おきかえる 三

 吸い込んだ息に、冷たさを感じる日暮れ前であった。

 私は杖の扱いにもちょっとずつ慣れて、慣れたがゆえの失敗もほどほどに経験して、ともかく行きたいところへ真っ直ぐに歩いていける程度の自由を手に入れていた。歩けるといっても、悠々と走り回るなんていうのには程遠い。一歩一歩の遅さはせっかちな私には相当にキツかったけれど、それでも歩けないよりは百倍はマシである。

 散歩は当然ギンジさんと二人ですることになっていたのだが、ノロマな私の監視には気合いが入らないようで、森にまぎれて目を離されることも度々たびたびだった。

 そして、それはちょうどそういう時に起こった。

 この辺の森を歩き回っている中で、私は何度か、木に付けられた鋭い引っかき傷のようなものを発見していた。これはなんですかってギンジさんに聞いても、彼は首をかしげるばかり。「このあたりにこんな爪の獣がいないはずだが……」と、そんな答えが返ってくるっきりである。曰く、木を切る作業をしている時にも、度々ではあるが、こんな傷を見ることがあるのだという。

 由来の知れない木の傷を、この日は一段と高いところに見つけたのがそもそもの始まりであった。ギンジさんが精一杯に背伸びしたって届かないような、はるか頭上に一箇所、鋭く横様よこざまに引っかき傷ができている……それに気がついた私は、他にもないものかと上を見ながら、キョロキョロと枝葉の隙間に目を凝らしていたのだが、そのまま、深い地面のくぼみに気づかずに足を踏み入れてしまったわけである。当然、片足では急な足場の喪失に対応できるはずもなく、声を上げる隙もなく私はあっさり滑落した。滑落といっても、大した高さはない。私の身長ほどもない、緩く切り立った山の地形である。それでも、右足は釘を刺したみたいに痛んだし、落ちた高さも、今の私が一人で上るにはしんどいくらいだった。だから、打ちつけた頭を抑えつつ、助けてもらおうとギンジさんを呼ぼうとした、その時であった。

 背後で「あっ」と、かすれた人の声が聞こえたのだ。

 瞬間、胸に強烈な鼓動を感じながら、身をかばうように振り返る。その動作に少し無理があったため、右足がまたズキリと悲鳴を上げた。

 しかし、咄嗟とっさに顔をかばった両腕の、その隙間から見えた顔は、肌が日焼けした子どもの顔であった。

 おそらく私と同じか、ちょっと年下くらいの男の子であった。

「……え?」

「あ……ひ……人か……?」少年は私以上に仰天した様子で、目をパチクリと瞬かせる。

 彼を見た私のまともな第一声は、「だいじょうぶ?」であった。

 唐突に現れたその少年は、頬がこけ、体のそこかしこに擦り傷や打撲傷が残っている、ボロ布のような姿の小僧であった。目も、今にも倒れそうなくらいに澱んでいて、いかにも危うげである。お腹が減り、疲れ果てているのが、呼吸や表情からも嫌というほど伝わってきた。

「な……だ、大丈夫……だと?」

「だって、顔色悪いし、倒れそうだし……」

「ぶ、無礼な! 拙者これしきのこと……」と、少年はモゴモゴと反論しようとしたが、ハタと何かに気がついたかのように目を輝かせる。「人のいる村が近くにあるのか? そうなんだな?」

 話が飲み込めないまま、とりあえず頷く。「う、うん……」

「あぁ……た、たすかったぁ……し、師匠!」

 彼が振り返り叫んだ森の影から、少年と同じようにボロをまとった一人の老人が、スラリと静かな歩みで現れた。

 変わった雰囲気の人間だった。

 その人は、髪はくしゃくしゃの灰色で髭も伸び放題と、見た目はみずぼらしい感じの人物であったが、引き締まった表情から感じる活力は、少年のそれよりも幾分かマシなように思えた。平らな顔に張り巡らされたシワの深さはまさしく老人そのものであるが、体の運びや、しゃんと伸ばされた背筋からくる印象は、タケマルくらいの年齢の若者のようである。身の丈も、ギンジさんくらいはあるかもしれない。

 他には、よく見ると、腰に長い杖のようなものを差している。

 そのおじいさんが、開いてるのか閉じているのかわからない目を私の背後の切り立ちの上に向けたことから、ちょうどギンジさんも私を探してこの場に現れたことを知った。

 ギンジさんもまた、驚愕の表情を浮かべながら、彼らを睨んでいた。

 しばらく腹の探り合いのような視線が、二人の大人の間を飛び交う。どちらかと言えば押されているのはギンジさんの方であったのだろう。一度咳払いとともに目を逸らしてから、わざとらしく脅かすような声で、ギンジさんは語りかける。

「貴様ら、何者だ!? どこからやってきた?」

 久しぶりに聞いたギンジさんの怒鳴り声に、背中の真ん中あたりから突き上げるように緊張が走った。

 少年も、怖気おじけづいたように半歩下がる。

 だが、老人はひるまなかった。

 彼は、ギンジさんの質問に答えるより先に、腰に差していた杖らしきものを抜き取って、ギンジさんの横まで投げ入れた。年の割に力持ちのようだ。

 飛んできた杖に驚きつつも、姿勢も睨みも崩さぬままのギンジさんに、老人は膝をついた。

「し、師匠!?」オロオロと、少年は焦っている。

「……わたくしどもは野伏のぶせりの類ではございません」老人は顔色も変えずに、淡々と話し始めた。「わけあって山中を彷徨さまようております、非力で哀れな老人と子でございます。お尋ねしたいのですが、お二方は、この山中の集落のものでしょうか?」

「ふぬ……」ギンジさんは何やら考え込みながら、顎を掻きつつ頷いた。「我らはオオヌマの村のものであるが……」

「おぉ、やはりそうでしたか。本当に存在していたとは……いや、失敬」

「よいさ。だが、この名を知っているということは、なるほど一介の乞食ではないようだ」

「買いかぶりです。今や私は追われる身の乞食に過ぎません」

「追われる?」

「ご、誤解でございます!」少年が、声を上げた。「し、師匠は……クニミツさまは何もしておりません。ただ存在をうとんだ叔父上の卑劣な罠によって……」

 少年の訴えは、しかし、クニミツと呼ばれた老人の手で制される。

 そのまま彼は、地面に額をつけるほどに深く、土下座をした。

「……では、オオヌマの村の方、頭を下げてお願いいたします。どうか我らに、わずかばかりの施しを恵んではいただけないでしょうか。あいにく、私から差し出せるものはその刀しかありませんが……」

 私は、彼ら大人の会話を前に居所いどころないまま、同じく気まずそうにオロオロする少年を盗み見た。改めて見ると、ソウヘイに似ていなくもない少年である。

「私を信用できぬのなら、どうかこの子だけでも、一食一晩、お頼み申します」クニミツさんは頭を上げないまま、妙な威厳をともなった声で続ける。「この子は私を慕い、家を捨て追いかけてきた罪なき子です。山中に逃れること四日五晩よっかいつばん、ろくなものも口にできておりません。どうか、どうか……」

 うわ、四日も食べてないのか。きっついなぁ。

 助けてあげようよ……。

 と、早くも同情の念に胸をくすぐられながら、私は顔色を伺うようにギンジさんを見上げた。ギンジさんは何やら頭を相当に悩ませているらしく、難しい顔でヒクヒクと口元を動かしている。

 助けてあげればいいのに……。

 ややあって、ギンジさんは近くに投げ捨てられた杖……カタナだっけ? を拾い上げると、そうして屈んだまま私に向かって手を伸ばしてきた。

 何も言わず、その手を掴んで引き上げてもらう。

「乗れ」ギンジさんはそう言った。私も従って、背中に乗った。私の杖はギンジさんがカタナと一緒に持ってくれた。

「クニミツどの……ついて来なされ。村の長のもとへ案内しよう」

「かたじけない」うやうやしく立ち上がったクニミツさんは、土のついた膝を軽く払って、少年を目で促す。

 そこからは、誰も喋らなかった。

 黙々と、ギンジさんはおばあさんの屋敷に向かって歩き続ける。その間、必ず後ろの二人とは距離をあけているのを見るに、どうもまだ彼らを怪しんでいる気配である。だから私を背負ったのだろう。私の歩調に合わせていては、万が一の場合に危ういと考えていたのが、先ほどの逡巡しゅんじゅんの時間だったのかもしれない。

 不安げに目を泳がせる少年とは、何度か目があった。一度微笑みかけてみた時に笑顔が返ってきたところを見ると、悪い子ではなさそうである。

 ともかく、こうして私は、私以外のよそ者と初めて顔を合わせたのだった。

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