第20話 2月8日 古びた時計台


 ――でも、今日は守くんと直接会って話ができて良かった。やっと千紗の居場所が確認できて、ひと安心です


 そうして香川さんはおだやかな笑みを浮かべると、――そろそろお店を出ましょうか、と言って、テーブルの伝票を片手に取り、白いハンドバックを小脇に抱え立ちあがり、ゆっくりとした足取りでレジへ向かった。おれも席を立ち、彼女のあとに続いた。


 店の外に出ると、空はもう日が傾き始めていた。公園の冬枯れの芝生の上に落ちる陽光も、弱々しく寂しげなものになっている。喫茶店の隣の雑木林を見ると、そこはすでに深い闇によって全体が覆い尽くされていた。注意してあたりを観察すれば、確実に近づきつつある夜の気配が、そこかしこに感じられるのだった。


 ――コーラ、ごちそうさまでした


 おれは香川さんにぺこりと頭を下げてお礼を言った。


 ――ううん、それよりわたしの方がお礼を言わないと。長い時間、付き合わせてしまって。ごめんなさいね……


 喫茶店をあとにして、二人一緒に並んで芝生の上を歩み始めた。

 瞬間、風が公園の中を横切った。むきだしになったほほに、寒さを感じる。

 不意に――隣の香川さんが、足を止めた。

 彼女はこちらへ真っすぐに向き直ると、


 ――大学でゼミが一緒だったの。それからのつきあいなの、わたしと千紗……


と、その場にじっと立ち止まり、つぶやいたのだった。


 ――千紗ってね、表面上は、人当たりがいいから、大学では男女問わず人気があったわ……


 ほら、彼女、他人の前では本当の性格を隠して、いつも猫をかぶって、『いい人』を演じているでしょう? と、香川さんは微苦笑しながらおれに同意を求めてきた。

 それに対し、力強く、うなずき返すおれ。


 ――知人はたくさんいるけど、本当の意味での友人はほとんどいない……そんな彼女の、数少ない友達の一人なの、わたしは……


 視線を自身の足下あしもとに落としながら、香川さんは独り言のように言う。


 ――いまでも忘れない。大学のゼミで初めて彼女と出会った時の、あの目……。みんな、どうしてあの目に気がつかないんだろう。美人のとっておきの笑顔にだまされて、わからないのかな……。なんて言ったらいいんだろう……。そう、そうね、あれは、一瞬にして相手を『精査せいさ』する目。その人が、くだらない人間かどうか、つきあうに値する対象かどうか、彼女は微笑みながら、でも目だけは鋭く研ぎ澄まして、ほんのわずかの間、相手を一瞥いちべつして、判断するの……。――まだ、おぼえてる。本当に、恐い目だった……


 相変わらず香川さんは顔をうつむけ地面を見つめたままだった。


 また、風が公園内に吹いた。さっきよりも、いくぶん強い風。敷地の外周に植えられた木々の、葉の落ちた枯れ枝が震え、もの悲しい音があたりに響く。香川さんの長いスカートのすそが、しばらくの間、吹く風に小さく揺れ動いた。


 ――それでもなんとか、わたしは彼女の合格基準をクリアしたらしく、こうして今でも、友人をさせてもらってるんだけどね


 そう言って香川さんは頭を上げて、かたわらに立つおれの目を見つめてきた。

 彼女の顔には、寂しげな微笑があった。――それは、おれのような、人の心の動きに鈍感な男にでも、はっきりと分かるぐらい、寂しげな、笑みだった。


 香川さんは公園の中央にある、古びた時計台の文字盤を横目でちらりと眺めた。それから、視線を転じて、今度は自分の左手首の小さな腕時計にじっと見入った。

 芝生の上、彼女はそっと一歩足を踏み出した。並んで、おれも動き出す。


 ――千紗からね、しょっちゅう守くんの話を聞かされてたから、アパートの前で見た時、直感で、『あっ、この子が守くんだな』ってすぐわかったわ


 のんびり歩きながらしゃべる香川さん。彼女のその表情が、落ち着いた穏やかなものに戻っている事を、おれはそっと確認した。そうしてなぜか、ひどくほっとした気分になった。


 ――へえ……。千紗姉ちゃんがおれの話をねえ……。どうせ、悪口ばかりじゃないですか?


 おれは苦笑を返した。


 ――さあ、どうでしょう。ご想像におまかせします


 フフッと、香川さんは意味ありげにその端正な口元をゆるめた。彼女の眼鏡の下の瞳が、悪戯っぽく輝きながら、おれのを顔色の反応をさぐるように数瞬の間動くのがわかった。それから、香川さんは、例のどこか間延びした感じの口調で続けた。


 ――そうねえ……。最近千紗から聞かされた話のひとつだけど……守くんが大学の授業にちゃんと出ているか気になったので、有給を取って、平日アパートまでわざわざ確認に行ったら、案の定さぼって部屋でゴロゴロしてたって、ひどく怒っていたわよ


 げっ! 去年の十二月の例のヤツか。あの日、わざわざ会社休んでまで監視に来てたのか……。おれは、今さらながら千紗姉ちゃんという人物の恐ろしさを、再認識させられた。


 そうこうして並んで言葉を交わし歩いているうちに、やがて二人は公園中央の石造りの古風な時計台の前にたどり着いた。時計台の文字盤の針は、ちょうどぴったり五時の所を指し示していた。


 ――わたしは、駅に向かうから、こっちの出口から帰ります


 ――あっ、じゃあおれとは正反対の方向ですね


 おれと香川さんは、今、時計台の前に立ち、真っ正面から向き合う形になっていた。

 それでは、ここでお別れですね、と、香川さんは小さな声でつぶやく。

 はい、それでは、失礼します――そう言おうとおれが口を開きかけた時。


 ――ねえ、守くん……


と、香川さんが、そっとおれに向けてささやきかけてきた。


 ――千紗は今、どうしてる?


 それは優しい口調での物言いだった。

 だが、香川さんの目は笑っていなかった。

 有無を言わさぬ、まるで尋問でもするかのような厳しい雰囲気が、彼女の立ち姿からただよっていた。

 おれは、相手の態度の突然の変化に少なからず狼狽ろうばいした。

 そして、今、この場でなんと返答したらよいのか分からず、結果自身の沈黙の中に陥ってしまった。

 香川さんは、じっと返答を待ち続けていた。

 無言の時間が、流れる。


 二人の間の固まった空気にやがて耐えられなくなったおれは、重々しげに、口を開いた。


 ――毎日、酒を飲んでます


 おれはただ事実のみを、ぽつりと、ひとこと漏らした。


 ――お酒を?


 ――はい


 ――それは、たくさん?


 ――そうです


 ――昼間から?


 ――昼間からです


 ――他には?


 ――……それだけです


 それからまた、二人の間にしばし沈黙の時が続いた。

 今度先に口を開いたのは、香川さんの方だった。


 ――わたしは職業柄、人を疑うのがくせなの


 淡々とした口調だった。その表情には、動きがなかった。眼鏡のレンズごしの瞳にも、何か感情の起伏を現すようなゆらぎは見受けられなかった。

 ある種の冷徹さ――おれは眼前に立っている香川さんの態度から、なぜか不意にそんな印象を受けた。


 ――この仕事に就いて、何年かやっているうちに、わかるようになったの。――相手の目を見れば、その人が嘘をついてるかどうかが、ね


 香川さんは一人しゃべり続けた。


 ――目なのよ。そう、目。目にはその時の感情だけではなく、全体的な人間性そのもの――そういったものが、必ず出てくるの。……特にね、その人物の持つ卑しさとか、臆病さとかが……


 香川さんの無感情な瞳がおれの瞳を凝視して離さない。思わず、怖くなったおれは目をそらそうとした。だが、それはできなかった。まるで彼女の視線には、 おれの目の動きを封じる何かがあるかのようだった。


 ――それとね、仕事で今まで現場でいろんな体験をさせられたけど……そのせいかわたし、最近思うようになったの……。人間の魂というものは、生まれつきすでにその『質』が、もう最初から決定しているんじゃないかって……


 低く小さなささやき声。だがそこには、揺るぎない緊張感のようなものが込められていた。


 ――うん、それはもう、ほんの小さい時から決まってしまっているの……。もちろん、後天的な影響も少しはあるだろうけど、結局、魂の質――別の言葉でいいかえれば、その人間固有の、心の品格とでもいったもの――それは生まれた時にもはや決定されているんじゃないかって……。まあ、我ながらこの説には、少々オカルティックな部分があると思うけど、ね……


 その語末の部分のみ、ほんのわずかに声の響きが和らいで聞こえた。


 ――守くん……。今日、きみと初めて会って、その目を観察しているうちに、わかった……


 静かな、とても静かな声だった。


 ――きみは、人を裏切ったり、見捨てたりはできない……そういう種類の魂の人間だわ


 ふっと、香川さんの形の良い唇から小さな吐息が漏れる音がする。

 それから彼女は、目を閉じ、かすかにうつむき、口元を引き締めた。

 そして数秒が過ぎたのち、やがてまたゆっくりと顔を上げると、


 ――守くんみたいな子が千紗のそばにいてくれるなら、大丈夫、安心できる……と、おれの目をじっと見すえ続けながらつぶやいた……。


 ――千紗を、お願いね


 そのひとことが発せられたのと同時に、変化が――香川さんの表情に、変化が起こった。

 きつく閉じられていた唇がすうっと上品にゆるめられ、こわばっていたほほは自然な柔らかさを取り戻した。そして、いまだこちらを見つめ続けて離さない二つの瞳――そこに今、あの温厚で優しげな輝きが、再びまた宿り始めていた……。


 少々長話をし過ぎたことをはにかむような、照れ笑いともとれるほのかな笑みを浮かべ、少し伏し目がちになる香川さん。

 ようやく、おれの瞳は、彼女の真っ直ぐな視線から解放され自由になった。


 ……どうやらおれは、香川さんの合格基準をパスできたらしいな……


 今まで二人の間に横たわっていた張り詰めた雰囲気が消え去ったことに大きく安堵しながら、おれは心の中でひとりごちた。

 改めて視線を香川さんに向け、彼女の様子をうかがってみる。

 すると、偶然、同時に、お互いの目と目がかさなり合った。

 そこには、香川さんのにっこりとしたまなこが待ち受けていた。

 それは本当に、理由もなく心が温かくなる、ほんわかとした自然な笑みだった。


 香川さんが、言う。


 ――守くんと実際に会ってみたら、千紗の気持ちが、良くわかりました


 彼女の声は、どことなく楽しげに弾んでいるかのような、そんな響きを、おれの耳に与えた。


 ――千紗姉ちゃんの気持ちが分かったって、どういう意味ですか?


 おれはたずねる。


 ――えっとですね。わたし、三人姉妹の長女なんです。だから、妹以外に、守くんみたいな弟がいたら良かったのになあ、って……


 ――おれも千紗姉ちゃんみたいなおっかない姉貴分よりも、香川さんのような優しいお姉さんがいいです


 それを聞いた香川さんは、クスクスと無防備な表情をして笑い続けた。

 それからしばらくして、笑いがおさまると、


 ――今日、二人で会った事は、千紗には内緒にしてくださいね


と、穏やかな声で言った。なぜですか? と、おれが聞くと、


 ――ほら、千紗の性格だから。知らない所で自分の事を調べられてたりしたら、激怒するに決まってるでしょ? ……アパートで直接会わなかったのも、だからなの。理由は知らないけど、何かわけがあってマンションから守くんの部屋に移ったんでしょう? その転居先にいきなり押しかけたりしたら、もう大変。―― 『何の用、万里恵? 勝手に人の居場所探し出したりして。税金なら所得税も市民税もちゃんと納付してるわよ? わたしなんかより、もっと追いかけるべき脱税企業はあるでしょうに。国税の査察部は、いつからそんな暇な部署になったのかしら?』――なんていう風に、激昂寸前の千紗がにらみつけながら冷たく言い放つ姿が容易に目に浮かぶから……。そういうわけなのです、守くん


 と、香川さんは答えてくれた。


 おれは、それはもっともな判断だと思った。


 ――それにしても、千紗も無粋なことするなあ。守くんと彼女が一緒に暮らしている部屋に、転がり込むなんて


 ――だからそれは誤解ですよ!


 おれは声を大にしたが、相手はただにっこりとするだけで、全然耳を貸してくれなかった。 


 ……突然、香川さんは背筋を真っ直ぐに伸ばし、姿勢を正して、おれの顔をじっとのぞき込んできた。

 そうして、


 ――守くん、今日は本当にいろいろありがとうございました。千紗には、もうしばらくしてから、また携帯かメールで連絡してみます……。――それでは―― さようなら


と、折り目正しく別れの挨拶を口にした。


 ――……あ、はい。すみません、千紗姉ちゃんのことでいろいろ心配かけちゃって……。さようなら、香川さん。お仕事大変だと思いますが、がんばってください


 おれも挨拶を返した。――うん、がんばります、と、微笑みながらひとことそう言い残すと、香川さんはそっとおれに背中を向けて、公園の駅側出口の方へ向かって、歩み去っていった。


 時計台の前に立ちながら、おれはしばらくその後ろ姿を見送り続けた。香川さんは公園を出る時、こちら側を振り返った。おれがまだ立ち続けているのに彼女は気づくと、遠目にもはっきりと分かるぐらい勢いよく、手を大きく振って、さよならをしてくれた。そして、公園のフェンス沿いの木立の向こうに、その姿を消した。


 おれは、大きく息を吸い、それを吐き出した。

 白い吐息が、夕闇の近づく公園の大気の中に流れて、消えた。


 ――さて、おれも酒を買って帰るか。……アパートに戻ったら千紗姉ちゃん、なんでこんなに時間がかかったんだって、えらい文句言うだろうなあ


 憂鬱な想いを抱きながら、おれは、反対側の公園の出口の方へと、背中を回転させた。


 すると、そこには。


 いつのまに現れたのか、ほんのすぐ目の前に、ソーニャが立っていた。


 「同志マモル……」


 ソーニャが、抑揚のとぼしい低い声でささやいた。

 こちらを見つめる彼女のその青い瞳に、ひどく冷たい、刺すような鋭い光が宿っていることに、おれは気づいた……。

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