第19話 2月8日 国民年金保険料


 喫茶店の奥の、薄暗い壁の方に目線を固定して、香川さんはそのまましばらくの間沈黙を守っていた。

 ここからは離れた位置のテーブルで、今まで一人静かに文庫本を読み続けていた初老の男性が、席を立ち、レジの会計へと向かった。ありがとうございましたという店員の声を背に受けながらその男性は店を出て、公園の芝生の上をゆっくりと歩み去っていった。


 今、店内にいる客は、おれと香川さんの二人だけになってしまった。 


「そういえば、香川さん」


 コーラの最後の一滴をストローで飲み干して、おれは言った。


「あ、はい。なんですか、守くん?」


 少し斜めに崩れていた上半身の姿勢を真っ直ぐに正すと、落ち着いた瞳でおれの顔をじっとのぞきこんでくる香川さん。


「なんで香川さん、うちのアパートの住所、知ってたんですか? 千紗姉ちゃんから聞いてたんですか?」


「ううん、違いますよ……。いとこの守くんが、この街に住んでることは、彼女から話で聞いて知ってたけど、細かい住所までは……」


「じゃあ、どうやって?」


「……守くん、コーラのおかわりは?」


 両ひじをテーブルにつき、組みあわせた手の上に、そのほっそりとしたあごをちょこんと載せると、柔らかな声で香川さんはたずねてきた。


「いえ、結構です」


「そうですか。わたしは、おかわりを頼みますね」


 すみません、と香川さんがカウンターの方に向かって小さく手を挙げた。今まで手持ちぶさたそうにしていた店員が、足早に近づいてきて、オーダーを確認し、そしてまたカウンターへと戻っていった。


「庁内の、データベース」


 ぼそっと、香川さんがつぶやいた。


「えっ?」


「ほとんど一般には知られてないけどね……KSKシステム――国税総合管理システムというのがあって、国税庁のメインフレームを中心にし、全国の各国税局とその管轄下の地方税務署は、ネットで繋がってて、『納税者情報』を共有してるの……。個人、法人、両方のね……。だから、職場の端末を叩いたら、守くんの住所も一発で出てきました。――本当は、こんな目的で使っちゃいけないんだけどね。もし個人的な目的のために……私用で使ったのがバレたら、懲戒免職どころか刑事告訴ぐらいされちゃうような……」


 聞いてて、いろんな意味で恐ろしくなる話を、彼女は、両目をかすかに細めながら、再び組みなおした両手にあごを載せ自然体の口調で言葉を続けた。


「今日、ちょうど職務でこの街の近くに来たの。それで、直接、守くんのアパートをたずねることにしたわけです。――千紗のこと、何か知らないかと思って」


 コーヒーのおかわりが運ばれてきた。香川さんは、角砂糖を一個だけ入れ静かにかき混ぜると、カップを手に取り、その熱い液体をそっと口に含んだ。


「――そうそう、データを見たら、守くんはちゃんと国民年金保険料を納めていましたね。良いことです。最近は、『どうせ破綻して、老後に国から年金なんか支給されないだろう』とか言って、国民年金保険料を納付しない大学生が増えているから。 感心感心」


 模擬試験で良い点数を取った教え子をほめる時の、女子大生の家庭教師のお姉さんみたいな朗らかな顔つきをして、香川さんは言う。


 ――えっ、まじ!? ……大学生が国民年金納めてるか納めてないかって、国税庁に情報にぎられてるの!? ……香川さんの話、本当の話なんだろうか……。あとおれに関する情報って、どこまで国税庁に把握されてるんだろう? その情報が、外に漏れたりしないのか?


と、素朴な不安を抱く。


「大丈夫よ」


 するとおれの心の中を見抜いたかのように、いきなり香川さんは口を開いた。


「国税庁のシステムは、他の官公庁のネットとかなんかとは比べものにならないほどセキュリティがしっかりしてるから。情報が漏洩ろうえいしたりすることは、まずないわ。たとえば、防衛省みたいに防衛装備品調達の機密データが外国に何度も流出したりするような事件は、うちでは起こらないから。国税庁が外部からの不正アクセスでセキュリティを突破された例は一度もないの」


 ――でもまあ、それも今のところの話だけどね、と、まるで他人事のような口調で彼女は最後に付け加えて言った。


 ……まあいいか、別にアパートの住所がバレても困るような悪いことはしてないし、それに、脱税で捕まるような大金の収入そのものが無い、仕送り生活だし。……そんなことを思いながら、目の前でコーヒーを口にしている香川さんの姿をあらためて眺め直した時、ふと、おれは一つのことに気がついた。


「香川さん……仕事で近くまで来たんですよね? でも、そのかっこう……」


 働く社会人の女性の服装――千紗姉ちゃんが会社を辞める日まで着ていた、ビジネススーツ姿みたいな感じの服――とは、おおよそかけ離れた、香川さんのカーディガンとロングスカートという、どう見ても私服風のコーディネートに対して、おれは違和感を覚えたのだった。


「ああ、これですか」


 相変わらず、のほほんとマイペースな口調の香川さん。彼女はコーヒーを一口飲み、カップを受け皿に戻すと、両手をスカートのひざの上に置いてしゃべり始めた。


「職務上、あんまり詳しいことは説明できないけど――今日は、一部上場の某医療機器メーカーの脱税容疑について、内偵調査してたの。……あっ、ここから先、少し話が長くなるけどいいかな? ――いい? ごめんね。――えっと、そのメーカーのね、会長の、お妾おめかけさん……全然関係ないけど、お妾さんって表現、愛人とか二号なんていう表現に比べて、何かこう趣きおもむきみたいなものが感じられてちょっといいと思わない?」


 本当に全然関係ないこと言い出すなこの人、と思ったが、話をさえぎるのも何だから、おれはとりあえずコクコクとうなずいた。


「そのお妾さん、私と同じぐらいの年齢――ひょっとしたら、年下かもしれない。彼女が会長の直接の指示で脱税工作の一員として加わっているらしいと、うちの班で情報をつかんでね。それで、わたしが彼女の行動を追跡し監視してたわけ。ほら、男の人だと、女が回る場所に入れなかったり、目立ったりするじゃない? だから同年代の女のわたしにその仕事が回ってきたわけなの。でね、彼女にわたしが国税関係者だとばれないように、地味な私服を着て、今日は相手の尾行をしてたというわけ」


「はあ……なんか、大変そうなお仕事ですね……」


 会話上、何と返答したら良いかうまく判断できなかったおれは、とりあえず、あたりさわりのない言葉を返した。


「まあ、でも、今日ははそれなりの成果があったから。――午前中、彼女は永田町にあるドイチェバンク――ドイツ銀行日本支店を訪問したの。――シティバンクとかと違って、ドイチェバンクは、普通の日本人相手の個人口座開設業務なんてやってないから。金持ち相手の資産運用か、法人企業向けのビジネスしかしてないし。普通の二十代の女性なんかにはそもそも縁のない銀行なの、あそこは。だから彼女が銀行を訪れたのを不審に思ったわ、最初。――でも、そこで思い出したの。その医療機器メーカー、ドイツにある同業の中堅医療機器メーカーを買収して、それをEU市場への足がかりにしてた事を。それで繋がったわけ。会長――お妾さん――ドイチェバンクというラインが。これで、確信できたわ。ああ、彼女、会社の脱税工作になんらかの関係を持ってるな、って」


 香川さんは、テーブルのコーヒーが冷めかけていくのも気にかけず、自身の話に熱中して、口を動かし続けていた。その口調から、先ほどまでのおっとりとした雰囲気は完全に失われていた。眼鏡の奥の目つきが、気がつけばいつのまにかキツイものに変貌していた。なんか、ちょっと恐い。


「――それからあとも、収穫があった。彼女、銀行を一時間ほどで出てくると、外堀通りからタクシーを拾って移動したの。わたしも慌てて、別のタクシーを捕まえて、『運転手さん、前のタクシーを追ってください!』ってお願いして。……なにかちょっと、テレビに出てくる探偵ドラマみたいよね? ……それから新宿三丁目でタクシーを降りた彼女は、近所のデパートに入ってブティックや宝石店を冷やかしたのちに、イタリアンレストランに入ってランチを注文。食後に、携帯を取り出し、イギリス英語で、国際電話をかけ始めたの。少し離れた席を確保できたわたしは、耳をすませて彼女の会話を聞き取ろうとしたけど、昼時で店内が混んでいたから、断片的な単語しか耳に拾えなかった。それでも、バージン・アイランド、オフショア・バンク、コーポレート・インバージョンなんていう、海外脱税お定まりのタームがいくつも出てきて、思わず笑っちゃいそうになっちゃったわ。おそらく、香港あたりのそれ専門の業者と相談してたんでしょうね。まさか、店の中に国税局の人間がいるとも気がつかずに。―― それでね、そのあと彼女は迎えに来た黒塗りのセダン――たぶん、会長が回した社用車に乗って、どこかへ行ってしまったの……。とりあえず、十分な状況証拠を得られたから、これでよし、今日のわたしの任務は終了――というわけ。あとは局に戻って、書類を作って、彼女周辺の内偵を強化するように上司に報告するだけ」


 一気に話をまくしたてられ圧倒されたおれは、ぽかんと――他人から見たら、馬鹿みたいに呆けた顔をしていたと思う。

 香川さんのしゃべった内容については正直よく分からなかったが、ともかく、その仕事がハードで高度な能力を要求されるものだという事だけは理解できた。 と同時に、この話に入る最初、『あんまり詳しいことは説明できないけど』と言ってたのに、十分詳しく職務内容をしゃべっちゃってるじゃないですか、香川さん、と、おれは心の中で一人つっこんだのだった。


「あれ?」


 目の前の香川さんが、不意に、つぶやいた。


「なんでかな。いつのまにかもう、コーヒーが冷めてる」


 そこには、カップを右手に持ちながら、不思議そうに首をちょこんとひねる香川さんの姿があった。

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