自信を持って言えるよ。ユウキが――だいすきだって」

 一度は届かぬ所へ行ってしまった半身は、今ここにいる。一度失って初めて気付いた、本当に大切なもの。

「……うん。私も」

 大好きな家族を、二度と手放さないように。

 俺はユウナの手を、しっかりと抱きしめた。

「私ね、決めたんだ」

 そして今度は俺の前に回ると、両手を後ろで組んで、

「お姉ちゃんらしくなるって」

 そういって、笑った。

「じゃあ、そんなお姉ちゃんに渡さないといけないものがあるんだ」

 俺はポケットに手を入れた。指先でその存在を確かめる。

 これが何か、俺は知っている。優希がずっと渡したくて、でもずっと渡せなかったもの。

 どうしてポケットの中にそれが入っているのかは分からない。でもそんなことはどうだっていい。

 もしかしたらそれは、天使が残した最後の奇跡だったのかもしれない。

 ――シャリーン。

 ポケットの中から取り出すと、それは優しく空気を震わせた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る