どこにかえる 四
雨が降りそうな夜だった。
暗く、苦しく、森の中には得体の知れないものが潜み、溢れかえっていそうな、たまらない闇の中だった。
空には星さえなく、おぼろげな月の影ばかりが、何を照らすでもなく空に浮かんでいる。
聞こえるのは、やはりカエルの鳴き声ばかり。
信じられないほどやかましい笑い声ばかり。
ゲコ、ゲコ、ゲコココココ……。
おぞましき夜の、その深みへと落ちていくように、私は神社への階段を、タッタ一人で上り詰めていた。
泥のような汗が、ボツリボツリと石の段を濡らしていく。足が棒のように固まっていて、踏み出すたびに噛み付かれたような痛みが走った。呼吸も苦しく、めまいを感じるほどに乱れている。
痛い。
熱い。
寒い。
いじめられているような悲しさを感じながら、鼻をすすり、私は上へと歩み続けていた。
なぜ、こんなことをしているのか。
それは私にもわからなかった。
きっと、この時私は何かにとり憑かれていたのだろう。それくらい理不尽な心の運びだった。あれほど辛かった階段を、少しだけマシになったとはいえまだまだ全快には程遠い足を引きずって上るなんて、正気の沙汰ではない。
闇はどこまでも深く、恐怖は一段ごとにいや増すばかり……。
だけど、それら全てを差し置いてなお、私はこの階段を上らねばならないと、そういう衝動に突き動かされていた。
目が見開き、鼓動がおさまらず、呼吸は
誰かが、私を呼んでいる。
それが何者かなんてわからないけれど、ともかく、私にとって命を投げ打ってでもその声のもとへとたどり着かねばならない、そんな誰かが……そう思うと、居ても立ってもいられなかった。渇いた喉が水を求めて遠い川へと無理を押して体を走らせるように、暑い日差しを避けて日陰に逃げ込むように、壊れた足を引きずってでも、獣から逃れようとするように……。
あぁ、苦しい。
痛い。
辛い。
たまらない。
永遠のように長い階段を、私は初めて一人で上っていた。
あれはまだ、昼よりも前であったか……私が、人形の首をこの村の中で見つけてしまったのは。コハクマルと別れてから、まだ一日も経っていないなんて……。
あれから私は自分の寝室に閉じこもり、誰にも会わないようにと一人で膝を抱えていた。きっと、周りからはコハクマルのことを寂しがっているように見えただろう。実際それも正しかった。
腹の中に、ドロドロの真っ黒な物体が、蛙石のように鎮座している。
この階段を上らねばならないという衝動は、実のところ、昨日ヨシとゲンの夢を見たときから感じていたものだった。でも、あの時はもっと大事なこと……コハクマルの問題が目の前にあって、そちらに気を回さざるを得なかったから……。
あぁ、だけど……。
ついに、ついにハッキリと名前が出てしまった。私が夢で見た中に確かに現れたあの名前が……。
ショウゾウ。
その名だけであれば、あるいは偶然であったかもしれない。名前の一致くらい、ありえることかもしれない。だけど、すでに偶然は重なりすぎていた。偶然と呼べる境界を超えて、私に恐ろしき一つの可能性を絶えず訴え続けていた。今さら気がつくのでは遅すぎたくらいなのだ。人形も、あの子たちの着物も、湖も、何もかも……そして私は見つけてしまった。あの恐ろしいクビソギの所業を、この村で。
あの夢は、この村の中の話かも知れない。
それならば、なぜこの村に子どもがいなくなってしまったのか……。
なぜ記憶のない私だけがここにいて、他のみんなは人形しか存在しないのか。
熱い息が、腹の底から吹き出してきて、喉を焼く。
……何度、コハクマルがいてくれたらと願っただろう。
あるいは、私も彼と一緒に船に乗り込めばと、どれくらい後悔しただろう。
悔いども悔いども、全ては過ぎ去りしこと……。
あぁ、どうしてこんな寂しい夜に、こんな冷たい階段を、一人で上らなければいけないのか。
ゲコッ、ゲコッ、ゲコココココ……。
その後、私がいつその階段を上りきったものだか、いつ神社へとたどり着いたのだか、よく覚えていない。とにかく意識が
ああ、やはり私は、何かにとり憑かれていたに違いない。きっと、とても悪意のあるおぞましい何かに……でなければこんな夜中に、一人っきりでここまで来ることなどありえなかったのに。
ゴシゴシと目をこすり、倒れかけた足をなんとか踏ん張った私は、自分がタッタ一人、神社の中に立ち尽くしていることに気がついた。粘つく甘い香りの中に、荒く息を吸っている私を発見した。
いつともなく妖気を発する人形の棚の間を抜けて、この神社のタタリ神様を祭る祭壇の前に、私はいつの間にやら体を運んでいたのだ。
息が苦しかった。
汗が不愉快だった。
体中が痛かった。
それなのに、寒かった。
ふと、自分が今杖を持っていないことに気が付く。いったいどこで落としてきたのか……そもそも、私はあの杖を使ってこの階段を上っただろうか。それさえも判然としなかった。
………………不思議だ………………。
私はなぜ、こんなところにいるのだろう。
こんなに暗く、おぞましい黒い屋根の下に……。
闇は確かに質量を持って、私を今にも潰さんとのしかかってくるようだった。神社の中に相も変わらず香り続ける甘い匂いも、呼吸を止めてやろうとしているかのごとく鼻に絡みつき、胸を突き刺した。
いつの間にか、あの村とはつながっていない、何処か遠くの世界へと足を踏み入れてしまったみたいだ。
ここは地獄か、あるいは夢の中か……。
蛙ばかりが、少しも変わらずに鳴いている。
ゲコココココ……。
夜の神社の中は、それはそれは大変に暗かった。そもそもこの神社の入口は、建物全体の凸型の出っ張った部分のその左右にあるがために、わずかな夜光さえもまともに入らぬ構造である。するとこの神社の中で明かりと呼べるものは、この橙の光……白い幕の裏に灯されているであろう、二つのロウソクしかないのだった。
みんなの人形は、闇に黒く塗りつぶされていて、よく見えない。
後ろを振り返れば、私自身から伸びているはずの影が、私を黒より暗い闇の中に引きずり込まんと揺らめいている。
とにかく、私は光が欲しかった。どこまでも深まる漆黒の中で、呪われた人形たちに背中を睨まれて、私はたまらなく寂しい気持ちになっていたのだ。
というよりも、恐ろしかった。
今にもこの闇の中を引き裂いて、タツミさんが、あの獣が、カエルたちが、私を食い尽くさんと飛びかかってくるように思えて、生きた心地がしなかったのだ。
きっとこの時、私は正気に戻ったのだろう。
それくらい、急に心細くなってしまった。
私はなぜここにいるのかと、なんて馬鹿なことをしているんだと、おびただしい量の後悔が震えとなって表れる。
もう……帰るのだって、ここからは遠いのに。それでも引き返そうかと考えてしまうくらいに、ここは暗く、冷たかった。
なんて……恐ろしい……。
だけど、あぁ……だけど。
では、どこに帰ればいいのだ?
あの村か? おばあさんの屋敷か?
もはや得体の知れなくなった、村人たちに囲まれて?
全てを忘れたまま、タッタ一人で……。
……ダメだ。それはダメだと、何かが叫ぶ。
お前は知らねばならぬと、せき立てる。
それはカイリか、ゲンか、それとも、この村に潜むタタリ神さまか。
ともかくその声は、今の私には絶対で……。
その主は、この幕の裏にいるのだ。
それだけはわかっていた。
私は、人形たちから逃げるように、あるいは声に導かれるままに、祭壇に挟まれた白い幕を左右にめくり、蛙石の間へと足を踏み入れた。光が欲しくて、答えが知りたくて、先へ進んだ。
赤い光が目を焼いて、思わず私は顔を伏せる。
そして、目をこすりつつ前に向き直った瞬間、息が詰まった。
そこにあの、恐ろしき獣がいたのだ。
悲鳴を上げ、あやうく尻餅をつきかけた私は、だけど、それがただの生首であることに気がついて、フーっと大きく息を吐いた。
……蛙石の下、闇に慣れた私の目には
クマは口をだらんと開けて、大きな牙を覗かせながら、今にも私に食らいつこうとしているみたいに、首だけの体で
この暗がりの中、目が痛いほどに揺れている光に照らされたそれは、背後に並ぶ人形たちよりも呪われたナニカに思えた。
また、心細くなる。
死ぬほど怖くなる。
とんでもないほどうるさくなった鼓動が、カエルの鳴き声と混じりあい、鳥肌を植え付ける。
ゲココココ、ゲコココココ……。
ゲッゲッゲッゲ……。
目を逸らすように、私は首の飾られた台の下の、今は黒く見える紺色の幕へと視線を落とした。不思議な飾り幕の裏にある、何物かを見つめていた。
ここにあったはずの植木鉢は、いつの間にかなくなっている。
……何かが、また
お前はこのために来たのだと。
その裏にあるものを、今度こそ見るために来たのだと、そう言った。
追い立てるように、蛙が鳴く。
ドクン……ドクンと、鼓動が強く、頭を揺らす。
ここに何があるのか。
知ってしまえば、後戻りはできない。
いつの間にか膝をついていた私は、だけど、震える指先が紺色の幕にかかるのを抑えられなかった。もっとも、自分がはたして腕を止めようとしているのか、気が
いずれにせよ、私はその幕を右に押し開けた。
運をタタリ神さまに任せ、願いを呪いの生首の下に探して……。
私は最後の一枚を乗り越えた。
…………………………。
汗が、伝う。
膝の裏が、ジンジンと痛む。
……あぁ、やっぱり……。
ここに……いた……。
ハハハと、乾いた笑いをこぼしながらも、絶望的な気持ちで目を見張る。
そこあったのは……人形であった。
紺色の着物を着た、髪の短い、女の子の人形だった。
ゲココココココ……ココ……。
噛み付くような痺れが、つま先から、ゆっくりと髪の先まで這い伝わってくる。
蛙石とクマの生首の下、たった一つ隠されるように置かれていたそれは……。
私の、人形だった。
グワーンと、蛙と闇と、私の鼓動の大笑いが、バタバタと私の中に響き渡る。
呼吸がつまり、喉が潰れ、私はたまらずその場に何かを吐き出した。
うぅ……おぇ……。
げぽっ。
ぐ……うぁ……。
見つけた、見つけてしまった……。
やはり私は……ここにあったのだ。
私の命は……私の記憶は……この村に……。
それを……村の人たちが知らないわけがない。
私は、騙されていたんだ。
最後まで手放したくなかった信頼が、バラバラと崩れていく。
この村の人たちはみんな……私に嘘をついていたんだ。おばあさんも、シズさんも、マキさんも、ギンジさんも、クダンさんも……。
あぁ、なんてこと……。
涙が赤い光をおぼろに溶かし、私はたまらず顔を伏せた。何かをはばかるように、声を抑えて泣き続けた。自分の
ああ、コハクマル……。
どうして私を一人にして、遠くに行ってしまったの?
こんなところに、私一人だけ取り残して……。
…………。
いや……だけど。
ギュッと、拳を握り締める。
まだ……。
まだ、わからない。
この人形に触れるまでは、何もわからない。なぜみんなの人形がここにあって、なぜ村に子どもがいないのか。
そして、私は結局、何者なのか……。
もしかしたら……もしかしたら、幼い私なんかじゃ想像もつかないような、止むにやまれぬ事情があるかもしれないじゃないか。みんな、やっぱりいい人たちかも知れないじゃないか。
それもこれも……触れてみなければ……わからない……。
瞬間、私は腰砕けに、暗い幕に潜り込むように、人形の前に自分の体を横たえた。頬にびしゃりと、
あぁ、どうして、どうしてこんなに怖い思いをしなければいけないのか……なぜもっと平和に終わらせてくれないのか……。いいじゃないか、何も思い出せなくったって……そうすれば、またいつものようにシズさんが起こしてくれて、ギンジさんと散歩に行って、マキさんとお話して、寝る前はおばあさんと夜空を見て……。
この人形に触れてしまえば、もっと恐ろしいものを知らなければいけないかもしれないのに……。
…………。
もし、村にまだコハクマルがいれば、私はここで引き返しただろう。恐怖のあまりに
だけどもう、ここには誰もいない。
私はあの日おばあさんの屋敷で、風が草葉を揺らすささやかな音の中、月光に照らされて目覚めた頃と同じように……一人ぼっちだ。
今更……どこにかえる?
ドクン……ドクン……。
ゲコ……ゲココッ……。
眼前の、人形。
確かに私と同じ顔した、私を模した、髪の短い女の子。
闇の中、幽かに燐光を発する白い顔。
唇。
大きな瞳。
今までと同じように、私が人形に触ることで、何かを思い出すのなら……。
あぁ、タタリ神さま……。
私は、腕を伸ばした。
お願いします……。
どうか私に……平和を……。
指が、人形の顔へ届き、冷たい頬に添えられた。
瞬間、全てが真っ暗になった。
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