第15話 ~本物と贋作~


 赤城と別れて家に帰り、寝巻に着替えて優希の部屋に入った時だった。

 なんてことはない、奇妙な違和感を覚えた。

 出かける前と帰ってきた後で何かがちがう……? だが別段変わったところは見られない。相変わらずベッドの脇にはぬいぐるみがズラリと並んでいるし、相変わらず良い匂いがする。

(気のせいかな……)

 そう結論付けてベッドにもぐりこんだ。

 息を大きく吐き出して目をつむれば、完全なる静寂が訪れる。そのまま眠ることができれば、何も考えずにいられるというのに。

 目を閉じた途端に急速に寂しさが増した。

 茜に強気な発言をしたはいいものの、今にも胸が張り裂けそうだった。胸の奥がじんじんと痛んで涙がこぼれそうになる。

 気を紛らわせるために寝返りを打つと、目の前にはぬいぐるみの顔。ぬいぐるみを見て天使のことを思い出し、またもや心がきゅんと締め付けられた。

 あのふわふわな手でもう一度頭を撫でてはくれまいか。

 心の中に広がるぬくもりが恋しくなり、ぬいぐるみを一つ抱きしめて枕に顔をうずめた。

「――あれ?」

 だが、俺はその時再び違和感を覚えた。今度は確かに、ハッキリと引っかかりを感じた。その正体を探すべく、ぬいぐるみたちを重点的に観察して、気付いた。

「ぬいぐるみが……」

 ベッド脇にずらりと並んだぬいぐるみの配置が僅かに変わっていた。いつも脇を見れば目が合うはずのゴマたんのぬいぐるみが足元最後尾へと移動している。ゴマたんだけでも数種類あるが、動いていたのはユウナが病院にもってきたものであり、他でもない天使と名乗り空を飛んだあのゴマたんであった。

「おかしいな……動かしたっけ……?」

 体を起こし、例のゴマたんを持ち上げる。

「それとも、お前が動いたのか? お? どうなんだ? ……なんてね。そんなワケないか」

 今更ゴマたんが動くはずもない。何度呼びかけても応じなかった天使が、今更……。

 ――――。

 なんだ……? 今一瞬だけ、聞き覚えのある音が聞こえた気が……。

 耳を澄ませるが、しかし何も聞こえない。

 ――――。

 いや、聞き間違いではない。確かに聞こえた。家の外からではなく、もっと近く……。音が出るものは周りにない。今手元にあるのは……、

 ――――。

「…………!!」

 ハッとなり、俺はゴマたんの体をぐるぐる回した。すると、案の定そこに――

「…………」

 ゴマアザラシのぬいぐるみの腹部にチャックが存在したのだ。

 俺はそのチャックを開け、手を中に突っ込んだ。

 ――シャリーン。

 中に入っているものを取り出すと、身体の芯まで響き通るような綺麗な鈴の音が鳴った。音も見た目も綺麗な鈴に気を取られそうになるが、それ以上にとんでもないものがぬいぐるみの中に入っていたのだ。

「あ――った……」

 それは部屋のどこを探しても見つからなかった、開かずの引き出しの鍵だった。まさかゴマたんが持っていようとは。

 早速そのカギを握りしめ、立ち上がった。

 机の中に何か優希の手がかりになるものが入っているかもしれない。そう期待してはいたが、いざ鍵を見つけた途端に俺の心臓はかつてない早さで脈打っていた。なぜここまで緊張するのか自分でも分からないくらいに胸がざわつき、足取りが重い。机に近付くたびに頭の中に警鐘が鳴り響く。

 鍵穴に鍵をそっと差し込み、震える手を押さえながらゆっくりと回す。すると果たして――鍵はカチャリと音をたてて開いた。

 取っ手に指をかける。その瞬間、突如としてキーンという甲高い耳鳴りとともに頭痛が襲ってきた。水の中にでも入ったように視界が歪み、意識が夜の空へ飛び出しそうになる。

 ――過去に触れてはいけない。

 声が聞こえた気がした。

 ――それ以上踏み込んだらダメ。

「それでも……俺は――ッ!!」

 魂を拒絶するチカラに抗い、俺は鍵の開いた引き出しを――

 開けた。

 開かずの引き出しを開けてしまった。

 いざ開けてしまえばどうということはない。今まで纏わりついていた奇怪な耳鳴りも頭痛も混濁とした意識も鮮明になり、ただ激しく波打つ鼓動の音が聞こえるのみ。

 おそるおそる目を開くと、中に入っていたのは、一冊の分厚い本。そして、

 ――シャリーン。

 鍵についていた鈴と全く同じ鈴が、もう一つ入っていた。



 朝。

 決して晴れているわけではないのに外が白けて見えるのは、曇天のせい。寝覚めはいいとは言えなかった。けたたましい玄関のチャイムの音に叩き起こされたためだ。

「ぷっ――あははははっ!! ユウキ……寝ぐせすんごい……くっ、ぷはははは!!」

 綾乃が俺を見るなり挨拶もせずに笑い出した。

 失礼な奴だ。と思いつつも手ではねた髪の毛を寝かせると、案外簡単に整えることができた。綾乃がひとしきり笑い終え、落ち着いたのを見計らってからあくび交じりに尋ねる。

「おひゃおう。なんで綾乃が……?」

「何って、迎えに来たんだよ」

「…………なんで?」

「え? ……来たくて来た、じゃダメ、かな?」

「…………」

「ほ、ほら、ユウナがいない今、ユウキの世話を託されている身としては、さ……放っておけないじゃない? それにほら、今朝はリレーの練習が」

「…………すぴー」

「って、立ったまま寝るなぁぁぁあああ!!」

「――ふぅお? あ、ごめんごめん。……すぐ準備する。……あ、シチューたべる?」

「シチュー?」

「いっぱい残ってる」

「へー。じゃあ、相伴にあずかろうかな」

 綾乃を招き入れると、俺が案内するより早く台所へと入っていった。

「あ、私が用意するから支度してていいよ」

 お言葉に甘えさせてもらいます。

 脱衣所の時計を確認すると、朝の5時だった。夏休みにラジオ体操に参加するために早起きしたとしてもここまで早起きはできない。綾乃の家はそこそこ遠かった気がしたが、いったい何時に起きたのか。

 あくびが止まらないので冷たい水で顔をすすいで準備に取り掛かる。

 今日は体育祭。この日のために練習を重ね、気合十分で臨む生徒は多いだろう。俺も初めの頃はこの日を一世一代の大イベントとして楽しみにしていた。短距離走で一番になってしまった宿命ともいえるクラス対抗リレーの代表に選ばれ、接触の危険性を考え一度は辞退をしたのだが、ここにきて優希の発作が起きなくなったと知った我がクラスの保体委員こと川越さんから、

「よっしゃぁ!! YOU、アンカーいっちゃいなYO!! だいじょーぶ、お姉さんたちがサポートしてあげるから、ね?」

「運動音痴・方向音痴・味覚音痴のくせに?」

 と茉利奈のツッコミはあったが、誰も反対するものはおらず半ば無理やりアンカーにさせられたのだった。

 そのために今朝は綾乃とともにリレーの練習を約束していたのだが……今となってはそこまで気乗りしなかった。綾乃が来なければ休んでいたかもしれないほどだ。

「ふぅ……」

 仕上げにユウナからもらったヘアゴムで後ろ髪を結い上げる。

 あれ? 何かを忘れている気がする。なんだっけ……まあ、いいか。

 居間へ戻ると、食卓の上には既に朝食セットが出来上がっていた。綾乃の手際の良さにも驚かされたが、それ以上に気になることが一つ。

「綾乃ちゃんって、前にうちきたことあるの?」

「え? ああ、まあね」

 他人の家の食器の場所とか、俺でさえ結構覚えるのに時間がかかったというのに、綾乃は何も聞かずに全て一人でやり遂げた。

「ささ、冷めないうちに食べよ」

「……いただきます」

 俺は深く気にせずに、綾乃が用意したトーストにかぶりついた。


 駅へ向かう道中。昨晩赤城から聞いた話を報告がてらユウナの携帯を見せると、綾乃がう~んと唸った。

「ってことはユウキがメールを送った時、赤城はユウナと一緒にいたかもしれないってことか」

「そうみたいだね。でも、肝心のその部分の記憶が抜け落ちてるみたいで……」

「むぐぅ。新田といい赤城といい、仕組まれてるんじゃないかってくらい都合がいいな」

「…………」

 俺はこのまま、ユウナに二度と会えないのだろうか。

 人に触れられるようになり、その喜びを真っ先に分かち合いたい人が、今まで一番近くにいてくれた家族が。触れられるようになっても触れたい人が、いないなんて。

 たった一つの願いすら、届かないというのか……。

 力なく、だらんと垂れた右手に綾乃の指が絡められる。

「えっ――?」

「そんな迷子の子供みたいな顔しないで。ユウナはきっと、戻ってくるよ。ユウキを置いてどこかへ行ったりなんかしない。寂しかったら、いつでもあたしに甘えていいから、ね」

 綾乃のやさしい声が、温かい手が、俺の心に触れる。

 その、刹那。

 忘れていたいつかの記憶が、ふいに脳裏に呼び起こされた。


「うそだ」


「……へ?」

「それはうそだよね? あやのん」

「え……? ユウキいま、なんて……?」

「あやのん。わたしは、あやのんって……昔、そう呼んでいたんだよね?」

「まさか…………思い出したの?」

「うん」

「いつ?」

「いま」

「どうして?」

「わかんない。あやのんに触れた途端、思い出したというより、すぅーっと記憶が流れ込んできたの」

 そこまで告げてやっと、綾乃はゆっくりと後退していく。さっきまで輝かせていた瞳はどこか虚ろで焦点が定まっていない。

「じゃあ……ひょっとして、あたしがユウキに言ったことも……?」

「うん。思い出した」

 思い出すきっかけとなったのは、間違いなく昨晩引き出しの中で見つけた200ページ近くある分厚い一冊の本だ。

 とはいえ内容は3分の1にも満たない量しか書き綴られていなかった。その中には優希と思しき人物によって書かれた過去の記憶もあった。どれも真相に繋がるような事象は書かれておらず、それを読んだだけでは失われた記憶を取り戻すことはなかった。もし思い出せていたのなら、今朝綾乃に会った時点で思い出している。

 過去に触れたことで今まで鍵をかけられ封じられていた記憶の引き出しが開きやすくなったのかもしれない。今まで拒絶していたという行為が、記憶を取り戻す引き金と成り得たのは、何かの皮肉か。

 日記を読めばすべて解決すると思っていた。優希の過去の苦しみを知り、味わった悲しみやその他全てのことを俺が受け止め、救ってやれると思っていた。

 だが過去の記憶を取り戻した俺の心は、深い深い闇に堕ちていった。

「ねえ」

 かつて悪びれる様子もなく保身のために友達を見捨てた少女が、哀れなまでに戦慄わななき、視線を彷徨わせていた。

「あ……その……」

「どうして、あやのんが――茅ヶ崎さんが、わたしの友達なの?」

「――――――ッッ!!」

「わたしは、心のどこかでずっと不思議に思ってた。どうして茅ヶ崎さんみたいな人が、わたしにここまでしてくれるのかなって。今日だって、わざわざ家から一時間以上もかかるわたしの家に迎えに来てくれて……いくら友達でも、そこまでしてくれる人なんていないよね?」

 機械的に、無意識にただひたすら口から出てくる負の感情を抑え込むことは、もうできなかった。自分が自分でなくなるような感覚と共に、飽和した心から負が零れ落ちる。

「友達なんて、ウソだよね?」

「ちっ、ちがっ――!!」

「わたしのためとか、一緒にいたいからだとか言っておいて、本当は……自分のためだったんじゃないの? 記憶を失くして何も覚えてないわたしに近付いて友達になって何もなかったことにして、過去の自分の罪悪感から逃げ出したかっただけなんじゃないの?」

 綾乃の反論を許さず、言葉を捲し立てる。これだけ責め立てても、恐ろしいまでに微動だにしない。こんなにも卑劣な言葉を浴びせ、綾乃の顔が悲観に染まっていくのを見ても、何も感じない。

 自分の心は、こんなにも黒く染まってしまった。

「あたしは……そんな……」

「わたしが記憶を取り戻さなければ、わたしを裏切ったこともなしにできるもんね。……ごめんね。思い通りに忘れたままでいられなくて。茅ヶ崎さんとのこと全部思い出しちゃった。でもこれで、贖罪を請う真似しなくて済むよ? わたしに構う必要なんて、もうないから。わたしはもう、茅ヶ崎さんの友達じゃない。友達ごっことか偽物の感情なんか、そういうのもう――いらないから」

 最後の言葉がとどめになった。膝から崩れ堕ち、うずくまり頭を抱えて慟哭する綾乃。

 泣き叫ぶ少女を背に、歩き出した。

 もはや俺の心は自分だけのものではない。優希の感情がとめどなく雪崩れ込んでくる今、俺の心の奥底に眠っていた祐樹の感情と共鳴を始めていた。

 今の俺には優希の苦しみも悲しみもすべて理解できる。

 だからこそ、他人ひとを傷つけたという自覚は少なからずあるにしても、心が動くことはない。

 むしろ、これでいい。

「もう……大切なものなんか」


 ♪


 優雫が倒れた。

 その日は冬の真っただ中だというのに冷たい雨が吹きすさび、朝のニュースは雨風がダブルで街の人々の体力を奪っている様子が映されているのが報じられていて、私はそれをストーブの温風にあたりぬくぬくしながら眺めていると、上の階から母の取り乱した声が聞こえてきた。

「やだ! 39度もあるじゃない。流行り病よきっと……!!」

「そんな、大げさだよお母さん。ゲホッ……ただの風邪だから」

「そんなことお医者さんに診てもらわないとわからないじゃないっ? 今日お仕事休むから、一緒に病院に行きましょう、ね?」

「……そんなことしなくていい。大人しく休んでれば治るから……!」

「でも」

「お母さん、ユウナに病院行けっていう方が難しいと思うよ」

 一度の反論では折れずにまだ説得をしようとあれこれ思考を巡らせている母に、私は口添えすることにした。

「外は雨降ってるし、病人のユウナを歩かせると余計に悪化しちゃうよ」

「そーそー、ユウキの言う通り。……そういうわけで、学校休むから授業のノートとかよろしくね、ユウキ♪」

「そんなに元気にお願いされると、ねえ……」

 優雫は私に比べて身体が弱く、小さいころから学校を休むことが多々あった。その度に優雫はどこか嬉しそうに、私にそうお願いしてくるのだ。母は母で度が過ぎるほどの心配性で、ただの風邪だと判明しているにもかかわらず仕事を平気で休んでしまう嫌いがある。父と離婚してからはなおのこと今朝のようなやりとりがテンプレート化している。

 それは私にとっては見慣れた光景だ。病人の割には明るく元気な優雫と、慌ただしく家の中の薬を探して走り回る母。この後の展開としては、母が勤務先に休みの連絡を入れるのを阻止して仕事に見送った後、私は一人で学校へいくことになる。

 だがその日は違った。

「お母さん。今日は私も休んでいい?」

 ユウナが飛び起きた。おでこに載っていた冷却シートが吹っ飛ぶ。

「えっ?」

「は? ユウキは元気でしょ!? 学校いっ……ゲホッ。行きなよ!」

「ユウキも具合悪いの?」

「ううん。そういうわけじゃないけど……今日はなんだか休みたいの」

「はぁ? 意味わかんないっ! そんなんで学校休めたら先生はいらないよ! だいたい、ユウキこの前皆勤賞だって自慢してきたじゃない。カイキンショーだよ? カイキンショウ! 賞状もらえるんだよ! ――ぇほっ……はぁ」

 ユウナはひとしきり文句を垂れた後、力なくベッドに伏した。ムリするから。

「私も、今日ばかりは優雫はただの風邪じゃない気がするんだ。だから、お母さんの代わりに私がユウナのそばにいて様子を見てあげたいの。ダメかな?」

 母は苦しそうに咳込むユウナをもう一度見てから、頷いた。

「……わかったわ、ユウキがそういうなら。それに、その方が私も安心してお仕事行けるわね」

「ありがと」

 私はにししと笑った。

「ユウナ。いつもごめんなさいね。あたしの代わりに、ユウキにたくさん甘えなさいね」

「…………」

「じゃあ、いってきます」

「……いってらっしゃい」

 母は目元まで毛布を被るユウナの頭をやさしく撫でると、鞄を持って部屋を出ていった。私はそれに続き、母を玄関まで見送る。

 母はヒールを履きながら背中越しに言った。

「お仕事が終わるころ、迎えに来てくれる?」

「うん。いくよ」

「そしたら一緒に夕飯のお買いものしましょう」

 母は上半身だけこちらに向けて、妖しく微笑んで見せた。

「うんっ」

 そして玄関の扉に手をかけた後もう一度振り返り、

「ユウキ、ありがとうね。私が傍にいられない時、いつもあの子の傍にいて支えてくれて。――でも、本当によかったの? カイキンショウ」

「カイキンショウよりも、私にとっては家族のほうが大事だよ」

「……うふふ。いってきます」

 母は私をやさしく抱きしめた後、まるで遠足に行く子供のようにはしゃいで出ていった。しかし残念ながら、外は大雨だ。予め呼んでおいたタクシーに乗り込む母の姿を残して、玄関の扉が音をたてて閉じた。

「……なんであんたも休んだのよ」

 部屋に戻るなりユウナの目がギロリと睨んできた。布団から目だけ出しモンスターだ。

「さっきも言ったじゃん。今日はそうしたい気分なんだって」

「なにそれ……ユウキらしくもない」

「どちらかというと、ユウナらしい理由だよね」

「……うるさいなぁ。あたしに皮肉を言うために休んだわけじゃないんでしょ?」

「まあ、ね」

 私は隅に転がっていたゴマたんを抱いてカーペットの上に脚を伸ばして座った。床暖房を入れているためおしりから踵までまんべんなく暖かい。

「昔はさ――今のわたしみたいにお母さんがユウナの傍につきっきりだったね」

「……昔は、ね」

「それとも、ユウナは今もお母さんに仕事を休んで傍にいてほしかった?」

「…………別に」

「ユウナって嘘つくとき口尖らせるよね」

「うぐっ……う、うるさいな!! なんで休んだのよ、学校いけよ! 行ってしまえ! 目障りだ!」

 ユウナは脇にあったクッションを投げつけてきた。おー、怖いね。

「今日は傍にいるって決めたから、いけないよ。というか落ち着いて休んでないと悪化しちゃうよ?」

「誰のせいだ――ゲホッ、ぇほっ」

 ユウナは見事なまでに顔を真っ赤にしていた。

「ほら、おでこのソレ変えてあげるから大人しくしなさいな」

「…………」

 まだ不満を言いたそうな顔をしていたが、怒鳴る気力もないほど弱っているユウナがそれ以上ムキになることはなかった。

「そういえば朝食べてないよね。お腹減った?」

「…………今はイラナイ」

「そっか。じゃあゆっくり寝ようね」

 頭をやさしく撫でるとユウナは薄らと目を開けた。

「…………お母さんの真似でもしてるの?」

「ううん。ユウナの真似」

「…………あたしそんな気持ち悪くない」

「わたしが寝込んだときはこうだったよ」

「…………そんなバナナ」

 ユウナはそうは言いつつも目を閉じ、次第に静かな寝息を立て始めた。元気そうにしてはいても、本当は辛かったのだろう。変なところで強がる癖は相変わらずだ。

 それから適度にユウナの具合を見つつ、手が空いたら授業の予習や復習を行い時間を潰した。お腹が減ったなあと思う頃に時計を見ると、13時を過ぎていた。ちょうどユウナが目覚めたので、あらかじめ作っておいた雑炊を持って行くことにした。

「はい、あーん」

「さすがに自分で食べられるよ。恥ずかしい……」

「可愛くないなあ」

 反抗的な態度をとるユウナの顔色は薬が効いているのか今朝に比べて大分よくなっていた。ユウナは寝込みがちだが、治るのもまた早かった。

「でもまだ安静にしてないとダメだよ? わたしがいるからには、一人で勝手にゲームとかやらせないからね」

「わ、分かってるよーだ!」

 ユウナはわたしの半分にも満たない量を食べて満足し、またすぐに横になった。食べてすぐ寝ると牛になるとか、ユウナはそういうことはあまり気にしないタチだった。そもそも風邪で寝込んだ人は牛になる宿命にあるのだ。もーもー。ちなみにこれはユウナ理論である。

「寝てるだけってタイクツ」

「学校でも寝てばっかのクセに」

「だって眠いんだもん」

「はいはーい、寝ましょうねー」

「ねー気持ち悪いからやめて?」

 ユウナは口ではそう言いつつも、まんざらでもなさそうだった。とはいえあまりしつこいとまたゴマたんが宙を舞いかねないので、ほどほどにしておく。後片付けのために皿を重ねていると、

「……ごめんね」

 ユウナがふとそんなことを呟いた。

「なにが?」

 食器を携えて立ち上がりユウナの方を見るが、ユウナはすでに眠り姫になっていた。

 皿洗いを終えてユウナの部屋に戻る途中、一度自室へ寄った。

 母からもらった鈴のことを思い出したのだ。

 鍵のついた引き出しを開け、しまってある鈴を取り出す。

 ――シャリーン。

 あれから数ヶ月経つが、渡すタイミングがなかなかつかめずに結局引き出しに閉まったままだった。

「……元気になったら、渡そう」

 元の場所へそっと戻し、引き出しを閉めようとした時。

 プリント類に埋もれた分厚い日記帳を見つけた。

 父からもらった数少ない誕生日プレゼントの一つだったが、日記を書く習慣など早々に身につくはずもなく、引き出しの奥にしまったまま忘れていた。真新しいまま白紙のページが続く本に寂しさを感じたせいか、単にもったいないと思ったのか、書いてみようという気持ちになった。

 とはいえいざ日記帳と向き合っても、やはりペンは一向に進まなかった。

 ううむ……何を書けばいいのだ?

 長考した結果、初めは後から読むことを考えて未来の自分に向けて挨拶を書き連ねてみた。

 書いているうちに沸々と湧き上がる何かを感じ、初めはたどたどしかったペンを握る手は、やがてすらすらと動いていた。ユウナとちゃんと向き合って話そうと思っていたのに話せなかったことや、母に鈴を託されたが渡せずにうじうじして、今日こそはと意気込んでいたのに、それができずにただ看病するだけになってしまっている自分への皮肉。

 今までずっと自分の気持ちを溜め込むばかりだったが、文字には不思議と素直になれた。

 そこでふと、この日記をもらったときの記憶がよみがえってきた。

「日記はいいもんだ。誰かに言いたくても言えないことだって言えるからな。お前は素直で優しい。だがそれ故に正直になりきれないときがある。だからもし、心が押しつぶされそうになったらこれにぶつけてみるんだ。たとえば、父さんはタバコ臭いから抱き付かないでほしい、とかな」

 当時は父の言っている意味が良くわからなかった。思春期も迎えていなかったせいか、自分と向き合うことがなかっただけに、その言葉をよく理解しようとも思わなかった。しかし今なら冗談交じりにそんなことを言っていた父の言葉を理解できる。

 そう。理解できてしまうのだ。

 私は――私たちは、もう子供ではない。

 ユウナが髪を染めてまで母に反抗的な態度をとるようになった理由だって、本当は分かってる。それは私も心のどこかでは感じていたことだが、あまり表面に出てくることはなかったというだけの話。

 見た目はそっくりでも、性格は真逆であるユウナが顕著に示していたに過ぎない。

 家族のつながりを誰よりも強く感じていたユウナが反抗的な態度でしか自分の気持ちをあらわせないのは、私が反抗的な態度を示さないから。

 二人が現実を黙って受け入れてしまえば、どんな理不尽な結果でさえそれを正しいと認めてしまうことになる。

 そうしてユウナの反抗期は、今もなお続いている。

 母とユウナ、ユウナと私。どこか埋まらない隔たりができてしまってから、もう大分経つというのに。

 まだその隔たりは埋まらないままだ。

 私が二人の懸け橋にならなくてはならないのに……。

 しかし今日もまた、一歩を踏み出せずに日記帳と向き合うしかできなかった。


 ♪


「……いた?」

「ううん。いなかったよ……ふいーっ。ねえ綾乃っち、本当にユウキちゃん学校に来たの?」

「ユウキちゃん見た人、誰もいません……」

「ユウキ、おかえりあそばさった?」

「…………」

 このだだっ広い学園の敷地内を川越・中田・笹瀬と四人で探し回るのはさすがに骨が折れる。

 初めてユウキがいないことに気付いたのは、競技種目が後半に差し掛かった昼すぎのこと。全員参加の大網飛びのアナウンスが入ったことで散らばっていたAクラスの面々が集められたがそこにユウキの姿はなかった。

「アヤノ。ユウキ、一緒じゃないの?」

 それどころか笹瀬にそう言われるまで、気にも留めていなかった。自分でも無意識のうちに避けていたのだ。

「綾乃っちは遅れてきたから知らないと思うけど、今朝のクラス対抗リレーの練習の時からいなかったよ」

「困りましたね。この後のリレーのアンカーは、ユウキちゃんということになっているのに」

「困ったのぅ」

「…………」

「こうなったら、綾乃っちをアンカーにして乗り切るしかないね」

「欠員は補欠の人に埋めてもらいましょう」

「マリナほけつー。マリナリレーデレル?」

「マリリンやる気満々だね!! ヤルキマンマリリン!!」

「ヤルキマンマリリンモンロー」

「ヤルキマンマリリンモンロー」

「オゥイエェス!! 頑張るぜぬっしゃぁ!!」

「…………」

 こいつらに頼ったのは間違いだったかもしれないと内心後悔した。なぜこうも楽観的なのか。

 ……なんて、人のことを言える立場ではない。ついさっきまで、いないことに安堵していた自分がいたんだからな。思い出すだけではらわたが煮えくり返りそうだ。

 ユウキの記憶がどこまで戻ったのかは分からないが、もしも記憶を失う前の優希に完全に戻ったのだとしたら……。

 最悪の想像を振り払い、綾乃は大きく深呼吸をした。

『――それでは、次のクラス対抗選抜リレーに出場する生徒の皆さんは、本部前に集合してくださーい』

 頭上のスピーカーから生徒会のアナウンスが入る。

 もとはと言えば、周りの目ばかりを気にして自分の意思で行動しなかった私の責任だ。自分が傷つくのが怖いから。周りから見放されるのが怖いから。一人になるのが嫌だったから。すべては保身のために平然とユウキを裏切った、私の責任だ。

『本当は……自分のためだったんじゃないの?』

 罪悪感に突き動かされ、ユウキを気にかけていたのは事実だ。反論の余地はない。

『偽物の感情なんか……もういらない』

 私の本当の気持ちは――。

 私は決して優希への罪滅ぼしのために、親の静止を振り払ってまでこの学園に入学したわけではない。

 どれだけ自分が傷ついても、どれだけ怖くても、まだ見ぬ先にどんな真実が待ち受けていようと、自分自身の過去と向き合い前に進もうとしていたユウキと――。

「いくよ、マリナ」

「がってん」

 わたしの償いは、わたしがやらなきゃ。

 ユウキとまた、友達に戻るために。


 ♪


 無数の喚声と掛け声が飛び交うのを金網を一枚隔てた向こうに眺め、屋上の縁に立っていた。

「もうすぐ……すべてが終わる」

 体育祭はまもなく最後のクラス対抗リレーが始まろうとしている頃だ。

 今日一日特に何をするでもなく、こうしてぼーっと過ごしていた。時間というのは不思議なもので、意識こそすれば長く永遠のように感じられるが、無意識にすごせばあっという間に過ぎていく。

 もう、今までのように純粋な気持ちで誰かと付き合っていくことはできない。くすんだ心で、歪んだ眼で人を見てしまう。それは同時に、自分を蝕んでいく。そしてもはや止め処ない負の感情の渦に囚われてしまった。

 やはり紛い物の存在ごときが成り代わって優希を救ってやることなんてできないのだ。半端な人生を歩んだ人間が、自分の人生すらまともに過ごせなかった俺が救うことなんて……。

 誰かと触れなければ、誰も傷つけずに済む。

 もともと孤独に生きてきた俺には到底理解できない考えだ。

 だが今なら、優希がそうやって周りを遠ざけようとしていた理由が解る。

 大切だからこそ。

 傷つくのは自分一人だけでいいと、自らの命を絶とうとした。

 俺も、優希の考えには賛成だ。

 まだ記憶を一部分しか取り戻していない今なら、もう誰も傷つけずに済む。綾乃には悪いが、これを機に忘れてもらおう。

 大きく、一歩を踏み出そうとした、その時。


「ユウナはどうなる――ッ!?」


 その一歩を、踏みとどまった。

「あたしのことはどう思ってくれたっていいよ。でも、ユウナはどうなるんだ……っ!! 唯一の家族であるユウキがいなくなったら……」

「わたしは、唯一の家族なんかじゃないよ。茜も七夕ちゃんもいる。明夫さんだって、きっとユウナを大切にしてくれる。わたし一人いなくなったところで」

 カラン。

 金属音が背後で鳴った直後、振り返った瞬間左の頬に、強烈な痛みが走った。

「…………っ」

 何が起こったのか理解するのに時間を要した。ただはっきりしているのは、どうしようもなくただひたすらに――痛いということ。

「痛いだろっ!? でも、ユウキなら知ってるはずだ! ぶつほうも痛いんだッッ!!」

 胸倉をつかまれた状態で視線を巡らすと、綾乃は綺麗な顔を汗と涙でぐしょぐしょに濡らし、ものすごい剣幕で叫んでいた。

「今までたくさん辛いことや悲しいことが、それこそ身を投げたくなるほどのことがあったんだと思う。私は実際に体験したわけじゃないし、私もユウキを傷つけてしまったから言えた義理じゃないのは分かってる……。けど!! 過去を失った今のユウキにとって、一番大切なものはなに!? 今までどんな困難にも立ち向かっていく強さをくれていたものはなにっ!? それすらも全部捨てて諦めて、置いて、残して……どこかへ行っちゃ……ダメだよ……ユウキぃ……」

 襟元をつかむ綾乃の力は次第に弱っていき、やがて俺の胸に顔を埋めながら、力なく崩れていった。

「でも……わたしは……きっともう前のように笑えないんだよ……? みんなは私のことをすごく美化して見ているけど、本当はみんなのことが怖くてしょうがないし、無意識のうちに黒い目で見ているんだよ。綾乃ちゃんとの記憶を思い出したから、分かるの。……このまま忘れている記憶を思い出していったら、わたしはきっと――周りに怯えて、憎みながら過ごすことになるんだよ」

 記憶の渦の中には、未だごく一部の映像しかみえない。いわば不完全な状態でこれほどまでに脆弱になってしまった心は、果たして耐えることができるのか。また、傷つけてしまうのではないか。

「だから、私はもう、みんなが思い描くような“ユウキ”にはなれないんだよ……」

 俺の言葉を聞いて、服をつまんでいた綾乃のこぶしに再び力が入るのが分かった。

「なに、それ? 誰がそんなことユウキに望んだ……? あたしが、ユウナが――ユウキにそうして欲しいって言った!? それじゃあまるで操り人形みたいじゃないか!!」

 涙と怒りで滲んだ綾乃の瞳に、俺が映っていた。

「ユウキさ、偽物の感情なんかいらないって言ったよね? じゃあ、私からも言わせてもらうよ……。ユウキの偽物なんかいらない!」

「にせもの……?」

「無理して繕う必要なんかないっ! 他人のために笑う必要なんかないっ!! 昔の優希と今の優希の決定的な違いはそこだよ! 私が知ってる優希は、ただ笑顔を振りまいていたわけじゃない。本当に自分の心を動かしていたから笑っていたんだ。……今の優希の笑顔はそうじゃない。見よう見真似でそれとなく装って作ってるだけ。そんなんで無理して明るくふるまわれたって、誰も嬉しくなんかない!!」

 綾乃の言葉に、今までなりを潜めていた感情が激しく揺り動かされる。

「じゃあどうすればいい……!? 私は本物じゃない。そんなこと、綾乃ちゃんに言われなくたって解ってるよ!! だってわたしは――偽物なんだから!!」

 心が、ざわついた。白状してしまった。自分は優希ではないのだと、言ってしまった。だがもう引き返せない。

「にせもの……?」

「そうだよ……。どう頑張ったって、わたしはもう――」

 俺は――


「二ノ宮優希には戻れないんだよ――ッッ!!」


 この体は借り物だ。この人生も、想い出も、記憶も、感情も、なにもかも。

 それでも想像を絶する優希の過去を垣間見て、俺の16年の人生では味わうことのなかった少女優希の苦しみを知って、まるで自分のことのように心が壊れそうになった。

 自分の人生ですら投げ出した俺は、今回もまた同じように自らの身を投げようとしていた。そんな俺が悲惨な運命に逢った少女のことを救うなど、とんだ英雄気取りにもほどがある。

「わたしはもう何もできないよ…………信じたくても、今では記憶が邪魔をするんだよ……。綾乃ちゃんのことだって、信じたいけど…………怖いんだよ。またあの痛みを味わうのは、怖いんだ……」

 いつの間にか身体が震えていた。過去と現在、優希と祐樹の記憶が入り乱れ、悲しみから涙があふれてくる。

「でも、でもね……それを手放そうとすると……逆にそれが寂しくてしょうがなくなるんだ。変だよね……わたし、おかしいんだよ……。わたしはもう……どうしたらいいのか分からないんだよ……」

 周りから蔑まれたり、人外の目で見られるのも怖い。だがそれ以上に怖いのは、そういう周りを恨み、憎み、悲しみ深い闇に堕ちていく自分自身だった。数少ない家族との大切な時間や想い、感情すら支配されてしまいそうで、失ってしまいそうで……。

 涙を零すのは何度目だろう。自分は本当に弱くて、脆い。

 そして涙を流すたびに欲が強くなっていく。

 今となっては、時間や物だけでは満足できなくなってしまった。

 涙は、わがままだ。

 独り、身を震わせている俺は。

 刹那、以前は感じることのなかった優しい温もりを――鼓動を感じた。自分ではない人の鼓動の音が身体を通して伝わってくる。

「たとえ記憶を失った後の優希が偽物だったとしても、優希は過去の優希を演じる必要はない……。そうやって過去の優希に縛られることは、他でもない優希が望んじゃいないはずだ……」

 頭の後ろで声がした。

「……どうしてそんなことが解るの」

 見上げると、綾乃が微笑んだ。

「ずっと、みてきたから」

 彼女はずっと優希を見ていた。俺では知り得ない優希の姿も、ずっと。

 その言葉に秘められた時間の長さは、相当なものだ。

「優希は、何も飾る必要なんかない。何も迷うことなんかない。優希は、自分らしく生きていいんだよ」

「自分、らしく……?」

「うん。そんな優希のことを、本物か偽物かなんて誰も疑ったりなんかしない。ううん、誰も疑うことなんてできないよ。二ノ宮優希も、御影優希も。どっちも、ユウキなんだから。私はそのどっちでも構わない。私は、優希にここにいてほしい! ううん、私だけじゃない、みんなそう思ってるよ……」

 優しいぬくもりが離れて初めて、聞こえていた鼓動が自分のものであることを悟った。あるいは、自分のものになった後なのか。

 存在を認められること。たった一言でいい。「あなたはここにいる」のだと、誰かに認めてほしかった。赦してほしかった。

 そう、願われることが――愛されることだと思っていた。

 しかし大塚祐樹は、終ぞ誰からも愛されることなくこの世を去った。

 だが、優希にはこんなにも愛してくれる人がいる。優希のために泣いたり、怒ったり、笑ったり、大切にしてくれるひとがいる。

 どんな自分でも、受け入れると言ってくれる人が傍にいる。取り繕わなくていい、ありのままでいいのだと。

 そんな優希を、俺は道連れにしようとしていた……。

「……あの時、ユウキが十分傷付いているのを知っていながら、親からまた何かされるのが怖くて、目の前のことから逃げ出した。……ユウキを裏切って、ごめん」

 綾乃は深く深く頭を下げた。

「優希のことを疑わなかったって言ったらうそになる」

 そこまで言うと、綾乃は勢いよく頭をあげた。

「でもあたしはこの学園に来るときいらない過去は捨ててきた! ユウキのことを裏切った自分も、親の言いなりだった自分も、全部――だから、私に残ってるものって言ったら、ユウキだけなんだ! この学園に来たのだって、ユウキがこの学校に入学するって聞いたから」

「……そうなの?」

「うん。約束したからさ……一緒の高校行こうって」

「やくそく……」

 心を覆う闇の中に、一筋の光が射した。

 それは陰鬱で陰惨な記憶の陰に隠れていた、温かい記憶だった。

 優希が辿ってきた道は、暗くて光の射さない道ばかりではない。それこそ、今まで関わってきた全ての人との明るい思い出だってある。

 優希の心の闇は、部分的に見れば悲惨な記憶かもしれない。だが長い目で見れば、その悲しい記憶はごく一部にしか過ぎないものだと解る。

 想い出が、三年間を共に過ごした記憶が鮮明に蘇ってきた。


「…………にのみや? ……ふーん。あたし、そういうの興味ないから……」

「本読むの好きだからに決まってるでしょ。それ以外ないじゃん」

「別に誰も助けてなんて言ってないじゃん。関係ないんだからほっといてよ」

「なんであたしのこと誘ったの? 一人のほうが楽に動けていいのに」

「いつまで手握ってるの? 放してくれない? あたしは一人でいたいのよ。あなたには関係ない」

「関係ないって言ってんでしょ! うっとうしいからこっちくんな!」

「みられ……た? あたしの裸みたでしょ……?」

「これは別にそんなんじゃないよ……」

「ほらみろ! あたしに構うからそーなるんだ!」

「あんたどうしてそんな目にあってまで笑っていられるの……? あたしにはわからないよ!!」

「ねえ……本当につらいときって……どうしたらいいのかな……二ノ宮さん」

「実は…………――これは、誰にも言わないでね。言ったのバレたら、親に何されるか分かんないから」

「ねえ、どうしたら二ノ宮さんみたいに可愛く笑えるの?」

「だいじょうぶ!? いたいでしょ……こんなにやられて、あいつらめ……ッ!」

「二ノ宮さんは強いなぁ。あたしには真似できないや」

「ユウキ、か。ユウキ……えへへ、なんかテレるね」

「ユウキちゃん! あそこのクレープ美味しそうだから帰りによってこーよ? ほら、あそこだよあそこ! えっと……」

「ほっぺついてるよ。とってあげる。……えへへっ。ユウキ美味しい、なんてね」

「ねえユウキ、一緒に帰ろう」

「やったねユウキ! あたしたちがやったんだーっ!」

「ユウキ成績良すぎっ。あたしも負けてらんないや」

「はいユウキ、これあげる」

「寒いから風邪ひくなよ、ユウキ」

「ユウキー!」

「ねえ、ユウキ。高校どうする? 良かったら、一緒に行こう!! あたし、ユウキと同じ高校がいい。ほんとっ!? じゃ、約束だ」


 それは俺にとっては知るはずもない、優希の記憶。

 様々な表情の綾乃が頭の中を駆け巡り、その記憶が偽りのない本物のものであると実感できる。なぜなら、こんなにも心が満たされているのだから。

 今更友達だとかどうこう気にするのがバカらしく思えるほど、綾乃との間に築き上げられていた時間が。一度は途切れ、失われていた時間が。

 ゆっくりと繋がっていった。

「そうか……そうだったんだ……」

 なんてことはない、優希の苦しみを和らげることができたのは、一人の少女のごく些細な一言だった。

「ユウキ。……これ」

 綾乃は何かを思い出したかのように扉の前まで走ると、床に転がっていたリレーのバトンを拾って俺に手渡した。

「確かに渡したよ。それは、今度はユウキからみんなに渡すものだ」

 そしてどこぞの熱血野郎が言いそうなセリフを真剣な顔で言ってのける。

「なにそれ……なんの青春ドラマ?」

「う、うるさいな……」

 綾乃は少しだけ顔を赤くしていたが、俺が耐えきれずに笑うと綾乃も笑った。

 


 泣き腫らした目元でそのまま皆の元へ帰るわけにもいかず、なんだかんだ寄り道して俺たちがグラウンドへ着くころには閉会式が終わっていた。ちょうど写真撮影をする時間だったらしく、皆は談笑しながら待っていた。

「おぉ、きたか二ノ宮」

 と一番に気付いた担任の安西教諭が声を上げると、

「やれやれ、やっと来ましたか。だから言ったでしょう? 僕の目に狂いは」

「ゆうきりぃぃぃぃぃん!! おっかえりー!!」

「うわぁっ!? ちょっ……ちょっと……!!」

 弾丸カワゴエが飛んできた。胸元に顔を埋め、もぞもぞと動かしてくるせいでかなりくすぐったい。もとい、恥ずかしい。

「おかえりなさい、ユウキちゃん」

 中田さんはしずしずと後ろからやってきて、

「ユウキ、待ちくたびれたゾ。わたしメンヘラになっちゃう」

「それ使い方おかしいよっ!? あと全然茉利奈それっぽくないんだけどっ!?」

「じゃあヤンデレになっちゃう」

「どこで覚えたその言葉ッッ!! ぶっちゃけそっちのがなりそうで怖いわっ!!」

 茉利奈のジョークなのか本気で言っているのか分からない言葉に抱き付いていたはずの川越さんが素早くツッコミを入れていた。……なんていうか、ブレないメンツだ。

「……ただいま。みんな」

 自分勝手な理由で迷惑をかけたにも関わらず、Aクラスの皆は暖かく迎え入れてくれた。どこへ行っていたかとか、どうしていなくなっていたのかとか、もっと追及されるかと思って身構えていたところもあったが、杞憂に終わりそうだ。

「よかった、戻ってきてくれて。昨日の今日だったから、少し心配だったんだ」

 と、遅れて赤城が歩み寄ってきた。彼女は彼女で負い目を感じていたのだろう。

「赤城さんは関係ないよっ! ただ、ちょっと自分のことで色々あって……」

 慰めようとあたふたしていると、男子に割り込まれた。

「オォーウ! マイスウィートエンジェルユウキ! アイミスユーアイワナキスユー」

「てめえはどっかいけ!!」

 綾乃の見事なドロップキックが男子を吹き飛ばした。

「アッハァウチ!? グフゥッ……スレンダーレッグ……レボリューション……ガクッ」

「おいおい、そこだけで楽しむのもいいが、早く写真撮ろうぜ」

「そうだそうだ!! 主人公はお前らじゃねえぞ!!」

「然り!! 然り!!」

 待ちかねたらしい男子諸君から怒号が飛び交う。

「むさくるしいが、たしかに男子の言う通りだ。ユウキ、行こう?」

 綾乃が手を伸ばしてきた。俺はその手を迷うことなくとった。

「うん」

 綾乃に手を引かれ、本来ならば身長の関係で後ろに並ぶはずの綾乃が並びを無視して俺の隣を陣取ると、綺麗に整っていたはずの列は見事にぐちゃぐちゃになっていった。

「ユウキりん。はいこれ持って」

 川越さんから渡されたのは、銀のトロフィーだった。

「え、わたし何もしてない……」

「いいからいいから」

 Aクラス皆の功績であり、一切の貢献ができていないというのに。

 少々いたたまれない気持ちはあったが、あれこれ考えるより先にカメラのシャッターが切られようとしていた。

「それではいきまーす! Aクラスのみなさんの順位はー?」

 カメラマンの掛け声を合図に、全員が身を乗り出しながらポーズを決めていた。二位という誉れ高い位置付けに満足し心から笑うもの、なかなか頑張ったんじゃないかと妥協しつつ自分たちの成果を喜ぶもの、納得の行かない悔しい結果ではあるがノリに負けて笑うものがいた。

 そんな中、俺だけは一人笑えずにいた。

 人の暖かさに触れ、俺の存在を認めてくれる他者の存在が嬉しくて。だけど同時に、寂しくて。

 泣きそうになるのを必死に堪えながら頑張って笑みを作ろうとして、ふと綾乃の言葉を思い出した。

 ――無理して笑う必要なんかない。

 それは昔の優希にできて、今の俺にできないこと。

 いくら真似をしようとしたところで、本物には勝てない。本物にはなれないのだ。

 心が本物にならなければ、本物ですら偽物になってしまうから。

 ――もう、自分に嘘はつけない。

 シャッターが切られる瞬間まではなんとか耐えたが、涙腺は躊躇なく崩壊した。

 俺はそれからわんわんと泣き続けた。

 溜め込んでいたものを洗い流すように、ずっと。

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