第15話:『彼』からの卒業

 三月、それは別れの季節だ。『彼女』が通う学校――私立百合丘高等学校も、卒業牛来の準備で大わらわ。在校生は、『彼女』の卒業を祝福すると共に、寂しさを感じていた。『彼女』の凄いといえる点はそこなのだ。遥かに年上の高校生たちにも尊敬の目で見られる。それが『彼女』のカリスマたる由縁だ。

 もちろん、生徒会長を務めていた『彼女』は全校生徒ほぼ全員から好かれ、尊敬され、慕われてきた。……その中には、「たとえ同性でもいいから」とまで言って、本気で彼女に恋愛感情を向ける、年上の少女も少なくはなかった。『彼女』には父親譲りの『何か』があるのかもしれない。

 ――わたくしは、他の生徒とは違う。

 『彼女』は自身の義姉との触れ合いを通してどこか変わっていた。最初は義姉の事など気にも留める必要はない、ただのちっぽけな存在だと思っていた。しかし、病院でのあの『事件』の時、彼女は記憶を喪っていなにも拘らず、入院患者――ただの『弱者』を守ろうと必死だった。普段の『彼女』ならば絶対にしない、尊敬する『父親』の信念に背くような真似をしてしまった。どこから聞いたのか、彼はその事について訊いてきた。

『なぁ、若葉、お前は俺をどう思っている?』

『……やだわ、パパったら。いきなりどうしたの?』

 あの日、クリスマスイブの日に義姉を完全に負かして、『彼女』は機嫌が良かった。それになにより、『尊敬する父』である彼――大西隆と五、六年ぶりに 二人きりでフランス料理のフルコースを食べた事は、まだ記憶に新しい。その最中にそんな水を差すような真似をしてくるなんて……。

 『彼女』自身は、義姉に抱いている複雑な感情の正体は、きっと『嫉妬』なのだろうと分析して、答えを出していた。自分のように『父親』に対して思慕の念を抱いているわけでも、完全に敵わないと認めて格上扱いするでもない。

 そんな義姉――宮下茜が気に入らない、存在自体を認めたくなかった。



「……という訳で、この英文は――」

 現在十三歳――異例の飛び級で高校三年生の卒業生で、在校生に見送られる立場の『彼女』こと一色若葉は、そんなような事を考えていた。『天才美少女』である若葉は、たった今、教師が訳せと言った英文の和訳を黒板に書いていた。その動きには全く隙がなく、常に『完璧』を求める彼女らしく、あっさり「正解です」という言葉と、称賛の拍手をもらった。

 若葉より四、五緒歳年上の彼女たちは若葉を、なにか『神々しいモノ』を見るような目で拝める。彼女にその気がなくても、あっという間に周囲の賞賛や注目を集めてしまうのが、若葉が若く、いや彼女の場合は『幼く』あるから、当然の事だ。伊達にファッション誌の読者モデルなどしているわけではない。

「流石だわ! これは海外でも十分通用するし、あなたは既に三か国語を話せるんだっけ?」

 黒板に書かれた若葉による回答を満足そうに眺めながら若葉は大きな欠伸した。最近は進学する大学も確定済みだから、いつも通り天上天下唯我独尊。若葉は自分の席に戻ると、先ほどまでしていた通り、ぼんやりと窓の外を眺める。

 ――鳥は自由だわ。

 宮下茜――『義姉』と出会ったのは若葉が十一歳で高校二年生の時だった。あれから丸二年が経過しているが、教師に「貴女はまだ若いのだから、進学を急ぐことはないんじゃないかしら?」と諭されたから、現在もこうして『女子高生』という身分でいる。

 しかし去年の秋、記憶を喪った茜の行動を見て、若葉の中で『何か』の感情がざわめいた。そんな事は生まれて初めてで、大いに戸惑った。……『弱者』などいくら殺しても構わない。そんな『父』の考えを、若葉は支持していたし、彼を全面的に肯定してきた。なのに、なぜ今更になって、心がここまで揺れ動くのだろうか。

「それでは、今日の授業はここまでとします」

 英語教師が授業の終了を告げる。若葉は自分の中のモヤモヤをどうにかしたくて、いつもは一人で食べる昼食に『親友』を誘った。

 若葉の『親友』――一之瀬小夜子は、現在十八歳の現役の女子校生だ。厳しい進学校であるこの百合丘では、進学コースは特別枠として機能しており、進級ごとのクラス替えはない。入学した時から同じクラスで、名字も『一色』と『一之瀬』だから出席番号順の席ですぐに打ち解けた。……若葉にしては珍しい事に。

 幼いながらも頭脳明晰で、外見こそ小学生そのものだが、若葉には父親譲りのどこか傲慢さがあった。もちろん、それにふさわしい実力を備え持っているし、周囲の期待にも十二分に応えてきたという自負もあった。ゆえに、彼女には対等な友人は稀有といっても良かった。小夜子はそんな若葉が認めるくらいの実力の持ち主、時には若葉よりも優れた点を発揮する、『親友』と呼ぶにふさわし少女だった。

「ねぇ小夜子、昼食でもご一緒しない?」

「あらら、珍しいわね。貴女が誰かとお昼を食べるなんて。……いつもの調子はどうしたの?」

「……いえ、なんでもなくてよ? ただ誰かと一緒にいたくなっただけですわ」

「それって『人恋しい』んでしょ? 本当に珍しいわね。何が何でも私と食べたいって言えば、少しは年相応の可愛げがあるのに。……それとも何か、進路の事で後悔でもしてるの?」

 『進路』。それは、その話題にはあまり触れて欲しくなかった。だって、誰でもない若葉自身ですら、なぜ『その道』を志したのか理由も明確ではないし、「早まったかもしれない」と彼女の指摘通り、すでに少し後悔しているところだった。

「……そんな事はありませんわよ。このわたくしに限って……」

「やっぱり図星じゃない。自分で気づいてないの? 貴女は迷った時や戸惑った時なんかには一瞬口ごもる癖があるのよ。三年間の付き合いだもの、そのくらいは解るわよ」

 小夜子は一本取ったとばかりに白い歯を見せて笑う。外見自体はどこにでもいる少女なのに、進路は心理学に強い大学を選択して、あっさり合格してみせた。将来は人の心の動きを研究してみたいという理由で。

「そんな事くらいで得意げにしないでちょうだい! とにかく、わたくしと昼食を食べますの? 食べませんの? はっきり仰いな!」

 「明確な目標のある人間は強い」と、この小夜子の合格発表時の表情を見た時に思った。……今まで好き放題に傲慢に生きてきた若葉には、その『明確な目標』などなかった。ただ無駄に生き急いできただけだったのだ。小夜子はやっと自分の鞄から弁当箱が入った巾着袋を取り出した。

「もちろん、ご一緒します。もうすぐ卒業だし、若葉との思い出ももっと作っておきたいしね!」

 そう笑ってくれる彼女の笑顔が眩しく見える。思い出など邪魔なだけだと常々思っていたが、それは思考が幼い証拠だったようだ。時は金なりという諺もあるが、わざと曲解して『思い出は時間で買えない』と考えてみる。思い浮かべるだけならば、そう悪くはないフレーズだ。

 二人はせっかくなので、普段は立ち入り禁止の屋上で食べる事にした。以前、そこから落ちて生徒が数人亡くなったという事例があるため、厳重に施錠してあるのだが、生徒会長を務めていた若葉に対しての全教員の信頼は厚く、容易く屋上の鍵を渡された。

 天気は三月独特の淡いブルーに、同じく淡い雲が浮いている。屋上でのランチタイムはこれが初めてだが、野外で食べるのも意外と悪くはなさそうだ。

「ここは綺麗だし、座っちゃおうか」

 小夜子がフェンス脇に腰掛ける。基本的に手入れなどしない屋上は、とてもではないが管理が行き届いているとは言い難い。安っぽいコンクリートの床に何のためらいもなく座れる彼女に感心しつつ、若葉もそれに倣う。彼女の本日の昼食は好物の行きつけのカフェであらかじめ購入しておいたBLTサンド。ドリンクは自前のポットにホットのセイロンティーが入っている。対して小夜子の昼食は、ガッツリ和食。大きめの弁当箱の半分には白米が入っていて、おかずは卵焼き、タコさんウィンナー、ハンバーグ、から揚げ、きんぴらごぼうと種類も量も豊富だ。用意する人間はさぞかし忙しい思いをしているのだろう。

「小夜子……貴女はよくそんなに食べられますわね? 凄いですわ」

「そう? 別に普通だと思うけどね。ほら、私たちはまだ成長期だし、身長ももっと欲しいし。……若葉なんて成長期真っ最中じゃない! たったのサンドイッチ一つで満足なの? そっちの方が凄いわよ!」

 小夜子はよく食べる割にかなり細い部類に入る。所謂『痩せの大食い』タイプだ。実は若葉は少しでも食べすぎると、読者モデルの仕事に支障が出るほどにすぐに外見に出るタイプ。なので、成長期で身長が欲しくても我慢するしかない。……若葉だって、思い切り食べてみたいのだ、本音を言えば。

「それで、そんなに明誠館に進学したのを後悔してるの? なんでよ? あんなにらしくないくらいに勉強に打ち込んでたじゃないの」

 本題がさっそく出た。小夜子のこういう包み隠さないところは半分気に入っていて、半分気に入らないところだ。今回の場合は完全に後者。

「……親が進路については口を出さない教育方針なのだけれど、今回はそうもいきそうにないんですのよ」

 母親は若葉の進路になど一ミリも興味はないらしく、初めて彼女が自発的に『その道』を目指すと言い出した時には驚きはしたが、反対は一切しなかった。それに学費も若葉が自分で稼いできた金が丸々残っているので、それで十分間に合う。不満など言いようがなかったのだ。

 しかし『父親』、すなわち大西は違う。彼は『実の娘』二人を対立させようとしている節がある。一時は仲良くさせようとしたこともあったが、それは幼い若葉からしてみれば遠い昔の話。現時点で、彼は若葉を自身の継承者――『爆弾魔』になる事を強く望んでいる。口には出さないが、クリスマスのディナー時の態度ですぐに読めた。……彼女の悩みの種は底にあるのだ。

 そういった事情を全く知らない小夜子は、親身になって相談に乗ってくれる貴重な『親友』だった。家族以外で信頼できるのは彼女以外にはいないといっても過言ではないくらい、仲良くなっていた。……それが良い事か悪い事か、考えるまでもない。

「……親、ねぇ。ある意味では羨ましいや」

「なぜですの? 親に口出しされるのは貴女かて嫌でしょう?」

「だって、私は……いや、やっぱりいいや。や~めた! 食べようよ」

 小夜子は何かを言いかけたが、あっさり口を閉ざした。気分屋なのは三年間の付き合いで嫌というほど学んでいる。こういう時には彼女の言う通りにするのが一番ベスト、『親友』として最も正しい事。

「そうですわね」

 若葉もお気に入りの店のいつもの味のBlTサンドを包みから出す。春風は素肌に心地いい。……しかし、こんな日々も、あと僅かでお終いだ。それまでにどうにかしてあの『父親』に『あの道』に進むことを承諾させる必要があった。



 午後は卒業式の予行練習で授業は潰れた。三月に入る前からの事なので、生徒たちもすっかり慣れている。今日はそんな予行練習の最終段階、実際に一人一人に卒業証書を手渡すといった手順までやる日だった。誰もが「面倒くさい」と言いたげな態度だったし、実際に卒業する若葉たち卒業生たちも、何度も繰り返されるこの儀式には飽き飽きしていた。

「――、貴女は優秀な成績で我が校の――」

 校長が見知らぬ生徒にダミーの卒業証書を手渡す。彼ら教師陣のやる気は認めるが、たかが紙を手渡すことがそれほど重要とは到底思えない。若葉の番になったので、大人しく壇上へのろのろ進む。

「一色若葉殿、貴女は――」

 その時だった。広い体育館中に鈍い音、なにかがぶつかり合うような音が響き渡ったのは。

「なんですの!?」

 差し出されたダミーの卒業証書は宙を舞い、そのまま床に落ちた。当然若葉にしてみればそんなもの些細なことに過ぎないし、構っている時間が惜しい。……若葉の中に眠る『父親』――大西隆の『爆弾魔』の遺伝子が『それ』を告げる。途端に、頭がすっと醒めると同時に冴えていく。

「先生方、警察をお呼びしてくださるかしら? ……『事件』が呼んでいると」

「いっ、一色さん! それは一体とういう……」

「いいから! 早くなさいな!」

 つい、素の自分の中の『傲慢』が顔を出す。我に返る前に、若葉は高圧的に教師たちに命令を下していた。そして音の発信源と考えられる場所――ステージ横に急ぐ。奇しくも義姉である宮下茜と初めて顔を合わせた時の状況と、微妙に似ている。……あの時の犯人は若葉自身だったのだが。

「……誰かさん? ご無事? お怪我は? ……え?」

 ここにきて、若葉は生まれて初めてのショックを受けた。……思えば、良い意味で特殊な両親、特殊な環境、特殊な自分自身、その他も全てが特殊に恵まれていた。そんな彼女には耐えられないほどのショック――大事に守られ手育てられた雛鳥が、いきなり何の下準備もなしに飛ぶことを強制させられた時のように、彼女はその瞬間から大きな傷を負った。

「……ありえない、認めないわ……だって、だってわたくしは……」

 ――全てにおいて特別で、全てにおいて完璧な、天才美少女なんですもの!

 その言葉は彼女の胸の中でついに口から発せられることなく消えた。ありえない、認めない、こんな事があっていいはずがない。……ステージ横、若葉が駆け付けた場所にいたのは彼女の『親友』で、一時間ほど前に一緒に昼食を食べたばかりの一之瀬小夜子だった。

 その傍らには、同じく見知った顔の同級生で卒業予定の生徒が倒れ込んでいる。彼女の頭はまさしく血まみれで、頭蓋骨にヒビでも入っているのか疑わずにはいられないほどの大量の出血があった。『あの道』――医学の道に進もうと決めたばかりだが知識のまるでない、今の若葉でも解るほど、被害者の状態は酷い。どう見ても即死だ。



「……若葉」

「……小夜子、どうして? どうして貴女が、こんな真似を? だって貴女は、立派な『心理学研究者』になるって、そう言っていたじゃない!」

 若葉は内心で自分がなぜこれほどまでに動揺しているのか、全く理解できなかった。カリスマ『爆弾魔』、大西隆の『実の娘』であり、何度も彼の指示に従って犯罪行為を手伝ってきた。むしろ若葉は小夜子の気持ちが解って当然の『加害者側』だった。それなのに、なぜか全く小夜子が理解できない。

「『どうして』? それは私が訊きたいわ。……『爆弾魔』大西隆の『実の娘』、将来は彼を超えるとも言われている貴女――一色若葉に」

「……知っていたの? わたくしの事を。……わたくしが、大西隆の『実の娘』だと?」

 小夜子は鼻で嗤う。それは今まで一切若葉に向けた事のない、また若葉も一切向けられた事のない、生まれて初めて受ける『嘲笑』だった。……何が何だか解らない。

「私は一度でいいから貴女になってみたかった……。カリスマ、天才、そんな賞賛の言葉を表舞台で飽きるほどに浴びて、誰もが認めずにはいられない存在になってみたかったのよ!」

「わけが解らないわ……。貴女のやっている事は、それとはまったくの逆じゃないの? 人を殺すという事は、光りを浴びるどころか、闇の暗い世界に堕ちるだけよ? わたくしの『父親』があの大西隆だと知っていながら、なぜ……」

「それ以上は聞きたくないわ!」

 小夜子が、血のべっとりついた凶器――大きなハンマーを振り回す。昼食の摂取エネルギーが多いためか、彼女は全く疲労の色を見せず、一直線に今度は若葉の頭を迷わず狙う。……そこには『親友』の顔など一切存在しなかった。ただの『殺人者』としての小夜子の顔は、同じ犯罪者である『父親』のものと酷似していた。彼の場合は『敬愛する父』なので、全く恐れなどい抱いたことがないが、今の小夜子から漂う殺気に、若葉は生命に危機を感じた。

「貴女はいいわよね! 全てにおいて恵まれていて! 優れた遺伝子を持つ両親! 特別な環境! 可憐な容姿! ……良好な家庭環境! 私には親すらいないのに!」

 最後の一言で、やっと腑に落ちた。特例である若葉以外のほぼ全ての進学コースの生徒は、高額な授業料を免除してくれる『特待生制度』を利用して、この学校に入学してくる。一部は確かに天才肌なのだろうが、若葉のような本物の天才以外は並大抵の努力で合格できるほど、この私立百合丘高等学校の入試は甘くない。例え学年でトップクラスの成績を誇っていたとしても、この学校に入学してしまえば、あっという間に『上の上』から『下の下』へと転落していく。

 若葉と小夜子のように、常に高い水準でいられる存在の方がレアケースなのだ。……彼女は、学費がないために逆にこの学校に入学せざるを得なかったのだ。この学校は優秀な成績こそ正義、優秀な成績を収めてさえいれば、学校の方から通学のための交通費まで支給してくれる。

「……わたくしには、とてもではないけれど貴女の気持ちなど理解できませんわ。でもひとつだけ、貴女と出会えてよかったと思える『思い出』が出来ましたわ。……わたくしの中にはあり得ないと思っていたものが、ちゃんと存在したと確信させてくれて、『ありがとう』」

 五分も会話はしていないが、既にパトカーのサイレンの音が聞こえる。今まではお役所仕事だとばかり思っていたが、こういう時には存外優秀で頼りになるモノだと若葉は思った。

「まだ私の話は終わってないのよ!」

 ハンマーを振り回す小夜子の動きを、若葉はスローモーションでも見る気分で眺めていた。彼女の中の『爆弾魔』の遺伝子が目を開けた。いつも、犯罪行為を行う時に使うそれは、今や完全に防御用のものへと変貌していた。直前まで感じていた生命の危機という概念はどこかへと消えて、代わりに生まれたのは欲しかった『何か』。

「何で当たらないのよ! 貴女には、武道や護身術の心得までもあるっていうの! 恵まれ過ぎよ!」

「……えぇ、わたくしは一色若葉。天才美少女ですの。『天才』は天に選ばれた者、神に愛されし者の称号よ? これしきの事など造作もなくてよ!」

 恐怖心は既に消えていた。我ながら心境の変化が急すぎる。しかし、これも『一色若葉』という名の自分自身の一面なのだ。

「何をしている!」

 駆け付けた警官たちは、少女二人に素早く駆け寄り、小夜子から簡単にハンマーを奪い取った。それと同時に、容赦なくかけられる手錠。

「離して! せめて、この女だけは――」

「現行犯だ! しかも被害者になりそうだったのは、あの一色若葉だ! 調べるまでもない!」

 彼らは若葉の『正体』を知らない。当然だ、あの注意深い『父親』が自身と、愛する『実の娘』の関係が簡単にバレるようなへまなどしない。だからこそ彼もまた、『カリスマ』たり得るのだ。

「……お怪我はありませんか? それにしても実際に間近で見ると、本当に愛らしいですね! うちの娘が君のファンなんですよ!」

 警官の一人はそう言って、若葉にヘラヘラした笑みを向けたが先輩らしき警官に睨まれ、すごすごと彼女の前から消えた。事件のおかげで卒業式は中止となったが、その方が若葉にとって都合が良かった。……小夜子との『思い出』に浸る無駄な時間などいらなかったから。



「ねぇママ、ママはなぜパパと結婚したの?」

 年相応の質問に、北欧出身の母親は驚いた。とっさに出た母国語は発音が怪しかったが、娘には十分なくらいに伝わった。……要は、『優秀な子供が欲しかったから』。いっそ清々しいまでの割り切った理由に、笑顔になる。

 若葉に欠けていた『何か』。その正体は『倫理観』『モラル』『良心』……大体こんな言葉で表すモノだった。物心つく前からあの『父親』と触れ合っていたのだから、欠けていていて当たり前だったモノ。それが今になって、彼女の中で萌芽を見せた。

 それは明るい未来への『希望』か? はたまた再び犯罪者に手を貸す未来への『絶望』か? ……芽吹いたばかりのその芽の正体を知る者は誰もいない。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る