第9話 2月5日 ソフィア・ウラジーミラヴナ・リピンスカヤ


 おれの意思などまったく無視して、独断でソフィアを部屋に同居させることを決めた千紗姉ちゃんは、その晩、酔いのためか勝手に一人盛り上がり、まずはソフィアの歓迎会を開こうと言い出したのだった。


「そうだ、まだ晩御飯をみんな食べていないわよねえ? お寿司の出前取りましょ。お寿司。今日はお祝い。私がごちそうするわ」


 何がお祝いなのか知らないが、千紗姉ちゃんは大げさにはしゃいで特上寿司三人前の出前を頼んだ。その際、電話で、「あと、ビール、中瓶で6本」と、酒も付けるように言いつけた。

 出前の寿司と酒が届くと、自然と流れは宴会のような盛り上がりに――盛り上がったのは、千紗姉ちゃん一人きりだが――なり、ビールの瓶がどんどん空になっていった。


「ほら、ソフィアさんも飲んで飲んで」


 ソフィアのコップにビールを注ぐ千紗姉ちゃん。

 ――彼女、たしかまだ18歳ぐらいの未成年だろ。いいのか、酒飲まして。それともロシアの法律では18歳ならアルコールOKなのだろうか・・・?

と思いつつ、おれはイクラの軍艦巻きを口に運んでいたが、寿司のうまさも大して味わうことができなかった。それは、おもいっきり暗澹あんたんとした気分になっていたからだ。目の前のこの少女と、これから一ヶ月間一緒に暮らすことになるのか――。悪い冗談としか思えなかった。自称・ソ連から来た少女との同居。先のことを考えると、心が鬱々としてくる。ソフィアを部屋に置くことを勝手に決めてしまった千紗姉ちゃんのことが恨めしくて仕方が無かった。


「お酒強いわね。さすがロシア人。はい、もっと飲んで飲んで。あっ、そうそう、お寿司食べるの初めて? どう、日本の寿司は食べられる? 生魚大丈夫?」


 千紗姉ちゃんは自分でもグイグイ飲みつつ、空になっているソフィアのコップにビールを注いだ。ちょっと、困ったような顔をしながらそれを受け、コップに口をつける彼女。かなり千紗姉ちゃんに飲まされているようだったが、その白皙の顔が朱色に染まるようなことは無かった。まったく酔った様子が無い。体質的に、酒に強いのだろうか。


「ソフィアさん、もっと飲むう?」


 一方こちらはすでに完璧に出来上がっている千紗姉ちゃんは、へべれけになりながら新しいビール瓶の詮を開ける。


「あ、いえ、もう結構です」


 小さい苦笑を浮かべながら、やんわりと彼女は断った。


「えー。ソフィアさん、もっと飲めるでしょう」


「いえ……。ところで、あの……」


 少し間をおいてから、ソフィアは、


「チサさん、お願いがあるんですが」


と、心もち硬い声で言った。


「なあに?」


「先ほどの会話――私と、同志ホンダとの会話ですが、誰にもその内容をもらして欲しくは無いのです。あの話は、私と同志ホンダとチサさん、あなたの、三人だけの機密事項にして欲しいのです」


「ああ、スターリンの密書がどうたらとかいうやつ? 別に、誰かにしゃべったりしないわよ」


 右手をひらひら振りながら答える千紗姉ちゃん。


「本当に、その事はお願いします」


 真剣な表情で訴えるソフィア。


「了解了解」


 千紗姉ちゃんの返答を聞くとほっとしたらしく、ソフィアの表情が緩んで柔らかいものになる。


「それと――もうひとつお願いが」


 ちょっと彼女の言葉に間があいて、しばらくたったのちに続いたのが、


「私のこと、ソフィアではなく、ソーニャと呼んでくれませんか? ロシアにいた時は、親しくなった人にはいつも、ソーニャという愛称で呼ばれていましたので」


 というものだった。


「ふーん。わかったわ、ソーニャさん」


「呼び捨てで結構です、ソーニャと」


「わかったー。ソーニャ、ソーニャね」


 酔っ払って上半身をふらつかせながら千紗姉ちゃんが言う。


「同志ホンダも、これからは私のことをそう呼んでください」


 いきなり話が自分に向けられたので、おれは寿司をつまむ手を止めて彼女の瞳を見つめた。にっこりと、笑みが返ってきた。おれは不意に目を彼女――ソーニャからそらすと、テーブルの上、特上寿司のうつわに視線を落とした。


 ――やっぱ異常だよなあ。今日はじめて会ったばかりの外国人の女の子と、一緒に暮らすことになるなんて


 今夜、この奇妙な酒宴が始まってから、おれの思考は自然と内向きに、自己の内部に入り込んでいくものになっていた。


 ――一つ屋根の下、見知らぬ若い男女が同居するっていうのも、問題だよなあ


 こたつに頬杖ほほづえをつきながら、ぼんやりと思う。


 ――それにしても、彼女の、ソ連から来たという説明が理解できない。ソ連? そんなもの、この世のどこにも無いのに。彼女が嘘をついているのか、または、それとも、頭に――精神に何か問題があるのかも。ロシア人だというのなら、この件、ロシア大使館あたりに連絡した方がいいのかもしれない。ひょっとしたら大使館があの子を保護してくれるかも……


 あれこれと考える。すると、自分の方に、じっと視線が向けられているのに気づいた。こちらを見ているのは千紗姉ちゃんだった。おれは多少とまどいつつ、


「なに?」


と返事する。


「守、あんた、ビール全然飲んでないじゃない」


 おれのコップに注がれたまま減っていないビールを見つめながら、千紗姉ちゃんがからむような口調で言ってくる。


「早く、空けなさいよ。一口で」


 片手でビール瓶をつかむと、それをおれのコップに注ぐ体勢を作り、じっとにらんでくる千紗姉ちゃん。

 おれはしぶしぶコップの中の液体を一気に飲み干す。

 空になったコップに、新たな酒がなみなみと注がれる。


「ほら、早く」


 再び酒を飲み干すことを要求してくる。


「あの、おれ、酒弱いんだ。ほとんど下戸に近いんだよ。そんなどんどん飲めないよ……」


「言い訳は聞きたくない。私の酒が飲めるかどうか、ただそれだけ。飲めない――なんて、言わないわよね?」


 無茶苦茶な言い分だ。これじゃあ、そのへんの大学の体育会系サークルの新入生イビリと同じじゃないか。なんで飲めない酒を無理やり辛い思いして飲まなきゃいけないのだ。


「いや、ほんとゆっくり飲もうよ」


 そう答えると、途端に千紗姉ちゃんの表情は不機嫌極まりないものに変質し、酔っ払った赤ら顔のまま目を細め、じとーっとこちらを見据えてくる。


「わかった、わかったよ」


 仕方ないので、今度は時間をかけてコップの中身を喉に流し込む。本当に酒に弱いおれは、このビール二杯でもう身体がかっかと熱くなってきた。

 当然のごとく、新しい酒をおれのコップに注ぐ千紗姉ちゃん。


「もう飲めないよ」


 おれが酒を断ろうとすると、千紗姉ちゃんはおれのコップをつかんでこちらの顔の前に突きつけてきて、


「今日はめでたいお祝いなのよ! お祝いなのに、酒が飲めないなんて、人を馬鹿にするにもほどがあるわっ!」


と、酔っ払い特有の非論理的な言いがかりを大声で発する。

 おれは半泣きになりながら、コップに口をつけてちびちびビールをすすった。やっとの思いでそれを空にすると、瞬間、すぐに次の酒が注がれる。

 もう許してくださいという哀願の思いを顔一杯に出して千紗姉ちゃんを見つめるが、相手の目は完全にすわっていて、こっちが酒を飲み干すのを待っている。


「あの、チサさん、同志ホンダはもうお酒は飲めないようですから……」


 ここで今まで黙って状況を見ていたソーニャから、救いの言葉が発せられた。彼女はおれと千紗姉ちゃんの顔を交互に見比べながら、少し困ったような表情をしている。

 一方、千紗姉ちゃんは、ソーニャのその言葉を聞くと、自分のコップをぐいっと一気にあおり空にして、それをこたつのテーブルの上に叩きつけるように置き、ソーニャの方へ向き直って、


「はい、おかわりね」


と、彼女の空のコップに酒を満たす。その後、今度は、おれの方へ身体の向きを変え、ビール瓶の飲み口を突きつけて、


「飲んで。早く飲んで。とっとと飲んで。今すぐ飲んで」


と、抑揚の無い、冷たい声で言い放った。

 もう勘弁してくれよ、と、おれは心の中で声にならない悲鳴をあげた。


 そうして、おれと、いとこの姉ちゃんとロシア人の少女との、三人だけの酒宴はそれから数時間にわたってずるずると続いたようだった。

 ようだった、と推測になっているのは、おれが早々に酒に酔いつぶれて、こたつで意識を失って眠ってしまったからだった。

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