第25話『はじまり』の『おわり』

 十月十六日。空は快晴、本当に澄んだいい色だ。

 医師が言っていた通り、十月中どころか十月に入ってすぐに退院が決定し、今年の茜の誕生日は彼女の成人の祝いでもあり、神父の快気祝いでもあった。そんな彼にしては久しぶりの教会は、予想よりも遥かに整理整頓されて清潔だった。特に評価したいのは、あの茜が毎日磨いていたとしか思えないステンドグラスの美しさだった。

「……本当にお前が掃除したのか? 聡君にやってもらっていたのではないだろうな?」

「失礼な! 僕だって、やればできるんだよ! 言ってやってよ、サトルくん!」

「茜さんの言う通りですよ。彼女本人が一から全て片付けてしまうので、僕が手伝いたくても手を出させてくれなくて」

「珍しいこともあるものだ。……不吉の前ぶれか?」

「もう! なんで素直に褒めないの!?」

 神妙な顔をする神父を前に、二人だけで密かにアイコンタクトを交わす茜と聡。……実は聡の言ったことは嘘が混じっている。茜は確かにステンドグラス『だけ』は毎日磨いていたが、それ以外の場所の整理整頓や掃除は聡がやった、というのが事実だ。それを言わないのは、単に茜の株を上げたいから。そこまで親密になっていた。いや、昔通りの仲に戻った、という方が正しいだろうか?

 神父の事も普通に『お義父さん』と呼ぶ聡の姿は茜からしてみれば奇妙だったし、おかしくもあったのだが、それもまた『幸せ』ではないだろうか? ここ最近は色々なことがあったが、聡との再会は何よりも大きな神の『ギフト』ではないだろうか。

「茜さん?」

 そう悟に呼ばれ、慌ててそちらを見る。彼は今日のためのケーキを焼き始めている。どうしても食べたい、選べないものが三つ残ったため、結局その三種類も全て作ることになったのだ。聡は文句ひとつ言わず、むしろ嬉しそうに「腕によりをかけるよ」と笑った。

「……ううん、なんでもない。じゃあ僕はコーヒーでも淹れておこうかな」

「いや、お前は座っていなさい。今日はお前の誕生日だし、お前のコーヒーは私からしても美味しくはない。聡君に教わりなさい」

「え? 神父は僕のコーヒーを『美味しい』って褒めてくれてたじゃない!? 嘘だったの?」

「正直に言えば傷つくだろうと思ってな。だが、今日からお前は二十歳だし、未成年じゃない。成人するという事は、自分で自分の責任を取るという身分になるということだ。今までは甘やかし過ぎたからな。厳しくすることにした」

「げぇー!」

 らしくもなく毒舌な神父に対して、すぐにギブアップするような茜。そこに聡のフォローが入る。

「お義父さん、僕の将来の伴侶をあまり苛めないで下さいよ」

「いや、君のようなしっかりした男性の妻というモノはもっと教養や女性らしいたしなみが必要不可欠。ガサツなままでは申し訳ない……」

「僕は茜さんの飾り気のないところも大好きですし、個性を殺しかねませんよ。茜さんは今のままでいいんです」

「さっすがー! サトルくんは優しいよね! 誰かさんとは大違い!」

 ……こんな調子で、三人は会話が弾むようになっていた。出会って十日も経たないうちに、茜も神父も四ノ宮聡を信頼しきっている。特に茜など、意図的に左手を使うようになっているようだ。……それが『彼』の目的だとは微塵も思っていないに違いない。

 


「……ところで茜さん、一つ訊いてもいいかな?」

「なに?」

「なんでその髪を伸ばさないの? あの頃みたいにお母さんはもういないのに……」

 すると茜は急に答えに困った。事情がありすぎて、何から話せばいいのかも見当がつかない。

「……ええっと、何というか、慣れちゃったから、かな?」

「長い方が似合うよ。昔からこんなに優しい色の髪を持ったひとなんて見たことがないし。服もせめてスカートがいいと思うよ。絶対に似合うって断言する」

「私も同感だな。お前はもう『彼女』の呪縛から解放されたんだ。無理に『男の子』にならなくてもいいんだ。もうに二十歳、成人だ。放埓はもってのほかだが、『自由』という権利が今のお前にはある! だから、スカートを履いて、髪も伸ばしなさい。……私たち二人を愛してくれているのならば、女の子らしいお前が見たい。そうは思わないか、聡君?」

「えぇ、お義父さん。僕も大人になった茜さんが髪を長くして、女性らしい服を着ているところが見たいですね」

 こうなると急にテンションが下がる。せっかくの年に一度の誕生日に、あまり触れて欲しくない話題にノリノリになられても……。そんな茜の気持ちなど知ったことではないとでもいう風に、二人は茜に似合うファッションについて語り合っている。

「……」

 ――まぁ、この『事実』だけは嬉しい、かな?

 好きでなければここまで自分の事について気遣いはしないし、踏み込んでも来ない。

 二人とも宮下茜という名の自分を好きだからこそ、無茶な要求をしてくるのだ。困りはするが、本気で嫌なわけではない。茜にとって一番の恐怖は『無関心』だ。……これは幼い頃の体験からくるものだと思っている。

「――茜さん?」

「え?」

「どうしたんだ? 急に黙り込んで……」

「ううん、なんでもないよ。ところで、二人は何の話をしているの?」

 嫌な予感を覚えつつ、満面の笑みの二人の表情から大体の察しはつく。

「探偵らしく、当ててみなさい」

 そう神父に促されては言わないわけにはいかない。ため息をつきながら、まず間違いなくこれだと思っている事を口に出す。

「……結婚式で僕が着るウエディングドレスの話」

「流石は茜さん!」

「うむ、正解だ!」

「……当たってても全然嬉しくないよ」

 二人の結婚式は当人たちの希望と予算の関係で、この教会で挙げる事になっていた。ちょうど牧師もいることだし、式に呼ぶ知り合いなど互いに多くもない。片手で十分足りるという交友関係もまたお互い様だった。

 そのことを話していると互いに苦笑いになる。しかし、濃い人間関係だし、それでいいと思っている。ただし、明はまだ妹の喪が明けていないし、美千代は顔を出せないと言っていた。智也はらしくもなく意気消沈した調子で「注意しろよ」と電話してきたが、茜には寝耳に水だった。……それだけ二人は互いだけを見ていた。

「さて、それでは式の具体的な日付でも決めようか?」

 落ち着いたところで神父がそう切り出した。いよいよな雰囲気に、茜も聡も身が引き締まる。十月十六日、宮下茜二十歳の誕生日というめでたいハレの日に、同じく結婚式というハレの日付を決める。神父としてはこれ以上ない程に幸せな日……だった、数秒前までは。

 いきなり外から悲鳴が聞こえ、聞き覚えのある『男』の声で、宮下茜を呼ぶ声が聞こえたのだ。……茜も、神父も、そして聡も、その相手が一体誰なのかすぐに理解した。

 『男』は、教会の重厚な扉を勢いよく開けて内部へと入ってきた。以前神父が用意していた拳銃は、茜が『組織』から外されたと同時に取り上げられていた。武器になるものは、せめてもの情けとして防犯用にと手切れ金代わりに茜の元に残されているスタンガンのみだった。

 久方ぶりに会う『男』は対照的に堂々と拳銃を手に入れていた。入手ルートなどこの相手ならば割り出されることなく簡単に見つけられるだろう。……『男』は意味深に茜の方を見てにやりと嫌な笑い方をした。

「久しぶりに会う『娘』にグッドニュースだ。まずは婚約おめでとう。だが、その男は本当にお前を愛しているのか?」

 不敵に笑う大西。その意図は……実はとうに読めていた。再会した時に感じた違和感。その正体を考えたし、『彼女』からの事前の情報もあった。だから驚く必要はない。

「……愛していないんだろうね」

 この茜の一言には。聡は大いに驚く。目を見開いて大げさに驚く様は、むしろ茜の方が同情する。

「なぜ? なぜそんな事を言うの? ……他でもない茜ちゃんが」

「……ごめんね。実を言えば僕はサトルくんの事が大好きだし、愛してる。でも、その愛情と、この男の目的や考え方からくる僕への『決定的な攻撃手段』は残念ながら同じなんだよ」

 成り行きを見守っていた神父は実は一番驚いていた。あれだけ誠実な、澄んだ目をした聡が、大西の手下だとは微塵も思わなかった。あれだけ茜を愛し、幸せにしたいと、どう考えても努力してきた彼が、まさか。

「茜! いくらなんでも言い過ぎだ! 聡君の愛情は本物じゃないか! 私があれほど――」

「僕だって辛いんだよ!」

 神父の言い分を遮り、茜は叫ぶ。彼女の中では純粋に聡を慕う愛情と、大西と戦うために必須の闘志がせめぎ合っている。この二つが完全に解りあえる事などないだろう。何しろほぼ逆のモノなのだから。

「……どうやら、お前は俺が思っていたよりかはましになっていたんだな。褒めてやろう」

「いらないよ」

 茜は大西と向き合う。その立ち姿からは、もう何も自分から奪わせないという、強い決意が見て取れた。これまでこの男には、一方的に奪われてばかりだった。和也、回復したとはいえ神父、美千代、明。もしかしたら、既に智也までもが餌食になっているかもしれなかった。だからこそ、もうこれ以上奪われるわけにはいかない、奪わせない。

 茜は既に覚悟を決めていた。九月に、智也に言われてからずっと考えて考えて、対策を練っていた。だからこそ初恋の相手である四ノ宮聡がやってきた時は、確かにときめきはしたものの、ずっと警戒していた。……聡はずっと騙した側のつもりでいたようだが、騙していたのは茜も同じ。いや、それ以上だったかもしれない。

 茜は真っ直ぐに男を、実父を、大西隆という人間を睨みつけながら言葉を紡ぐ。それは、茜の確かな決意だった。 「……僕は、自分を。自分の境遇を憎んで生きてきた。時にはあの女――『宮下和子』という名の『母親』を殺してやりたいとも思った。自分で手を下してやりたかった。それくらいに『憎んで』いたよ。でも、実際に彼女の遺体を見た時は『憐れ』でたまらなかった。下手に『美人』だからこそ、アンタのような男に利用されて、人生を台無しにされた! そんな憐れな母親ならば、いっそ存在自体なくしてやるのが『娘』として正しい在り方だと思った。……どんなに憎んでも、怨んでいても、やっぱり『母娘』だから。その気持ちだけは捨てきれなかった、どうしても!」

 ここでやっと神父はあの時の、宮下和子が亡くなった時の茜の反応を思い出していた。始終『無』の表情で、冷たい言葉ばかりを吐いていた。……優しい娘だと信じていたのに、裏切られた気がしたのだ。

 とんでもない思い違いだった。宮下茜という名の『娘』、『復讐の道具』だったはずの彼女は、もはや彼にとってなくてはならない存在になっていた。

 神父は痛ましいものを見る目で、大切な『娘』の雄姿を見やる。幼かった『少女』は、今や立派な『成人』へと成長を遂げていた。

「……茜、お前は……」

 「本当は辛かったんだな」と続けようとしたが、彼女は既にスタンガンを構え、臨戦態勢だった。手元から電気の火花がバチバチと音を立てて爆ぜる。それが彼女の怒りを表しているかのようだった。

「僕はアンタを止める。必ず。僕にはその権利と義務がある。なぜなら……気に食わないけど、アンタの『実の娘』だから!」

 大西は口角を上げた。そこには歪んだ愉悦がありありと見て取れる。まるで飼い殺すために飼っていたモルモットが、予想外の成長を見せた時のように。そこからは彼の感情も思考も、一切読めない。

「……成長した事は認めてやる。だが、この俺相手にそんな玩具でどうするんだ?」

「僕はアンタとは違う。アンタみたいに無駄に殺しはしない。ただ拘束して、『組織』に引き渡す! そしてもう二度と悪事が働けないようにしてやる!」

 そう言いながら、茜は大西の元へと駆ける。しかし、銃とスタンガンでは圧倒的に後者が不利だ。茜が心配な神父は必死で止めようとするのだが、それを聴き入れるような娘ではない事は身を持ってよく知っていた。

 相手はスタンガンをあっさりかわし、茜に隠し持っていた左袖の銃口を向ける。そこには『実の娘』に対する愛情を始めとする、あらゆる気遣いなど微塵もなかった。ただ、『敵』を見る目で、彼は『娘』を見つめる。

 『娘』――茜はそんな『父親』の左指の動きは目では終えても、身体は反応しない。動けなかった。

 茜は自分でも情けないとは思うが、足がすくんで、恐怖で動けない。どう見ても躊躇いなく、冷たさを感じさせる動作で引き金を引こうとする大西を見やることしか出来ない。

 ――僕はここで終わるの?

 冷静にそう考える余力だけはあった。だが、それしかなかった。

 神父は自身の身体の事も考えずにこちらへ向かってくる。弾除けになろうと考えているに違いないが、どう考えても間に合うはずがない。傍にいるのは『裏切り者』である四ノ宮聡ただ一人。どう考えても『おしまい』だ。

「せめて苦しまずに殺してやる。……死ね」

 大西の硬い声とほぼ同時に、狭い教会中に銃声が響き渡る。

「あかねぇー!」

 神父が叫んでいるのが聞こえるが、そのこと自体に違和感を覚える。だって、間違いなく大西が狙ったのは自分の頭だ。ならば普通ならば即死で、脳の活動も止まっているはず。……それなのに、『考えることが出来る』?

「……え?」

 瞬間的に目を閉じていた。だから、気づけなかった。彼が、四ノ宮聡が自分を庇っていたという事に。

「……」

 彼は苦痛に顔を歪め、肩で息をしている。茜の目の前に立ち塞がり、大西の放った凶弾を代わりに受けていた。とうやく出血してきた場所は……どう見ても心臓だった。

「サトルくん!?」

 聡は音を立てて膝をついた。そして真後ろにいる茜に笑いかける。……その表情は、幼い頃のあの日のままだった。

「……だいじょ、うぶ?」

「サトルくんこそ! なんで、なんで僕を庇ったの!? 僕を裏切ったのに、最初から利用するつもりだったのに!?」

「大西隆は頭がいい。僕みたいな凡人よりも遥かに。……だが、逆に言えばそれだけなんだ。だから……僕の『本当の気持ち』までは読めなかったんだよ」

 どういう意味なのかと問いたかったが、出血量からしてもう長くはもたない。撃たれた場所が場所だ。これまで沢山の事件で死体を見てきたからこそ、その事実が解ってしまう皮肉。しかし茜にはどうする事も出来ない。

「……忘れてくれて構わない。けど、僕はきみが……」

 「大好きだった」とかすれた声で呟き、茜の初恋の相手、婚約者の四ノ宮聡は息を引き取った。あまりにもあっけない『死』。……これまで関わりあってきた事件の関係者も、今の茜と同じ気持ちだったのだろうか? だとしたら、自分はどれだけ無神経だったのだろう。あまりにも未熟過ぎた自分が嫌になる。

 そんな茜の想いも四ノ宮の想いも意に介さぬ男は、つまらなそうに利用価値のなくなった『道具』を見やる。そこには人間らしい情など微塵もない。ただの観察に過ぎない。

「……くだらんな。人間の気持ちなどくだらない。強さこそがすべて。お前は己の弱さから自分を愛する男を喪ったわけだが……今の気分はどうだ? 参考までに聴いておこう」

「……」

 茜は無言で男を睨みつけるが、やはり一切堪えない。やはりこの男は生かしてはおけない。この男のせいで、どれだけの罪もない人物が犠牲になったのだろう? しかもこの男は自分の『父親』だ。間違いを正してやるのも『娘』の役目であり、義務ではないだろうか。

「……今度こそ、残りはあの『事件』の生き残りのおいぼれと豚児のみだが……、さて? どう殺されたい? リクエストがあれば聞き届けてやらんこともない。……俺に首を垂れるのならば、の話だが」

 元からこの男には『慈悲』などというものは存在しなかった。その事は茜と神父がこの世で最もよく知っていた。何の罪もない人々を落とし入れ、誑かし、好きなように操る。そしてそれに飽きたら、また別の人間で『遊ぶ』。ひどく歪で、まるで子供のような残酷さを持っているのがこの男だった。だが子供と違うのは、彼らは悪意などなしにやっている『遊び』を、強い悪意を持って意図的に行うのがこの男だった。

「……」

 ふたりの唯一といってもいい武器、スタンガンは先ほど四ノ宮聡が打たれた時に茜がショックを受けている時に既に大西が足蹴にしていた。……つまり、今の茜も神父も武器が一つもない、全くの無防備。加えて、相手には二丁のの拳銃がある。どう考えても不利だ、万事休すだ。

「さて、まずは愛しの『娘』にするか? レディファーストだ」

 大西は何が可笑しいのか茜を歪んだ笑みで見つめた。懐から錆びた包丁を取り出した。……相手がこの男――『大西隆』で、殺す『手段』ならば、それで何をしようかなど探偵でもない神父でも容易に想像が出来た。何と言ってもこの男は少年時代に『嗤われた』というだけで、何の罪もない神父の妻子を生きたまま焼き殺したのだ。

「……」

 茜の首筋から汗が流れている。涼しくなったというのに、これは紛れもなく恐怖からのモノだと察しがついた。最悪の事態に、神父は動けない茜の前に進み出る。

「……大西隆、私はお前の罪を赦そう。だから、茜は……。茜だけは殺すな! 頼む!」

「それがこの俺にものを頼む態度か? 負け犬が!」

「神父っ!」

 大西は大人しく頭を下げる老人の頭を躊躇いなく足蹴にし、頭部を靴で何度も踏みつける。その様に茜は思わず声を上げる。だが、当然この男には『実の娘』の言葉はおろか、声すら届かない。

 神父は口内に土と草の味を感じる。歯の間には行った土がじゃりじゃりと音を立てている気がする。それでも、自分が耐えれば『娘』――茜が助かるのならば安いものだ。だから、黙って足蹴にされ、悲鳴の一つも漏らさない。

「……もっと抵抗してみせろ。つまらん」

「……アンタって男は、どこまで……」

 茜が『実父』を鋭く睨みつける。その目元には悔し涙が滲む。それでも男は顔色一つ変えない。そのままで抵抗しない神父の頭を乱暴に足蹴にする。茜が助けに入ろうとも、銃口を向けられていて動けない。……どう考えても、ここで殺される要素しかない。奇跡でも起こらない限り。

「……『レディファースト』のお言葉に甘えさせていただきますわ」

 『彼女』の高い、甘えるような声が聞こえたのは、まさしく奇跡と言っていいタイミングだった。

 流石の大西も想定外だったに違いない。彼女は、あの天才美少女一色若葉は父親を尊敬し、心から慕っていたのだから。

「……若葉、だと?」

「お久しぶりですわね、パパ」

 彼女は言うが早いが手にした大工用具――錐を躊躇いなく『敬愛する実父』の左腕に刺した。

「!?」

 流石の大西もこれまで感じた事のない痛みに、声にならない悲鳴を上げる。若葉は続けざまに四肢に錐を刺し、最後には急所を外した心臓に狙いを定め、同じく躊躇いなく刺した。そして涼しい顔で言う。

「レディファースト、と先に仰ったのはパパの方よ?」

 そして彼女は錐を草むらに投げ捨てる。ある程度寒さに強い草はあっという間に錐の存在を隠してしまった。

 やっと動けるようになった茜は、二人には一切構わず、神父の元に駆け寄る。彼はやっとのことで息をしているようで、見ている茜の方がショックだった。

「神父! 神父! しっかりしてよ、神父!」

 散々頭を足蹴にされた彼は、既に意識がなくなっていた。慌てて救急車を呼ぼうにも、携帯電話は茜の部屋で充電中だ。普段ならば若葉のモノを借りればいいという簡単な事に気づくが、このような事態は想定外で、対処が不可能だった。

「……あ、かね?」

 神父はうっすらと目を開けた。その表情には死相とでもいうべきものがありありと浮かんで見えたが、あまりにも不吉なので考えないようにしようと努める。そんな事は無駄なあがきだと知ってはいても、そうせずにはいられなかった。

「なに神父?」

「おまえは……しあわせに、なるんだ……聡くんと」

「……うん」

 その聡が死んだところを、神父は確かに茜と共に見ていたはずだ。なのに、彼が生きていると思い込んでいる。これは……おそらくもう、長くはない。だからこそ、最期は安らかに眠らせてやりたかった。

「……僕は幸せになるからさ、神父も奥さんと娘さんによろしくね?」

「何を言っているんだ? ……私の娘はおまえひとりだ」

「そっちこそ何を言ってるの? ……僕は貴方の娘じゃないよ」

 自分で言っていて虚しくなってきたのだが、先に『向こう』にいる『実の娘』のことを考えると、涙が溢れながらもそう言わずにはいられなかった。どれほど喪った妻子を想っていたか、茜は痛いほどに知っていた。

「……私はもう、眠るよ。おやすみ……」

 神父と呼んでいた男性は、最後に名前らしい三文字の言葉を呟いたのだが、生憎と茜には聞き取れなかった。



 こうして、長かった戦いは終わった。

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