追章
かえらない
夜の湖には波一つない。天高く昇る月を瞳のように映しながら、その上を歩いて渡っていけそうなほどに、じっと平らに固まっている。
スミレは、ゲンの作場から盗んできた人形の首を切り取って、同じく拝借した刻刀の針のように細いやつを使いながら、首側の断面に穴を開けていた。
月明かりに丸い木目を照らしながら、彼女はイライラしつつも作業を続ける。人形の髪が時々枝毛になって指に絡むのが
人形の髪というものは、基本的に、村の女の髪を一本ずつ丁寧に植え込んで作られている。死人
スミレが初めて髪を切ったのは、五つの時だった。その時は村に火種を投げ込んだような大騒動になったが、今ではもう彼女の髪に文句を言うやつはいない。とっくに諦められているのだ。
(あぁ、めんどくせえ……なんでこんなに首だけ細いんだよ……)と、スミレはムカツキのあまりに、座椅子の足をかかとでゲシゲシと蹴りあげた。
人形の首をなんとか取り替え式にできないかと考えたのが、彼女がこんなことを始めたそもそものきっかけだった。両側に穴を開けてネジ状の棒を通せば、そういうおもちゃができるだろう。首だけすげ替えられるようになれば体一つでも色々と表現できるだろうな……と、山を歩きながら何ともなく考えていたのだが、そのうちにその考えがなんだか大変面白いもののように思えてきて、是非とも試してみなければ気がすまぬという風に、彼女を急き立ててしようがなくなったのだ。もちろん首が取り替え式になったところで大した意味はない。この村の人形は注文のあった家
スミレを動かしているのは、いつだって単純な好奇心と、ちょっとの意地。
しかしこの穴開け作業が、なかなかどうしてうまくいかない。首が細すぎるせいで、よほど慎重に穴を開けないと、すぐにバキッと縦に裂けてしまう。いったい何を思ってこんなに首を細くしたがるのか、スミレにはまるで理解ができなかった。顔ばかりはやたらに凝るくせに、伝統にはしがみつき変化を拒む、スミレはクダン爺のそういうところが嫌いだった。もっと首を太くするように、こっそりゲンに頼んでみるべきかもしれない。あの
唐突にやる気が切れたので、途中まで穴が開いた人形の首を、未練っ
(もういいや、おしまい)
スミレの切り替えは、早い。
(どうせただの暇つぶしさ)
最近彼女は、山の中におかしな獣の痕跡を見つけることが多くなった。木に残る爪痕や、食い荒らされた狐の肉などから推測されるその大きさは、スミレなどひとたまりもなく食い殺されてしまうであろうほどのものだった。おかげでここ数日彼女は森の探検を自重していた。いくらなんでも食われて死ぬのはゴメンだ。
しかし、そのせいで根っからの探検グセが発揮できずイライラが募り、暇を持て余した
ふわぁーっとスミレは大アクビを天に吐き、ぐっと尻に力を入れて伸びをした。
人形の首切りも結局はつまらない流行りだったが、タケマルがクビソギとかいう妖怪をでっち上げてくれたおかげで少しは楽しめたと彼女は結論づけた。なんといっても、スミレにそそのかされて夜の練習部屋に一人こもったヤキチが、ビビりすぎてゲンを殺しかけるという文字通りに死ぬほど笑える結末をつけてくれたのには感謝せねばなるまい。いっそのこと殺してくれたらもっと面白かっただろう。そしたらきっとヤキチはゲンの幽霊が出ただのと、また楽しいことを言い始めたに違いない。ゲンの幽霊ならスミレにも見えるかもしれない。ヤキチの霊感は、時々本物なんじゃないかと思えることほどに鬼気迫ることもあるので、なんとか確かめられないかと彼女は考えていた。
いっそのことヤキチを殺せばが、わかりやすいか……。
(……なんてね)
スミレはすっと立ち上がる。
ふーっ……と、今まで彼女が尻に敷いていたものから息が漏れた。それは、人形の首の回収をトチって結果アマコを泣かせた間抜けであり、その罰として、スミレはずっとそれの背中に座り作業をしていた。もちろんアマコのためではない。スミレは村の子どもたちの誰にもなんの情も抱いていなかった。みなただの馬鹿の群れである。唯一カヤだけは、飯を作ってくれることもあって重宝していたが、体が弱すぎてしょっちゅう使い物にならなくなるのには大層呆れている。
タケマルはこんな奴らに飽きないのが不思議でならないと、スミレはいつもそう思っていた。
スミレは、村の誰よりも賢い。書堂に積まれているおびただしい量の本の山も既にあらかた読み尽くしてしまい、だいたいは覚え、そして飽きてしまった。スミレは。一度見た本は読み返さない。ジロウのように、何度も同じものを読む理由が理解できない。
昔は村の中で唯一の遊び場だったあの書堂も、今となってはただただカビ臭い思い出が眠るだけのつまらない村の一部である。かつては書堂の本だけが、スミレにとって、この村で興味を引くものだった。しかし、本の量には限りがある。
新しいものは、いつだって村の外にしかない。
それなのに、この村の大人たちはずっとこの中にこもっている。スミレが大人の言うこと聞かないのは書堂で変な本を読んだからじゃないかなどと、寝言にもならない戯言に本気になって、それだけの言葉で頭がいっぱいなのだ。
まさに馬鹿馬鹿しい。
なぜ、バカなのは自分たちだと気が付かない?
おかしいと思わないのか?
村のことも。
タタリのことも。
世界のことも。
自由に生きて、何が悪い。
ぺっとスミレは砂浜にツバを吐き、家に向かって歩き出した。
「あ……待って……」背後から、か細い声。
振り返ると、手足についた砂をほろい、立ち上がる紺の着物のチビの姿。スミレからすれば、彼女の胸にも届かないそいつの小ささは信じがたいものがあった。小さいのは背丈だけじゃない。スミレの短い髪にずっと憧れているくせに、怒られるのを恐れて未だに親に言い出せないくらいに肝っ玉も小さい。
蛙がどこか、近くで鳴いた。
「ひっ……」と、チビが飛びついてくる。
「ん、どうした? 蛙が怖いのか?」スミレは笑った。「雷に続いて今度は蛙かよ……お前、神社に忍び込んでからおかしいぞ?」
「え……し、知ってたの?」驚く瞳に、満月が映っている。
「私にバレてないつもりか? アホらしい……蛙石に傷つけたの、お前だろ?」
「…………」
「けっ……転んで頭でもぶつけたか……どんくせえ」スミレはいよいよおかしくなって、震える背中を小突き回した。「それでいつ蛙が呪いに来るかっておっかながってるわけか。お前ってホントバカだよなぁ」
「……だって……」
「泣くなよ、もう十三になるんだろ。ヒビの一つくらいでタタられやしないっての。そんなんで殺されてたまるか。おら、行くぞ」
「ま、待ってよ……スミレ姉ちゃん……」
チユリが、急いでスミレの裾にすがりついてくる。
本当に、同じ
やがて湖を離れ、家へと帰っていく二人の背中を、汚れた蛙がゲコゲコと鳴きながら見送っていた。
チユリ一人だけを残して、スミレが村の子どもたちを
タタリの子 小村ユキチ @sitaukehokuro
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