第18話:きざし

 あれから、四月のイースターの時に喧嘩をして以来、何が良かったのかは不明だが、依頼が絶えなかった。当然、茜も神父も喜んで事件に飛びついた。

神父は職業上、そのような不謹慎を喜ぶような真似など許されない身だが、生活がかかっている。神父一人であれば聖書の教えの通り、進んで貧するが、未成年である茜の『保護者』としてはそうするわけにもいかない。今では逆に彼女が保護者のように稼いでくるようになり、たまに訪れる美千代から「Kに昇格すべきか『上の連中』も騒いでるわよ」などという、茜的には最高の褒め言葉をもらい、彼女も神父も有頂天だった。



 四月から今月――六月までその吉兆続き。いつもならばどこかがおかしいと違和感を覚えてもいいはずなのに、この時の二人にはそんな事など頭から抜けていた。……その話――『彼女』の訃報を真っ先に聞いたのは神父だった。



 いつも通りに茜の帰りを待っている、夕暮れ時。最近は暑くなってきたことだし、なにか触感がサッパリしたものでも作ってやろう、そう思って乾燥そうめんを茹でようと湯を沸かしていた時だった。教会の電話が鳴りだしたのは。

「はいはい、少々お待ちを!」

 誰に言うでもなく彼はそう呟き、コンロの火を消したと確認した上で、電話口に出た。受話器越しに聞こえる声は男性のもので、その内容も『職業上、嫌々やっている』としか思えない、機械的なものだった。

「――え?」

 神父は思わず耳を疑った。……だって『彼女』はまだ四十にもなっていない。その若さで、『ありえない』。そう震える声で返すと、男は面倒くさそうに、受話器越しでもはっきり解るほど大げさなため息をついた。

『ですから、宮下さんは本日お亡くなりになりました。原因は本人の望み通りの自殺です。……これでご満足いただけましたか?』

 相手の慇懃な口調は、この時の彼にとっては逆効果だった。冷静過ぎる相手の男性に、らしくもなく感情を露わにしていた。

「彼女を入院させていたのは、貴方がたに預けた、託したのは、決して死なせるためじゃない!」

『……言いたい事はそれだけですか? 我々も手を尽くしたんですよ? 貴重な輸血用の血液から輸血して、大掛かりな手術までして……。それでも彼女は意識が戻ったと思えば、微笑みながらその場にあったメスで頸動脈を自分で引き裂いたんです。……我々の落ち度だとでも仰りたいのですか?』

 ――なんということだ。

「……」

 二の句が継げない神父とは対照的に、相手の男はさも迷惑そうに言った。

『そういうわけですので、早々にご遺体を引き取りに来ていただきたいのです。ご存知の通り、うちの病院は病床が空くのを待っている方が大勢いらっしゃいますので』

「……はい、解りました」

 どうにか受話器を置けた自分自身にすらも驚いた。『彼女』――宮下和子が『死んだ』。この事実は茜に知らせるべきだろうか? いくら『母娘』とはいえ、複雑すぎる関係だった。それは幼い茜を保護した神父自身が一番よく知っている。その茜の『現在の』母親に対する感情が、一切見当がつかない。……憎んでも仕方がないし、呪詛を吐いてもそれも仕方がない。ひどく歪なのだ。

 そうして彼が立ちすくんでいると、茜が帰ってきた。今日の事件は彼女なりに骨のある事件だったと見えて、いつもは「暑い」と苦情を言うのに今日は一言もなしだ。その彼女に、母親の事を知らせるべきかどうか……考えるまでもなかった。いくら過去に遺恨があろうとも、茜はそんな事を気にするような娘ではない。そのように育ててきた。時には明らかな反抗も見せる者の、根は素直で真面目だ。ならば、知らせるべきだ。

「あー! 神父ってば、コンロの火は止めたみたいだけど、そのままじゃん! これじゃ捨てるしかないじゃん!」

 茜はまだ知らないからそれほど無邪気でいられる。しかし、神父がたった今――実際には一時間は経過していた――聞いた話を耳に入れるのは躊躇われた。だが、茜かてもう分別はついている年頃だ。大丈夫だと自分に言い聞かせ、彼は口を開く。

「……お前のお母さんが、亡くなった」

「……はぁ?」

 彼女はらしくもなく頓狂な声を上げた。

「何? 何の冗談? ……第一、なんで神父があの人のことを知ってんのさ?」

「……」

 彼が黙り込むと、茜は自信のあるその頭脳で考え始めた。確かに幼い自分を拾ったのは神父だし、それから育てたのも神父。たしか自分から『宮下茜』と名乗ったことも覚えている。……だが、なぜ『宮下和子』という名の自分の母親を知っているのかが解らない。……そこで、ある『可能性』に思い至る。

「……まさか、僕を保護する時にアパートに電話でもしたの?」

 他に考えられることは戸籍を調べたり、実際に居住地に行ってみる事だ。だが、『あの男』絡みで彼が動く時は暴走する事も多い。宮下和子を知っているという事は、彼女と『あの男』の関係も知っていてもおかしくはない。……二人は元とはいえ、『夫婦』だった事を。

「……」

「……その沈黙は『肯定』だね」

「……お前は、悲しくはないのか? 『彼女』を憐れだと思わないのか? ……寂しくは、ないのか?」

「……さぁ? 僕自身も解らないや。でも、少しだけスッキリした」

 その答えには神父は驚く。なぜ酷い目に遭わされたとはいえ、血の繋がった『実の母親』の死を『スッキリ』とまで言えるのか? ……その神経が理解不能だった。それは神父が問題のない家庭育ちゆえだったのかもしれないが、そんな事などこの際関係ないだろう。

「……それで、『死体』を引き取らなきゃいけないんでしょ? お墓はどうするの? たしか宮下の家に知り合いはいないし――」

 茜はあくまでも冷静に、これからどうするべきかを検討し始めていた。宮下和子は実家からは勘当されている身だし、頼る親戚は『実の娘』である茜しかいない。喪主も当然彼女がやる流れだろう。そう考えれば、彼女の対応は至極尤もだ。……しかし、神父としてはもっと感傷に浸ってやってほしかった。……神父だけが知る、『彼女』の情報は明かすべきだろうか?

「――ぷ! もう、神父ってば! 僕の話聞いてるの?」

「あっ、すまない。……何の話だ?」

「まったくもう! 葬儀は仏式? それとも――」

「茜はどうしたいんだ?」

「え? ……僕は『どうでもいい』よ」

 ――この娘は、死体に慣れ過ぎている。

 神父の頭をよぎったのはそんなことだった。下手に『探偵』として事件に関わるから、こんな事になるのだ。神父――神木は自分の『罪』を実感した。キリスト教徒として、常に正しい行いをしようと心がけてきた。それなのに、聖書の内容を守るどころか、大いに禁を破っている。――『汝の敵を愛せよ』、『あの男』を赦せない自分は、到底高き国にはたどり着けない。せめてもの『贖罪』として、茜を愛してはいるが、それも所詮はキリストの嫌う『偽善』に過ぎない。それに宮下和子に関わったのも、『偽善』そのものだ。

「……お前がそれでいいのならば、好きにしなさい」

「変な神父!」

 彼女は今日の彼の様子がおかしいことはとっくに悟りきり、自分で夕食の支度を済ませた。ここぞとばかりに買い置きしていた冷凍済みの豚肉があったのをいい事に、今日は奮発して肉料理だ。久しぶりの肉に茜は心が躍る。

「美味しい! やっぱり肉が一番だよ!」

「……そうか」

 神父はそんな彼女の姿を複雑な感情が入り混じる眼差しで見つめていたのだが、当人はその事には全く気づいていなかった。



「酷い不細工」

 茜が開口一番に言い放った。

 精神病院の閉鎖病棟の霊安室での出来事だ。この部屋にいるのは茜と神父、それと男性スタッフが一人の計三名のみだった。京都で芸者をしていたという宮下和子は、その生命活動を終えてなお、『美しい』と男性二人には思えた。……だが、『実の娘』の評価は厳しかった。美人と美少女には目がないの彼女が一度も口にした事のない言葉で、神父も一度も彼女の目の前で言った事のない言葉――『不細工』。一体どこで覚えてきたのかという疑問など、今この場では似つかわしくない。

「馬鹿な女。死んで清々した」

「こら、茜!」

 神父が彼女の顔を窺うと、そこは『あの頃』のような『無表情』があった。彼が幼かった彼女を保護した時と同じ、『無』の表情。そして皮肉な事にその顔立ち自体は実の母親とよく似ていた。

 宮下和子の亡骸は、本当に『幸せいっぱいの微笑み』だった。それ以外の表現などない。実際に自分からメスを奪い取り自害したのだから、これが彼女なりの『幸せ』なのだろう、とも思えた。この病院に入院したての頃は美しい黒髪だったのに、今や白髪が多い。陶器のような透き通った肌も、遺体と化した今では薄気味悪いだけだ。だが、それらのマイナス要素を補うだけの『美貌』を持つ女性――それが茜の『母親』だった。

「……」

 彼女の『無』の表情からは、今何を考えているのかなど察する事も出来なかった。しかし、少々安心もした。

 ――『実の母親』の死にショックを受けるのは当たり前だ。

 倫理観に欠ける少女だが、流石に実母の死に対して何もリアクションもないよりはましだ。神父はそうポジティブに考えた。だが、次に茜が言った言葉には閉口した。

「焼くのは金銭的に厳しいので、そちらでホルマリン漬けにでもしてくれませんか?」

 ……この言い分はあんまりだ。などと、神父は思いもしなかった。てっきり身内――茜と神父の二人だが――だけでも静かに葬り去ってやろうと考えているのかと思っていた。流石のスタッフも慌てる。

「いえ、うちは精神科ですので。そのようなものは外科とか内科――」

「じゃあ、そちらでお願いします」

 茜はそう言って頭を下げる。いつもよりも遥かに丁寧に。いつの間にか彼女は神父が望む『大人の女性』へと成長しかけていた。だが、この時はそれどころではない。親しいだけに、逆になんと言えばこの娘の暴言を止めることが出来るのか?

「あ、はい。……ですが本当によろしいのですか? ご遺体は戻りませ――」

「こちらから『お願い』しているんです。後悔などしませんし、したとしてもそちらを責める気は一切ありません」

 彼女は若干苛立っていた。「何を当り前のことを?」とでも言いたげだ。その剣幕に押されたのか、スタッフは手にしたクリップボードに何やら書きこんだ後、霊安室を後にした。

 その後、残されるのはもちろん神父と茜だけだ。

「……茜」

「なに?」

「お前は昨日、葬儀の話をしていなかったか?」

「あぁ、あれね。やめたよ。お金がもったいない」

「……気は確かなのか?」

「何を言ってるの? 冗談言うなんてらしくないよ?」

「茜!」

 神父が彼女の身体を壁に押し付けた。さすがに彼女は痛みに顔を歪めたが、ただそれだけだった。『無』そのものの表情で彼女は再び呟く。



「酷い不細工で、馬鹿な女。死んで清々した」

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