第16話 ~天使のような悪魔の笑顔~

 教室で体育祭の打ち上げをした帰り道。

 Aクラスの皆と別れを告げ、俺は綾乃と共に駅までの道を歩いていた。

 クラスの何名かは二次会の晩餐会ファミレスに行くらしく、二人で抜けてきた。

「あいつからは?」

「まだきてない……」

「そうか……」

 空がオレンジ色から藍色までの深いグラデーションに色付き、街に明かりがつき始めてきたころ。依然として新田からの連絡はなかった。

 もちろん新田から連絡が来るという保証はどこにもない。ましてや彼が本当にユウナの居所を知っているという確証もない。

 それでも俺には彼の言葉を信じるほか、残された道はないのだ。

 電車に乗り、綾乃は自宅のある駅では降りずに着いてきて、そのまま二ノ宮家の最寄り駅近くの喫茶店へ入った。

 今の状態では喉を通るものも通らないのでホットココアだけを頼んで席に着き、闇の帳が降りゆく街並みを眺めながら俺たちは待った。

 綾乃はずっと何かを言いたそうにしていたが、何も言わずに黙っていた。不安を口にしてしまったらその気持ちに負けてしまいそうだからかもしれない。

 かと言いつつ何か別の話題を振る気にもなれず、結局俺たちの間には一切の会話がないまま、一時間ほど潰したところで外に出ることにした。

 適当にブラブラと歩いていたつもりが、足が自然と公園のほうへ向いていた。一週間の内にこの公園で様々なことがあったが、今見る公園の景色はまたいつもと違い、静かに包み込んでくれるような自然の雰囲気があふれていた。

 湖では噴水があがり、マイナスイオンのにおいと耳をくすぐる水の音が心地良い。

 水面に揺れる月を見てぼうっとしていると、俺の肩に綾乃の手が置かれた。

「ここ、いいところだね。初めて来たけど、心が癒される。きっと休日はたくさんの人で溢れかえって、とても賑やかなんだろうね」

 綾乃の声に不安の色はなく、純粋に自然の抱擁を身に染みて感じているようだった。

「うん」

 俺は環境に浸っている綾乃の横顔を眺めながら、頷いた。

 綾乃の言葉で気が紛れたからかもしれない。今まで張り詰めていた何かがふっと解かれ、その横顔に静かに語りかけていた。

「お――わたしね。今まで誰かに本音を話したことなかった。ずっと一人で抱えこんで、どんなに悲しいことがあっても、辛いことがあっても。一人で解決しようって思ってた。それが、自分でも上手く出来てると思い込んでたけど……実際は自分が少しずつ壊れていってることに気付いてなかっただけだった。ほんと、バカだよね」

 綾乃の綺麗な瞳が俺を覗いた。瞳はさながら水面のように、下弦の月が映っていた。

「でも、そんなわたしを救ってくれたのが、彼女だった」

 ユウナと、記憶の中の少女の笑顔が重なる。

「彼女の笑顔に知らず知らずのうちに癒されていることに気付いたのは、失ってからだったけど……。もしもずっと一人だったら、わたしはまた自分を責めたり悲しむしか出来なかったと思う。あははっ、そう考えると、あの頃も今もやってることはなんら変わらないね……」

 冗談めかして笑う俺の手を綾乃がそっと握った。

「あたしだって同じだよ。ユウナだって、誰だってそう。みんな本当は弱い人間だから。だから、辛いときや悲しいときは慰めてあげることが大事なんだよ」

 綾乃の小さな手が俺の頭を撫でた。頭を撫でられると、心の奥底からほんわりとしていく。

「……触れ合えるって、すごいね。どんなに心に雪が積もってても、一瞬で融かしちゃうんだから」

「なにそれ。ポエムみたい」

 綾乃が口元を隠してくすくすと笑った。

「……笑うことないでしょ」

「可愛かったから、つい」

 綾乃の笑顔に見とれてしまい、俺は気が付いた時には自分から綾乃に抱き付いていた。

「お?」

 綾乃はきょとんとしていた。突然のことだ。無理もない。

「ごめん、今だけ……甘えさせて……?」

「…………お、おう」

 夜も更け、あと一刻ばかりで日付が変わってしまう。そうなったら、俺にはいつ迎えが来てもおかしくはない。この温もりにすら触れられなくなる。死後の世界がどんなところか想像もできないだけに。今いるこの世界の愛おしさに触れ、あたたかさに触れ、そして拒み続けてきた誰かに触れ……。

 俺の心は、また別の恐怖によって支配されていた。


 ――…………死にたくないよ……。


 さんざん泣いたはずなのに、また雫が頬を伝って地面へ落ちていった。

 今までそんなこと微塵も感じたことはなかったはずなのに。一週間前にはその気持ちを抱く自分すら想像できなかった。

 この身体は――この人生は借り物だ。俺が偽物であり、明日になれば持ち主に返却されることも重々承知している。

 だがそれでも、心からそう想ってしまった。願ってしまった。

 俺は、罪深い人間だ。

 辺りは闇に包まれ、人の影すら消えた中。

 それはまるで死神の襲来を告げるように、はたまた救済の鐘のように。

 ――着信音が鳴り響く。

「ユウキ……まさか」

「うん……!」

 俺は携帯をポケットから取り出し、ディスプレイに表示させる。メールだ。送信者は、新田。

 俺と綾乃は互いに顔を見合わせ、頷いた。

 緊張で指が震えそうになりながら新田からのメールを開封する。

 そこに書かれていたのは――


『さい』


「「さい?」」

 その二文字だけだった。

「さい? ……ごめんなさい?」

「……なんだそりゃぁ! 期待させておいて『さい』の二文字だけってどういうことだ! ユウキ、今すぐでん……わ……」

「もうやってる……でも繋がらないよ。電源切れてるよ、新田くん。……綾乃?」

 携帯から綾乃に目を向けると、綾乃は口をぱくぱくとさせながら何かを見ていた。

 その視線の先を追いかける。

 そして、目を疑った。

 一瞬心臓が止まったのかと思えるほど、目の前の光景を受け入れるために、時間が止まって見えた。やがて鼓動は加速していき、心の底から衝動が湧き上がってきた。

 そう。その視線の先にいたのは、他でもない。

「――ユウナっ!!」

 暗がりでよく見えないが、慣れつつあった俺たちの目には、そのシルエットは確かにそう見えた。

 居てもたってもいられずに駆け出した。もうすぐそこまで来ている。あれだけ喜びを分かち合いたいと、触れ合いたいと切望してきた相手が、目の前にいる。

 感動からか目の前がかすみ、こけそうになりながらも走りだした。ユウナも走り出すのが分かった。

 感動の再会。

 そう、なるはずだった。

 だがしかし、事件は起きた。

 今まさに手が届こうとした矢先。

 一瞬の出来事だった。

 走っていたはずの俺は、後方から何かに突き飛ばされた。寸でのところでユウナの体をかわし、俺は地を滑った。

「いったっ…………」

 咄嗟に受け身はとれたが、いきなりのことで俺はまるで状況がつかめなかった。

 そして、突き飛ばされた方を見た時、心臓がドクンと大きく揺れた。

「っ…………?」

 驚きのあまり、喉から直接声が漏れた。目を見張り、目に映る光景がチカチカと不自然に明滅していた。

「う、そ……でしょ…………?」

 夢ではない。夢であるはずがない。その姿はまさしく彼女そのものなのだから。

「そんな……こんなことって…………ッ」

 有り得ない。だがしかし、それは紛れもない現実だった。

 ――ユウナが、手にしたナイフで綾乃の腹部を突き刺していた。

「ぐっ……がはっ!」

 ナイフを抜かれ、綾乃の制服が紅い色に染まっていく。そしてすぐに綾乃は地に倒れた。

「綾乃!!」

 俺は叫びながら綾乃の傍に駆け寄り、抱え起こした。

「うぅっ、ユウ……キ……」

「大丈夫!? しっかりして、綾乃っ!! ……待ってて、今」

「――アブナイ」

 間一髪だった。頬に熱を伴った痛みが走る。

「あーあ、またダメだった」

 綾乃を刺し、俺に切り掛かってきたユウナは心底残念そうにそうつぶやいた。

「なんで……そんな、いったいどういうこと!?」

 ワケが分からない。天使のように優しく可憐な少女が、包丁を片手にサイコパスよろしく殺戮を楽しんでいるかのような嗜虐的な笑みを浮かべている。

「ユウキ、のんびり会話してる時間なんてあるの? 早く救急車呼ばないと……死んじゃうよ?」

 刃先で綾乃を指し、ユウナは妖しく笑った。不気味だ。いつもの優雫の態度とはどこかかけ離れている。だが言っていることはまさしくその通りだった。今は問答を交わしている場合ではない。

 携帯を取り出し、ダイヤルをしようとしたが、ユウナの一閃がその猶予を許すはずがなかった。

「うわっ!?」

 咄嗟に携帯を手放してしまい、見事な放物線を描き花壇の中に飛び込んでいった。

 動こうにも、襲い来る剣戟が怖くて動けない。

 横目で見ると、苦しそうに呻いていた綾乃は既に虫の息だった。

 ……そんなの嘘だ。やめてくれ。

 こんな状況下でも事態が呑み込めず、弱気になりそうになるのを堪えながら、目の前の少女と対峙した。ユウナの形をした少女はまだ動く気配を見せずに、この状況を楽しんでいるみたいだった。

「……どうして、こんなことするの?」

「どうして? そんなの簡単だよ。ずっと死にたいと思ってたユウキが死ねないようだから、あたしがこの手で殺してあげるんだよ?」

 なんだって……?

「……本気なの?」

「本気だよ。あたしの可愛いユウキは、やっぱりあたしの手で殺してあげなくちゃ、ってね」

 薄気味悪い笑みを浮かべながら、凶器をその手に構えなおす。

「だからさ――あたしが殺してあげるよ、ユウキ――ッ!」

 ナイフを振りかざし、突進してきた。

「うっ……クッ!!」

 薙ぎ払い、袈裟切り、切り上げ、突き。めちゃくちゃに振っているように見えて、的確に獲物である俺を追い詰めようと攻撃を繰り出してくる。対抗する武器もなく、素手である俺は防戦一方で、そこらに落ちている木の枝を拾っては防御を試みてみたが、細く脆いがためにすぐに真っ二つに切られてしまう。本来のリーチは同じだが、凶器を持っている少女ユウナの方がわずかに長い。力で押さえつけようにも、動きが素早く、攻撃の手も緩めない剣戟は距離を詰めることを許さなかった。

「……っ!!」

 よそ見して足を引っかけて転倒したところへ、ここぞとばかりに凶器を突き刺してきた。咄嗟に横に転がって躱し、柔らかい地面に深く刺さった凶器を脇目に距離をとった。

 クソッ……こんなことで時間を取られている場合ではないのに……ッ!!

 集中力が途切れようものなら明日を待たずに召されてしまいそうだ。

「はぁ……はぁ……」

 なんて皮肉を言っている場合ではなく、集中力より先に体力の限界が近付いてきた。

 一方で少女はあれだけ過敏に凶器を振り回しているにもかかわらず、その動きが鈍ることはない。体力差がそこまであるとも思えないが、回避に全力を出しているこちらが先にスタミナ切れを起こすのは当然のことだった。

 このままでは綾乃も助けられず、俺も――優希も殺されてしまう。

「どうしたの。元気に動き回ってたのにずいぶん大人しくなったね、ユウキ?」

 向こうも一息つくためか、それともただ楽しんでいるのかにたりと笑みを浮かべながらゆっくりと歩み寄ってくるユウナ。

 俺はその時、妙な既視感を覚えた。

 似てる。

 そう思ったのだ。

 この公園で俺を襲った暴漢たち。体育倉庫で俺を閉じ込め犯そうとした新田。

 そして、もう一つ。

 記憶の中で、優希をいたぶる男性。

 そして、共通しているのは誰も犯行当時の自分の行動を覚えていないということ。暴漢たちに至っては本人たちに確認したわけではないが――もし仮にそうだとしたら。

 ただ過去に似たような体験をしただけ。そんな簡単な話ではない。

 もしも何かもっと別の要因が絡んでいるとしたら……?

『さい』

 頭によぎる、新田から送られてきた二文字。出鱈目でたらめなんかではなく、それが意図して何かを伝えようとしてきたものだとしたら?

 その人が覚えてないのであれば、別の誰かがその身体を操作していたことになる。人の体に乗り移るなんてことはできっこない……はずだ。俺の場合は神の力が関与している。だがこんな奇跡みたいなワザ、そうそう起こせるはずもない。ましてや神が誰かを殺すために人を操るなんて真似、するはずがない。

 ならば動かしているのは――

「あれ、大人しく殺される気になった? 逃げ回るユウキも可愛かったけど、素直に受け入れてくれるユウキも可愛いなぁ」

 ワケの分からないことをぼやく少女。

 確かめる方法は、一つ。

 息を大きく吐き出し、意識を目の前の少女に集中させる。

「それじゃあ」

 ユウナがナイフを突き立て、俺目掛けて動き出す。

「バイバイ、ユウキ!」

 心臓目掛けて一直線に。

 ――刹那。

 俺の記憶領域は膨大な情報量を収集するために、迫りくるユウナの姿を鮮明に捉えた。微細な挙動ですら鮮明に映し出すその光景はまるで、時間がゆっくりと流れるスローモーションのようだった。

 だがそれは未来予知でも、特殊能力でもなんでもない。動くことをやめた対象を確実にしとめるために、急所を狙うだろうと予測したに過ぎない。

 そして俺は、その必殺の一撃を交わした。

 そしてすぐさま、ユウナを抱きしめ押さえつけた。

 今まで離れていた二人が、一つに合わさったその瞬間。

 優希が自らを死へ追いやろうとしていた過去が。

 その原因となった、あの日の事件のことが。

 想い出が、記憶が、頭の中をフィルムのように駆け巡った。

 バラバラだった記憶の断片が、優希という一つの魂を軸に繋がっていく。

 同時に、大塚祐樹の存在が薄れていくのが分かった。優希が完全に自分の体に戻りつつある今、代理でスペースを補っていた俺の存在は今まさに消滅せんとするが如く。

 だが、今そんなことはどうだっていい。俺はどうなったっていい。

 まだ、もう少しだけ。今だけは俺のままでいさせてくれ。

 お願いだ――。

「ユウナ! もしわたしの声が聞こえていたらもうやめて! 優希はこんな……誰かが死ぬことも、ユウナが手を汚すことも望んでいないはずだよ!? 優希は――ほら、こうして触れ合えるようになったんだよ……! ユウナなら優希の声も聞こえるはずだよ――また家族で笑い合いたいって……。お願い……頼むから――目を覚ましてくれ――ッ!!」

 ユウナを抱きしめる体に自然と力がこもる。

 俺の言葉が届いたのかどうかは……分からない。

 腕の中で動いていたユウナが、ピタリと止まった。

「――ユウキ、離してよ。苦しいよ」

 その声は明るく、かげなど微塵も感じさせない凛とした声――いつもの、ユウナの声だった。

「ユウナ……目を覚ましたんだね……!」

 胸にうずめたユウナの顔を見ると、その顔には天使のような笑顔が浮かんでいた。

「うん……ありがとう」

 目を細め、閉じていた瞳が開かれる。しかし、腕の中にいる少女の瞳には深い深い闇が映っていた。生の世界の光景などまるで映らないほど、深い闇が。

 ――ズブリ。

「っ……!?」

「ユウキのおかげで」

 次の瞬間、胸に鈍い痛みが走った。

「やっとお母さんの仇がとれたよ」

 そして天使の微笑みのまま、ユウナはさらに奥深くへと刃を突き刺した。

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