わかがえる 七

 その夜のことである。

 妙に目が冴えてしまっていた私は軒先で、月明かりが煌々としているのをいいことに、夜風にあたりながら一人考えを巡らせていた。

 結局またも屋敷で寝かされることになった私は、だけれどあの目つきの悪いタツミさんのことが脳裏にちらついてか、上手く寝ることができずに、何度も半端に目を覚ましていた。そして今、月がちょうど一番高いくらいの時間には、素敵に塩梅良く起き上がれるほどに睡眠が足りてしまったわけである。

 ……そんな感じで寝ている間は、あの夢を見なかった。

 あのタツミさんの顔が、悪鬼のような相貌が、未だに心を毒のように蝕んでいる。

 ひとまず恐れがなくなってみると、どうにもこうにも腹が立って仕方が無かった。だってあんな、いくらなんでも横暴過ぎるじゃないか。まだ私からしたら初めましてなのに、無理やり顔を見ようとしたり、女子おなごがどうとか文句を言ってきたり……。

 短くなった自分の髪を撫で分ける。

 これのせい……だったのだろうか。

 あの敵意は、それだけであらわせるものだろうか。

 髪なんて切らなきゃよかったか……。

 案の定、切る前からわかっていた通りの後悔に胸が締め付けられる。せめてもう少し村の人たちの様子を見てから、髪を切るかは決めればよかったかな? だけど、まわりが変な目で見るから邪魔な髪を切らないなんて、それこそ本当に腹が立つし、だいいち切らなかったら、村の人がこんなに反応するなんてこともわからなかっただろう。だからもう、これは仕方がないんだ、今更悩んでも遅い……と、当然思考の上では結論づいているのだけれど、それでもやっぱりどこか、心の底にはウジウジした部分があって、それがタツミさんの視線を思い出すたびに頭をかすめるのだ。

 あぁもう、面倒くさい。

 何が腹立つって、あんな横柄で無遠慮なあの人に、一言たりとも言い返せなかったことだろうか。ちょっとでも、怖いと思ってしまったことが悔しいのだろうか。内心では言いたいこともたくさんあったはずなのに……それが言えなかったからこそ、こんなにウジウジ今だって悩んでいるのだろう。

 なんて鬱陶しい。

 とにかく、もう二度とあの人には会いたくないってことだけは確かだ。しばらくは村にさえ下りたくないくらい……でも、マキさんには会いたいな。あのあとマキさんは、心配して屋敷までやってきてくれた。私は話す元気はなかったけれど、何度か寝汗をぬぐってもらったのは覚えている。

 いい人だなぁ、マキさん。

 ほんの少しだけ欠けた月を見ながら、雨の唄を口ずさむ。

 ……あーめのふーるーひーにー、のーそのそあーるくよかーたつぶりー、あーめのてまねきぴっちゃぴちゃー……

 布団の中、まどろみ半分で思考を巡らせた結果、あの夢の話はまず、おばあさんよりも先にマキさんに話してみることにした。おばあさんでもまぁよいのだけれど、やっぱりマキさんの方が年も近いので、割と気楽に話せる気がするし……なにより髪のことで、ちょっとおばあさんとは距離を感じてしまっていた。恨んでるわけでは決してない。ただ私の方が、なんだか申し訳ない気分だってことである。

 今や短くなってしまった後ろ髪を、ヨシのように束ねる真似をする。

 ……かっこよかったなぁ……。

 もう少しだけ早くあの夢を見ていれば、髪を縛るのでもよかったかもしれないのに。

 ……夢か。

 あれは一体何だったのか。

 今日は色々あったせいで、頭の中で情報がいまいち把握しきれていないような感じがしたので、もう一度みんなの顔と名前を整理する。

 目を閉じて、ひとりひとりの顔を、思い浮かべる。

 まず一番幼いのが「リン」。石を踏んで、泣いてた子。

 次に幼いのが、その兄「ゼンタ」。姉のカイリに理不尽に叩かれて怒ってたっけ。

 その次が「ジロウ」だ。体が丸くて大人しい、イチロウの弟。

 そして「アマコ」。兄のゲンが来なかったことを寂しがっていた……。

 ジロウとアマコは、同じくらいの年だろうな。

 でその上に、「カイリ」だ。リンとゼンタの姉で、唄を作るのが好きみたい。

 ここから三人が、年が一緒な仲良し組。

 まずは「イナミ」。卑怯なくらいに可愛い女の子で、ヨシの妹。

 次に「イチロウ」。ジロウの兄で、黙っていれば意外とニクい顔の男の子。

 そして「ソウヘイ」。見た目だけなら、三人の中じゃ一番年上に見えるかな。

 そのすぐ上が「ヤキチ」かな……。今のところ、いい印象が一つもない。

 で、髪を縛っていた「ヨシ」が、その次。凛々しい雰囲気の、イナミの姉。

 そして女の子で最年長なのが「カヤ」。おっとりとした優しい人。

 うーんと、「ゲン」は多分、カヤと同じくらいかな。綺麗な顔の、アマコの兄。

 最後は「タケマル」。とっても背の高い、若い大人。

 ……こんな感じか。

 家族で見るなら「カイリ・ゼンタ・リン」の比較的幼い三姉弟きょうだいと、「イチロウ・ジロウ」のロウ兄弟。「ヨシ・イナミ」の美人姉妹に、いまいちよくわからない「ゲン・アマコ」の兄妹である。

 あとはみんな、一人かな。

 うーん、こうして見るといっぱいいるなぁ……。

 なんというか、あれだな。

 会いたいなぁ……。

 今も目を閉じれば、みんなの顔がまぶたに浮かぶ。イチロウとソウヘイの二人してイナミに首ったけな感じは、見ていてとっても微笑ましかった。

 見ていて……ねぇ……。

 そういえば、そうだ、私は見ていた。

 何か大事なことに気がつきそうな予感がしたので、だらけかけていた背筋をしゃんと伸ばして、下を向いて腕を組む。

 ……そうだよ。

 私は見ていたんだ。

 後ろから。

 ゾワッと、耳の後ろの毛が逆立つ。

 それって実は、とっても重要な情報なんじゃないだろうか。

 そうだそうだ……思えばあの最初に見た夢だって、は固定されていた。

 それはつまり……ええっと……。

 まず考えられる理由のうち、私の実感からしておそらく一番もっともらしいものは、やはりあれは私の記憶であるということだろう。つまりそれは、あの集団の中に、私はいたのだという話である。

 だけど……うーん……。

 で、あるならば、私は雨の日に、あの三人の背中を後ろから見ていたということになるのか……。

 それってなんか変じゃないか?

 隠れていったい、何をしていたというのか。

 うーん……。

 次に考えられるのは、あれは単なる夢であるということ。これはあの人形たちに対して、一番もっともらしい理由である。あれが私の記憶であるならな、私はこの村の出身でなくてはならないし……。

 うーん。

 やっぱりただの夢、なのかなぁ……?

 だけど、夢だとしたら、私の知ってるこの情報、細かすぎやしないか? 顔だけならまだしも、名前から血縁まで全部なんて……。

 それに……。

 あと、今何気なしに思いついたもうひとつの事実……。

 イナミ、イチロウ、ソウヘイ。

 あの三人は、間違いなく、私より年下であるという実感。

 これも重要な情報だ。

 私は、私の年というのがどれくらいなのか、よくわからない。未だ私のもっとも古い記憶は、今も聞こえる、風が草を凪いでいく音と、天窓から指先を照らした月明かりだけなのだから。それなのに、私は彼らを年下だと断言できるのはちょっと興味深い。あの幼いリンやゼンタと、その姉カイリに、太ったジロウや痩せたアマコならまだしも、ソウヘイまでも年下と思えるのは不思議じゃないか。正直今、私は自分の姿をちゃんと認識できていない。ほかの人との相対で、自分の背格好を把握しているだけである。が、それだけなら、あの三人がなんて思えやしないはずなのだ。

 いや、それだけじゃない。

 同じように、年上である人たちのこともわかっている。

 ガサガサと、動物が草を揺らすような音。

 まずタケマル……この人に関してはもう間違いない。

 次にカヤ……それにヨシ。やっぱりどう考えても、私より年上だ。まだ顔しか思い描けないゲンにしても確実である。推察どうこう以前に、そうとしか考えられないのだ。

 しかるに、だ。

 そういう感覚の一切ない、あの残念で格好悪いヤキチが、私と同じような年ということなのだろうか。

 少しだけ嫌な気分になった。

 なんだかなぁ……別に年が近いからどうとかっていうわけでもないのに、なんとなくため息せずにはいられなかった。

 ……でもまぁ、やっぱりそれも貴重な情報である。

 見た目だけで言うのなら、ヤキチは私より明らかに年上っぽい感じがする。なんだか徐々に子どもを離れて、男っぽくなりつつある顔って感じだ。その理由が、ヤキチが年の割に大人びているからなのか、それとも鏡で見た私の顔が幼なすぎるからなのかまではわからないが。

 あぁ、モヤモヤする。

 ……あの子たち、本当にいたのかなぁ……。

 考えてみれば、私はあの人形に触れてから、あの子たちの印象を感じ取ったわけである。それってつまり、あれらが単なる私の妄想でしかないってことなのかもしれないんじゃないか。あるいは、そうだなぁ……。

 うーん。

 例えば、私の失われた記憶の中には、彼女らに似た人たちが確かにいたのかもしれなくて、それを、あの人形を見たことでなんとも中途半端に思い出して、結果的に足りない部分を想像で補ったものがこの一連の夢になって……。

 だとすると、色々と説明がつく。私はまず記憶喪失というよくわからない事態に追い込まれているわけで、その結果、微妙に目覚めかけた記憶が、むしろよくできすぎていたあの人形に印象を引っ張られて、こんな不思議な体験をするに至ったのかもしれないじゃないか……。

 あぁ、なんだかそんな気がしてきた。

 人形に触れたときは、なんだかとてつもないことが起きていた気がしていたのに、後になって考えてみると割とそんなもんなんじゃないかって思えてくるから不思議である。これもあの、足のしびれと同じで、ありふれたことなんじゃないかな……?

 ……子どもか。

 あれ?

 今、何かに気がついたような……。

 閉じていた目に、ふと月明かりを遮る影を感じて顔を上げた。

 目の前に男の人が立っている。

 ギンジさんかと思ったが、あの高く結んだ枝のような髪がない。

 ……じゃあ……。

 心臓が、止まりそうになる。

 その影がやにわに身を屈めた時に、タツミさんの血走った獣じみたまなこが見えたから。

「また会えたな……」

 と、怖気おぞけ立つ声が、重たい響きでのしかかる。

 思わず叫びそうになった。

 その口を、しかし片手で塞がれる。

 この時に、心音が一度とんでもない高さでバクンっと脈打ったのを皮切りに、全身の毛の先に至るまでのが、危機と恐怖を理解した。

「……っ!!?」

 音のない叫びが、彼の手に跳ね返されて喉を震わす。

 大きな手だった。アゴの骨がギリギリと痛んだ。

 離れたい一心で反射的にその手を振り払おうとしたのだが、タツミさんのもう一方の手に左の腕を掴まれる。

 私は逃げようと思った。

 抵抗しようとした。

 今どういう状況かなんて考える余裕もなく、その手を振り払おうと念じていた。

 ……が、少しも動けなかった。

 タツミさんの力の強さだけが理由じゃない。

 全身に重しを縫い付けられたみたいに、どういうわけか微動だにできなかったのである。

 体が、首だけを残して人形になってしまったみたいだ。

 こわいこわいこわいこわいこわい…………。

 だって、こんな、こんないきなり……。

「なぁ、黙れ、な? 黙れるな? な?」

 ぶっとい声が、私を脅す。

 顔を押さえつけられながら、可能な限りの範囲で、必死に首を縦に振る。

 多分、もう泣いていたと思う……。

 掴まれている頬骨が、腕が、痛かった。太い指が肉に食い込んで、骨までもろとも砕けてしまうんじゃないかってくらいに、タツミさんはギュウギュウと締め付けてくる……。

 いたいよぉ……くるしいよぉ……おばあさん……。

「お前、スミレ……だな? スミレなんだな?」

 ガクガクと震える足から、黒い痛みが上へ上へと這い上がる。

 その時、変な幻を見ていた……ように思う。

 大きな影が私に覆いかぶさって、喉を塞いでいく息苦しさ。

 冷たい水の中に体を放り込まれ、凍えて目を閉じるような痛み。

 笑い声の幻聴が、泣き声の残響が、グワングワンと頭を満たす。

 こんなふうに、誰かに掴まれたこと、あるような……。

 落ち着け、負けちゃダメだ。

 必死で自分を奮い立たせる。

「記憶がないだぁ? へっへっへ……」タツミさんは不気味な顔で、笑っている。

 落ち着け落ち着け落ち着け。

 そしたら、えっと……いや、とにかく落ち着け。

 な、何かをしにきたわけじゃない……はずだ。

 お願いだから……何もしないで……。

 口を押さえていた手が、離される。

 ぷはーっと、深呼吸。

 嗚咽おえつ

 咳。

 タツミさんは覆いかぶさるように、両手で私の肩を掴む。それが怖くて仰け反る私の、まさに目と鼻の先に、彼はぐっと顔を近づけた。

「お前……何も覚えてないんだってな? あ?」

 嫌味のこもった声でそう私に語りかける彼に、睨み返して返事をしようとするが、冷たいものが喉に詰まっているかのごとくに、言葉が出ない。

 この人……こんな夜中に私に会いに、わざわざここまで忍び込んできたのか。

 そんな……なんで?

 気が付けば、涙が着物を濡らしていた。

 ……近い。

 近すぎる。

 視界のいっぱいに、彼の顔が、鼻の下の真黒いヒゲや切れ長の目が広がっている。

 洞窟のように大きな口が、池のように澱んだ瞳が、山のような鼻が、風景のように私を包む。

 それが、それがこんなにも気持ちの悪いものだなんて。

 おっかないものだなんて。

 人は、恐ろしいものからは離れようとするもの。それができないということが、こんなにも自分を情けなくしてしまうなんて……。

 とてもとても、冷静に頭を使える状況じゃなかった。

 両肩をがっちり押さえる彼の腕から伝わる体温が、この上なく嫌だった。

 その視線が、私の体を、上から下へと舐めるように見回しているのがたまらなく不愉快だった。

 なされるがままに、私はズンズンと殻にこもりたくなった。

 何もかも忘れて、死んだように眠ってしまいたくなった。

 前髪を、タツミさんの手が掴む。

 大きな手。

 近すぎて像が合わない、コブのある手。

 私の顔などすっぽり包んでしまいそうで……。

 ……が、しかし。

「なぁ……なんで、髪を切ったんだ?」

 野太い声が、耳に響く。

 ぴくりと、こめかみに痺れを感じる。

 ……みんなそればっかり……。

 シー……ンと、彼に掴まれてから初めて、耳の中で鳴っていたような気がしていたざわめきがおさまる。

 その隙に、ほんの一瞬だけ呼吸を落ち着けて、目を閉じる。

 この……人でなしめ。

 ゆっくりと目を開けて、ギュッと拳を握り締める。

 すると、どうだ。

 ……言い返したかったのに言えなかった言葉たちが、胸の内からフツフツと、喉元まで湧いてきた。恐怖の中に、まるで逃避するかのように、ムクムクと怒りが沸いてきたのだ。

 自分が怖がることに追い込まれていることの恥ずかしさ、それへの怒り、反抗、反撥はんぱつ……きっと私生来のものであろう跳ねっ返りな気質というものが、ここに来てギシギシと私の思考をきしませ始めたのだ。

 バカにしてる……。

 どうせ抵抗できないと、たかをくくってる。

 いきなり人のこと掴まえて、黙れだのと言い出して、子どもを泣かせて、謝りもせず笑っている。

 ……最低だ。

 なんて嫌な人だ。

 この人、大嫌いだ。

 ……と、全身の毛がムラムラ逆だってくるうちに、表情もきっと怒りの形相に変わっていったのだろう。タツミさんの吊り上がった口元が、目で追えないほどかすかな速度で引き戻っていく。

 自分が少し大きくなった気がした。

 今なら勝てる、そう思った。

 ムズムズっと唇が動く。「なにか……」

 ドキンと、心臓が高鳴った。

 全身に心地よく、冷たい痛みがスーっと流れる。

 言え。

 言うんだ。

 喉のつっかえを超えて、かすれた声が、反抗の気持ちを込めて歪ませた口元からついに一言こぼれだす。

「何か……悪いん……ですか?」

 ピクっと、タツミさんの目尻が震える。

 その一瞬だけ、私は何か、勝ち誇ったような気分を味わっていた。

 頭の中で木の実が弾けて、冷たい液体が鼻の奥までくすぐった……気がした。

 おそらく彼の予想していなかったであろう反応ができたことで、やっとその鼻っつらに一発かませたような達成感を覚えたのだ。

 ざまあみろ……と。

 ……が、しかし。

 タツミさんが鼻の穴を、毛の見えるくらいにいっぱいに膨らませて息を吸い込んだ時の、無理矢理に笑顔を歪ませたような表情を見て、すぐに恐怖が戻ってきた。

「はは、はははは……」

 さぁっと、視界が暗くなった。

 ひっ……。

 ……しまった。

 おんなじだ。

 おばあさんの静止を振り切って、髪を無理に切ってもらった時と、同じだ。

 またやってしまった……。

 何か、弁明の言葉を吐こうとするが、口を開けても、もはや息さえ漏れ出てこない。

 ヒリつくほどに熱いどろどろが腹の中を溶かしつくして、その蒸気が、目眩のするくらいに頭を曇らせる。

「へっへっへ……」

 目はギンギンに開いたまま、タツミさんは不自然なまでに口を大きく開いて、笑った。

 その濁った息が、生臭い風が、顔に当たる。

「やっぱりだ、お前は……」

 甲高い悲鳴が、私の喉から弾けだした。

 叫ぼうと思っていたわけでもないのに、耐え切れなかった。

 ァーーーー……ーーーッ!!!!

 慌てたタツミさんが、また私の口を体ごと床に押さえつける。「て、てめえ!!」

 彼の左腕が、ぐわっと月明かりを背に上がるのを見た。

 ……痛みを、予感する。

 何かの痛みを、思い出す。

 グサッと胸を貫くような……そんな……。

 咄嗟に、目を閉じた。

 ひっ……。

 ひいっ!!

「た、タツミ!! 何をしているのです!」

 シズさんの、叫び声。

 他にもドタドタと、幾人かの走り来る音。

「ちっ」と、彼の舌打ち。

 それでもまだ、殴られることを覚悟していた私は、しばらくは閉じた目が開かなかった。

 ドックン……ドックン……。

 ドクン。

 ハッと目を見開いて、あたりを見回す。部屋をさっきよりも暗く感じた。

 微妙な温度を残しながら、タツミさんの手が口から離れる。

 掴まれていた部分だけが、風を冷たく感じる。

 ひとまず、安堵。

 ドクン……ドクン……。

 すぐに這いずるように、軒先から逃げ出す。

 一歩でも、少しでも離れたかった。

 そんな私の体をシズさんが抱き寄せる。

 その胸に、すがりつく。

 人に抱きしめられると、自分が震えているのがよくわかった。

「タツミ……あなた……」彼女はまた何か言いかけて、すぐにゲホゲホと咳き込んだ。

「シズよお……お前もわかっているだろう……」タツミさんの声が、まだ十分に近いところから耳に届く。

「…………」

「タツミよ、何をしに来た」

 おばあさんの声に、振り返る。

 村の男に支えられながら、硬い表情を一層に強ばらせたおばあさんは、私とシズさんのすぐ後ろにゆっくりと腰を据えて座り込む。

 荒い呼吸を整えながら、タツミさんはまた、村でクダンさんに止められた時と同じように口惜しそうに顔を背ける。

「……この娘の顔を見に来ただけですよ……キヨ様」

「わざわざこの裏庭からかね」おばあさんの声色は冷たい。

 気が付けば、私の後ろにはシズさんを除いて三人の人間がいるようだ。一人はおばあさん、一人はギンジさん、もう一人は顔の知らない、今まで見た人の中で一番背の高い男の人。その人が持ってきた明かりに赤く照らされたおばあさんは、威厳をたたえた守り神のような雰囲気でもって、そこに鎮座している。

 それを見て、私はようやく助かったと思った。

 肩の力が抜け、嫌な汗が脇の下を伝うのを感じる。

「俺は納得していないのです!」タツミさんが、噛み付くように叫ぶ。

「この子は何者でもないのだよ」おばあさんはなおも、重々しく語る。「お前の不信もわかる……だがそれは間違いだ。この子はただの、哀れな娘だ。恐らくは尋常ならざる不幸によって、記憶を失った数奇な乙女だ」

「ではなぜ……」

「タツミよ、帰りなさい。自ずから語るまで、何ものも問うなかれ……そう、うらないは告げたのだ」

「…………」

 苦々しさと、確かな怒りをたたえた表情のタツミさんは、まだ何やら口ごもったようであるが、結局は「クソっ!」とだけ吐き捨てて、座敷の方へと上がってから、足早にこの屋敷の出口へと歩いていく。

 そしてギンジさんを押しのけて、ふすまの奥へと消えていく最後の刹那、一度だけ彼は振り返って、私を見た。

「お前は……俺の……」と、かすかな声に歯を軋ませて。

 …………。

 嫌いだ。

 ……あの人、大嫌いだ。

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