第21話 2月8日 軍用犬


「彼女がもし反革命分子だったら……同志マモル、あなたの身に何が起きていたかわからないんですよ!」


「だから! 何度も言うけど、あの人は千紗姉ちゃんの友達で、別に危なくなんてないって!」


「それは結果論です! 本当にチサさんの友人かどうか、アパートの前の時点ではわからなかったじゃないですか!」


「ああ、もう! ソーニャはおおげさなんだよ! はっきり言うけどね、今のこの日本でおれの命を狙っているやつなんか一人もいないよ!」


「ニェ! ニェット!! あなたはまだ理解していません! 同志スターリンからの密書の重要性についても、その受取人である事の危険性についても、そしてそして、この国が共産主義陣営に敵対する反動勢力の巣窟であるということも!!」


「そんなのソーニャの単なる思いこみにすぎないって言ってるじゃないか! いいかげん頼むから人の話を聞いてよ!」


 堂々巡りの議論だった。

 いや、議論なんていう論理的なものじゃなく、ただの感情のぶつけあいだった。

 おれとソーニャは、夕闇に包まれた公園の、時計台の前で、さっきから言い争いを続けていた。

 熱くなってはいけない、もっと冷静に対処しろ、と、心の隅ではわかっているのだが、感情的にまくしたててくるソーニャを相手にしてたらこっちもだんだん感情的になってしまった。


「私もおそばについていくと言ったのに、同志、あなたは彼女と二人だけで! 自重してください!」


「だって、あっちが『二人だけで話がしたい』って言ったんだから、仕方ないじゃないか! 邪魔がいちゃ悪いじゃないか!」


 瞬間、ソーニャの興奮した目がキッと細められた。


 彼女は、はっきりとおれをにらみつけてきた。


「……ずっと心配してたんですよ?……同志の身に、もし万が一のことが起こったら、と」


 急に彼女の声が変化した。感情のない、冷たい棒読み口調になった。


「ソーニャは任務とやらに忠実すぎるよ! いくらなんでも、喫茶店まで尾行してくることはないだろ! ……なに? おれと香川さんが話をしている間も、ずっと見張っていたの?」


「……ダー。あなたたち二人の会話が終わるまで、木の陰から監視していました……」


「へえ。じゃあ、もしおれに何か起きたら、助けてくれるつもりだったんだ?」


「……ダー。いつでも彼女をトカレフで射撃できる体勢で、待機していました……」


「勘弁してくれよ……」


 おれは吐き捨てるようにして言った。

 ソーニャが不意に目線を横に振って、おれではなく脇の方向をにらみつけた。

 二人のそばの芝生の上を、子犬を連れた中年女性がちょうど通り過ぎて行く所だった。

 女性は、子犬の首輪のリードを持って、公園の駅側出口、街灯が照らす通りの方へ歩み去って行った。

 おれたち二人から充分距離がはなれるまで、その後ろ姿をじっと見つめるソーニャ。

 やがて彼女はまたこちらに向き直り、おれの顔を真っ正面からにらみつけながら、言った。


「ええ……同志マモル……。あなたにご迷惑をおかけしているのは、わかっています。でも……あと約三週間……ほんの三週間です、同志。……それは短い時間です。すぐに過ぎ去ります。ですから、お願いします。わたしを、あなたのそばにいさせてください。この密書をあなたが開封し、目を通すその日まで」


 そうして彼女は、自分の胸元――密書が隠されているその場所を、そっと右手で押さえた。


 言葉づかいこそ落ち着いてきたが、その青い瞳で相手をにらみ続ける事はやめないロシア人の少女――。

 今、そんな彼女の態度を前にして、おれはどういう表情を作ればいいのか、正直わからなくなった。

 まだおさまらない感情の高ぶりに従って、おれも向こうをにらみ返せばいいのか。それとも、ここでひとこと、こちらから、「ごめん。感情的になりすぎた」 と、謝罪の言葉を述べればいいのか?

 おれは目の前の少女の顔から視線をそらすと、大きなため息を一つついた。


 その時だった。

 おれとソーニャの間に、白い物が転がってきた。

 それはゴム製の野球ボールだった。ボールは、向かい合っている二人の真ん中をコロコロと進み、石造りの時計台の根本、台座の部分に当たって跳ね返り、 ソーニャのブーツにぶつかってそこで回転を止めた。

 ソーニャがうつむいて、両足の間のボールに目をやる。

 するとそれに合わせて、突然大きな体格の犬が二人のそばに姿を現したかと思うと、その犬は音もなく彼女の足下あしもとに駆け寄って来た。

 首輪をつけた毛並みの良い大型犬――。ジャーマンシェパードだった。

 シェパードは、地面に転がっているボールに勢いよく噛みつき、それを自身の鋭い歯の間にしっかりとくわえこむと、鼻先をあげて、ソーニャの顔を見た。そして、彼女に向かって、何か嬉しそうに、しっぽを振った。 


 ――おいで、シュタイフ!


 どこか遠くの闇の中から、男の叫ぶ声が聞こえた。

 軍用犬か警察犬のような、鍛えられた優美なからだを持ったそのシェパードは、片耳をぴくりと震わせ、声がした方に頭を向けた。

 それから、ボールをくわえたままもう一度ソーニャの顔を見上げ、しっぽをぱたぱたと振ると、シェパードは人間の少女の足下そっかから離れ、芝生を蹴って駆け出し、闇の奥へと姿を消した。


 それはほんのわずかの間の出来事だった。

 おれは、犬が走り去っていった方向の暗闇から視線を戻し、ソーニャを見た。


 ソーニャは、青ざめた顔をしてそこに立ちつくしていた。

 彼女の顔からは完全に血の気けが失われ、ただでさえ白いほほが、さらに不気味なほど青白くなり、それは夕闇の中にぼんやりと浮かんで見えた。

 何かひどいショックを受けたかのように、呆然とした表情のソーニャ。

 いきなり、彼女の身体全体ががたがたと震えだした。


「――ソーニャ?」


 彼女の様子が尋常では無いことにおれは気がついた。

 そして、震え続けるソーニャに歩み寄ろうとした瞬間。

 ソーニャの身体がひざから崩れ落ち、その長身がおれの胸の中へと倒れ込んできた。


「ソーニャ!」


 全身から力が抜けだらりとなった彼女を、おれはあわてて両腕で抱きかかえた。


「ソーニャ!」 


 虚脱状態になっている彼女をしっかりと抱きしめながら、焦点が定かではないうつろな瞳をのぞき込む。


「どうしたのソーニャ!」


 ソーニャは、何かうわごとのように、かすかな声で繰り返しつぶやき続けていた。それはロシア語らしかった。だから、おれには彼女の口にする言葉の意味がわからなかった。


 おれは彼女の身体を抱きかかえながら、何度もその名前を呼んだ。だが、相手は意味不明の言葉をただ唇から漏らし続けるだけだった。



 二人のいる公園は、今はもうすでに完全な夜の闇に包み込まれていた。

 夜の大気はひどく寒かった。

 時間が過ぎれば、あたりはさらに冷え込むだろう。

 早くソーニャを連れてアパートへ帰らないといけない――おれはそう思った……。

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