どこにかえる 二

 パッチリと、目が開いた。

 前触れもなく、ただ単純に、目が覚めた。

 深い呼吸で、胸に不自然に溜まっていた空気を抜く。

 朝……か?

「目が覚めたか……上々上々」

 と、聴き慣れたおばあさんの声に引き上げられるように、私はいつもの部屋で体を起こした。暗い寝屋の空間は、相変わらず私一人で使うにはだだっ広くて、かすかに灯る囲炉裏の火が、甲斐も無くチラチラとまたたいている。

 ほのかな灰の匂いごと、私はぬるく緩んだ空気を大あくびで吸い込んだ。

 さて……。

 なんだったっけ?

 一瞬ここがどこだが、なぜ寝ていたのかが全部がわからなくなってしまって、幼子おさなごのようにあどけない気持ちで、おばあさんの顔をジロジロとにらんでしまった。夢を見たあとは、よくこんな気分におちいるのだった。言葉が浮かんでこなくなって、自分が誰だか、ここがどこなんだか、イマイチよくわからなくなるような……。

 おばあさんは、ただ黙って見返してくる。

 やがてチクリと胸が痛んだ。

 続いてドクンと鼓動が一つ、記憶の巡るよりも先に胸に響く。

 そしてそれを皮切りに、驚くべき速さで、戦慄の光景が脳裏にバラバラと映し出された。

 喉が軋む。

 爽やかなゲンの笑顔が、ヨシの声が、燃える夕焼けの空が吹き飛ばされた。

「あ、お、おばあさん! コハクマルは? コハクマルは大丈夫ですか!!?」一も二もなく、私は叫んだ。

「……まずは落ち着きなさい」おばあさんは優しくも厳粛げんしゅくな声で、咳き込む私をなだめる。「スミレも腕を怪我した身なのだから」

 そう言われて初めて、私は自分の腕に白い布が巻かれているのに気がついた。でも、それがいつできた傷なのかは思い出せない。

「コハクマルは……コハクマルはなぁ……」

 と、おばあさんが歯切れ悪く口をごもらせたのを見て、最悪の想像に頭が痺れる。

 目の前が、次第しだい々々に真っ暗になり始める。

 死んだ?

 神社から下る階段で感じた背中の揺れが……彼の温度が、涙を誘うように体を震わせた。

「あぁ……いや、コハクマルは生きておるよ。ひとまずは、助かったのだ」

 バッと、腕に落としていた視線をおばあさんのシワの深い顔に戻した。「ほ、ホントですか!?」

「……だが、あまり思わしい状態ではない」

 ズキッと、心が痛くなった。

 それはそれは深刻に、ありえないくらいにハッキリと、胸の奥で嫌な音がした。

 だって……コハクマルがあんな大怪我したのは……私のせいだから……。

 全てが終わった今、あの時は毛ほども感じられなかった罪悪感が、ジワジワと私の心をむしばみ始めていた。居ても立ってもいられない焦燥感に、為す術もなく私は落とし込まれていた。

「思わしくないって……」

「コハクマルもつい先ほど目を覚ましたようだが……未だに、熱がおさまらない。それに、顔の傷がな……」

 一瞬、おばあさんはそこから先を語るのを躊躇ちゅうちょした。だが、熱心に見つめる私の目を受けてか、ため息をひとつ挟んで、先を続けた。

「あの大熊の爪は、半面に深く食い込んでいたらしくてな……片目が丸ごとえぐり取られてしまったのだ。痛ましいことだ……」

 ゾクリと、背筋が凍った。

 片目が真っ暗な穴になったコハクマルの顔の幻想が頭をよぎり、ぶわりと涙があふれ出す。視界がおばあさんの中心にぐるぐると回り出して、呼吸がふさがり、喉が、胸が、ギシギシと痛みを発し始めた。

 何かにのしかかられたかのように、私は体を突っ伏して、そして、両手で顔を覆って泣き伏せた。

 それはそれは、わんわんと泣き叫んだ。

 やってしまった……。

 私は、最悪だ。

 うぅ……おぇ……。

 ごめん……コハクマル、ごめん……。

 そのまましばらく、泣きはらしていたと思う。

 おばあさんの手が、優しく背中を抱いてくれているのを感じていた。

 たくさんの「ごめんなさい」が、絶望と一緒に渦を巻く。

 目が、えぐられた。

 吹き出す血を、流れた赤い水溜まりを、容赦のない獣の匂いを思い出す。

 落ちた獣。

 私を庇って振り返ったコハクマル。私を盾にしたってよかったはずなのに……いや、普通はそうする。というよりも、振り下ろされた爪に対して、人は必ず背中を向けようとするだろう。タツミさんに襲われた時に、目が見えない暗闇の中でも、私は必死に背中で体を庇おうとしていたのだから。だって、怖いものに対して前を向くのは恐ろしすぎるじゃないか。正面からあの獣に相対するおぞましさは、私が一番よく知っている。

 それなのにコハクマルは、しっかりと足を止めて、力いっぱいに真後ろを振り返った。

 私の背中より、彼は自分の顔で爪を受け止めることを選んだんだ。

 瞳に食い込んだであろう爪の鋭さを想像して、幻痛が顔を縦に裂く。生々しく瞳をくり抜かれるような心象が、何度も何度も繰り返される。

 あぁ、どれだけ怖かっただろう。

 どれだけ痛かっただろう。

 ごめん……ごめんなさい……。

 と、謝罪と後悔に思考を塗りつぶし、あらかた泣きはらし、そしてはたと、彼がつい先ほど目を覚ましたのだというおばあさんの言葉を思い出した。

 コハクマル……コハクマルはどこに?

 がばっと、顔を上げる。「こ、コハクマルはどこですか!?」

「大丈夫だ、この屋敷にいる」

 と、おばあさんが言い終わらないうちに、私は立ち上がっていた。

 一瞬の立ちくらみ。

 右足が、グリッと痛んだ。だけど不思議千万にも、私は歩くことができた。今までズレていた何かが、右足の膝のところで、しっかりとはまり直したような感覚だった。

「あぁ待ちなさい! お前も丸一日寝ていたのだ、静かにしていないと……」

 引き止めるおばあさんのしゃがれ声も遠く、私は転びそうになったり、壁にすがるように倒れかけたりしながらも、なんとか屋敷の廊下にまで飛び出した。

 コハクマルのいる部屋は、きっと彼が泊まっていた部屋だろう。あの、供え棚があった狭い場所。

 歯を食いしばり、痛みに耐え、私はところどころボロができている木の壁伝いに、その部屋まで一直線に向かっていった。落ち着かない心に従って、その命ずるがままに駆けぬいた。

 そして、たどり着いたふすまを勢いよくザッと開けた先に、はたして彼はいた。

 あまり広くはない部屋の真ん中に、広く敷かれた茶色い布団。そこに仰向けに倒れている、顔半分に布をぐるぐると巻いたコハクマル。

 彼を発見した刹那、私をはやし立て続けていた胸の鼓動が、喉から飛び出さんばかりに跳ね上がり、思わず呆然と立ち尽くしてしまった。

 あまりにも……彼は変わり果てていた。

 黒い。

 そう思った。

 頬がくぼみ、首や耳が不自然に赤く火照っていて、今にも息を引き取らんばかりに体を横たえていた。

 私がこれまで見てきたコハクマル……四日五晩山を歩き通し、神社への階段を私を支えて上り下りしてみせ、それでもなお瞳に力をみなぎらせていた少年はどこにもいなかった。

 涙が、また飽きもせずにあふれ出してきた。

「コハクマル!」ガラガラの声で、私は叫ぶ。

 声ばかりが、虚しく響く。

 カエルがどこかで鳴いていた。

 やがて立ち尽くす私の下で、痛そうな呼吸を続けていた彼の、一文字に閉じていた左目がうっすらと開く。

「コハクマル……」

 私は呟く。

 コロンと、彼の目が……もう、一つしか残っていないよどんだ瞳が、私の声に振り返った。

「おぉ……スミレ……か……」

 カッスカスの声だった。

 初めて見たときよりもやせ細り、階段を下りきったときよりも憔悴しょうすいしきった彼の姿だった。

「ごめん、コハクマル、ごめん!」と、私はたまらず彼の元にひざまずいて、布団から伸びていた汗ばんだ手を握りしめた。「私がいたせいで……こんなことに……」

 しばらくまた私は、喉を潰す罪悪感と嗚咽おえつに俯いていた。あまりに痛ましく、あまりに哀れにやつれてしまった彼の手に、おでこを擦りあわせることしかできなかった。

 が、やがてポツリと、「スミレさんは悪くありませんよ」と深い声が聞こえてきたのに、涙をこぼしつつも顔を見上げる。

 クニミツさんが、コハクマルの枕元のやや後ろに正座していた。どうやらコハクマルの看病をしていたらしいが、私は慌てるあまりに、今まで気づいていなかったようだ。

「クニミツさん……」

 私は何か、彼に言わなければならないこと、あるいは聞かなければならないことがあった気がして、思わず目を伏せた。

 ごくんと、涙を抑えるつもりでつばを飲み、震える膝を押さえつけた。

 そして、今ここにある私の命は、この人のカタナによって皮一枚で繋がったものであったことを思い出した。そして、それはつまり、コハクマルの命をもこの人は救ってみせたということにも……。

「あ、そ、その……どうも、ありがとうございました! いや、えっと、本当に、その……あ、ありがとうございました……」と、しどろもどろに私は頭を下げた。いったいどれくらいの礼を言えば良いのか、正直わからなかったのだ。きっとどれだけ言葉を尽くしても、言い尽くせないくらいの恩であろうから……。

 しかしクニミツさんは、首を横に振る。「礼には及びません。お礼なら、私からあなたに伝えたい」

「……え?」

「あなたの叫びが、私をあの熊の元へと導いてくれました。スミレさんはあの時、コハクマルを助けようと叫びましたね? そのおかげで、彼はこうして生きています。本当に、ありがとうございました」

 私よりもずっと深く、クニミツさんは頭を下げた。その姿に、いろんな気持ちが湧き上がってきて、混乱する。

 お礼を言われた?

 私の叫び?

 でも、だって……。

「ち、違います、私は……」と、両手を振りながら、あの時のことを思い出す。「いや確かに、私はあいつからコハクマルを遠ざけようと……でも、そもそもコハクマルが怪我をしたのは、私を背負って逃げてくれたからで……私をわざわざ運んでさえいなければ……」

「そうしなければ、スミレさんが死んでいました」

 ビクッと肩が震える。

 また一瞬、頭が真っ白になった。

「そうですか……コハクマルは、スミレさんを背負って逃げたのですね」クニミツさんは、寝ているコハクマルに笑いかける。「立派です。この上なく立派です。よくやってくれました……あなたの勇敢さのおかげで、スミレさんはこうして、元気に、生きていますよ」

 コハクマルの顔がわずかに、困ったように微笑んだ。

 弱々しい笑顔だった。

 温泉ではしゃいでいた彼とは、似ても似つかない気だるげな表情……だけど、不思議と満足げな力が、そこにはこもっていた。

「わかりますか、スミレさん。あなたはきっとコハクマルに背負われなければ、生き残ることもできなかったのです。彼に対してごめんなさいも、ありがとうも言えなかったのです。それはとても悲しいこと、それだけはあってはならない、なんとしても避けなくてはいけないものだった。そうでしょう?」

「…………」

「スミレさんが生きているということは、素晴らしいことなのです。この上なく素晴らしい、最高の結果なのです。コハクマルや……あなたの右目が戻る代わりにこのスミレさんが死ぬとしたら、あなたは決してその道は選びませんね?」

 コハクマルはわずかに頬を緩ませて、どことなく誇らしそうに目を閉じた。

 …………。

 いつの間にかおさまっていた涙のあとを拭い、私は鼻で深く深く深呼吸をして、ズズズッと鼻水ごと吸い込んだ。

 そう……そうだ。

 私は、生きているんだ。

 あの獣が、森の中から私たちとシズさんの間に降ってきたときのことを思い出す。最初コハクマルは、私から手を離して飛び退いてしまった。そのせいで私は転んでしまったのだけれど……でも、それって仕方がない。ぎょっとして身を引くことなんて、熱いものを触ってアッと手を離すのと同じことだ。

 そして……一度逃げ出した体の向きを元に戻すのは難しい。一度逃げる方向へと向かった足を、力いっぱい踏み留めるのは簡単なことではない。

 コハクマルは、ちゃんと戻ってきてくれた。

 反射に従い逃げ出す方がよほど簡単な状況で、私に迫る恐ろしき獣を見て、そして……確かに一歩、獣に向かって足を踏み出したのだ。

 あの獣の目の前で、私を引っ張り上げたのだ。

 なんという勇気。

 あの時の彼の行為の向きが、今の私の命の向きそのものである。

 もう、感謝しかない。

「コハクマル……ありがとう……」握ったままだった彼の手に、またおでこを合わせて、祈りをこめた。「ありがとう……私、生きてるから……」

 ほんのりと、握り返してくる彼の指先。顔を上げると、コハクマルの目からも、涙が一筋こぼれている。

 嬉しかった。

「スミレさん……」背後から、シズさんの声。「あまり、無理はなさらない方がよろしいかと思います」

 振り返ると、彼女はいつにも増して青い顔で、頭上から私を冷たい目で見下ろしていた。そのかたわらには、おばあさんが肩を抱え込まれるように支えられながら立っている。

「あ、あの、はい……」私は、少し気恥ずかしくなってうなずいた。「ごめんなさい……心配だったものですから……」

「……クニミツさんも、少し休まれた方が……」

「いえいえ、私は大丈夫です。お気になさらず」クニミツさんは笑って、シズさんに向けて首を振る。「コハクマルのことは私にお任せ下さい。いや、むしろこれほどあつく彼の手当をしていただいたこと、感謝の言葉もありません。ここはどうか、私にお任せ下さい」

「何を申されますか」と、今度はおばあさんが深いシワを緩ませて、笑った。「あなたがいなければ、今頃この村はどうなっていたかわかりませぬ。まこと、ありがたいかぎり……コハクマルも、スミレをしっかり守ってくれたようで……それでは、スミレや」

「あ、はい」

「お前さんは、ここにいたいかね?」

 そう問われた私は、びっくりして目を見張る。すごい、どうしてわかったんだろう……私はてっきり、お前もまだ寝ていなさいなどと言われ、連れ戻されると思っていたのだ。そしてその場合、どうやってこの場に留まってやろうかと、言い訳の言葉をあれこれ思案していたくらいだったのに……やっぱりおばあさんもすごい人なんだな。

 そうだ、私は、今はコハクマルから離れたくなかった。彼の眠りを邪魔したくはないけれど、でも、私にだって、寝汗を拭くことくらいはできるはずだ。

 いい加減、助けられてばかりなのはウンザリじゃないか。ゲンだってそれを気にしていた。

「あの、はい、ここにいます」私はそう、断言した。

「そうか……うむ。だが、じきに腹も空いてこよう。今、何か用意しよう」

「ありがとうございます」

 と、私の会釈を確認したおばあさんは、チラと一目クニミツさんと視線を交わし合い、また頷きあってから、シズさんに支えられ、音もなく廊下へと消えていった。

 私はなんとなくため息をつきながら、視線をコハクマルの顔へと戻す。彼はいつの間にか眠ってしまったようで、目を閉ざしたまま口でか細く息をしていた。

 辛いんだろうな……苦しいんだろうな……と、また沈みかけてきた気持ちを落ち着けて、私はスーっと口から息を吸い、鼻からフンと吐き出した。今から私は、何かコハクマルの世話をするんだと、気合を入れるためである。そろそろ私にも恩返しをする順番が回ってきてよいはずだ。

 ……なんて、気持ちだけ盛り上げてはみたものの、今の私に、これといってできることなんてあるわけがない。ただはやるばかりの気持ちを込めて、彼の手を握っているくらいしかできないのである。なかなか、マキさんのようにはいかないものだ。

 そうして、結局は落ち着かない気分のまま、顔を上げて寝屋を見渡せば、必然的にクニミツさんへと視線が向くわけである。

 彼は、いたって落ち着き払った態度で、私に微笑みを返してきた。

 ふと、予感みた浅い鼓動が、胸をわずかに揺すぶった。

 今一度、静かに座すクニミツさんの顔へと向き合うと、なんとも言えない不思議な感覚に襲われる。

 簡単に言えば、それは違和感。

 今、私を見つめ返しているこの人は……あの恐るべき獣の首を、一刀のもとに切り落とした、あの鬼なのだ。

 意味もなく、姿勢を正す。

 この時まで私は、コハクマルへの心配に気を取られるあまりに、この人が成したことの凄みを失念していたのだ。

 獣の口の中で感じた、鋭く真っ赤な一閃を思い出す。

 あの大きな獣の首を落とすというのは、尋常なことではない。私は一度、首をくわえられ、もう死ぬというすんでのところまで追い詰められた身だ。あの獣の肉の重さ、毛皮の硬さ、強靭そのもののような体の強さを、誰よりも近くで体感している。だからこそ、その首がタッタ一太刀で落とされたなどとは、そう易々やすやすとは信じられなかった。

 それに、斧。私は一度、ギンジさんが庭でまきを切っているところを見たことがあるのだが、その時の彼の苦心ぶり、滝のように流れ落ちていた汗もまた覚えている。ものを縦に切るというのは、見た目ほど簡単なことではない。

 クニミツさんって……いったい、何者だ?

 それに……私は意識が途切れるその直前に刻まれた、一つの異様な光景も思い出していた。

 それは、クニミツさんが刀を下ろした後のこと。

 彼は、地に膝をつき、私たちを喰らわんとしたあの獣に向かって、手を合わせていた。

 私には、手を合わせるという行為の意味はわからない。

 だけど……。

 なんだろう、この違和感。

 なぜだか……私には、クニミツさんのあの仕草の中に、優しさのようなものを垣間見た気がするのだ。

 そんなこと、ありえるだろうか?

「何か、聞きたいことがあるみたいですね」

 クニミツさんの声に驚いて、ハッとする。まあ、これだけジロジロ見られては、そう考えるのは当然か。

「あの……いや、えっと……」と、私は質問を投げかけようとしたのだが、しかし、寸前で躊躇する。だって、この人は私だけでなく、この村やコハクマルにとっても神の如き恩人である。私のちっぽけな好奇心をぶつけるよりも先に、とにかく地にひたいがつくほどに頭を下げて、お礼の言葉を尽きるまで吐き倒すべきなんじゃないか。それどころか、温泉に行って背中でも流して差し上げるべきなのでは……。

 なんて、身のたけもわきまえず子ども心に礼儀を考え始めてみた私であったが、やはり大人であるクニミツさんからすればそんな幼稚な発想はバレバレなようで、「何も気にすることなどありませんよ。どうぞ聞きたいことがあるならば、まっすぐにお聞きになってください。スミレさんの心遣いは、痛いほどわかっておりますから」と、あっさりと見透かされた言葉でなだめられてしまい、私はまた何ともなく赤面してしまった。

 ……慣れないことをしてもしょうがないか。私って、失礼なやつだもんな。

 それじゃ、お言葉に甘えて……。

「えっと……クニミツさん、あの獣の首を切ったときなんですけど……」私は切り出す。

「はい」

「こうやって、その、手を合わせていました……よね?」とそう言いながら、私は顔の前で、その仕草を真似た。「あれは、いったい……」

「あれは、祈っていたのです」クニミツさんは答えた。

「祈り?」私は眉をひそめた。正直……恩人に対して失礼だが……私は少し、眉間にピクっときていたと思う。だってあの獣は、私とコハクマルを殺そうとしたじゃないか。コハクマルの片目を奪ったじゃないか。いったい何を祈ることなどあるというのか……。

 なんて、クニミツさんは、きっとそんな私の浅っぱちな気持ちの変化にも気づいていたのだろう。朗らかな笑顔は変えないまま、ゆったりと私に向けて語り始めた。

「スミレさんは、なぜあの熊があなたたちを襲ったのだと思いますか?」

「……え?」

 また、ひと呼吸の間思考が止まる。

 なぜ?

 ……なぜって、そりゃあ……。

 あれ?

「スミレさんはあの熊を、きっと悪者だと考えているのでしょう。なるほど、あのものはあなたやコハクマルを食い殺そうとしましたからね……スミレさんにとっては確かに悪者です。しかし、ではどうしてあの熊は、スミレさんにとって悪いことをしようとしたのでしょうか。ただ単純に、とても意地悪だったからと、そう思いますか?」

 クニミツさんはそこまで言うと、普段は薄く閉じているまぶたをほんの心もちだけ釣り上げた。

 …………。

 熊が、私たちを襲った理由……。

 深く息を吸う。

 考えてもみなかったことだった。

「あの熊の行いが、スミレさんやコハクマルにとって悪いことであるのは疑いようがありません」クニミツさんは続ける。「それはそれで真実でしょう。しかし、その行為は、はたしてあの熊にとってはどういう意味であったでしょうか? なにゆえ、彼はあのようなことをしたのでしょうか」

「くまにとって……ですか?」

「例えば……スミレさんとコハクマル、二人があの湖の真ん中に放り出されたとします。そしてそこには、あなたたちのうち一人だけを支えられる板が浮いています。スミレさんは、どうしますか?」

「…………」

 私はこの時、懸命に頭を動かした。だけど、私の頭には一切の答えが浮かんでこなかった。

 クニミツさんの話は続く。「この板にもし二人ですがれば、二人とも死んでしまいます。しかし、二人とも死にたくはない。であるがゆえに、もしコハクマルがあなたを突き飛ばして、一人だけ生き残ろうとしたら……それは、スミレさんにとっては悪いことですよね? だって、死んでしまうのですから」

「……はい」

「しかし、生き残るコハクマルにとっては、それはいいことではないでしょうか。確かに、のちのちになって彼は後悔に身をさいなまれるかもしれませんが、そんな全てが、命あってのものです。自分の命を守るために、努力することの何が間違いでしょうか。のちにどれほど後悔しようと、彼はスミレさんを押しのけなければ、死んでいるのです。どちらにしろ、片方しか生き残らないのですから」

「…………」

「あの時、それと同じことが起きていたとは、考えられませんか」

「それは……その……」

 私はなんとなく、クニミツさんの言いたいことがわかったような気がして、思わず首筋に流れてきた汗をぬぐった。

「野に生きるものたちはみな、明日を生きるためのかてを探しています」クニミツさんは静かに語り続ける。「それは、生きとし生けるもの全てが求めることです。きっとあの熊はよほどお腹を空かせていたのでしょう」

「お腹を……すかせ……」

「はい。スミレさんも、お腹を空かせたことがありますよね。私もコハクマルも、つい一昨日までは、たいそうお腹を空かせて歩いていました。飢えの辛さは、よくわかっているつもりです」

「…………」

「あの熊も、飢えた私たちと同じ気持ちだったと、そうは思いませんか?」

「クニミツさんたちと、同じ気持ち……」

「はい」クニミツさんは、やはり静かに頷いた。「なればあの熊にとっては、あなたたちに襲いかかったことは、必死の思いだったことでしょう。きっと死にそうなほど腹を空かせ、餌が見つからずに山を歩き回り、やっと食べられるものを見つけ、狂喜して牙を剥いたのだとすれば……あの熊は、本当に悪者でしょうか?」

 ……クニミツさんは、不思議な人だ。

 どうしてこんなに、答えられない問いばかりを投げてこられるのだろう。

「スミレさんは私たちを初めて見たとき、どう思いましたか? 何か、食べるものをコハクマルに恵んであげたいと、そうは思いませんでしたか?」

「思い……ました」と、あの日のことを思い出しつつ頷いた。

「では、もしあの熊が私たちと同じ気持ちであったとすれば、彼にも何か差し上げたかったと、そうは思えませんか?」

「だ、だけど! あ……いや、ですけど、それが、私たちなんて……」

「そうです。その通りです。しかし、獣にそれがわかるでしょうか? あの熊は、あなたたちを知らないのですよ」クニミツさんは胸に手を当て、私に説き続ける。「彼は人と共に暮らしているわけではありませんからね……そんな彼が、あなたたちの命の素晴らしさを、悲しみを、喜びを、どうして知りえましょうか」

「えっと、それは……」

「ではもし仮に、あのものが口をきけるのであれば、スミレさんはどうしたでしょうか。私たちを食べないでと、その代わりに何か食べるものならあげるからと、そういう風に頼んでみようと考えたのではありませんか? 優しいスミレさんなら、なんとか自分たちが死にたくないことを、わかってもらおうと思ったのではありませんか?」

「…………」

「そしてもし、あの熊にそれが伝わっていれば、彼もあのような残酷なことはしなかったでしょう……それどころか、スミレさんにお礼を述べて、山へと帰っていったかもしれません」

「……はい……」

「しかし悲しきかな、獣に言葉は伝わりません。であるがゆえに、私もその首を切り落としました。説得ができるのなら無論その道を取りましたが……あの熊は、言葉を知らないがゆえに私に殺されたのです。ですが、言葉を知らないということは罪なのでしょうか? 彼の死は、言葉に対してめしいであったことへの罰だったのでしょうか」

 クニミツさんの口調はあくまで穏やかであったが、私はしかし、額に手を当てて、殴られたみたいに顔を伏せてしまった。

 私はこの時、何かに気がついたのだと思う。言葉ではハッキリと説明できないけれど、大切な何かに……命とは、罪とは、どんなものかということに……。

 クニミツさんの深い声が、頭上から刺すように響いてくる。「あの熊にしてみれば、食べようとしたものに殺されるとは、なんと無念でしょう。彼はただ、飢えを満たしたかっただけ。ですが、それはスミレさんにとっては、命の終わりでした。だから、私はあの獣を斬りました。それは、熊の命の終わりです。そうでしょう?」

「はい……」と、私はなにとなく責められているような気分で、頭を垂れた。

 実際、私は恥ずかしかった。

 ここにきて初めて、自分の考えの浅はかさに気がついた心地がして……。

 自分自身にとって悪いことだからって、あの獣……クマの行いは悪いものだって決めつけてかかってしまうことの手前勝手さを、今、初めて理解した。

 獣は獣で……お腹を空かせて……。

 そして、私は食べられたくなくて……。

 正しいのは、どっち?

 ため息一ついて、前を向く。

 クニミツさんは、私が初めてこの部屋に彼を見つけた時と変わらぬ笑顔で、私を見ていた。

「善しや悪しなど、この山や湖にはありません。罪や罰とは、人の心の中に成るものでしかないのです。そこに真理など求めようもありません。私は確かにあの生き物を殺めました。その首を落とした時の気持ちに、いかなる偽りもありません。しかし、それでも私はあの飢えた獣を殺めたのは、変わりません。お腹を空かせた、一つの命をです」

「でも、それは……そうしないと……私たちが……」と、まだ困惑の抜けきらない胸の内から、言葉を絞り出した。

「もちろんその通りです。私がああしなければ、スミレさんは死んでいました。それだけはあってはならない……ですが、だからといって、あの獣の死の哀れさが消えてなくなるでしょうか? 彼は、お腹を空かせていたのですよ? きっとどうしようもなく辛くて、何か食べるものが欲しくて、やっと食べられそうなものを見つけて、かじりつこうとして……殺されてしまった。可哀想ではありませんか?」

 ぐっと、喉が痛くなった。可哀想だと思えてしまったから。

「それが全てです。スミレさんとコハクマルの命が助かったことは喜ばしく、獣の死はいたましい、どちらも真実です。それぞれが、別々に真実としてるのです。だから、私はせめて祈ろうと思ったのです」

 それぞれが、別々に真実……。

 それだ。

 ぞわりと、髪の毛が逆立った…‥ような気がした。

「人は、気分で生きています。どれだけ命を奪っても、気づかなければ罪とは思わず、バレなければ裁かれもしません。そしてはたと自分のしたことに気がついて、何もかも間に合わなくなってから、一人で念仏を唱えたりするものです。私はそれを悪いこととは思いません」

「…………」

「ある日命の尊さに気がついて、申し訳ないと思ったのなら、それはそれでいいのです。あるいは奪ってしまった命のおかげで今を生きていることを、ありがたいと思っても、いいのです。それらを下らないものと思うこともまた、止められないでしょう。それでも私は、あの大きな命の首を落としたとき、確かに御免ごめんと思ったのです。そう思ったのです。そしてそれは、それでいいのだと、私は思っています。あなたたちの命が救われたこと、あの熊の死の悲しさ、どちらも真実です。それでは、いけませんか?」

 と、優しい笑顔で、クニミツさんは話を結んだ。

 その顔が、初め見た頃よりもずっと尊いもののように思えた。

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