どこにかえる 三

 次の日、コハクマルとクニミツさんは村を出ることになった。なんでも、コハクマルの怪我……あの、包帯で巻かれた下というのは恐ろしく深く傷ついてしまっていたらしく、この村での処置には限界があるということだった。だから、二人は湖を渡って、遠くの人里の医者へと向かうことになったらしい。その話を聞いたのは、クニミツさんにクマのことを聞いたその夜だった。

 あぁ、仕方がないな……と、私は思った。コハクマルが生きるためにはこの村を出なければいけないこと、薄々はわかっていた。だけど、やっぱり泣けるだけは泣いた。だって、もう別れなければいけないなんて、寂しいじゃないか。せっかく出会えた親しい人と、会えなくなるなんて悲しいじゃないか。

 また私は一人になるんだ……。

 そう思うと、どうしたっていい気分にはなれなかった。結局私がコハクマルにできた恩返しは、最後の最後まで寝汗拭きにとどまってしまったことも悔しかったし。

 時間はまだ、お昼前。

 空は、曇った私の気持ちを映すかのようにうねる雲に覆われていて、澄んでいるはずの湖面さえも意地悪な灰色ににごらせていた。

 私と、ギンジさん、マキさん、それとクダンさん、他にも幾人かの村の人たちが、クニミツさんとコハクマルを見送りに、湖前の船着き場に集まっている。村まで下りるのは私は正直嫌だったけれど、でも、最後までコハクマルの近くにいたかったのだ。だから勇気を出して、ここまで来た。

 幸い、タツミさんに出会うようなことはなかった。

 彼は今、どこでどうしているのか……。

 クニミツさんに抱きかかえられていたコハクマルが、ボロく使い古された船の上の横たえられる。彼は昨日よりかはいくらか意識がはっきりしているらしい。ここに来るまで、手を握る私の顔をずっと何か言いたげに眺めていたのだが、やがて意を決したらしく、声を絞ってぼそぼそとささやき始めた。

 私は、耳を近づけてそれを聞く。

「なぁ……スミレ……」

「うん……」熱心に、私は耳を澄ます。きっとこれが最後の会話になるだろうと思ったから……。

「拙者は……後悔はしていないぞ……」

「……」

「おぬしが死んでいたら……拙者は……一生、自分を……それにくらべれば……目の一つや二つなど……」

「コハクマル……」

「……だが、けっきょく拙者は……弱かったな」力なく、コハクマルは無理に微笑んだ。「おぬしの言ったとおりだ……おぬし一人守りきれん拙者が……男がどうなどと……身のほど知らずであった……」

「なによ、今更そんなこと……」笑おうとした。でも、無理だった。わざとらしい引きつりが、頬をピクリと震わせただけだった。

 船が、揺れる。

 風が冷たく、耳を冷やす。

「拙者は……くやしいのだ」コハクマルは、涙と一緒に、かすれた言葉を吐き出した。「拙者は……あのとき、おぬしをおいて逃げようか、迷ったのだ……なんというひきょうもの……あの一瞬さえなければ、もしかしたら……逃げ切ることもできたやもしれんのに……」

「そんな話、もういいよ……」彼の涙をぬぐいながら、私はその手を、両手で握った。「もう、これで会えないんだよ……楽しいこと、話そうよ……」

「スミレ……拙者は……」コハクマルはまた何か言おうとしたが、どこか痛みが走ったのか、ひどく苦しそうに歯を食いしばった。

 慌てて私は誰かを呼ぼうとする。だけどコハクマルが、きっと今の彼の力いっぱいを振り絞って私の手を引いたので、立ち上がりかけた腰をもう一度落ち着けて、彼の顔に耳を近づけた。

「頼む……スミレ……待っていてくれ……頼む」コハクマルは、ぜえぜえと声を絞り出す。「拙者は……必ず……必ず戻ってくるから……次はもっと強くなって……階段なんぞ何往復でもできるくらいに力をつけて……必ず……必ずまた会いに来るから……それまで……」

「コハク……マルぅ……」

「拙者は……おくびょうものだ……自分の命が惜しくなって……げほっ……怖くて逃げようとした……そうしたら……おぬしが死ぬことが怖くなって……怖くて怖くてたまらなくなって……拙者はそれが怖かったから……おぬしを助けに戻ったのだ……」

「…………」

「おぬしが死ぬことが、自分の死ぬよりも恐ろしかった……そんなことに、拙者は逃げようとして初めて気がついたのだ……っ……」

「……っ」

「次は、絶対に迷わんっ……!」コハクマルは、涙を片目からボロボロとこぼしながら、ささやくような声で、叫びを上げた。「拙者は……おぬしが好きだ、スミレ……だから、もう一度……拙者に……」

 そこまで言った彼の口を、私は指でふさいだ。そして、彼の耳元で、彼のようにささやいた。

「大好きだよ、コハクマル……絶対に……また……会おう……ね……」

 私たちは、そうして泣きあった。言いたかったたくさんのことを、全部涙と交換して、わんわんと泣いた。

 ……やがて別れの時は来る。

 哀しくも私はマキさんに優しく引き離され、見たことのない痩せた男の人が、かいを持って船尾に立つ。

 揺らめく波紋の下に、小さな魚が逃げ惑う。

 思わず、私はその船に飛び乗ろうかと思った。それくらいに名残なごり惜しかった。だけど、私が行ってなんになろうか? 私はどうせ……この村以外に、居場所がないじゃないか。

 あぁ……。

 別れるって、会えなくなるって、こんなにも寂しいものなのか……。

「大変お世話になりました」船に乗ったクニミツさんが、私たちの方に体を向けながら、深々と頭を垂れた。「コハクマルのための医者の手配だけでなく、私のための書状までも用意してくださったこと、感謝の言葉もありません」

「ほんに、あなたは腰の低すぎる方ですな、クニミツ殿」人形師のクダンさんがカカカと笑う。「こう見えて我らの村の権威はちょっとしたものですからな、これくらいのことはなんでもない……その書き付けさえあれば、必ずや良い口は見つかるでしょう。いやはや、熊殺しともなれば、おいたちが何か気を配らずとも引く手あまたでありましょうがね」

「それも、この書状にその旨をキヨさまが書き記して下さったがゆえですよ」と、クニミツさん。「大熊の首落としなど、山師と疑われても致し方ないことですから……それでは皆様、これにてお別れです。スミレさんも」

 名前を呼ばれて、涙に腫れた顔を上げる。

「できることなら、またお会いしたいものですね、スミレさん」クニミツさんは、曇り空など吹き飛ばさんばかりに朗らかに笑っている。「ぜひ、コハクマルのことをこの村で待っていてやってください。それが彼の励みになりましょうから」

 声も出せなくなっていた私は、唇を噛み締めて、精一杯に何度も頷いた。

 泣きながら、クニミツさんを真似て、祈っていた。

 やがて離れていった船が、湖の真ん中の小島の影に見えなくなっても、マキさんとギンジさんと一緒に、いつまでもそこにいた。

 ゲココココと、蛙がどこか遠くで鳴いている。嘆き疲れる私をあざ笑うかのように笑っている。だけど、それでも動くことはできなかった。お別れがこんなに辛いものだなんて、思っていなかったから……。

 だって、今日からコハクマルはいないのだ。

 おかしいな……ただ単に、元に戻っただけだっていうのに。自分の中から、大切な何かがポッカリと抜け落ちてしまったような気がした。きっとコハクマルが、私の一部を船と一緒にどこかへ持って行ってしまったのだろう。

 結局、夢の話はしそびれちゃったな。

 ……ふぅ。

 風が、冷たい。

 もう……ここにいても仕方がないか。

 泣きはらした後というのは、いつだって寒くなる。

 肩にずっと手をかけてくれていたマキさんの顔を振り返ると、彼女は優しく、何もかも承知の顔で笑いかけてくれた。

 そうさ、まだこの村にだって、温かい人がいてくれる。

 泣いてもいいさ。

 だって……コハクマルとは、また会おうって約束したんだ。それまでずっと、泣いてたっていい。今度会ったら、笑えるように。

 さあ、帰ろう。

 と、私はようやく湖に背を向けて、杖をついて歩き始めた。といっても、前ほど歩くのを杖頼りにしているわけではなかった。本当に不思議なことだけれど、私はあの獣……クマの襲撃以降、足がいくらかしゃんと動くようになっていたのだ。人支えがなくても、きっとこの村の中くらいは散策できるだろう。

 村の中心の広場の中ほど、人形作場の近くまで来た折、ふとマキさんが、私たちの前を歩くギンジさんを心配の眼差しで見つめていることに気がついた。釣られて私も階段前の角を曲がったギンジさんの顔を覗くと、その顔は、なんだか灰でもかぶったみたいに青白く、今にも倒れるんじゃないかってくらいに憔悴しょうすいしきっている気配だった。

 うわっ……シズさんみたいだ。

「あの……ギンジさん?」私は彼に話しかけた。

「……ん、どうした?」答えるギンジさんの目は、なんだかドロンとくぼんでいる。

「えっと、大丈夫ですか? あ、いや、私が言えたもんじゃないかもしれないですけれど……」自分の涙のあとをこすりつつ、私は聞いた。「顔色、すごく悪いですよ?」

「あぁ……そうか、そうか……いや、なんでもないんだ……」明らかになんでもありげな表情で、ギンジさんは笑う。「心配せんでくれ……よし、帰ろうか……スミレ」

 なんだか釈然としなかったが、彼があんまり無理に笑うから、私もそれ以上聞けずに歩き出した。マキさんは訳知りなのかなんなのか知らないが、とにかく眉をひそめて彼を後ろから見つめている。よく見れば、そんなマキさんの目にも、泣きはらしたみたいなあとが見えた。

 ……この二人も、私と同じような気持ちなのだろうか。コハクマルのことを心配してくれているのだとしたら嬉しいけれど、でも、少しだけ、違和感も覚える。

 いったいどうしたんだろう……。

「……コハクマル、大丈夫かなぁ」と、落ち着かない私は、村の中を肩を細めて通り抜けながら、沈黙を埋めるようにマキさんに話しかけた。「あの船、沈んだりしないですよね?」

「心配しすぎですよ」マキさんは、口に手を当ててくすりと笑う。「ショウゾウさんは、腕のいい漕ぎ手ですから、大丈夫ですよ」

「うーん……」

 …………。

 ん?

 最初、私はその名前を以前、どこで聞いたか思い出せなかった。だけどなんとなく、その名前は知っているような気がした。

 嫌な予感がして、歩調がゆるむ。

 私たちはその時、おばあさんの屋敷へと続く階段にちょうど差し掛かろうかというところだった。そこはクマがコハクマルの目を裂いた場所だ。私は何となく嫌な気分がしてしまったので、とりあえずショウゾウという名前のことは忘れて、少し足元を見ないようにして前に進んだ。

 そしてそのせいで私は、杖が何か地面の下のあった硬いものに引っかかって、危うく転びかけてしまった。

 それだけなら、よかったのだが……。

 反射的に地面を見た私は、よく叫ばなかったと思うほどに、ブルリと全身がすくみあがった。

 コハクマルのことを忘れてしまうかというくらいに、総毛立った。

 ガクガクと、歯の根が震える。

「ん……どうしました、スミレさん?」と、マキさんの声。

 返事は、できなかった。

 足元に転がるそれは……人形だった。

 人形の、首だった。

 そして、その首が私に教えたかの如くに、ショウゾウという名前はどこで知ったものだったかが、頭の中に閃いた。

 閃いてしまった。

 ……カヤだ。

 ゲンの快気祝いに……お菓子を用意できないかって、頼んでいた人の名前。

 同じ、湖。

 カエルがどこかで鳴いていた。

 ゲコ、ゲコ、ゲコココココ……。

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