すりかえる 七

 邂逅かいこうはあまりにも唐突だった。

 それは獣だった。

 距離にするとおおよそ家の一軒分離れたところ。高さで言えば、シズさんとコハクマルを足したくらいの位置に、黒い毛並みの獣がズッと顔を出していた。

 ぽかんと、それを見上げる。

 幅の広い顔に、細い目が二つと、大きな牙が覗く口が一つ。顔を覆うように生えている汚れた毛並みは、濡れているように重たげだった。

 どこかで折れた枝が、カラカラと斜面を転がり落ちる。

 その獣は、私が音から想像していたよりも、さらに一回り以上大きかった。

 ギンジさんも、タツミさんも、比較にならないくらいの巨体を誇る野獣だった。

 ムワリと、幻覚かもしれないような臭気が、鼻をつく。その獣が発する凄まじい命の存在感、あるいは、そこに大きな「体」があるという強烈な実感そのもののような匂いだった。

 しばらく私たちと獣は……見つめ合っていたと思う。正直に言って私には、何が起きているのかわからなかった。見たことも聞いたこともないような巨獣が、森の隙間から、可愛げがあるとさえ言える表情で首を覗かせている。なんとも異様なその風景に、どこか冗談めいた気分さえ感じてしまっていた。事実、私はきっと、わずかでも笑っていたのだろう。

 ……なにかしら、これ。

 答えを求めるように、コハクマルの顔を見た。シズさんの方も振り向いた。でも、二人とも時が止まってしまったかのごとく、微動だにしないで獣を見つめている。雷にも動じなかった二人が冷や汗を垂らしながら、どうするべきかを必死で思案している。

 二人は私よりもはるかに、事態の深刻さに気がついていたのだ。

 どれだけ唐突な遭遇であれ、これほど大きな獣と相対あいたいすることの危険さが、薄らぐ道理などあろうはずがない。

「な……なんだ、あいつは?」コハクマルが、ささやくように声を絞り出す。さっきまで緊張とは明らかに質の違う、尖った切迫感がにじみ出ていた。

 シズさんは、ジリリと二歩、後ずさった。

 獣は、黙ってそこに留まっている。

「え、なに、どうするの?」と、何を聞きたいかもわからないまま、私は不明瞭な問いを発した。

「どうするって……」コハクマルが、私の手を引っ張った。「逃げねば……っ」

 逃げる?

 やにわに、空気が震えた。

 黒い巨獣が一声、凄まじき咆哮をあたりに轟かせた。

 鳥たちが一斉に空へと羽ばたく。

 雷が、頭上に叩き落とされたのかと思った。

 山の間に、かの叫びはコダマする。

 気高い声だった。荒ぶる叫びだった。

 そして……。

 獣は斜面をあっという間に、私たちとシズさんの間に滑り落ちてきた。

 ズシンと、目眩めまいがするほどの振動を足元に感じる。

 私の悲鳴が、村中に響き渡った。

 瞬間、反射的にコハクマルは逃げようと駆け出した。当然私も走ろうとしたのだが、怪我をした右足は言うことを聞いてくれず、あえなくその場に転倒する。

 足が軋み、歯を食いしばる。だけど、痛みをかばっている場合じゃない。

 全身に、強烈で、原始的な、凄まじい怯えが駆け巡っていた。人形のこと、村のこと、クビソギのこと、全て埒外らちがいと言えるほどに、その恐怖は真っ直ぐで、絶対的だった。

 悩みも迷いも、勇気さえも、一切が不要であった。

 ある意味では、私も獣に成り果てていたと言っていいだろう。

 や、やばい……っ!!

 逃げなきゃ!

 待って、コハクマル、まってぇ……!

 こわいこわいこわいこわい!

 うそ、うそでしょぉ……!?

 半身だけ必死で起こして、後ずさりながら、獣を見る。

 シズさんが、獣を挟んだ向こう側で、わなわなとへたりこんでいるのが視界に入った。目を煌々こうこうと見開いて、茫然自失に膝から地べたに崩れ落ちている。

 獣は、そんなシズさんではなく、私に黄色い瞳を向けていた。

 目前に迫ったその巨体に、鋭く太い爪が光る。

 掴まれるだけでも、体が引き裂けそうなほど、大きな手。

 ひ、ひぃ……!?

 ま、待って、コハクマルっ!! 置いてかないでっ!!

 助け……。

 と、体をひねって後ろを見た私が必死で叫ぶのよりも早く、彼の手がすぐに私を背負い上げた。

 彼は、私を置いて逃げてはいなかった。思わずぎょっとして身を引いてしまっただけであった。すぐに私が転んだことに気がついて、しっかり助け起こしに戻ってきてくれた。

 早く、早くっ!!!

 そのまま無理矢理に背に担がれたために、もちろんギシギシと足がしびれたが、そんなのまるで気にならなかった。痛みよりも、感謝よりも、逃げなければという使命感に、心の中は限界までざわめきたっていた。

 はやくはやくはやく!!

 足がこんなことになった理由……崖から落ちていた時に見上げた空を思い出す。あの時も、こんな気持ちになっていた。

 この状況、ヤバすぎる。

 死ぬかもしれない。

 唐突に現れた獣の正体などに、この時頭が回ったはずがない。

 私は生き残るために、駆け出したコハクマルの背にしがみついて、必死に体を動かすまいと頑張っていた。彼の走りを死んでも邪魔しないよう、気を張り続けていた。

 彼は、急ぐあまりに腕を引いてを私を背負い上げたために、私の足はまだ宙ぶらりんに地面に引きずられている。これでは走っても大した速度は出ない。

 この時……確か私は、コハクマルに向かって「落ち着いて!」みたいなことを叫んだ気がする。叫びながら、彼の体に、死ぬ気で腕を巻きつけていた。コハクマルの手を空けて、私の脚をすくい上げてもらえるようにするためだ。この時の私は、焦りながらも、怖がりながらも、信じがたいくらいに頭は冴え渡っていた。

 でも、振り返る余裕なんてない。

 私たちは背を向けて逃げていた。

 シズさんは、無事だろうか……。

 その問いも、後回しにせざるを得なかった。

 なんと叫んだかは忘れたが……とにかくコハクマルに合図して、思い切って左足で、背中に飛び込んだ。

 前へと投げ出された私の足をコハクマルは、しっかり捕まえて脇に支える。続いて右の足も抱えられ、私は素晴らしい速さで完全に背負われることに成功した。私たちはこの時、一体の生き物であるかのように気持ちが通じ合っていた。後から考えると、これはすごいことである。私がコハクマルの立場であれば、一人で逃げ出していてもおかしくはない状況だし、実際、彼が一人で逃げても私は責められないだろう。きっと、恨みはしただろうけど……でも、仕方がないじゃないか、こんな獣に追われていては。反射的に危険から逃れようとする意志は、良心や勇気うんぬんの問題じゃない。

 だけど、彼は私を拾い上げ、私を背負って走っている。

 コハクマルはあっという間に階段前の広場へと駆け抜けた。左手には神社へと上る階段、右手には村の中心へと下る階段。

 彼は、すぐに右手へ曲がって走り出す。曲がったついでに、私とコハクマルは、アイツが現れた小道を振り返った。

 小石が、たくさん宙に舞っている。それらがゆっくりと、地に落ちていくのが見える。

 その背後、森を抜けて、奴の黒い毛皮。

 獣は私たちを追ってきたのだ。

 喉から、熱い何かがせり上がってきた。誓って言うが……もちろん、シズさんの方へ行って欲しかったなんて余計なことは考えていなかった。緊急時の思考はそんなに複雑にはなりえない。ただ単純に、こっちに来ないで欲しいと願っていたのだ。だが奴はそこにいて、今にも私たちに飛びかからんと、前脚で地面を叩いていた。

 迫る獣の姿にあらわれている、燃える殺意……その文字通りの迫力に、二度目の叫びが、私の腹から響き渡った。そして多分、コハクマルも叫んでいた。

 不思議な感覚だった。

 叫べば叫ぶほど、意識が高揚し、反対に頭は冴えていく。

 逃走……。

 それをこんなにも前向きに感じられることがあるなんて、考えてもみなかった。タツミさんに襲われたときは、私はまだ、心のどこかに悔しさみたいなものを抱えていた。できることならやり返したいって、そんな風に腹を煮えくり返していたし、後から怯えた自分への嫌悪に心を焦がしたほどだった。

 だけど今のこれは、この獣との対峙たいじは、そんなことを言ってられる範疇はんちゅうではなかった。

 コハクマルは村へと続く階段を、段飛ばしで下っていく。ビュンビュンと体験したことのない速度で、体が運ばれていく。私にできることは、ただただ振り落とされないように必死でしがみつくだけ。私の現状は、単純にコハクマルの足かせなのだろうけれど、そのことへの負い目さえも今は遠かった。

 ……が。

 相手は、獣。

 吸い込まれるように振り向いた私の目に映ったのは、曇り空の下、階段の上からこちらに飛び込まんと前脚を振り上げた、かの獣の狩猟体勢であった。

 また、私は叫んだ。確か「避けて!」と、そう言っていた気がする。

 獣の巨体が、宙に浮く。

 驚くほどゆっくりと流れていく時の中に、その獣の全貌が、私の視界の中に初めて収まった。

 太い生き物だった。

 毛の生えた岩の塊かと思うほどの胴体に、ずんぐりと短く、丸い手足。顔は肩幅に迫る大きさで、私はおろかコハクマルさえ合わせて飲み込んでしまえるほどに、その口はパックリと広がっていた。

 胴体を伸ばした、毛むくじゃらの大蛙。

 そんな雰囲気。

 獣はどんどん近づいていくる。私たちへ、落ちてくる。

 その時、グンと世界が大回りした。

 コハクマルが振り向いたのだ。私を獣から遠ざけて、かばうように……。

 そして、体をひねった勢いをそのままに、左の後ろ……つまり、階段から逃げるように彼は飛び退いた。

 獣が、落ちる。

 グワーンと、地面が揺れた。

 急な方向転換と振動に耐え切れず、私たちは引き離される。

 階段の上、コハクマルは転がり落ち、私は石段に肩を強く打って、呼吸が止まる。

 思い出す、この感じ。崖から落ちた時も感じた胸の圧迫。喉から腹の中身がひっくり返って飛び出してくるような、せり上がり。

 でも、あの時ほどの苦しさはない。

 まだ動ける。

 階段脇の草地で、でんぐり返る体を必死で操って、私は獣を振り返る。

 頭が熱かった。胸の奥はそれ以上に燃えていた。

 私は叫んだ。

 絶え絶えの息で、呟くような声音こわねで吠えた。

 コハクマルの名を呼んだ。

 助けて欲しいのか、心配しているのか、わからないけど、その名を呼んだ。

 二人で逃げるために……。

 彼は……どこに……?

 パラパラと、霧のように砂が舞う。

 指先が血で濡れていた。その手で体を引き起こした。

 バチバチ、一瞬ごとに視界が途切れ、眠ってしまいたくなるのを必死で呼び起こす。

 腕に、赤く爪痕が残っている。痛くはない。痺れるだけだ。

 恐ろしい程激しく脈打つ鼓動、その狭間の一瞬一瞬を、悪夢のように長く感じる。

 とにかく心臓がうるさかった。

 ドクンドクンと、その音だけが世界を支配する。

 速さと遅さ、激流と静止を同時に感じながら、前方を埋める黒い毛並みを両目で捉える。

 大きな命。

 獣は、こちらを見てはいない。

 見ているのは……。

 階段の下、視界の端に、落ちているコハクマルを見つける。

 一瞬、血の気が引き払い、鼓動が無と言えるほどにまで静かになり、そして……。

 雷鳴のような痛みが、髪の先から足の裏までを突き抜けた。

 コハクマルは、獣の前に、仰向けに倒れている。

 顔の右半分には真っ赤な花が咲いており、その血しぶきが顔をまだらに染めていた。

 彼は、立ち上がらない。

 ピクピクと体が微動するのに合わせて、赤い血が細くピューピュー吹き出している。

 右腕が、ひしゃげていた。

 曲がっちゃいけない方に、曲がっていた。

 私はそれを見下ろしている。

 うそ……。

 体を支えていた腕から急激に力が抜けて、倒れこむ。

 横ざまにおでこを石段にぶつけるが、痛くもなかった。

 あごを使って、無理矢理に前を向く。

 流れる血が、まるで水たまりのようだ。

 ゴーっと、コハクマルとの思い出が頭を駆け巡った。照れた顔を、頼れる背中を、大喧嘩を……いろんな気持ちが渦巻いて、数瞬の間、私は動くことができなかった。これだけ差し迫った状況の中で、逃げるように目を閉ざしたくなった。

 そうすれば、全部夢にしてしまえる気がしたから……。

 なんだろう……吐きそうだ。

 腹の底にたまらない重さを感じる。

 コハクマルは、動かない。

 …………死んでる…………?

 ズキリと、腕の傷跡が痛む。

 コハクマルが、死んだ? この一瞬で?

 死んでるの……?

 死ぬって、なんで……。

 涙が、じんわりと目頭を熱くした。

 だけど、感傷に思考ごと立ち止まっていられたのは、わずかな時間だけだった。

 太い一歩を、獣は踏み出す。

 コハクマルへ、進んでいく。

 …………まずい。

 ほんの一握いちあく、一人で逃げるという考えがよぎった頭に、熱風が吹き上げる。

 鼻の奥から、血が勢いよく溢れ出したと感じるほどに、全身が熱かった。

 酸味のあるしぶい匂いが、私と、この場に充満している。

 ……コハクマルを助けなきゃ!

 コハクマルは死んでない。死んだはずがない。

 死んで……欲しくない!

 だから、助けるんだ!

 根拠なんてないけど……本当は死んでしまったのかもしれないけど……。

 でも……。

 少なくとも、このままだと、絶対死ぬ。

 鼻を鳴らした獣が一歩、彼の足へと爪をかける。

 私は、叫んだ。

 今までとは、質の違う叫びだった。

 地に投げ落とされて、苦しかったはずの胸の中から、私という獣の咆哮が轟いた。

 獣が、コハクマルの足を、くわえる。

 また、私は叫ぶ。

 キー……イィ……ンと、金切り声が頭を揺らす。

 何も考えちゃいなかった。

 ただただ、おびただしい量の「死んで欲しくない」が私の全体を駆け巡り、ありったけを奮い立たせていた。

 獣がこちらを向いたら何が起きるか、共倒れになるだけではないか、そんな想像、バカバカしくてする気にもなれなかった。

 もちろん、本当にバカバカしかったのは私のこの行動だろう。

 獣の注意をコハクマルから逸らして、何ができるのか。

 私は今、自殺しようとしているのか。自らあの獣の口に飛び込む気か。

 そんなの、わからない。

 だけど。

 だって。

 このままだと、コハクマルが食べられちゃう。

 それだけだ。

 私は、立ち上がっていた。

 立てないはずの右足と、それを支えてきた左足で、私は獣に立ち向かった。こんな時でも、右足からは骨を削るような圧力を感じたけれど、痛くはなかった。

 ありったけの叫びが、限界を超えて絞り出される。

 果たして私の無謀は功を奏し、私の願った通りに、獣は私を振り返った。

 顔に、風を感じた。

 まさに、一瞬であった。

 文字通りに瞬く間に、獣の顔が、目前に迫った、

 その巨体はただ振り返るだけで、私の目前へと巨大な顔を、あっさりと運んでみせたのだ。

 凄まじい匂いが、鼻をつく。

 熱い匂いだった。

 鈍い牙が、唾液で糸を引いている。

 ハァ、ハァ……と、荒い呼吸を吐きながら、獣は私を睨みつけた。

 拳よりも大きな瞳で、めつけた。

 頭がクラクラした。

 空が、暗くなる。

 その巨大な顔は、私の視界をすっぽりと、空ごと覆ってしまっていた。

 丸い目。

 黄色い目。

 限りなく澄んでいるようにも、おぞましいほど汚れているようにも見える、太陽のように単純な黄色。

 向き合っているのに、見下ろされているような気分。

 こんなに大きな体で生きている物がいるなんて。

 触れられてすらいないはずなのに、頭に衝撃を感じた。

 その牙で、長い爪で、体が引き裂かれるということを想像する。

 足元が、グラグラと崩れ始めた気がした。

 そのまま長い時間、見下ろされていたような気がする。

 やがてスンスンと、匂いを嗅ぐ音。

 鳥肌が、髪の毛を逆立てる。

 そして……。

 次の瞬間、恐るべき激しさで、獣は私へと鼻を広げた。

 空気が、吸い込まれる。

 同時に、血の気が、呼吸が、目が、口が、鼻が、体が、吸い込まれていく。

 何もかも、引き込まれていく。

 弛緩しかん

 不思議な感覚だった。

 急激に、私の全てが冷却された。

 体が、縮んでいく。

 寒くて、叫びさえ絞り出せない。

 悲しいって……そう感じた。それが不思議と、心地よかった。我慢した尿を出すように、耐えていた涙をこぼすように、なされるがままに、流れるままに……。

 残されたのは、赤子のようにか細い震えだけ。

 念入りに、獣は私を取り込んだ。何かを確かめるように、匂いを吸い込んだ。獣にとって私という存在は、目で見るよりも匂いで嗅いだほうが正確に伝わるのだろう。

 やがて獣の呼吸が止まった時。

 突然、全てが黒く消え去った。

 ふわりと、心が静かになる。

 黄色い瞳が、黒い毛が、暗闇の中に浮いている。

 その中に私はいなかった。

 すぐに夢を連想した。夢の中の私には、いつだって視界しかない。

 そして今も……。

 いや、違う。

 私は、いる。

 獣の中に取り込まれ、鼻が焼けるような匂いの中に包まれてしまっているだけだ。

 めくれている……と、私は感じた。獣の皮が、その顔を中心にめくり返って、私をまるごと包んでしまったようだ。

 私は今、内側にいる。

 幻……これは、幻だ。

 私は今、白昼に夢を見ている。

 獣と相対し、極限まで研ぎ澄まされた私の目と耳と鼻が、現実以上の幻を見せている。

 そして……。

 幻の中で、獣は、笑った。

 確かにそれを感じた。

 ヨダレがぼとりと、石段に落ちる。

 ニチャリニチャリと、舌がうねる。

 熱い息が顔にかかり、そしてすぐに凍えるほど冷たくなる。

「お前だ」 

 と、声がする。

「タタリだ、タタリの子だ」

 暗闇に、星がいくつもまたたいた。

 それは、私の記憶だった。あの屋敷で目覚めて、わずかながらに積み上げてきた、私の命のあかしであった。

 眼前に展開する夜空。

 私の全てが、遠い過去から、遠い未来へ。

 今から、いつかへ。

 流れるはずだった星たちが、丸い暗闇に吸い込まれていく。

 獣の口へと、飛び込んでいく。

 まるで、ほうき星のように。

 そんな幻想。

 意味するものは……死。

 死とは未来の消失であり、同時に過去の剥奪であり、現在の破壊だ。

 きっとこの時、私は腰砕けに尻餅をついていただろう。

 涙が、染み出す。

 死にたくない……。

 そんなの、当たり前だ。

 まだまだ私は、何もしていないじゃないか。

 何も思い出せていないじゃないか。

 何も……見つけられていないじゃないか。

 やがて獣の口が、煌めいた星を牙として、裂け広がった。

 あぁ、だけど、死ぬんだ……もう……。

 おびただしい量の後悔が、脳裏のうちにめくるめく。

 さっさと這って逃げればよかったんだ……私なんか、やっぱり、何もできなかったじゃないか……コハクマルだって、もう死んじゃってるかもしれないのに……。

 もっと、笑っていたかった。

 日々を過ごし、笑っていられる幸せに、こんな瀬戸際に立って気が付くなんて。

 でも……だって……。

 今、全てが終わるなんて、そんなの……。

 考えてもみなかった。

 考えたくもなかった。

 足に熱い獣の腕がかかり、ぼそぼその毛がかかとをくすぐる。

 ゾクリと、背筋が凍った。

 食べられる。

 あの牙で、肉が裂かれる。その口に、手足を千切り取られる。

 私は、ズタズタになる。

 それはどれだけ痛いだろう。

 死に至る痛みを思い、私はひとり目を閉じた。

 …………。

 いや…………。

 …………。

 そんなのイヤだ。

 痛いのはイヤだ。死ぬのはもっとイヤだ。痛くて、逃げたくて、逃げられなくて、そのまま死ぬくらいにまで痛くなるのなんて、絶対にごめんだ。

 生きるのって、大事なことだ。

 瞬間、私の中に取り残されていた私の震えが、爆発し、膨らんだ。

 死にたくないって言葉が浮かんだ。でも、それは間違いだった。

 生きていたい? 違う、そんなあっさりとした言葉じゃない。

 もっと、単純で、絶対的な何かが、腹の中からこみ上げてくる。

 それは……。

 死んではいけない。

 これだ。

 雷鳴が、私の内側から閃いた。

 怒りと限りなく同質な生への渇望が、私を支配した。

 否、怒りとは、そもそもこのためにあるモノだったのだ。

 私が今まで感じてきたすべての怒りは、結局のところ、生きるためにあった感情の先っぽでしかなかった。それを、私が怒りと勘違いしていただけのことだった。

 未来へと、いつかへと流れていた私の星たちが、逆流し始める。

 かの獣へと向かっていた私の意思が、私へと帰ってくる。

 私を奪い返す。

 あきらめない。

 少しでも、頑張るんだ!

 だって、ここで終わりかもしれないから。

 出し惜しみなんて、できるわけがない。

 全力で、私は自分を手繰り寄せ、意識の中で戦った。

 死なないために。

 明日のために。

 ありったけを、かき集めた。

 だけど……。

 相手は、獣。

 有無を言わぬがゆえに、有無を言わさぬ、怪物。

 私と獣、ありったけをぶつけ合えば、勝つのは……。

 獣の口が、グワリと開いた。

 恐ろしき速さで、それは迫り来た。

 ゴーゴーと、世界が回る。

 逃げる。

 逃げるを、した。

 それが後退なのか、抵抗の蹴りなのかは、わからないけれど。

 私は、逃げた。

 死んではいけない……から。

 いつの間にか、手に掴んでいた石を叩きつけた……ような気がする。

 無駄とわかっていても。

 生きなきゃ、逃げなきゃ、そうしないと……。

 全てが終わってしまうんだ。

 それが死ぬってことなんだ。

 だから誰にすがりついてでも、私は生きていなくちゃいけなかったんだ。コハクマルの背中に飛びついたこと、一つも間違いじゃなかったんだ。

 今、はっきりとそれを自覚した。

 だから……。

 ねぇ……。

 誰か……助けてぇ……。

 死にたくないよ……まだ……。

 ギンジさん……。

 コハクマルぅ……。

 思い出すのは、彼らの温もり。

 私を支え、私を背負い、私と歩いてくれた、二人……。

 コハクマルの真っ赤に照れた顔が、ふんわりと暖かく浮かんで、真っ赤な血の花が咲いた。

 彼は、だけど、もう……。

 未練。

 そして……。

 背中に、衝撃。

 瞬間私の心象の中に現れたのは、そそり立つ、湖へと落ちる壁。

 死ンデハ……イケナイ……ノニ。

 きっと私の退路を断ったものなど、小さな木か、ゆるい小岩程度のものであったに違いない。それでもこの一瞬において、それは神社への道より高き壁だった。

 死ンダラ……ダメダ……。

 そう、思っていたのに。

 ここにきて、私は指先の一つでさえ、自由に動かすことができなくなっていた。

 涙が、唾が、尿が、何もかもが体から流れ出し、体を動かすものが絶え果てた。

 ピクリとも動けない。

 また、震えだけが残った。

 暗闇がいつの間にか引き裂かれ、目の前に、獣の顔が迫る。

 空も見えないくらい近くに、獣は鼻を私に押し付けていた。

 あぁ……そりゃあ、動けなくもなるよ……。

 私は今まで、この距離で戦っていたのか……この距離に、耐えていたのか……。

 もう、無理だったんだね……。

 だからもう、逃げられない?

 それって……。

 ここで、終わりってこと?

 考えるのも、笑うのも、泣くのも、何もかも……。

 死んだら、どうなるの?

 何も……なくなるのかな。

 絶望が生まれ、後悔が頭の中に溶け出していく。

 タツミさんに襲われたあの日でさえも、恐怖としては思い出せなかった。

 広がった真っ黒な口から、長く濡れた舌が、より赤黒き喉が、眼前へと迫った。

 ビッシリと並んだ恐るべき牙……そこに、いつの間に噛み切られたのか、紺の着物の切れ端が引っかかっている。

 その様に自分の姿が重なって、私はついに目を閉じた。

 寒さが青く染み渡って、内側からトゲのように肌を刺す。

 もう……眠ってしまいたい。

 首の裏で、チクリと微かな音がした。

 体が持ち上がる。

 くわえられた私の頭。

 熱い。

 顔だけお湯に、浸けられたみたい。

 絶体絶命。

 私の首、ちぎられてきっと、人形のよう。

 おそらくは、獣の喉の奥。

 そこから、蛙女が見上げていた。

 悲しそうに、嬉しそうに、鳴いていた。

 ゲコ、ゲコ、ゲコココココ……。

 アナタが、クビソギ?

 紺の着物の、蛙女。

 ……紺?

 あ、今気がついたよ……そういえば、夢の女の子たちの着物って、私が着ているものと同じ色じゃないか……。

 はは……。

 それに、男の子たちの着物だって、ギンジさんと同じ茶色だよね。そりゃそうか、だって人形たちが、その色の着物を着ていたんだもの。

 今頃そんなことに気がつくなんて……。

 わずかばかりの愉快さが、色もなく消えていく。

 獣臭。

 不愉快が真っ赤に弾け、心と体が、け落ちる。 

 そして……。

 バクンバクンと、耳が壊れそうなほどの鼓動が、痛いほどに響く中。

 ブチブチと、嫌な音とともに、いつかへ向かっていた記憶が、今に戻り、過去へと流れ始めた。

 恐るべき速さで、記憶が逆流する。

 長い階段。

 コハクマルの背中。

 蛙石。

 温もり。

 川。

 雷。

 クニミツさん。

 ハクユでのバカ騒ぎ。

 喧嘩。

 出会い。

 杖。

 クビソギ。

 真夜中の怪異。

 首の取れた人形。

 タツミさん。

 みんなの夢。

 神社の人形。

 切り揃えられた髪。

 ギンジさんの背中。

 滑る斜面。

 マキさん。

 クダンさん。

 ギンジさん。

 シズさん。

 おばあさん。

 暗い部屋。

 一杯の水。

 高い窓から刺した、剣のような光……。

 あれ? 私あの時、剣のことなんて知っていたっけ……?

 やがて記憶は眠りに落ちて……。

 それでもなお、巻き戻り……。

 ……ドクン。

「どうして……この子だけ……」

 ……トクン。

 不思議な声。

 ここは……神社?

 トクン……トクン……。

 記憶は、加速する。

 見えたのは、蛙女。

 トク……トク……。

「スミレ……ぇ……」と、声が聞こえた。

 ……カイリの、声だ。

「……たすけてぇ……」

 ズキッ。

 痛みが、赤くにじんだ。

 あ、待って……。

 もう少しで、私……。

 首に、圧力。

 まっ……てぇ……。

 瞬間、全てが断ち切られた。

 滲んだ赤が、真っ赤に、鋭く、一閃した。

 あまりにも鮮烈な衝撃であった。

 果ても無き裂け目であった。

 濁流が私を飲み込む。

 突然、首に重さを感じた。

 ガクッと、膝の痛み。

 手に握られた石の、硬さも感じる。

 死ンデハイケナイ!

 無我夢中で、私は両手を突き上げた。

 何かが頭から外れ、風が顔に叩きつけられる。

 恐るべき勢いで、体に空気が、満たされていく。

 祝福するように、澄んだ外気が、私の恐怖を吹き飛ばす。

 きっとまた、私は叫んでいただろう。

 訳もわからず、獣の口から飛び出した私は、その一瞬で真っ赤に視界が塗りつぶされた。

 熱い水に溺れ、呼吸もできない。

 その刹那に、私の目が捉えたもの。

 獣の口が、顔ごと全て、ボトリと落ちる様。

 血が噴き上がる。

 熱い血が、私を染め上げる。

 首から体が、真っ二つ。

 そして……。

 一本の剣が、未だ倒れぬ胴と首の間に、真っ直ぐに振り下ろされてた。

 一刀両断。

 止まっているはずの剣は、しかしその軌道を、一太刀の軌跡を、美しいほどに鮮やかにくうに刻んでいた。

 ……鬼が、そこにいた。

 灰と白の髪のボロを着た、老いた鬼。

 獣のごとく汚れ、澄み切った瞳だけ、そこにある。

 ふたつ、浮いている。

 あ……あれだ。

 ……クビソギだ。

 やがて滝のように血を噴き上げながら、獣の体が地へ伏した時、クビソギはクニミツさんへと姿を変えた。

 また、私は意識が消え飛んでいくのを感じる。

 疲れた……。

 もう、ゆっくり寝ても大丈夫……そう考えると、泣きたくなるほど嬉しかった。

 ゆったりとカタナを下げて、その場に正座し、手を合わせるクニミツさんの残像だけ、意識にしっかりと刻み込んで……。

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