第七章 どこにかえる

どこにかえる 一

 昼の光が陰りだし、爽やかな風が吹き抜ける夕暮れの空。

 ヨシとゲンがどこかの軒先に並んで腰掛けながら、沈みかけの太陽を眺めていた。

 青と橙が混じりあった空は、うねるように広がる白とねずみ色の雲に雄大に彩られ、夢の中には無いはずの目から涙がこぼれそうなほど鮮やかに燃えていた。

「……手、良くなってるの?」

 ヨシが、右にいるゲンに向かってそう聞いた。髪がまだわずかに濡れているところを見るに、どうやらこれは、あの川遊びの日の夕方であるようだ。

「うん」口数少なく、ゲンはうなずく。

「そっか、じゃあ、そろそろ人形作りに戻れるんだ」どことなく寂しそうに、ヨシは笑った。「よかったね」

「…………」

 また一つ、風が吹く。

 静かな場所だ。

 普段は賑やかな、ソウヘイやカイリたちが、誰もいない。本当に、二人っきり。

 夕日の赤は、ヨシの顔もゲンの顔も、等しく薄紅色に染め上げていた。

「ゲンさぁ……ヤキチのことかばってるんでしょ?」

 そう問われたゲンは、スッと、緩やかにヨシを見る。「……何が?」

「その頭のことよ」

「どうして?」

「どうしてもこうしても……他に誰がやるのよ」ヨシは、ため息。

「……ヤキチじゃないよ」くぐもる声で、ゲンは呟く。

「もういいっての、それ」と、ヨシは舌を出した。「ちゃんと本人に聞きました。こってり絞ったら白状したわよ」

「へぇ……ホントに?」ゲンの口元が、かすかに微笑む。

「うん」

「そう……」

 ゲンの表情をよく観察するが、相変わらずそこにはどんな感情も映らない。

「で、ねえ、なんでヤキチはあそこにいたわけ?」ヨシがまた、次の質問。「そればっかりはあいつ変なことしか言わないのよ」

「さぁ」と、ゲン。

「……やっぱりヤキチなんだ」

 ボソッと、ヨシがそうこぼす。ヤキチのことは、どうやらカマをかけただけだったらしい。

 でも、ゲンはそれにさえなんの反応も示さない。

「人形の首を切ってたわけじゃないんでしょ? それしてたのが誰なのかは、もうみんな知ってるし」

 …………。

「ヤキチがなんで練習場にいたのよ? 全然それがわかんないんだけど」

「ヨシなら、知ってると思ってたよ」ふいにゲンが、そんなことを言いだした。

「え?」

「ヤキチは、ヨシに見られたと思ってたから」

「……えっと、どういうこと?」ヨシは目を細めて、少しだけゲンに身を寄せた。

「ヨシも、村にいたんでしょ」ゲンは、答える。

 それを聞いたヨシは、急に水をかけられたみたいにぱっと目を見開いて、身を引いた。「え……し、知ってたの?」

 ゲンは、わずかに肩をすくめて、「ヤキチに聞いた」と正直に答えた。

 そのまましばらく、ヨシは口を開けてゲンの方を見つめていたのだが、急にガクッと気が抜けたようにうなだれてため息をついた。「そっか……見られてたのね」

 呟くヨシの顔がほんのり赤いのは、夕日のせいだけではなさそうだ。

 ゲンは何も言わない。

「……なんで村にいたのか、わかる?」ヨシが、ゲンに聞く。

 スーッとゲンの首が横を向き、この日初めて、真っ直ぐにヨシと向かい合った。

 美しい顔だ。

 見ているだけで、心が暖かくなるほど素敵な華だ。

 そんな顔で見つめられながら、ヨシはゲンの言葉を待っていた。

 でも、やっぱりゲンは何も言わない。

「……もういいわよ」やがてヨシが根負けして、そのまま体を、ゲンとは反対方向にダランと横たえた。「わかんないだろうなと思ったわ」  

 ゲンは、ヨシを見ている。

 しばらくして、結局またヨシが、片腕で頭を支えながらボソボソと説明を始めた。「……あの夜、村に子どもがいないからって、大人たち、何をしてたか知ってるしょ?」

「知ってるよ」ゲンは答えた。

「うん……だから、その……」歯切れ悪く、ヨシは続ける。「私たち、もう子どもって年でもないわけだから……って、カヤがしつこく言ってくるからさ……いや別に、そんなことしなくていいとは思うんだけど……まだ、子どもできちゃうのは怖いし……でもまあ、悪いわけでもないかなとも思ったし……一緒にさ、教えてもらいに行こうかなって思ったわけよ」

「カヤと?」

 ヨシが、呆れた目をゲンに向ける。「あんた、それ本気で聞いてるの?」

 ゲンはまた軽く肩をすくめると、そのまま前に向き直ってしまった。

「私、あの日はゲンに会いにいったんだけど」

「……俺? どうして?」

「いいよもう、忘れて」ヨシは諦めたようにうなってから、またすっと起き上がり姿勢を戻した。「私もいざとなったら恥ずかしくなって帰っちゃって、カヤに笑われちゃったし。そんなことよりも……あんた、人形作りできるようになるのはいいんだけどさ、だからってまた、アマコのこと放ったらかしにするようになっちゃダメよ」

「ほったらかし?」ゲンの首がわずかに傾く。「なにそれ?」

「何それ、か」皮肉っぽく口を尖らせて、ヨシは笑った。「ゲンさあ、アマコがあんたのことどう思ってるか、わかってないでしょ」

「俺のこと? 迷惑なんじゃない」ゲンは、そう言い放った。

「……はあ?」

「俺のせいで、アマコは色々させられてる」ゲンは淡々と続ける。「俺がアマコの前で作業してると、いつも手伝うことになる。ジロウといた方が、アマコは楽しいだろうに」

「それ、本気で言ってるの?」

「ん?」

「……手伝うことになるって、それ、アマコが自分から進んででしょ?」

 ゲンは目を閉じて、左手をこそこそ動かし始めた。「母さんに手伝うように言われてるからね」

「そりゃそうかもしれないけど、でも、だからってアマコがそれを嫌がってるってわけじゃあないでしょ」

「ふーん」

「ていうかあんたさあ……昔っから、アマコってゲンにくっついてたじゃない。あの子、ゲンの背中でしか寝ない子だったのよ?」

「昔のことさ」

「あぁもう、あんたねぇ!」と、ヨシが軽く怒鳴った。

 ピタッと、ゲンの手が止まる。「……ん?」

「私がなんでこんなこと言ってる、わかってる? アマコが泣いてたからだよ」真面目に凄みながら、ヨシはゲンの方へと身を乗り出した。

 ゲンが、またヨシの顔を見る。「泣いてた?」

「アマコがね、ゲンの右手が治ってきて良かったって、人形を作れそうだって、何度も言うのよ。それがちょっと不自然だったからさ……もしかしてさみしいのって聞いたら、急に泣き出しちゃって」

「…………」

「手が治ったら、もう一緒にいてくれなくなるとか、いつも今日が最後かもしれないって思って怖くなるとか、だけど、そんなこと思っちゃいけないのにって……あんなにアマコが喋ったの、初めて見たわよ。もう、人形が壊れた時と同じくらいにワンワン泣いちゃってさ」

「…………」

「ゲンが遊んでくれなくなったの、アマコは寂しかったんだよ。生まれた時からずっとゲンが連れて歩いてたの忘れたの? それがいつの間にか自分のことに夢中になって、みんなと遊ばず人形ばっかり……もしもそれが私やイチロウだったら、ちゃんと妹と遊んであげなさいって大人が叱ってくれたんだろうけど、あんた跡取りだもん。私らみんな、ゲンの邪魔をするなって言われてるんだよ? 知ってた?」

 ゲンはゆっくりとヨシから目を逸らして、足元に視線を落とした。

 ヨシは、畳み掛ける。「甘えようとしてたところで、邪魔しちゃいけないって言われたアマコの気持ちにもなってよ、悲しいでしょ? それでもイナミやソウヘイなら、こっそり大人の目を盗んで構ってもらうこともできたんだろうけど、アマコって聞き分けよすぎるから……その時アマコ、四つとかだったのに」

「…………」

「ゲンの家は特別だったから……あんたはまだしも、アマコはあんまり親には構ってもらえてないじゃない。だからその分、全部ゲンに頼ってたのに、急にダメって言われて、可哀想だったよ。なんだろうね……私やカヤじゃ、代わりはできなかったみたい。あんたが人形作ってるとき、寂しそうに後ろから眺めてる姿なんて見てらんないもの。ゲンは全く気づいてなかったけどさ」

「…………」

「……ゲン?」

 ゲンは無表情で、瞬きもせずヨシを見つめていた。

「なによ、何が言いたい目なの、それ?」ヨシが聞く。

 しばらくゲンはそのまま黙っていたが、やがてアマコのように細い声で、ヨシに質問を投げかけた。

「……泣いてたって、ほんと?」

 ムッとして、ヨシはゲンを睨む。「嘘なわけないでしょ」

「アマコが……泣いてた……」

 深い呼吸が、その胸をわずかに膨らませたのがわかった。

 やがてゲンは、反応を待っているヨシからゆったりと視線を外した。

 しばらく、彼はそのまま自分の草履のあたりを見つめていた。そして、しびれを切らしたヨシが何かさらに言い出そうとした瞬間、急にガクリと、首を膝の間に落として、はあーっと大きく息を吐いた。

 そのまま両手で、頭を抱える。「……えぇ……なんだよそれ……」

「え、なに?」ヨシが耳を寄せる。

「……うそだろ……なんで……」

「ウソ? 何が?」

「……そんなの……おかしいよ……」

 ゲンは、ピクピクと震えだす。

 ……?

 なんだか、まったく見たことのないゲンの姿だった。表情は見えないけれど、ひどく動揺しているのはひと目でわかった。

 すごくびっくりして、目を見張る。

 ヨシも、眉をひそめて困惑していた。

「俺……最低だ……」

「げ、ゲン?」

「うわ……いやいや、あぁ……」ボサボサの髪の毛をぐしゃぐしゃと掻きむしりながら、ゲンは聞いたことのない、ジロウのように自信の無い声でつぶやき始めた。「そんなに……アマコに気を遣わせてた? うっそだろ……俺……最悪じゃん……どうしよう、なんて謝ったら……あぁ、なんで気付かなかったんだ……やばいよ、もうだいぶまともに話してないよ……だって、俺といてもつまんないだろうって思ったから……」

「あの、ゲン? ちょっと……」

「でも、なんで俺なんかを? 俺なんて、だって、何も面白いこと言わないし、ヨシたちみたく優しくもないし、自分のことばっかだし……だ、だから俺はあんまり話さないようにしてたのに……アマコ、俺といると気まずそうだと思ったから……だって、アマコもジロウといた方が面白いはずだろ? いや、おかしいって、俺といたって楽しくないって絶対……なのに、泣いてた? なんで? というか、邪魔するななんて、そんなこと……俺は、色々とさせてもらってるだけなんだから、周りが気を遣うのはおかしいじゃないか……むしろ、人に言われないと俺はいつやめるべきかわかんないから、感謝してるくらいなのに……あぁ、ど、どうしようヨシ? 俺、どうしたらいい?」

 そう言ってヨシを振り返ったゲンの顔に、ビックリした。

 眉を思いっきり八の字にして、泣き出しそうな表情でヨシにすがっている。

 なんだか、パーンと頭を叩かれたみたいな気分だった。

 今まで私が抱いていたゲンの印象が、ガラガラと凄まじい勢いで崩れていく。

 冷静なゲンが、影のあるゲンが、秘密を隠す彼の仕草が、意味のない妄想へと忘れ去られていく。

 そしてその代わりに、正反対の理解が、胸のうちにムクムクと湧いてきた。

 今までのゲンの言動の全てがこの時、繋がった。

 ……あは。

 そうか、わかった、わかったぞ。

 ゲンは……ゲンって……。

 ゲンって……バカなんだ。

 暖かい風に、心がくすぐられる。

 なんだ、そっかそっか、そういうことか……あぁそう、それで今まであんなにとぼけた感じの反応ばっかりだったのか。

 本当は鈍かっただけか。

 あはははははは。

 なんだよそれ、笑っちゃうなぁ。

 もう……顔が素敵すぎて、すっかり騙されちゃったよ。だってこんなに完璧な顔をしているんだもの。ありえないくらいの美しさを保っているんだもの。見ているだけで吸い込まれそうなくらいに瞳が澄んでいるんだもの。きっとその裏には、顔に負けないくらいに神秘的なものを隠していると思うじゃないか。

 まさか、中身がこんな素朴だったなんて……。

 ああ、おかしい。たまんない。

「ゲン、あんた……」ヨシは口をぽかんと開けて、なんだか呆れたように口元を歪めた。「あんた、なんだかんだアマコの兄だね……」

「え?」

「変なところで繊細なんだから……もう。普通に一緒にいる時間増やせばいいでしょ! そんな困るところじゃないから! シャキっとしろ!」

 パッシーンと、背中を打つ音が小気味好く響く。「いてっ」

「ほんともう、男ってなんでみんなどこか抜けてるのよ……」と、愚痴りながらもヨシは笑った。「そっかそっか、ゲンは自分がアマコに好かれてないと思ってたのね。あんなに露骨だから気が付いてないわけないって思ってたよ。ていうか、気づかないってにぶすぎない?」

「一緒にいる時間……って、なに?」

「なにってなによ。二人で人形作ったりでもすればいいじゃない。それにご飯はお昼にみんなと食べるとか、とにかくもっと、みんなといればいいの」

「みんなと……」

「あ、別に、一人で練習する時間を無くせってことじゃないのよ。もちろん、自分一人だけの方がやりやすい作業もあるんだろうしさ。ただ、もうちょっと、アマコといてあげてってだけのこと。わかった? 同じ家に住んでるんだから、難しいことじゃないでしょ」

「……うん」いくらか落ち着きを取り戻した顔で、ゲンはまた空を見つめる。「……でも、なんでアマコは俺なんかを?」

「……理由なんかないよ。そういうもんでしょ」もっともなことをヨシは言う。「それにゲンはみんなに好かれてるよ。でなかったら、いちいち川に誘うわけないでしょ」

 無表情に戻ったゲンは、だけど、どことなく寂しそうに呟いた。「俺、迷惑でしょ」

「ん? またそういうこと……」

「なんで俺なんかが世継ぎなのかな……俺が一番、何もできないのに」

「…………」

 ゲンの顔は表情こそなかったけれど、丸まった背中からはどことなく、のないむなしさめいたものを感じた。

 やがて真面目な声で、彼は語り始める。

「俺なんて、ヨシやカヤがいなかったら、何もできない。自分が食べるものも作れないし、木だって伐りにいったこともない。道具を用意してもらって、毎日誰かに研いでもらって、好きなことして寝るだけ。今まで、ヨシたちみたいに、誰かの面倒だってみたこともない」

 ヨシも笑うのをやめて、話を聞く。「ゲン……」

「ヨシもカヤもすごいよ。俺なんかよりも、ずっとずっといい人で、ずっとずっと賢くて、ずっとずっと頼れて……アマコだって、俺なら毎日の掃除なんて、忘れるに決まってるのに……アマコは絶対忘れない……」

 やがて声は消えいって、ゲンは寂しくため息をついた。

 ……ほんと、今日はゲンの印象が変わって行く日だ。こんなに喋る彼を私は知らない。

「ゲンは……男でしょ」ヨシは、少しだけ嬉しそうに微笑んだ。「私たちとは仕事が違うもの。それに人形作りの練習は、大事な仕事よ」

「男か……」ますます悲しそうに、ゲンは呟く。「それ、なんなんだろう」

「なんだろう……って?」

「誰かに優しくするのに……男も女も関係ないと思うのに、なんで男はそんなことしなくていいって言われるんだろう」トボトボと、ゲンは唇を動かす。「男だから優しくなくても情けなくないなんて、全然おかしいじゃないか。俺よりも、ヨシやカヤの方が優しいことが、当たり前になんてなるわけないじゃないか。それはだって……俺にはできないことなんだから。俺にできないことを、ヨシはちゃんとできるんだから。それは少なくとも、俺より凄いって意味なのに……なんで、女だから当たり前って……俺にできないことができるヨシが、そんな言葉で誤魔化されてしまうんだろう……間違いなく、ヨシは俺よりすごい……それなのに、俺ばっかりが世継ぎ世継ぎって……ヨシたちのすごさが、価値がないみたいに……」

 嘆く彼の姿を見ていた私の中に、暖かい花がぱっと咲いた。

 夢枕に耳元まで赤くなり、胸がきゅーっと苦しくなった。

 初めてゲンを見たときよりも、ずっとずっと……。

 ゲンは……いい人だった。

「私は……全然すごくないよ」と、喜ぶでもなく、どちらかというと困ったみたいに目を細めながら、ヨシは笑う。「空回りもいっぱいするし、ヤキチには偉そうだって嫌われるし、実際偉そうだしさ……カヤみたいにはなれないよ」

「カヤか……うん、カヤも、すごいよ」

「怒ったとこ見たことないもんね」

「うん、ない」

「体弱いのに、世話焼きだし」

「カヤは、優しいよ」

 と、ここでやや間が空いて、しばらく緊張を解すように表情をぐねぐねさせていたヨシが、ゲンに切り出す。「……ねえ、知ってる? カヤのこと」

「カヤのこと?」

「多分だけど……」ヨシは少しわざとらしく肩をすくめる。「カヤ、タケマル兄の子ども、身ごもったんだって」

 ゲンは最初、何を言われたかわからないみたいに二三度瞬きをした。

 そして、すぐにぎょっとしたように顔を引きつらせる。

「……え?」

「タケマル兄はカヤを選んだんだよ。すごいよね……やっぱりタケマル兄は、わかってるんだよ。それがどういう意味か、ゲンにもわかるでしょ?」

「…………」

「ゲンは、私ってことよ」ヨシは、努めて表情を変えないようにしながら、そう言った。

 ……。

 子ども?

 あれ、身ごもるって、なんだっけ……?

「カヤが……子どもを……」

「そ。もう、そういう年なんだよ、ゲンも……それに、私も」

 ゲンは、ヨシの向きへと首を固めたまま、餌を待つひな鳥のように口を開けて黙り込んでいる。

 どうやら今は、深刻な話をしているところらしい。カヤが、どうしたんだろう? 子どもをみごもった?

 石のように固まるゲンを見て、だけど、ヨシは笑った。「あんたが人形を作ってる間にも時間は流れてるってことよ。いつの間にか私よりゲンのほうが背も高いしさ」

「えぇ……?」ゲンがまた急に、顔に全く不釣合いな素っ頓狂とんきょうな声を上げた。「いや、それはないよ……だって、昔っから一俺よりもカヤよりも大きかったじゃないか」

「何言ってるの、それこそ昔の話よ」と、ヨシ。「ほら、立ってごらん」

 そう言ってスっと立ち上がったヨシに手を引かれ、ゲンは片足を引きづらせつつ背筋を伸ばした。

 この時びっくりしたのは、ゲンも私も一緒だった。

 今までなんとなく、ヨシの方が背は高いだろうと思っていたのに、シャンと立った二人を比べると、確かに、リンの拳一つ分くらいに少しだけど、それでも明らかにゲンの方が目の位置が高いのだった。

「いや、ほら……」ゲンは、抵抗する。「お、同じくらいでしょ?」

「うーん、自分だとそう見えるかもしれないけどさ」と言いながら、ヨシはよりわかりやすいように、長い髪をほどいて肩に落とした。「どうよ、こうするとわかりやすいでしょ」

 髪を下ろしたヨシを見るのは、三度目か。やっぱりこうすると、イナミと顔がよく似ているのがわかる。器量もわりと姉妹でいい勝負なのだ。

「…………」ゲンは目を見張りながら、黙っている。

「そうだ、立ったついでに、左手出して」

 と、提案したヨシであったが、ほとんど確認を取る間もなく彼の左手を掴んで、すっと指を絡ませた。

「片手だけど……久しぶりに相撲してみよ」

「え?」

 いきなりぐっと、ヨシは力を入れる。

 一瞬、ゲンは押されかけて、「わっ」と声を上げた。だけど、すぐに彼も歯を食いしばって、片手同士の押し合いが始まった。

「ふんっ」と、ヨシは力みながら、必死の形相でゲンを押す。

 ゲンは驚きながらも、負けじと力む。

 私は反射的に、ヨシが勝つと思った。だって、ゲンは片足の踏ん張りがあまり効かないみたいだし、右対左じゃ不利だろうと考えたのだ。

 しかし、やがてグイグイと押され始めたのはヨシだった。右腕に青筋を浮かべながら、しばらくもしないうちに、腰が下がり始めたと思ったら、はぁっ! と息を吐いて、ヨシはぱっと手を離した。

「いやー、もうダメかー」彼女は、笑う。「すっかり男になっちゃったんだねえ」

「…………え?」

「ゲンも、力持ちになったよ」

 またもしばらく呆然としていたゲンは、急に何かに気がついたみたいにハッとして、慌ててブンブンと首を振った。「……いやいやいや、ヨシが手加減したんでしょ?」

「あれで全力よ」相変わらず笑いながら、ヨシはさっさと軒先に腰掛けた。「なんだか嬉しいやら寂しいやら……私のほうが鍛えてると思うんだけどなあ」

 なんてあっけらかんとした態度を崩さないヨシのことを、だけどゲンは、呆然と立ち尽くしたまま、妖怪でも見ているかのような目で見つめていた。

 きっと、彼の気づかないうちに変わってしまった、幼なじみを見ていた。

 その様は……なんだろう、絶望、っていうのは言い過ぎだけど……何か、大切なものが壊れてしまったみたいな、少し深刻な雰囲気をかもし出していた。

 ちょっと心配になった。

「……うそだ」

「またそれ?」

「だって……俺なんて、日頃何もしてないし……」ゲンの声は、震えている。

「だから、男の子だって言ってんでしょ」

「そんなの……」

「そういうものなのよ」と、ヨシ。「女は子ども生むための体になっていっちゃうの。月のものもくるしさ……ねえ、もういいから、座ったら?」

 言われるがままゲンは座ったが、だけど、未だ納得いかないと言いたげに、口に手を当てて考え込んでいる。

 どうやらさっきのやり取りが、けっこう深刻に響いたらしい。

「……なによ、そんなに驚いた?」

「もう……」ゲンは、ため息。「……今日は、わけがわからないよ」

 そんな風に困った顔でヨシを見る彼の横顔も、やっぱり素敵だ。

 私の中のゲンの印象は、グングンと良くなっていく。ゲンには悪いけれど、先から私には、彼の反応がいちいち可愛く見えて仕方がなかった。

 なんとなく気がついてたけど……ゲンは、ヨシと二人なら普通に喋るみたいだ。なんだかなぁ……年は逆だけど、まるで姉と弟のようだ。

「ま、そういうことだから……わかってたと思うけど、これからもよろしくね、ゲン」と、ヨシは軽くゲンを小突いた。

「……何を?」

「何聞いてたのよ」彼女は顔をしかめて、上を見る。「多分、カヤの祝言のあと、すぐに私たちの番がくるわよ」

「…………あぁ…………」ゲンは、うろたえるようにうつむいた。

 私には、話がわからない。

 黙ったまま俯くゲンの顔色を伺うように、ヨシは首をすくめて、唇を尖らせた。「あれよね……ずっと前からその気だったけど、やっぱりいざとなるとなんか、変な気分だよね」

 なんて言いながら、彼女は笑っているようだが……。

 なぜだか私には、その笑いが、少し無理をしているように思えた。

 多分だけれど……さっきからヨシは、努めて明るく振舞っているんじゃないだろうか。なんというか、こう……気まずくならないために、無理やり頬を釣り上げているみたいだ。力比べに負けたのが悔しいのかしら……って、そんなワケないと思うのだだけど。

「あーあ、私もさあ、ゲン! とか言って怒ってられるのも今のうちだけかな」やはり無闇に明るい調子を崩さないまま、ヨシはからい笑顔でゲンを見つめる。「今からゲンさんって呼ぶ練習でもしとく? ほら、こんな話し方になるんですよ、ゲンさん、いかがですか?」

 と、彼女がふざけた瞬間のことだった。

 ゲンが信じがたい勢いでヨシの両肩を掴んだのは。

 あまりに急だったので、ヨシも息が止まらんばかりにすくみ上がった。

「わ、な、なに!?」

「やめてくれ!」ゲンは、血の気が引いた顔で必死で首を振る。「頼むから……それだけは……」

 赤い空に、陰りが見える。

「えっと、それは……」気まずそうに目をそらしながら、ヨシは苦笑い。「なに、私との祝言は……イヤってこと?」

「違う、そんなわけない……俺は……」

 そこで一度息を吸い込んでから語りだしたゲンの声は、その後もずっと私の頭の中に響き続けた。

 それくらいに、ありったけを絞り出したようなギリギリの声だった。

「何も変える必要なんてないよ! 俺は、だって、ずっと……ずっと、きっとこれからも、ヨシに助けられ続けていくんだろ? いや、きっとみんなに甘やかされて、俺は生きていくんだ。俺は……本当に何もできないから、いつも誰かに面倒見てもらって、これじゃいけないって思っても……何をしたらいいのかわからないうちに、誰かにやることを教えてもらって……それだけで……恥ずかしいよ、いつもいつも。たかが手先が器用なくらいでさ……」

「ゲン……」

「……頼むよ、ヨシまで俺を偉い人みたいには呼ばないでくれ……そんなの、耐えられない……助けられてるのは、いつだって俺なんだから……ヨシだけは……ちゃんと俺を情けないって言ってくれるのに……ヨシだけは……」

「…………」

「……ごめん。本当は、俺がもっとなんでもできるようにならないといけないんだよね。ごめん、ごめん……」

 ゲンは、必死のあまりに、ヨシを押し倒したままの姿勢で、項垂うなだれるように固まってしまった。浅い呼吸が、彼の深い苦悩を物語っている。

 ゲンはゲンで、色々と思うところがあったようだ。何かが変わっていく寂しさは、なんとなくわかる気がする。

 床には、ヨシの長い髪が花のように広がっていて、不思議とあでやかな空気が漂っていた。

 二人の顔は、とても近い。

 ……私なら、あの距離で、あの体勢で、ゲンの顔を見続けられる自信はないな。どれだけ辛そうであろうと、その顔の美しさは変わらない。いやむしろ、悲愴な表情が彼の美しさをより鮮明に際立たせているようにさえ感じた。ちょっとゲンには申し訳ないんだけれど。

 ヨシはしかし、小さい頃からずっと一緒だから、別に照れるわけでもなく……いや。

 ヨシも、同じだった。

 ヨシは、コハクマルみたいに顔を真っ赤にして、息を止めたまま目を逸らしていた。

 ……本気で照れている彼女を、初めて見た。

 今日は、新鮮な日だ。

「あの……ゲン、わかったから、わかったからさ……」と、恐る恐るにヨシは口を開く。「とりあえず……ね、どけよっか?」

「ごめん……ごめん……」

「げ、ゲン? 聞いてる?」

「俺って……なんで、いつもこうなんだろう……あぁ、ヨシ、変わっていくのは、悲しいよ……」

「う、うん、寂しく思うことはあるよね、わかる、わかるよ。私もカヤのこと聞いたときは頭回らなかったしさ……」

「……どうして……今のままで……いられないんだろう……」

「そうよね……でもね、ほら、体が育つように、人も周りも変わっていくものだからさ、受け入れていくしかないのよ、人形じゃないんだから……って、これ、カヤの受け売りだったり……ははは」

「人形か……」ゲンはどこも見ていなさそうな虚ろな目を、ヨシの胸のあたりに落としている。「強いよね……カヤもヨシも……俺は、人形作ってるだけで、精一杯なのに……人形は……」

「わ、私だっていっぱい落ち込むよ? 変な失敗もたくさんしたし、みっともなく泣いたことだってあるし……」

「何度作っても……ヨシの人形だけはうまく作れないんだ……前の冬からずっと、ヨシのばっかり作って、うまくいかなくて……だから、できあがったやつなんて、興味がないんだ……失敗作だから」

 ヨシの耳が、赤くなる。

「げ……ゲン……そ、それは、その……なんだろう、あはは……ちょっと嬉しいかな? あ、ごめん、別に変な意味はないのよ、ただ、そっか、そっか……うん……」

「……俺には、人形しかないのに……」

「うんうん、聞くよその話。悩んでるなら相談乗るし、なんならゲンのいいところいっぱい教えてあげられるし。それで、その、そういう話するのはいいんだけどさ……そろそろ……というか、右手大丈夫なの? すっごい肩痛いんだけど……」

「……え?」

 ここでやっと、ゲンは自分がしていることに気がついたようだ。

 彼は両手でがっちりと、ヨシを木の床に押さえつけている。

「あ……ごめん……痛い……」と、今度はゲンが驚いたように、右手を離して目を逸らす。

「じゃあもうやめなさいよ!」なんて、ヨシが苦笑いでゲンを押しのける。「あぁもう、ほんとしゃべる時はうるさいくらいしゃべるんだから……バカ」

 ヨシはそう吐き捨てた。

 その時、初めてのことが起きた。

 ゲンが、笑ったんだ。

 びっくりして、全身がジワジワと熱くなった。

 口角がキュッと持ち上がり、いつもは鋭くも大きく開いている目が、半月が三日月のような弧を描いて、幸せそうに、けれどもなんとなく哀しそうに、ゲンは笑った。

 ……なんて、素敵な笑顔。

 わかった……村の女の子たちはみんな……この笑顔が好きなんだ。

 そう言い切れるくらいに透明な、朝と夕焼け、それぞれの爽やかさを一つどころに混ぜ合わせたみたいに、こころよい笑顔だった。

「俺はバカだよ」ゲンはそのまま、呟いた。「村のみんなで、一番バカだ。五石、すごい弱いし」

「五石か……あぁ、それをアマコに教えてもらえばいいんじゃない?」と、ヨシが提案する。「アマコ、ジロウに色々教えてもらってるみたいだよ」

「ん? 何が?」

「……できるだけ一緒にいてあげてって話よ」

「あぁ……」

「ほんと、一つ聞いたら一つ忘れるの、なんとかならないの?」

「無理だろうね」

「……というか、あれ、ゲンが笑ったの久しぶりに見た気がするわ」ヨシは、笑顔の余韻が頬に残るゲンの横顔を眺める。ふたりの距離は、ゲンが一度ヨシを押し倒したせいで、最初の時よりもかなり近くなっている。

「そうかな、俺はよく笑ってるつもりだけど」

「うそよ、私は見てないもの」

「……じゃあ、ヤキチといるときなのかな」そう言ってゲンは、ゆっくりと背中からごろんと寝転んだ。

「ああそう、あいつ……そういえば、ゲンが人形に没頭し始めて悲しんでるのがもうひとりいたんだったわ」ゲンを見下ろしながら、ヨシはため息。

「え、誰?」

「ヤキチよ。あいつ、昔っからあんたとだけは仲良く話すじゃない。最近じゃもう私相手だと怒りっぱなしだってのに……男同士の絆ってやつなの?」

「そうなの?」意外そうにゲンはヨシを見た。「ヤキチって、怒るの?」

「……ヤキチの怒鳴り声も聞こえちゃいないわけか。ほんと、いい集中力してるよね」

「ヤキチか……」と、ゲンは、思い出したように呟いた。「……そういえば、ヤキチが変なことを言ってた」

 ゲンの横に並んで寝転んだヨシが、ゲンを見る。「なに?」

「最近……変な夢を見るんだってさ」

「変な夢?」

「うん……短い髪の毛の、女の子の夢だってさ……」

「それ……ぇのことじゃないの?」

 声が、不自然に曇った。

「違うんだって」

「ふーん……」不明瞭につぶやきながら、ヨシは持ち上げた上体を回して、ゲンの上に被さった。ちょうどさっきの二人を逆にした感じ。

 長い髪が、ゲンの肩に落とされる。

 これは勝手な私の予想だけど……この時ゲンは、初めてヨシの顔を、髪を下ろした時の柔らかな器量を目に留めたのではないだろうか。

 だって、一瞬見入ったように彼女の顔を見つめてから、ふっとコハクマルのように顔を逸らしたのだもの。

 自分の顔がいくら綺麗だからって、そのぶん他人の愛らしさがわからなくなるということはない。

 …………。

 いいなぁ。

 照れたゲンの顔を見て、少し安心したみたいに、ヨシは笑った。「……さっきさ、さん付けで呼ぶのをやめてって言ってくれたの、嬉しかったよ? それに私のこと、面倒くさいって思ってなかったのも……」

「……うん」

「でも、私は女だからさ……きっと、大人たちがそういうの許してくれないと思うの。白袖を通すなら、慎ましくあれってね……それでも、ゲンがそういう風に思ってくれてるだけでも、私は十分かな」

「……俺は……」

 ゲンは、いつもよりも艶が増したようにさえ見える顔を、ヨシに向けた。

「やっぱりヨシは強いよ。俺には……今まで通りじゃダメな理由がわからない」

 また、爽やかな風が吹く。

 二人のいる場所……そこから見える広大な湖に、夕日が赤く沈んでいった。

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