番外3:再起の儀式

 あの忌まわしいクリスマスの日、茜も神父も互いに強い痛みを味わった。大西隆は茜の『実父』であり、神父の妻子の仇。一色若葉は茜の『義妹』であり、一方的に敵視されている。それに関して茜がどう思っているのかを訊いた事はない。彼女が神父の喪われた妻子の事について詳しく言及してこないのは、茜なりの優しさであり、気遣いだ。だから敢えて神父も、彼女の『家族』の事については触れないのだ。

 それが、この二人の暗黙の了解であり、いつの間にか二人の間に出来あがていた『共依存』の関係だった。それは時にはマリアのように優しく慈悲深いが、時にはイスカリオテのユダのように容易く二人の関係を崩す『裏切り者』にもなりえる、『諸刃の剣』だ。……二人とも『理解』はしているのだ、いつまでもこんなぬるま湯のような関係が続かない事も。いつかは互いに『自立』しなければならない事も。だが、『理解している』事と『受け入れる』事は全くの別物だ。だからこそ、今の二人は苦しんでいる。



「明けましておめでとう! 年賀状は届いたかしら?」

 美千代が教会を訪ねてきたのは、三が日が過ぎてから。当然、教会に棲む二人には日本の神道の習慣『正月』を他の一般的な日本人のようには過ごさない。時には日本人らしく、テレビ番組を観ながら年越しを楽しんだりもするが、それは時と場合による。基本的に常に赤貧のこの環境では正月だからといって豪勢なおせちなど食べる習慣はない。……そういえば、茜が最後におせちを食べたのはいつだったか。

「……明けましておめでとうございます」

 教会の入り口の扉を開けて、美千代を内部に迎え入れながら、茜が低い声でそう返した。美千代はすぐに何かあったのかと察したらしい。まぁ、いつもは彼女が訪ねてくるだけで喜ぶ茜が歓迎の素振りを全く見せなかったので、それも一因ではあるが。

「どうしちゃったの? ……もしかして、あの『男』絡み?」

 事情を知る美千代は声を潜める。茜はまだ多感な年頃だし、まだまだ未熟だ。……そう判断したのだろう、彼女は神父に尋ねてきた。彼もクリスマスの時の傷が癒えてはいないのだが、茜に話すよりはまだマシだろうという賢明な判断だ。

「……ああ。『奴』は、私と茜に――」

「……神父、貴方は一応聖職者でしょ? このぐらいの事で眉間に皺なんて寄せないでよ」

 美千代は気分を変えるように、手に持ってきた風呂敷包みを胸元の辺りまで持ち上げた。正月という事で、今日の彼女は真紅の着物姿だ。それに合わせてか、いつも土産を持ってくるときの紙袋ではなく、今日は風呂敷に包んである。

「これでも食べながら詳しく話を聴きたいわ。……気は進まないけど、私は仕事の都合上『上の連中』に報告する義務があるのよ。悪いけど」

「……解っている。私かて、仕事とプライベートの区別はつけているつもりだ」

 あまりにも真剣な顔で神父が言うので、美千代は思わず吹き出す。

「貴方は本当に誠実というか、堅物というか……。茜ちゃん? 貴女も好きよね、栗きんとん?」

 珍しく話に加わってこない茜に気を遣ったのか、美千代は彼女の好物をズバリ言い当てた。茜がおせちの中で最も気に入っているのは栗きんとんだという事なんて、神父も知らなかった。十年以上一緒にいるのに。

「何で解ったんですか? 僕の好物のおせちが栗きんとんだって?」

「らしくないわね、茜ちゃん。……本当に堪えてるのね。こういう時には、普段食べない豪華なお食事が一番効くわよ? 今日は奮発して松越屋のを買ってきて正解だったわね」

 美千代は茜の疑問を無視して、すり抜けるようにさらに内部へと進む。礼拝堂のテーブルで持参した風呂敷包みを広げると、そこには教会に棲む二人が一口も食べた事のない、超高級品のおせちセットが顔を出す。どう見ても、これまで食べてきたものとは『格』というモノが違いすぎる。

「まっ、眩しい! これが、あの松越屋のおせちなんですか!? 栗きんとんがぁー!」

「……私も五十数年生きてきたが……これほどのモノなど見た事も食べた事もない!」

 貧乏人二人は、まるでキリスト像でも拝むかのように揃って手を合わせ、拝む。美千代はあまりにも自分とは違いすぎる彼らの環境が心配でたまらなくなる。茜が必死で稼いでいるというのに、たかがおせち一つでこの反応。

「二人とも、気に入ったんなら来年から毎年持参しましょうか?」

 確かに松越屋は高級デパートチェーンだが、美千代の稼ぎからしてみれば大した出費ではない。それに、そもそも美千代はこう見えても『お嬢様育ち』。質素倹約をモットーに育ってきた、特に茜とは価値観というモノが違いすぎる。

 茜は彼女の予想通り、目をキラキラ輝かせて美千代を見上げる。それはまるで美味しいご馳走を前にした犬のように従順そうな表情で、微笑ましくなる。と、同時に深く同情もする。

「いいんですか? じゃあ僕の分は栗きんとんの量を五倍にして欲しいんですけど!?」

「ええ、いいわよ。栗きんとんだけでいいの? 他にも数の子もアワビのお吸い物もあるけど?」

「いや、僕は甘いものの方が好きなので。……もっと我儘を言えば、一度でいいのでお腹いっぱいチョコを食べてみたいです!」

「チョコ、ねぇ……」

 これには美千代も苦笑い。女子校出身で、なぜか同性にモテまくるタイプの彼女は誕生日であるバレンタインデーに嫌というほど贈りつけられた経験があるため、チョコレートは大嫌いだ。例外的に好きなチョコ菓子は一つだけあるが。しかし、それを正直に茜に言うほど子供でもないし、意地悪くもない。

「はい、甘いものを食べると幸せな気分になりません?」

「確かにそうなんだけどね、私は茜ちゃんみたいに頭は使わないし、そうなるとこの歳にもなるとすぐに脂肪になるから……。最近はヘルシー嗜好なのよ。パスタは今でも好きだけど」

 女性二人の会話には、中年の男である神父は絡みづらい。特に美千代相手では迂闊な事を言って敵に回したくはない。

「……美千代、私たちの話が聴きたかったのではなかったのか?」

「あら、そうだったわね。じゃあ、ゆっくり聴かせてもらおうかしら。……茜ちゃんは無理してここにいなくてもいいのよ? 向こうで栗きんとんを食べてたら?」

「いえ、僕も話しますよ。……いつまでも子供じゃいられないんです。クリスマスのあの日、僕はもっと大人にならなきゃいけないって、強く感じたんです! このままじゃ、いつまで経っても僕は無力なまま。それじゃ、いけないんですよ!」

 そう主張する茜の目には、以前にはない強い『決意』が感じられた。……確かに彼女本人の主張通り、これまでの茜には『何か』が足りなかった。それが何なのかは美千代には解らない。彼女は戦う宿命ではないし、十分に恵まれた環境で育った、所詮は『温室育ちの花』だ。だが、茜は違う。彼女は生まれながらにして、様々なカタチの『逆境』という名の敵と戦い続けてきた。……そこに近年になって現れた超えるべき壁は、あまりにも強大だ。

「……解ったわ。三人で話をしましょう。それでいいわね、神父?」

 彼は茜が突然見せた成長のようなモノに戸惑っていたが、最終的には同意した。誰に言われるまでもなく、熱い煎茶を淹れに狭い台所へと向かう。



 この日、三人で食べた松越屋の栗きんとんは甘党の茜が胸やけするほどに甘すぎた。熱い煎茶を急いで飲もうとして、湯呑を倒してしまう。

「あっ!」

 湯呑は中身を零しながら回転して、ゆっくりとテーブルを転げまわった後、床へと落下した。頑丈なはずの、茜が幼い頃から使っているその湯呑はあっさりとひびが入り、あっけないほど簡単に割れた。それはどこか、これからの未来を暗示しているようで、あまり良い気持ちはしなかった。

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