第11話 2月6日 市街地での発砲


 朝の十時。

 通学・通勤の時間がとっくに過ぎてしまった街の様子は静かなものだった。

 住宅街の通りには人の姿は見当たらない。走り過ぎる車もない。地面には昨日の夜降った雪がうっすらと積もり、朝日を浴びて輝いている。

 閑寂な、周囲の風景。

 今、おれとソーニャは足元の雪を踏めしめながら、アパートのそばの裏通りを一緒に並んで歩いていた。二人は今、近所のスーパーに食料の買出しに向かっているところだった。


「トウキョウの町は静かですね。もっとにぎやかな所かと思っていたのですが。それと、とても清潔な感じがします。日本人はきれい好きだと聞いていましたが、本当なんですね」


 あたりの風景を物珍しそうにきょろきょろと眺めながら、ソーニャは言う。


「東京といっても、この辺は住宅地で、大通りもないから、静かなんだよ」


 はおったジャンパーのポケットに両手をつっこんだまま、おれは答える。口からもれる息が白い。今日も気温は低いままのようだ。今は太陽が出ているが、日が暮れたらまた雪が降り出すのだろうか。


「こうして雪の降り積もった街の風景の中にいると、トウキョウではなくまるで冬のモスクワにいるような錯覚を覚えます。……おかしいですね、私は今外国にやって来ているのに」


 そう言って口元をそっと緩めるソーニャ。

 彼女は、昨日おれの部屋のドアをノックした時と同じ格好――ベージュ色のロングコートを着て、足には黒のブーツを履いていた。それは全体的に地味な印象を与える格好だった。だが、こうして改めて間近から彼女を見ると、その、ある意味「やぼったい」ともいえる服装などまったく問題にならないくらい華やかな姿――美しく若々しい一人の少女の姿が、目に映るのだった。


 彼女は冬の柔らかな陽の下に、肩までの金髪を輝かせている。整った白皙はくせきの顔に並ぶ二つの青い瞳は、その性格の温厚さを現す優しげな雰囲気をたたえ、同時にまた、堅固な意志の存在を示すかのような、奥行きの深い眼光をそこに宿らせていた。ほっそりとした身体つきで、背は高かった。目線がおれと同じぐらいの位置だから、彼女の身長は百七十センチ近くには達しているだろう。


「その、スーパーという所では、たくさん食料品を売っているのですか?」


 くるりと身体の向きを変えてまっすぐにこちらを見つめながら、ソーニャが聞いてきた。

 おれは、うんとうなずくと、近所のスーパーへ続く道の上の雪を踏みしめ、歩を進めた。

 おれの部屋の冷蔵庫には、食料がまったくなかった。もっぱら外食派のおれは、自炊などしないからだった。大学が春休みの今、いつもなら昼頃起床して、近くの牛丼屋にでも朝食兼昼食のメシを食いに行くのだが、今日は違った。千紗姉ちゃんと、ソーニャの二人がいる。部屋でまともな食事をとるには、スーパーに食料を買い出しにいかなければならなかった。(ちなみに、コンビニを利用しなかったのは、スーパーの方が断然食材の単価が安いからだ。アルバイトをしないで、田舎からの仕送りだけで暮らしているおれには、そのような経済的事情もあった)

 おれがスーパーへ行こうとすると、ソーニャは当然のように一緒に付いてきた。


 ――マモルさんの身に、万が一のことがあったらいけません


 きっぱりと、彼女はそう言った。

 おおげさな、おれはそう思った。


 裏通りの地面に降り積もった雪には、ほとんど人の足跡がなかった。おれとソーニャはその雪をギュッと踏みしめ、ま新しい足跡を作りながら進んでいった。


 ――しかし、千紗姉ちゃん、なんでいきなり会社辞めたりしたんだろう……


 いまだアパートの布団の中で寝たままでいるだろう千紗姉ちゃんの姿を思い浮かべながら、おれは頭の中でその疑問を発した。


 ――昨日の夜、おれの部屋に来る前にベロンベロンに酔ってたのは、会社を辞めたことと関係があるんだろうか


 ぼんやりとそんなことを考えながら人通りのない道を歩いていた。

 と、突然。

 おれのいる細い裏通りに、横道から、四輪駆動のSUV車がいきなり突っ込んできた。

 車はおれの目の前すぐそばで、乱暴に急ハンドルを切り、路上の雪をタイヤの回転で吹き飛ばしながら通りの奥の方へと走り去っていった。

 それはほとんど交通事故寸前だった。車にはねられそうになったおれは、身体のバランスを崩し、通りの脇に積もった雪の上に尻餅をついてしまった。


 ――危ねえなあ!


 走り去る四駆の後部を見ながら心の中で叫ぶ。心臓がドキドキしている。本当に、もう少しでぶつかる所だった。


 ――そうだ、ソーニャは大丈夫か?


 おれは彼女のことを思い出して、かたわらに視線を走らせた。

 するとそこには。

 拳銃――トカレフをいつのまにか両手に構えて、今は遠くに離れている車両に向けて銃口の狙いを定めているソーニャの姿があった。

 おれがやめろと叫ぶ前に彼女は引き金を引いた。パン! という乾いた銃声が閑静な住宅街の空気を引き裂いた。

 続けて、さらに一発。発砲が続いた。


「ソーニャ撃つな!」


 おれは大声を張り上げた。と同時に、ガシャンという大音響。拳銃を構えて射撃姿勢でいるままのソーニャから視線を転じれば、そこには、四十メートルほど先で道路脇の電柱に突っ込み車体前部をへこませて停止している四輪駆動車が見えた。


「マモルさん! 姿勢を低くしていてください! アスタロージナ! 気をつけて! 周囲を警戒して……!」 


 おれは尻餅をついた姿勢からすぐに立ち上がると、硝煙をあげている拳銃を両手でしっかりと保持したまま周辺に鋭い視線を走らせているソーニャの肩に手を置いて、強く彼女の身体を揺すった。


「ソ、ソーニャ、はやく拳銃をしまって! ここから逃げるぞ!」

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