第10話 2月6日 自己都合退職


 そうして朝起きてみれば、この二日酔い。


「あの、同志ホンダもチサさんも、朝になっても寝ていらっしゃったので、私がその間、お二人の朝食の用意でもしようかと考えたのですが――よその家の台所を勝手にあさるのは失礼だと思って、何の準備もしてません。すみません……」


と、ソーニャ。

 

 頭痛に耐えながら視線を横に振ると、そこにはおれがいつも使っている万年床があり、その中にもぐりこんでぐっすり寝ている千紗姉ちゃんの姿があった。


 ――千紗姉ちゃん、結局自分のマンションに帰らないで、泊り込んでいったのか……。


「あ、あと、昨夜寝る際、お布団、お部屋の物を貸していただきました。私はこたつで結構だったのですが、チサさんが、押し入れの中の布団を使うようにと、自分は同志ホンダの布団で寝るからと……。大丈夫ですか、同志ホンダ? こたつで眠って体調を崩したりはしていませんか? 本当に申し訳ないです。泊めて頂いた上に、布団まで勝手に使わせてもらって。本当だったら、私がこたつで寝るべきなのに」


 そういえば、予備の布団が押入れに一組あったなあと、酔いの抜けないぼんやりとした頭で思い出す。その布団は、おれが東京で一人暮らしをすることが決まった際、実家の父親が、「何か会社の出張で上京して泊まる機会があるかもしれないから」という理由で準備したものだった。だが、実際にその布団が使われるようなことは今までなかったのだが。


 ズキズキするこめかみを押さえながらゆっくりと立ち上がり、台所へ行くと、おれは棚から頭痛薬を取り出し、二錠、コップに注いだ水道水で胃に流し込む。ふぅと、ため息を漏らす。薬がすぐに効くわけはないのだが、精神的に、少し楽になったようなが気がする。

 こたつに戻って再び腰を下ろすと、かたわらには、ソーニャが所在無さげにぼんやりと立っている。それを見ておれは、二日酔いの弱々しい声で、


 「ソーニャさんもこたつに入ったら」


と呼びかける。「あ、はい、わかりました、同志ホンダ」そう彼女は答えて、こたつの向かい側の席に腰を下ろした。

 

 ――同志ホンダ……


 『同志』などという仰々しい言葉で呼ばれることに抵抗を感じたおれは、ソーニャに、


「ソーニャさん、その『同志』っていう呼び方、できたらやめてくれないかな。普通に本田って呼んで欲しいんだけど」


と頼む。すると、彼女は考え込むように右手を口元に当てて、しばらくうつむいたのち、やがて顔を上げて、


「では、これからはホンダさんとお呼びすればいいでしょうか」


と、うかがうように視線をこちらに向けてくる。


「そうしてください」


「わかりました……。あの、では、今度は私からひとつお願いがあるのですが」


「なんですか」


「私の名前を呼ぶ時、さんづけではなく、呼び捨てで結構ですので、ホンダさんもそうしてください」


 青い瞳に柔らかい光を浮かべながら、そっとおれの目を覗き込んでくるソーニャ。


「なら、おれの方もさんづけじゃなくていいですよ」


「いえ、そういうわけにはいきません、同志ホンダ。……あっ、失礼しました、ホンダさん」


「……本田っていう名字で呼ばれるのもなんか肩がこるな。下の名前の、守でいいです」


「はい……マモルさん」


 ソーニャは自身の発音を確かめるように、ゆっくりと、おれの名前を口にした。


 頭痛薬が効いてきたのか、少し頭が楽になったような気がする。吐き気もやわらいできたような……。ともかく、一刻も早く二日酔いがさめることを願った。

 おれはいつもの朝の習慣で、ニュース番組を見ようと、こたつの上のチャンネルに手を伸ばし、テレビの電源を入れた。テレビに民放のニュースが映った。画面の左上の時刻は9時40分。どこか地方都市の銀行で起きた強盗事件について、リポーターが現場から報道している姿があった。ただなんとなく、ぼけっとその映像を眺めるおれ。

 

 テレビをつけてしばらくしてから、ソーニャが不意に声を出した。


「マモルさん、これは……ひょっとして、テレビジョンという物ですか?」


 ソーニャの問いを受けたおれは、彼女の方に首を向けた。テレビの画面に食い入るように見入っているソーニャ。彼女の横顔には、驚きの表情がありありと浮かんでおり、その目は大きく見開かれていた。


「あの……まさか……テレビ、見たことないの?」


 おれはたずねる。


「はい、生まれて初めてです……。すごい、このテレビジョン、モノクロではなく、天然色がついているんですね……。本当に、びっくりしました。――マモルさん、このテレビジョン、購入するには大変高価な物ではなかったですか。私の国、ソヴィエトでは、テレビジョンがある家庭などほとんどありませんから……」


 テレビを見たことない? 本当かよ――それがソーニャの言葉を聞いてのおれの率直な感想だった。相変わらず、彼女が真実をしゃべっているのかどうか判断がつかない。


「日本では、テレビなんてどこの家にもあるようなもんだし、ソーニャさん――ソーニャの国にだって、たいていの家にテレビがあると思うよ。そう、ロシアは市場経済になってからは、ソ連時代より豊かになってるから、テレビの無い家なんて、まず無いんじゃないかな」


「市場経済?」


 ソーニャがその言葉に対して、ちょこんと小首をかしげた。


「あの……ソーニャは、今の時代が二十一世紀だってこと、もちろん理解しているよね?……」


「はい、それはわかっています。私がソヴィエトを離れたのは1953年でしたが、今は約六十年後の二十一世紀だということは十分承知しています」


「二十一世紀では、世界中、どこの国にもテレビはあるんだよ」


「ああ、そうなのですか。それだけ、テレビジョンが普及して、一般化したわけなのですね」


 ソーニャは一人うなずきながら、


「私が日本にやって来るまでの六十年近くの間に、大きく世界は変化してしまったのですね……」


と、大きく嘆息するように声をもらした。心持ち、陰のある、複雑そうな表情をして。


「それとね、ソ連の話だけど、二十一世紀にはソ連は無くなってて、今はロシアになっているんだよ、それもわかる? ソ連が崩壊したことについて」


 突然、おれとソーニャの間に沈黙が生じた。それは、しばらくの間続いた。


「ソ連が、崩壊――?」


 ようやくソーニャが口を開いた。


「――同志マモル。何をおっしゃっているのですか。偉大なる我が祖国ソヴィエト――ソヴィエト社会主義共和国連邦は、恒久的な、不滅の、永遠の存在です。崩壊ですって? そんな事、あるわけがありません。なぜそのような、誤った認識にもとづいた反革命的発言をされるのですか。同志マモル」


 彼女の顔は一瞬にして険しいものに変化していた。真剣な、少し怖いぐらいの鋭い目つきをして、こちらを見つめてくるソーニャ。ソ連の話――ソ連が滅んで今は存在しないという話になると、彼女の態度はとたんに強硬なものに豹変することにおれは気づいた。今、少々興奮気味の彼女の青い双眸には、演技などとは思えない程、真摯かつ熱っぽい光が宿っていて、おれに向けられてくる。彼女は何が何でもソ連という国家が、21世紀の今でも存続しているものと確信しているらしい。


 これ以上彼女に何を言っても、話が噛み合わないだろうことを悟ったおれは、ソ連云々についてさらに言及することをやめにした。

 彼女が思い込みたいように思わせておけばいい。ソ連がどうのなんて、おれの知ったこっちゃ無い。くだらない事で言い合って神経を消耗させたくはなかった。

 なんだか、二日酔いの頭痛が再びひどくなってきたような気がしてきた。こめかみをそっと右手でさする。


 その時だった。おれは大変なことに気づいた。思わず、あっと声を出しそうになる


 ――千紗姉ちゃん、会社に行く時間とっくに過ぎてるじゃないか!


 あわてておれは布団の中で丸まってる千紗姉ちゃんに声をかける。


「千紗姉ちゃん、会社! 会社行かなきゃ! もう、10時前だよ!」


 返事は無い。おれは布団に近寄って、千紗姉ちゃんの身体を揺すって再度声をかけた。


「出社時間、とっくに過ぎてるよ! ねえ!」


 うーんという、けだるい声が布団の中から漏れてくる。おれはさらに呼びかけ続けた。


「遅刻だって、遅刻! 会社遅刻だよ!」


 すると、もぞもぞと千紗姉ちゃんの身体が動き、布団から頭だけが出てきた。

 室内に差し込む朝日にまぶしそうに目を細めながら、ぶつぶつと声にならない声を出している千紗姉ちゃん。


「やばいよ、どうすんの」


 おれが心配して言うと、当の本人は、寝ぼけたままの顔で、ぼんやりとしている。


「ほんと、会社いいの?」

 

「会社?」


 だるそうに千紗姉ちゃんがつぶやく。布団の上に上半身だけ起き上がり、空中のあらぬ方向に視線を向けてじっとしている。


「――ああ。会社は、大丈夫」


「え? 今日、会社休んでもいいの?」


「……まあ、ね」


「え? 有給でも取ってたの?」


「違うわよ」


「じゃあ、会社の創立記念日かなんか?」


「ち・が・う。ふぁあ、眠い」


「じゃあなんで」


「いちいちうるさいわね」


 そこまで言うと、千紗姉ちゃんはくるりと背中を向けて、再び横になってしまった。そうして、身体を布団の中にもぐりこませながら、ぼそりとつぶやいた。


「会社なら、昨日、辞めたから」


 突然のその言葉に、おれは何も言えず、その場に身を固めてしまった。


「まだ寝たりない。もうちょっと寝る」


 そう言うと千紗姉ちゃんは頭まで布団をかぶって、二度寝の体勢に入ってしまった。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る