第17話 ~想いと真実の果て~

 暗い。何も見えない。何もない。

 真っ暗闇の空間にただ独り、ぽつん。

 目を凝らしても一向に目が慣れることはなく、手をかざしてみても何の感触もない。ひらりと宙を舞う手のひらすら、闇にとけている。

 ぼんやりと、ふわふわした不思議な感覚。

 ――これは、夢?

 だとしても、確かめることすら億劫だ。今はただこうして身体を闇に融かしている方が、楽。闇とともに体を取り巻くのは、何とも言えない疲労感。そして、どうしようもない悲愴感。

 ――ああ。

 悲劇のヒロインよろしく心を悲哀と悲嘆の色に染めながら、孤独を感じる。

 私は今までそうやって無理にでも哀の感情を引き出し、泣き叫ぶことで自分を保とうとしてきた。

 自分は間違っていない、おかしいのは周りだ。私を取り巻く運命だ、と。

 そんな私が自分の愚かさに気付いたのは、双子の妹が心を失った後だった。失ったと言えば聞こえはいいが、私が壊したも同然だ。

 それ以来、闇はもう、私がここにいることを許してはくれなくなった。

 血まで侵食してくる勢いで、闇の冷たさが徐々に増していく。

 悲しみが、苦痛に変わっていく。

 その時、目の前にぼうっと白い光が浮かんだ。

 私は無意識のうちにその光を目指して闇の中を漂っていた。

 私にとってその光は、吹雪の中で見つけた暖炉の火のように見えた。手をかざせばあったかくて、心までしみてくるような優しい温もり。

 その光の正体を、わたしは知っている。

 いつだってそうだ。

 閉ざされた私の心を開こうとしてくれたのは――


 ……いつか私が一人で家を飛び出したときも。私がいじめられているときも。小さい頃、よく体調を崩して学校を休んだときも。両親が離婚したときも。どれだけ私が怒りや悲しみなどの負の感情をぶつけても、怒らずに笑ってやさしく包み込んでくれたのは。

 優希だった。

 返す恩ばかりがたまっていく。

 だが私はそれが当たり前であるかのように、いつからか感謝の気持ちすら抱くことなく日常茶飯事的に優希へ自らの汚い感情をぶつけていった。

 やさしさに甘え、反撃してこないと解っていながら優希を殴ったこともあった。綺麗すぎる優希のありていを醜く思い、穢してやろうとさえ思ったことも、私と同じ風体をしていながらもその実は私と正反対な彼女の存在を憎んだこともあった。

 それでも、優希の笑顔が失われることはなかった。優希は強かった。


 だがその日。冬の冷たい雨が降っていた中学三年生のあの日――。


 私が熱を出して寝込んでいると、一本の電話に無理やり起こされた。色彩感覚がおかしくなったのかと錯覚するほど部屋の中が橙色に染まり、静かな家の中に電話の音だけが響いていたのをよく覚えている。優希がつきっきりで看病してくれていたはずだが、その時優希は家に居なかった。

 病み上がりだというのに妙に意識はえていて、気分が良かった。ほとんど食べていないせいか、立ち上がるとお腹が鳴った。母の仕事の都合だったり、私の気分の問題だったりで夕食を三人そろって摂ることはあまりなかったが、今日は三人で一緒に食べてもいいかな、というくらい気分が良かった。

 ところが明るい声で受話器を取った私の心は、一瞬にして奈落まで落ちていった。

 相手は母が再婚を決めた二ノ宮家の長男、茜だった。


「いいか、落ち着いてよく聞けよ……。俺もさっき聞いただけだから詳しくは知らねえんだが……セツナさんが……その…………――」


 耳を疑うほかなかった。そんな、藪から棒に肉親の死を告げられて信じられるはずがない。私が聞き返すと、茜は返答をうやむやにしたまま話を逸らした。

「悪いが、なんて言ったらいいか……気をしっかり持てよ、ユウナ。いま親父がそっちへ迎えにいってる」


 嘘だ。これは夢だ。夢……なんだよね、ねえ?


 私が母と最後に交わした言葉は何だ? 私が母と最後に食事をしたのはいつ? 私が最後に……母と笑いあったのは――。

 いつだっけ。

 後悔ばかりが押し寄せ、胸が張り裂けそうになった。

 私は母とろくに仲直りもしないまま、永遠の隔たりを作ったまま別れてしまった。

 母の死因を尋ねても、受話器の向こうの茜も迎えに来た明夫さんも口を閉ざしたままで、真実を語ろうとはしなかった。一刻も早く真実を確かめたかった私の目には、それが何かを隠しているように映った。

 そして病室の前で立ち話をしていた看護師たちの噂話が偶然耳に入り、私はそれを鵜呑みにしてしまった。

 ――優希が母を殺した。

 次の瞬間、私は走り出していた。義父となる明夫の静止の声はもう届かなかった。

 そして、私は母の亡骸の前に座って項垂れている優希に詰め寄った。

「ねえ、どういうこと……? ちょっと優希、どういうことよ!? あんたがお母さんを殺したって、なんで……? 私たちのお母さんなんだよ……!? たった一人の……お母さん、なんだよ……? 黙ってないで説明してよッッ!! ねえ……ひどいよ……返してよ…………――ッ」

 遅れて入室した明夫さんや茜の手を振りほどき、ありったけの罵声を優希に浴びせ続けた。周りの声なんてもう耳に入ってはこなかった。ただひたすらに悲しくて、同時に母を殺したという優希が心の底から憎かった。

 だから、私は優希にとどめをさしてしまった。言ってはいけない一言を……


「優希なんか……優希なんか大ッ嫌いだッ!! 優希なんかし――ッ」


 最後の一言を口走りそうになったとき、明夫さんの拳が飛んできた。だが、私の言葉の先はたとえ発していなかったとしても、優希には伝わってしまった。

 間違いなく、それが引き金になったのは言うまでもなかった。

 何かが音をたてて壊れたのが分かるほど、自分でも手ごたえがあった。だが、当時の私は罪悪感など微塵も持ち合わせていなかった。

 優希が泣きながら病室を飛び出していっても、私は不遜な態度のまま動こうとはせず、代わりに茜と七夕が後を追って出ていった。

 明夫さんの大きなゲンコツが再度飛んできても、私は怒りに任せてありったけの罵詈雑言を明夫さんにぶつけていた。

「だいたい、関係ない他人のくせに、私のこと殴らないでよ!!」

 私がその言葉をぶつけると、さすがの明夫さんも怯んでいた。認めたくなかった。この人が新しい父親になるなどと。

 私は部屋を飛び出して、めちゃくちゃに走った。


 ――私は、悲劇のヒロインだ。


 こんな不幸なできごとが起こるなんて。

 私は何も悪いことはしていないのに。神様はなぜこのような仕打ちをするの? 私が何をしたっていうの?

 涙が止まらなかった。走ることをやめ、地面に座り込んで泣いた。

 雨はすっかりあがっていたが、私は公園のど真ん中で泣き続けた。

 目の前から去っていく父の背中を。目の前で冷たく横たわる母の姿を。微笑みかけてくれる優希の表情を。思い出す。

 受け入れたくなくても、現実はしっかりと記憶されていた。

 今まで過ごしてきた家族の暮らしが、想い出が、遠のいて行く。

 私にはもう、何もない。大切なものは、全部カミサマが奪っていった。

 運命を呪った。そして、自分自身を呪った。

 何もしてこなかった自分。素直になれなかった自分。現実から目を背けて逃げていた自分。それらすべて、後悔ばかりの生き方をしてきた自分を恨んだ……。

 夜。泣き疲れて抜け殻のように空っぽになった私のところへ、缶ジュースを片手に明夫さんがやってきた。ベンチに座る私に目線を合わせてしゃがみこんできた。

「ココアだ。嫌いか?」

 差し出されているホットココアを睨みつけ、私は黙って受け取った。受け取りたくはなかったが、体が冷え切った今となっては、温もりが恋しかった。 

 視界から明夫さんの顔が消えたかと思うと、頭上から声が降ってきた。

「辛いのは分かる。だが、本当に辛いのは誰だ?」

 私だ。

「そう思うのはなぜだ?」

 私は母を妹に奪われたのだ。

「優希は母を自らの手であやめるようなだと……本当にそう思うのか?」

 思うも何も、それが事実だ。

「俺はそうは思わない」

 だからなんだ。他人のお前に何が分かる。

「ユウナは、あいつが……優希がどれだけ優しいか知っているはずだ。あの子の優しさは、初めて会った人ですら感じるほどのものだ。双子の姉であるお前に分からないことはないだろ?」

 ……確かに優しい。だがそれは過去の話だ。人はいつ変わったっておかしくはない。優しかった父も、人が変わったように去っていったのだから。優しかった優希が人を手にかける可能性だって否めないのだ。現に、それが起こってしまったのだから。

「人はそう簡単には変われない。何か大きなきっかけがない限り、な。だから、一時ばかりの行動で人を決めつけるのはよくない。優希のこれまでを知っているお前が、今のあいつを信じてやらないでどうする?」

 ……これまでの……優希。

 私はたしかに知っている。双子であり、家族である優希のことなら、一番知っている自信がある。だが、今回のことで分からなくなったんだ。もう、何を信じたらいいのか……。

「この事件の真実は、俺が必ず突き止める。だがお前が探している真実は、お前がすでに持っているはずだ。近すぎて見えなくなっているだけで、何よりも簡単なものが、あるはずだ」

 明夫さんは自らの厚い胸板をドンとこぶしでたたいてみせた。

「――あいつを信じてやれ。“たとえ泣いている時に悲しいことが重なったとしても、家族で支えあえば乗り越えられる”」

「それ……お母さんの言葉」

「ああ。セツナはお前らを心の底から愛していた。お前はどうだ?」

「……愛してるよ、もちろん」

「だったらなおさら、母親が愛したお前らは、支えあわなければいけない。あいつは目の前で――腕の中で母親を失くしたんだ。その痛みだって、お前に分からないはずがないだろう?」

「…………うん」

 本当は、心のどこかでは分かっていた。優希が母を手にかけるような子ではないと。

 ただ私の悲しみをぶつける場所がいつも決まって優希だったということ。私が辛い気持ちをすべて優希のせいにして吐き出さないと耐えられない弱い心の持ち主だったということ。何もかもから逃げるための逃げ道が、優希だったということ。

 私が悲しんでいれば、いつだって優希が支えてくれていた。

 いつのまにか汚い感情ばかりが前に出すぎて、それが当たり前になっていた。

 だけど、今は一人。

 優希はいない。優希を拒んだのは、私だ。

 初めて、本当の孤独を知った。悲劇のヒロインになったところで、手を差し伸べてくれるものはいない。

 傍にありすぎるがゆえに、見失っていた。

 私は悲劇のヒロインでもなんでもない。――罪深い人間だ。

 私は優希のように笑えなかった。母が父との関係で悩み泣いている時も、支えてあげることはできなかった。離婚に反対するばかりで、母の意見を聞こうともしなかった。そんな私と違い、優希が母を支えていたのを、知っている。

 いつだってそう。優希は、私にできないことをやってのける。

 そんな優希が、うらやましかった。それでいて愛おしかった。

 私と優希は、似ていなかったわけではない。似すぎていたために、お互いが違う感情を抱いて支えあっていたんだ。そう気付いたのは、もっとずっと後のことだったけれど。

 私は少しでも見向いてほしくて、より一層荒れていった。髪を染めたりもした。若気の至りで済むのなら安いが、正直言うと黒歴史だ。

 そうすることでしか、自分を現せなかった。

 素直になることを忘れた私は、心と体が別物みたいだった。心にもないことを言っているうちに、やめられなくなった。

 それは優希のせいでも、母のせいでもない。他ならぬ自分のせいだった。

 本当は、分かっていた。

 だけど何もかもが手遅れで。

 私はその時、ようやく明夫さんの言葉で気付くことができた。

 だが、優希は――?



『――午後一七時三〇分過ぎ。路地を歩いていたところで母娘が通り掛かった男に襲われた。男は金銭目的で詰め寄ったところ、母娘の態度が気に食わなかったのか突然暴力を振るい始めた。母親は娘を守るために庇い、娘は目の前で暴虐の限りを尽くされる母親を守るために、男が落とした凶器を手にし、男に切りかかろうとした。ところが母親はそれを止めようと身を挺して今度は男を庇おうとした。そこで母親が履いていたヒールが折れ、バランスを崩し真っすぐに向かってくる娘の構える凶器に自ら覆いかぶさり、結果刺しどころが悪く出血多量で死に至ってしまう。母娘のお互いの愛情が生んでしまった、なんとも不幸な事件である……』


 事件が載った新聞にはそのように記載されていた。明夫さんから聞いた内容とも合致している。もっとも、事件の真相を暴いたのはほかでもない明夫さん本人だった。事件後の明夫さんは平静を装っていたが、一度は再婚を決めるほど愛していた母の事件の真相を暴くという復讐めいた行為は、相当辛かったに違いない。

 そしてこの真相が世間に公表されるまでに、およそ1ヶ月という長い時間がかかってしまった。その期間、優希は大衆からの侮蔑の目に晒され続けた。噂は尾ひれを付けながら留まるところを知らずに広がり続け、どこへ行っても肉親殺しという外道扱いを受け続けた。私はその双子の存在として、畏怖の念を抱かれ避けられたこともあったが、優希の気持ちを考えればどうということはなかった。むしろそっくりそのまま私に全て矛先がむいて然るべきことだと思った。

 明夫さんの言葉通り、優希の無実を信じてやれたのは……私たちだけだった。だがそんな私たちではどうしようもないほど、彼女に対する世間の風当たりは残酷なものだった。

 一度は決まった進学先の高校からも断られ、中学の友人、教師からは問題児扱い、PTAからは退学にしろと声が上がり、ただ騒ぎ立てたいだけのマスコミが家に連日押し寄せてくることもあった。

 明夫さんの知人の計らいでなんとか照月学園に通えることにはなったが、入学式の朝まで優希は自室に引きこもり続けた。部屋から出てきたとしても会話を交わすことはなく、さながら死人のようだった。学園に通う決心をしてくれたのだって、何日にもわたって説得したおかげだったが、周りに蔑まれ続けた優希はいつしか周りを恐れるようになっていたことに、私は気付いていなかった。

 そして、今度は学園で事件が起きてしまった。優希が突き飛ばしたことで赤城由利は机の角に頭をぶつけてしまう。幸い大事には至らず相手方も穏便に済ませる方向でかたが付いた。今思えばあの時モンスターペアレントよろしく騒ぎ立てられていたら、今度こそ優希は立ち直ることはできなかっただろう。私は懐の深い親御さんで良かったと安心していたが、それはとんでもない思い過ごしだった。

 あまりにも穏便に解決したために少なからず疑問に思っていた私は、明夫さんの鞄の書類を漁ったところドンピシャな関連書類を発見した。なんと水面下で明夫さんと赤城家両親の間で示談が行われていたらしく、和解のための示談金が大量に出ていたことが発覚した。

 後から耳にしたことだが、弱みに付け入り大金をふんだくった赤城家は、さらに娘にこう命令したらしい。

「また二ノ宮優希に執拗に構いなさい。手を出されたら、暴力を受けたと周りに言いふらしなさい」

 と。

 とんだ鬼畜の所業だった。

 だが、二か月ほど前に殺人紛いの事件を起こした人間を世間が信用するわけがない。

 私は、そのことは誰にも言わずに、優希の代わりとなることを決意した。

 大人しくしていれば、世間の風当たりも、赤城たちの嫌がらせも落ち着いていくと思った。時間が解決してくれるものだと信じ、次に優希が学校へ来たときに居やすい環境が作れると踏んでいた。

 そして、茅ヶ崎綾乃という友達ができた。彼女は本当に私をよく見ていてくれた。彼女のおかげで赤城の嫌がらせは次第に頻度を減らし、そして終ぞなくなった。

 私は嬉しかった。これでまた、優希が学校へ通えると思った。

 ところが私がそうして学校に楽しみを覚えつつあるころ、優希が家で自殺を図っていた。

 手首から血を流してぐったりしている優希を部屋で発見した時、私は自責の念に苛まれた。

 誰よりも優希を傷つけてしまった自分が楽しむ権利などないというのに。うかうかと学校生活を楽しんでいた自分がどうしようもなく嫌いになった。

 私は本当に、優希のことを考えて行動していたのだろうか?

 そもそも無理に学校へ行かせようとしなければよかったのだ。

 元はと言えばあの時だって、優希を最初から信じてやれば、ここまで優希が苦しむことはなかったはずだ。

 すべて、私のせいだ……。

 自分を責めるがあまり、私は血まみれの優希を前にしても放心状態のままで動くことができなかった。茜がたまたま家に様子を見に来てくれていなければ間違いなく、今度は優希を失っていた。

 それから、もはや優希に顔を合わせることすら、難しくなっていった。

 ショックのあまり記憶を失った優希から、避けられるようになったからだ。記憶を失くしても過去の傷が癒えることはなく、来るものを拒み続けた。

 病室へ入れば、物が飛んでくるほどに、私は嫌われていた。朝食の卵がとんできたこともあった。

 だが、それも仕方のないことだ。

 全ては私の責任だ。

 そう思い、私はひたすら優希に笑いかけるようになった。

 どれだけ嫌われても、罵られても、他人扱いされても、私は笑いかけ続けた。

 あの頃、優希が私に笑いかけ、支えとなってくれたように。

 私も、そうなりたかった。

 優希の中での支えでありたかった。

 その願いが通じたのかどうかは分からない。

 入院して1週間ほど経ったころ、優希が激変したのだ。

 笑いかけても罵声が飛んでくることはなかったが、相変わらず他人のようだった。

 だが、仲良しとまではいかないが、普通に話せる。

 それが嬉しかった。

 だが、ちょっと触れてしまったことですぐに優希は壊れてしまった。

 私は一気に怖くなった。


 ――もう、大切なものを失いたくない。


 そっと、手を伸ばした。全身が光に包み込まれていく感覚。

 気が付くと、電灯の光を浴びながら地面に膝をついていた。暗闇の中にぼんやりと浮かび上がる自然の緑が、ざわざわと葉擦れの音を鳴らしている。見覚えのある景色からすぐに、ここが家からそう遠くない位置にある公園だと判別できた。

 自分がなぜこのような場所にいるのか記憶を手繰るより先に、不可思議な現状を目の当たりにして思考が上書きされる。

 私は、なぜか優希に抱きしめられていた。

「…………あれ、ユウキ? どうしたの?」

 自分でも素っ頓狂な声を上げたと思った。触れられなかったはずの優希に抱かれているなんて、これこそ夢だと思った。

 だが、不気味な熱を持った手を光にかざして見た時、私は事の重大さを思い知らされることになる。

「え……?」

 揺れる木立の音が不穏な気配を煽り、生々しい妹の血のにおいとその感触に、夢で片付けられるほど些末な状況ではないと理解せざるをえなかった。

 優希の下腹部からは大量の血が流れ、制服を真紅に染め上げていたのだ。

「ユウキ……そんな……っ、うそ――!?」

 そんな有様ながらも依然として抱きしめ続ける優希の体は、やけに重かった。こちらから優希の体を支えてやると、優希が力なく微笑む。

「――ウナ……? よか、た……気が、付いた、んだ……」

 口から血を垂れ流し、言葉は途切れ途切れに掠れた声を漏らす。ユウキは既に相当なまでに衰弱していた。いったいどれくらいの血を流したというか。

「優希!? うそっ……」

 心が、体が尋常じゃないほどざわついていた。目の前の現実を受け入れられずパニックに陥り、今すぐにでも痛々しい姿の妹から目を逸らしてしまいそうになる。

 これが夢であれば……いや、夢であっても最悪だ。

「誰か……誰かいませんかっ!?」

 辺りに広がるのは闇と木々ばかりで、人の気配はない。安らぎと憩いの場所は、あまりにも侘しすぎた。

 今は茜も、傍にいてくれる人は誰もいない。

 瀕死の優希を見て、脳裏に過去の情景が浮かびあがる。ほんの数か月前に似たような場面に出くわした私は、ただ慌てふためき、愕然とする一方で何もすることができなかった。そのときはたまたま茜が傍にいたからユウキを助けることができたが、私一人だったらユウキはどうなっていたか分からない。

 今は、それよりもさらにひどい状況だった。

 苦しそうに呻くユウキを見た。

 このまま優希を失ってしまったら――

 いや、考えるな。弱気になるな。妹を助けられるのは、私しかいないんだ……!

 だが、私に何ができる……?

 真っ先にすべきことはなんだ?

 手探りでもいい。躊躇している暇など……ない!

「えっと……ええっと……!」

 混乱する頭で脳の記憶領域を漁る。刺激を与えないように優希を地面に寝かせ、布の代わりに自分の制服を脱いで傷口を押さえつけた。

「ぅあ……ッ!!」

 痛みに優希が声を漏らす。

「ユウキ、気をしっかり持って……ッ!!」

 立ち上がり、助けを呼びに行くための足を踏み出そうと、一歩。

 だが、躊躇する。

 今この場を離れたら二度と優希とは会えないかもしれない。

 そんな不安が足取りを重くした。

 だが……行かなければ。

 お母さん――まだユウキを迎えに来ないで……ッ。

 涙で濁った目元をぬぐい、笑う膝にむち打ち、走り出そうとした。

 その時だった。

「なぜだどこへいくッ? トドメをさせと命じたはずだ……!!」

 木立と心音の喧騒の中、公園の静謐な空気に響いたのは、男性の怒号だった。

 声のする方は、今まで自分がいた方――

「ユウキ!!?」

 振り返ると、白衣に身を纏った男の影がつかつかと優希の元へ歩み寄っていた。やがて灯りの下へくると初老の男が闇夜に浮かび上がる。

 中肉で体格はさほど大きくないが、猫背でそれ以上に小さい印象の五〇代半ばの男は、眉根に皺をよせながら心を見透かすような鋭い瞳でこちらを覗いていた。白衣を着ていた男はパッと見その風貌から医者であると推察できるが、足元に血まみれになって倒れている優希を見ても一切救いを施す気がない。それどころか男は後ろで一つに結い上げた優希の髪を掴み、無理やり持ち上げていた。

「うっ……――あぁッ!!」

「なっ、何をしてるんですか――ッ!?」

「チッ……もう少しで完璧だったものを。一体なぜ私の術が解けたのだ?」

 だが男は質問には答えず、私と優希を交互に見て不満を口にした。

 男が決して優希を助けに来てくれた人ではないということは、憎々しげに私と優希を睥睨する男の目から理解した。それどころか、

「まさか……あなたが優希をこんな目に……?」

 猟奇的な男の雰囲気から、そう悟るのは当然のことといえよう。だが、男の口から出てきたのはとんでもない真実だった。

「何を言っている? このお嬢ちゃんをを刺したのは――お前だ」

 男の図太い食指が、まっすぐにこちらを指した。他でもない、私の方へ。

「えっ……?」

 何を言っているんだ、この男は……? 私が優希を刺した……?

「お前だよ、瓜二つなお嬢ちゃん。なんなら、このカメラの中に収めた真実を観てみるかい? そうだ。これをネットにでもあげようではないか。きっと君の名はすぐに全国に知れ渡るだろうなぁ。『妹殺しのサイコ姉さん』とキャプションを付ければ、完璧じゃあないか、え?」

 男は襷掛けに下げた小型のビデオカメラをポンポンと叩いて主張して見せた。そのまま男の空いた左手はカメラを構え、レンズを私に向ける。

「いやぁ、なかなか見事なナイフ裁きだったよ。憎しみに感情を震わせ、妹を恨む気持ちが伝わってくるようだった」

 そして訊いてもいない感想を、インタビュー気取りでさも痛快そうに語り出す。本当に現場を目撃していたような口ぶりだった。

「そんな、の……」

 嘘だ……。嘘に決まっている……。私が優希を憎んでいたなど――

「信じられないか? それも仕方のないことだ。人は無意識のうちに感情をしまい込む生き物だからな。決して自覚はなくても、潜在意識では妹を殺したいなんて思っていたって、何もおかしなことではないのだよ。なあ? 二ノ宮優雫くん」

 だがなぜか、心に響いてきて仕方がない。まるですべてを見透かされているような男の口振りは、正常な意識を錯乱させてきた。

「わたしは……優希を殺してなんかいない……」

「『母親を妹に殺され、その憎しみから自らの手で妹を刺殺した!!』」

「なっ…………!?」

 マスコミのまねごとのような男の態度も納得がいかなかったが、それよりも疑問に思えてならなかった。

 なぜ見ず知らずの男が私たちの過去を知っている?

「お前たちのことならなんでも知っているぞ。さすがに体の味までは知らんがね。ふふふ……」

 男が夜の公園で哄笑した。

 男の言葉など信じられるはずもない。だが男のこの自信ありげな態度はなんだ? なぜここまで堂々とうそぶける?

 そしてなぜ私は……この男の言葉に一つも反論できないんだ……。

 自分の気持ちが分からない。

 もしかしたら――あの時は本当に憎んでいたかもしれないから。

 だから?

 ――本当に……私が……?

 私なのか……?

 私が、優希を――


「違うッ!!」


 それは心の中で唱え続けていた言葉。だが決して口に出ることはなかった言葉。

 自分でも驚くくらいに怒りのこもった否定の声。

 だがそれは、私のものではなかった。

「その汚い手で……女の子の大切な髪に触れるんじゃねえ――ッ!!」

「ユウキ――!?」

 さらに一驚したのは、半ば死にかけていたはずの優希が恐ろしく冷たい声でそう吐き捨てたかと思うと、いつの間にやら手で持っていた凶器で自ら結い上げた髪と男の手の間を切り上げ、絹がごとく細い髪を散らして男の元から自力で脱出したのだ。男の手から離れた優希は、こちらへ向かってよろよろと歩いてくる。だが瀕死の優希に十メートルの長距離など歩けるはずもなく、案の定途中で崩れそうになるのを駆け寄って受け止めることに成功する。

 仰向けに体を反転させると、優希は傷口を押さえて苦しそうに呼吸をしていた。なぜこのような状態になってまで動けるのか不思議でたまらない。

「ユウキ……どうして……」

 だが、うっすらと目を開けたユウキは、次の瞬間に――笑ったのだ。

「……ユウナ。やっと触れられた。……ずっと、会いたかった。さいごに……またユウナの顔が見れて……よかった、よ」

 激痛で体を震わせながらも笑う優希の顔は、涙で視界が霞んでいたせいかとても儚いものにみえた。言葉通り、目の前から消えてしまいそうなほどに。

「そんな……最期だなんて――やだよっ!! そんなこと言わないでよ…………ユウキがいなかったら……わたし……!」

 血に染まった手で優希の顔におちた涙をぬぐっても、白い肌が汚れていくだけだった。

 私には……穢れの無い純粋な優希に触れる資格などない。

 しかし優希は、そっと私の手に自分の手を重ねてきた。

「……ねぇ、一つだけ……わがまま…………言ってもいい、かな…………?」

 まるで、一生のお願いだとでもいうような、優しいささやき。それを聞いてしまえば、本当に終わってしまう気がして、私はふるふると首を振った。

「そんなのいつでも聞いてあげるから……」

 だがそれでも、ユウキはそのお願いを、口にした。

「――キス、して?」

 こんな状況でなかったら、その妹の甘美な表情に呑まれていたかもしれない。

 そう思えるほどに。

 優希は綺麗だった。

 私は言われるがまま、その優しく愛おしい花にそっとくちづけをした。願わくば、私の生気を吸い取ってもらえるように。

 しかし、その願いはかなうことなく。

 やがて。

 優希は静かに瞼を閉じた。

「ユウキ…………? いやだ…………嘘だよ……ッ。やめてよ……ねえ? 起きてよユウキ……ねえってば……ねえッ!!」

 どれだけ呼びかけても、その後優希が動き出すことはなかった。

 まるで今にも笑いだしそうなくらいに、安らかな顔だった。

 死んだとは思えないほどに、綺麗な表情で。

 妹は死んだ。

 妹が死んだ。

 家族が、死んだ。

 ドウシテ……?

「どうやらトドメを刺すまでもなかったようだ」

 男の声が頭上からした。優希の手には、ナイフが握られている。それを見た瞬間、私の手は自然と動いていた。

「ぬはッ……!! おい、やめろ……そんな物騒なもの振り回すんじゃない!!」

 振りかざした凶器は男の顔をかすめただけだった。優希の身体をそっと寝かせると、ただ一点だけを見据え、真っ直ぐに向かった。

「うあああああああああああああああああああああああああああああああああッッ!!」

「ひぃぃっ!」

 叫び声をあげながら力任せに振りかざすが、男は体躯に似合わず機敏な動きをみせた。

「やめろぉッ! いいか、よく聞けッ。私が合図をしたら君は大人しくなる。ほら、あそこの湖の水面のように心が穏やかになるんだ。いいかい、3・2・1」

 パチン。と男が指を鳴らす。

「おわあぁッ!!」

 私は動きを止めた男の腹部を狙ったが、紙一重で逃げられた。だが、勢い余って男が地面に崩れる。

 立ち上がるまでに時間を要している、今がチャンスだ。

 男を見下ろし、今一度手にした凶器を構え直す。

 心の中はひどく静かだったが、同時に恐ろしいほどに蠢いていた。

 コロセ。

 コロセ。

 コロセコロセコロセコロセコロセコロセコロセコロセコロセコロセコロセコロセコロセコロセコロセコロセコロセコロセコロセコロセコロセコロセコロセコロセコロセコロセコロセコロセコロセコロセコロセ――。

 激しい憎悪の感情だけが、体を支配していく。

「誰か……誰か助けてくれェェ!!」

 今はただ心の奥底から湧き上がる激情に身を任せ、腕の中で死んでしまった妹へ報いるために、この男の血を欲していた。

 自分が自分ではないようだった。

 私は機械的に凶器を振りかざした。

 そして――、


「ぎゃあぁぁぁぁぁあああああああああああああああああああああああああああああああ!!」


 不気味な感触が走った。手にした凶器が、確かに何かを突き刺す実感があった。

 生々しい感触に急激に意識が現実に引き戻される。

 そして、私は。

 ――人を刺してしまったのだ。と理解する。

 じわり。

 手先に温かい何かが走る。

 血だ。

 フクシュウだ。

 やってやった。

 ヤッテ――シマッタノカ?

 瞼を開いて目の前の状況を確認するのが怖い。

 目を開ければそこに待つのは、呪いの衝動に囚われて得た復讐の成果と妹を失ってしまった残酷な現実しか待ち受けていない。

 私に残されているものは、もう――


 …………。


 ………………。


 瞑っていた目を開くと、わたしは影の中にいた。

 否。

 抱きしめられていた。

「――あああぁ……。お……?」

 叫んでいた男が素っ頓狂な声をあげたのが分かった。私もきっと、その男と同じように目を丸くしてあほみたいな顔をしていただろう。

 手にした凶器は、確かに刺した感触はあった。だが、凶器が刺したのは男ではなかった。

 冷たい復讐に身を沈めた私を抱きしめていたのは。

「……あ……きお、さん?」

 茜と七夕の父であり、今となっては私たち双子の義父でもある、二ノ宮明夫その人だった。

 つまり、私が自らの手で刺したのはまたしても家族だった。ところが当の本人は、

「待たせたな、ユウナ。遅れてしまったこと、許してくれ」

 下腹部に凶器が刺さっているにもかかわらず、なんてことはない落ち着いた調子で重低音を響かせた。

 そして、私の頭を手のひら一杯で包み込んでぽんぽんと撫でたあと、抱きしめながら私の指を優しく凶器から剥がしていく。だがそれは手先の感触で分かったことで、私が見ていたのは明夫さんのたくましくも大きな背中だけだった。

 その大きな体で私を包み込んでくれた義父の存在に、涙があふれてきた。

「どうしよう……わたし、また……とんでもない間違いを……」

 明夫さんの顔を見て口をぱくぱくさせていると、明夫さんは腹部に刺さった凶器を一切躊躇うことなく抜き去り、腰をかがめて目線を合わせて白い歯を見せた。鼻腔の奥で、微かにヤニのにおいが漂う。

「筋肉ってのは便利なものでな、一種のアーマーみたいなもんだ。この程度の傷、俺にとっては大したことないから心配すんな」

「でも……でも明夫さんのその傷……それにユウキが……」

 傷からはじわじわと、スーツの下の白いワイシャツに血が広がっているのが分かる。優希が倒れている位置を視線で伝えた。心配するなという方が無理だった。

「さっき救急車を呼んだから、直にここへ来るはずだ。向こうのお友達は七夕が看てるから、お前は優希の傍にいてやれ」

 優希と父を交互に見ると、明夫さんは私の目元にたまった涙を指で拭い去っていった。

「お前には、辛い役回りをさせてしまってすまない。ここからは――義父とうさんである俺に任せろ」

 私の抱え込んでいたすべてを受け持つが如く、自分の胸にしまうようにドンと叩いてから、明夫さんは私に背中を向けた。

 不安や後悔や責任、憎しみ――それらすべてから、私を解放してくれた。

「…………うん」

 頷き、優希の元へ駆け寄り事の顛末を見守る。

 私は優希の手を握り、祈った。

「お母さん……っ」

 一方で明夫は己が眼前に腰を抜かして座り込んでいる男を見据えていた。

「俺にはどうしても理解できないことがあった。あの状況下で、あの場面で、なぜ自らの身を挺して犯人の男を庇うような真似をしたのか。だが、今なら分かる。あいつの――セツナの気持ちが」

 明夫のその言葉を聞いたとき、私の脳裏にはある映像が浮かんでいた。

 まるで実際に目にしたかのようなハッキリとした回想。しかしそれは直接見ていないはずの光景。

 あの日の、あの事件の――。

 突如として私たち家族に降りかかった不幸の一幕。

 そしてその過去の映像が、先ほどの自分の行動と重なる。まるでパズルのピースを合わせるように。

 ――ああ……。

 それは、優希を通して記憶が流れ込んできているのだと分かった。

「さて。やっと追い詰めたぜ――新田誠治。いや、医師せんせいと呼ぶべきか?」

 明夫はさきほどまでの優しい低音はどこへやら、凄みをきかせて新田誠治と呼んだ男を睨んだ。

「――お、お前は……!! 二ノ宮!! また性懲りもなく私を追ってきたようだが、む、無駄だ! 証拠がなければ私を裁判にかけるなど無理なのだからな!」

 無様に地面に転げている新田誠治は面識があるのか、明夫が灯りの下に出た途端に焦りの色を滲ませた。

「センセイよ、俺はたしかに追い詰めたと言ったんだ。嘘は言わねえさ」

「くっ……ふははははッ!! 私の罪を裁ける者など誰もおらぬぞッ! なぜならッ、私は事件に関与していないのだからなアッ!! 富も地位も名誉も人望もある私と、一介の探偵気取りの弁護士であるお前と、世間はどちらを信じるかな!? むしろ私はその小娘に襲われた被害者だッ!! このカメラに収められている映像と、凶器の柄についた指紋を鑑識に回せばすぐに私の証言が取れるッ!! これ以上の証拠がどこにあるゥ!?」

 荒い呼吸でカメラの映像を見せつけながら力説する新田誠治だったが、それと対峙する明夫は極めて落ち着いていた。何か言葉を返すのかと思いきや、ポケットを弄り、タバコを取り出し、ゆったりとふかし始めた。さすがに落ち着きすぎている。

 新田誠治の言う通り、映像は嘘ではなかった。まだ記憶は漠然としたままでにわかには信じ難いものだが、映像の中の自分は確かに優希に向かって凶器を振りかざしていたのだ。

 何よりも決定的な証拠は、屈辱だが誰が見ても覆ることはない――真実だ。

 だが、見ているこちらが不安に駆られそうな沈黙に、先に音をあげたのは私でもなく、明夫でもなく、新田誠治だった。

「なんとかいったらどうなんだ!!」

 シビレを切らした新田誠治がまた怒鳴り声を上げた。

「なるほどな」

 と、一つ納得する明夫。

「…………?」

 飄々とした態度に首を傾げた新田誠治に、明夫は胸元のポケットから小型の機械を取り出して見せた。

「そ、それは……!?」

 手元にある機械のボタンを押すと、ノイズの後に続いて新田誠治の声が聞こえてきた。

『なぜだどこへいくッ? トドメをさせと命じたはずだ……!! ………………チッ……もう少しで完璧だったものを。一体なぜ私の術が解けたのだッ!!』

 その録音された音声を聞いて、新田誠治はこの位置からでも瞳孔が開くのが見て取れるほどに、動揺していた。

「なっ……そ、そんな馬鹿な!! なぜお、おまえが私の声をぉ……ッ!?」

「知りたいか?」

「ええい、なぜだッ!! なぜなんだッ!? お前はあの時この場に居なかったはずだ!!」

「なぜか。それは――携帯だ。愛する娘からの着信だったが、なぜか聞こえてきたのはお前の声だった」

 私は携帯を持っていない。まさか、優希がこれを……? 優希の制服のポケットを確認すると、中には電池の切れた私の携帯が入っていた。ついさきほどまで繋がっていたのだろうか。

 その後も機械からは先ほどの新田誠治と私のやり取りが流れ続け、ほどなくして明夫は音声を止めた。

「ふむ、ご丁寧に叫んでくれたおかげで編集する必要もなくハッキリと聞き取れるな。このセリフは……お前の悪事を裁くには十分すぎるワードを含んでいる。しかもさっきのお前の発言から、声紋データはとれた。この録音された声とデータを出せば、紛れもなくお前の声であると証明できるが……これを聞いてもなお、俺の娘が殺人犯だとでもほざくか? 自分の手は汚そうとせずに、他人を操り人に害をなすペテンさんよ」

「ぐうッ……!!」

 そのとき、遠くにサイレンの音を確認した。

「ユウキ……」

 優希の手を一層強く握りしめ、願いが届くことを祈りながら明夫たちの方へ視線を戻す。

「ちっ、くそめがあああああああああ!!」

 サイレンの音で後がないと判断した新田誠治が叫びながら明夫に殴りかかった。だが、明夫はそれをタバコを口にくわえながら拳で華麗に受け流し、続く二発目で新田誠治が繰り出したストレートを懐に入って躱すと、そのまま伸び切った腕をとり、綺麗な弧を描かせて新田誠治を地にねじ伏せた。

 新田誠治の最後の抵抗は、あまりにもあっけなく終わりを告げた。

 優希を握る手に、一層力がこもる。

「もとはと言えば……もとはと言えば貴様が……私の妻を殺した男を無罪になどしたから……!!」

 息を切らしながら立ち上がろうとする新田誠治の口から飛び出た言葉だったが、

「それは違うよ……父さん」

 駆け付けた警官によって連れられてきた新田総二郎が、新田誠治の言葉を否定した。

「二ノ宮弁護士は正しかった。間違っていたのは……僕たちの方だ」

 新田誠治は抵抗をやめると、息子の顔をまじまじと見つめた。

「総二郎……なぜおまえがここに」

「それも二ノ宮さんのおかげさ」

 と言って、総二郎は後ろでこちらの様子を窺っていた茜の方を見た。茜は明夫を見て一つ頷くと、明夫もそれを見て一つ頷いた。

「二ノ宮弁護士は正しかったんだ。事実を受け入れまいと目を逸らし、ありもしない復讐に心を操られていたのは……父さんのほうだ。この――母さんの手紙を読めば解る。遺品を改めて整理していたら、見つかったんだ」

 総二郎は手に握りしめた便箋を、地面に伏せたままの誠治に渡した。

 明夫から解放された手を伸ばしてその手紙を受け取り、開封する新田誠治は、まるで恋文を開く中学生のようだった。

 手錠をかけようとする警官二人を明夫が手で制し、灯りの下には新田誠治と総二郎の二人が残された。

 さきほどまで憤怒の感情に身を任せていた誠治の威勢はどこへやら、いまはただただ、もくもくと手紙を読み進めていた。

 内容は分からないが、愛する妻からの手紙によって復讐に憑りつかれていた新田誠治の心が浄化されたということは間違いなかった。憎しみに身を投じた新田誠治の姿は、もうどこにもなかった。

 途中から涙を流し始め、読み終えた途端に手紙を濡らすことも厭わず号泣しだした新田誠治は、警官の催促に大人しく応じ、歩き出した。

 そして、その場を離れる前にぽつりと背中がつぶやいた。

「あんたは……この私をうらんでいるだろう?」

 その言葉を聞いて、明夫はポケット灰皿にタバコを仕舞うと、

「……恨んでいないと言えば嘘になる。だが俺は、お前のようにはなりたくないもんでな。残された家族を守ろうとせず、大切なものを忘れ、余計なことばかりにうつつを抜かすような野郎になっちまったら……俺はこいつらの父親にはなれねえ」

 少し遅れて救急車も到着し、静かな夜の公園はいつの間にか多くの人で溢れかえっていた。

「……私は、父親失格だな」

「父さん……」

「すまない総二郎。……すまない」

 誠治は総二郎の顔を見ることなく、泣きながら去って行った。

「……なんてカッコいいこたあ言えねえんだがな、俺も」

 その背中を見て、明夫がぼそりとつぶやいた。

 それからは、かなり目まぐるしく人が動いていた。優希と、そこから十メートルほど離れたところで倒れていた綾乃は担架に乗せられて運ばれていき、私も救急車両に同乗することになった。

「俺も後から行く。それまで頼む」

「うん。……助かるよね?」

「母さんがきっと助けてくれる」

「出発します!」

 救急隊員の掛け声で救急車の扉が閉められる。窓ガラスの向こうで頷く明夫を見てから、私は優希の手をまた握った。

「信じろ」

 ガラスの向こうで明夫が、そういった気がした。


 ♪


「その傷はどうされたのですか……?」

 救急隊員の質問に対して明夫は、

「ちょっとしたかすり傷ですよ。なに、どってことはないです。……イタタ、すんません、やっぱり手当お願いしてもいいでしょうか?」

 と苦しい嘘をつきながらも笑みをこぼした。とはいえ痛いものは痛いらしく処置を受けることにしたようだ。

「だっせ」

「うるせえ」

 茜の辛辣な態度に、明夫は笑みを浮かべていた。その笑みは、長い呪縛から解放されたような、安堵の笑みだった。

「なあ茜。おれぁ、あいつらの父親にふさわしいと思うか?」

 明夫の中には、先ほど見た新田誠治の背中が焼き付いていた。事件の真相を追うためとはいえ、母親を亡くして辛い思いをしていた娘たちにもっとしてやれることがあったんじゃないかと、自分の行動を悔やむ気持ちがあったのだろう。

「思わないな」

 だが茜は、そんな明夫の質問をバッサリと切り捨てた。

「今は、な。それに、それは俺じゃなくて二人が決めることだ」

「そうか。お前に聞いたのが間違いだったか」

「ああ。先に行くぞ」

 荷台に座る明夫に警官が一人寄ってきたのを確認し、茜は一足先にその場を後にした。

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