第五章 おきかえる

おきかえる 一

 結論から言うと、あの時ゲンの首がなかったように見えたのはまるっきり私の勘違いであった。唐突に視界に飛び込んだ鮮血に、驚きのあまり目を覚ましてから次の夢を見るまでの間は、てっきりゲンが死んだと思い込んでいたので、飯も受け付けないくらいだったのに……まったく無駄に気を揉んでしまったというわけである。あれは夢だあれは夢だと、何度も自分に言い聞かせていた時間を返して欲しい。

 しかし、そんな私の早とちりも無理もないだろう。ゲンが頭から血を流していたのは本当だったのだが、とにかく暗くて、血と髪の黒は見分けにくかったのだ。あの量の血なんて滅多に見るものではない……って、そもそも私は以前に血を見た記憶がないのだが。

 そしてあの時私の頭の中には、クビソギの怪談が夜の闇と不審な影に刺激されて、存在感を増していた。そのせいで、首から先が血で染まったゲンの体を見た瞬間、咄嗟に首がないのかもと判断してしまったのは自然な思考の流れだろう。多分、私以外のみんなも、一瞬だけでもそう思ったからこそ悲鳴をあげたのではないだろうか。

 うーん、私以外のみんなって表現、なんだか変な感じだ。だって私はいなかったはずなのだから。

 なんにせよ、直前に頭の中に入った印象というものは、その後のなんてことのない現象を受け取る心に爪痕を残す。

 私が次に夢を見られたのは、結局夜も更けて朝日が白み始めた時間であったのだが、それまでの間に何度も、ちょっとした床の軋みや風のゆらぎに、恐ろしかったタツミさんの出現を感じ取って体が震えたものだ。その度歯がゆさとやりきれなさに気が沈んだ。視界を覆われていたせいで、目を閉じている時の音に敏感になってしまったらしい。そんな風に、心に傷が残ってしまったことが悔しかった。なんであんな人のために私は……。

 救いのあるはずの夢も、ゲンが死んだと思っている間は、続きを見るのが怖かったし。

 が、ともかくこうして夢へと入ったとき、普通に布団の上に座っている、頭にサラシを巻かれたゲンを見たときには、嬉しさのあまりにまた目を覚ましかけてしまった。

 ゲンは相変わらず感情の読み取れない瞳を顔の中心に据えたまま、膝下に顔を埋めるアマコの頭に手を置いている。アマコは泣いているようだが、今度は当然だろう。あの場面では、ゲンは死んでしまったかもしれないと心配になるに決まっている。

 顔は見えないけれど、とにかく何度もしゃくり上げながら兄に泣すがる彼女の姿を見ていると、こちらまでもらい泣きしてしまいそうだった。もちろん、夢の中で泣けるならであるが。

 ほんと、生きていてよかった……。

 無表情の彼を囲うのは、今やお馴染みとなった子どもたち。タケマル以外の全員が、ゲンの寝床に集まっている。

 ひどく疲れた表情のカヤが、深く深くため息を漏らした。「なんともなくて本当によかった……」

「カヤ姉は寝たほうがいいんじゃないの?」と、そう言うイナミも、眠たそうにあくびをこぼす。

「まあ、みんな寝不足よね」ヨシが力なく笑う。目の下がゲンのように黒くくまになっている。「寝なさいって言っても無理だったでしょ」

「うん、全然寝られなかった」カイリが、答える。「ゼンタとリンはグーグー寝てたけどね」

 そのリンとゼンタは、二人でヒマそうにほっぺを引っ張り合っている。やはりこの子らは状況がよくわかっていないようだ。

「ごめんね、リンの面倒を押し付けちゃって」と、カヤ。

「ううん、仕方ないもんね」カイリは首を振る。「カヤ姉こそ大丈夫なの? いろいろ働いてたんでしょ?」

「なんだか今になって疲れてきちゃった」カヤの笑顔は、力ない。「ゲンが倒れてるって聞いたときは、それどころじゃなかったのにね」

「ホント、心配かけるんだから」ヨシが、ゲンを優しく小突く。「大騒ぎで大変だったのよ? アマコも一睡もしてないんだから」

 ゲンは、ぼうっとしている。

「もう痛くないの?」

「うん」サラシの位置を気にしながら、やっとゲンは頷いた。「あんまり痛くないね」

「なぁ、ゲン兄……?」と、身を乗り出したのはソウヘイだった。「あん時、何があったんだ?」

 ゆったりとした動作で、ゲンは顔をあげる。「あの時?」

「いやほら、倒れる前っつうかさ……俺らにも教えてくれよ」

「あぁ……」

 ゲンは気だるそうにアマコの髪の毛をつまみ上げながら、目を閉じて黙り込む。みんなそれを固唾を飲んで見守るが、ゲンはなかなか口を開かない。

「あの、疲れてるなら今じゃなくても、ね?」カヤが、彼の顔を覗き込む。「タケマルたちにはもう説明したんでしょ? わざわざもう一回は……」

「いや、大丈夫」ゲンは、目を開いて、わずかにカヤに笑いかける。「実際、あんまり覚えていないんだ」

「覚えてない?」イナミが、小さく首をかしげる。

「……なんであそこに行ったのかも、わからないし」

「はぁ?」イチロウが、顔をしかめる。「どういうことだよ」

「叩かれたこと、覚えてないんだ。全然、記憶がない」ゆっくりと、聞き取りにくいくらいの声色で、ゲンは続ける。「だから、俺は何も見てないよ」

「何も見てない?」ヤキチが呆れたように口元を引きつらせる。「ホントかよ、それ」

「うん、本当」と、微笑むゲンの顔に、少し見とれる。「見たのかもしれないけど、全然覚えてない」

「記憶がないって……」ヨシが、腕を組んで天井を見上げる。「そんなことあるの?」

「頭を強く打つと、そうなることがある……らしいけど」

 と呟いたジロウに、みんなが注目した。

「え、なにそれ?」カイリが聞く。

「えっと……崖崩れで気を失った雲水が川に落ちて名前がわからなくなっただとか、石で頭を叩かれた盗人が涙ながらに無罪を主張したりだとか……そういう話が、あるみたい」

「え、何で読んだの?」と聞いたのは、ヨシ。

 ジロウは頭をひねる。「山海医方聞書……だっけな」

「あの分厚いやつ?」カヤが、驚く。「ジロウ、いつの間にあんなものまで読んでたんだ」

 おーっと、声が上がり、ジロウは恥ずかしそうにうつむく。

 頭を強打すると記憶がなくなる……か。

 いいことを聞いた。

「じゃあゲン兄は頭叩かれて記憶とんじまったってことか?」ソウヘイが笑う。「それおかしいぜ? 俺だってしょっちゅう頭打ってんのに何も忘れやしてねえっての」

「この前、まき運び忘れてたでしょ」イナミも笑いながら突っ込んだ。「そっか、きっとイチロウに頭叩かれて忘れてたのね!」

「そんな簡単じゃないと思うんだけど……」ジロウは、苦笑い。「ゲン兄みたく、気を失うくらいにぶっ叩かれないと、ダメなんじゃないかな?」

「うへぇ……」カイリが顔をしかめる。「私、ぜったいヤダ」

「うーん、本当に覚えてないの?」ヨシがゲンを、胡散臭そうに横目で睨む。

「覚えてないよ」ゲンは、ひるまない。「もしかしたら、俺が転んだだけかもしれないんじゃないかな」

「それはないでしょ、だって誰かが出て行ったの見たもん」イナミがビシッと、手を挙げる。

 ムクッと、ゲンは顔を上げて眉をひそめた。「出て行った?」

 ゲンが初めて、少しでも表情を曇らせた瞬間だった。

「あ、そうだ、その話」カヤがハッとして、口に手を当てる。「それも聞かないと」

 ちょうどその時、障子の影から、ヌッと背の高い影が顔を出した。タケマルである。「俺も是非聞きたいね。あの夜のこと、詳しく聞かせてくれよ」

「あ、タケマル兄……仕事は?」カイリが聞く。

「それどころじゃねえっての」タケマルはカヤの隣にドサっと腰を下ろす。「だってよぉ、こりゃ間違えれば人殺しだからな……ま、幸いケガも軽く、発見も早くて助かったわけだが……なんで発見が早かったのかな?」

 さっきまで優しい顔でアマコとゲンを見守っていたヨシが、急にグッと目を細めてイナミを睨んだ。

「あ……えっとぉ」イナミはごまかすように笑いながら、すぐにイチロウを指さした。「ほら、イチロウが厠行きたいって言い出して……」

「ちげやい、ジロウに行きたくないかって聞いたんじゃい!」イチロウはどうでもいいところで抗議する。「なぁ?」

「だから先に厠行っておきなって言ったのに……」ヨシは呆れてため息。「それで、まあ男どもが一緒に厠行くのはわかるけど、なんでイナミたちまで一緒に行っちゃうのよ。全員ガマンしてたの?」

「そういうわけじゃあ……」と、カイリがうつむく。「だって……女の子とゼンタしかいないんじゃ心細かったんだもん……」

「なんで?」ヨシはなおも、疑り深く聞く。

「クビソギ……怖かったんだもん」

 イナミとカイリが頷き合っているのを見て、ヨシは、一瞬だけタケマルを鋭く睨んだ。タケマルは微妙な笑顔で目をそらす。

「……それで、みんなで行くことにしたのね?」あくまで穏やかな表情で、カヤが聞いた。

「そうそう……それで厠に行ったらね、下に明かりが点いてるのが見えたの」イナミが答える。「それでゲン兄起きてるなって思ったんだけど、アマコがあれゲン兄じゃないかもって言い出して」

「ほぉ、そりゃまたどうして?」ヒョイっと、タケマルが身を乗り出す。

「ゲン兄が遅くまで起きてる時は、八間に火をつけるはずだって、アマコが気づいたんだ」丸いお腹をさすりながら、ジロウが説明する。「それにしては明かりが小さいし、動いてるようにも見えるし、ロウソクかなって」

 タケマル、カヤ、ヨシの三人が、真面目な顔で向き合った。それを見て、この情報が重要なものであることにようやく私も気がついた。今まで妖怪の印象が強すぎて、犯人を見つけるという発想をすっかり忘れていたようだ。

「それで?」ヨシが先をうながす。

「うーんと、それでおかしいなって思ったら、明かりが消えて……」

「その前に、音みたいなの聞こえなかった?」イナミが、ジロウの言葉をさえぎる。「なんか、ドっ、みたいなの」

「そんなの聞こえたか?」ソウヘイが頭をひねる。

「聞こえただろ、なんか」と、イチロウ。

「聞いた聞いた」カイリもうなずく。

「あー……そうだね」ジロウは頭をかいて、ちょっと悔しそうな顔で苦笑い。「忘れてたなぁ」

「音かぁ」タケマルは難しい顔でうなりながら、胸に手を当て咳をしたカヤの肩を抱く。「普通に考えりゃ、それがゲンを殴った時の音だけどなぁ……で、その後すぐに明かりが消えたんだったな?」

「うん……あ、いや、違うか」イナミが可愛く唇をすぼめて、考え込む。「えっと、明かりが消えたと思ったんだけど、実はそれはまちがいで、ホントはちょっと暗くなっただけでまだ火はついてたんだけど、なぜか全部消えちゃったって思っちゃって、それで真っ暗だなって思ったら、なんか見たんだよね?」

「そう、それ」今度はヨシが身を乗り出した。「なんか見たって、それ、どういうことだったの?」

「えっと……だってそれは……」カイリが自分の肩を抱く。「なんか、全然見えなかったんだけど、裏口から確かに大きな影がシャッて抜け出していって……」

「大きかったか?」ソウヘイが口を挟む。「俺くらいじゃなかったっけ?」

「いや、流石にそこまで小さくはなかったと思うけど……」ジロウが、突っ込む。

「お前よりは大きいだろ」

「そういう話じゃないって……」

「俺はなんも見てねえぞ」イチロウが、抗議。

「えー、でも、中でゲン兄が倒れてたんだよ?」イナミがイチロウの頬を突っつく。「あー……そうか…‥いや、でも、なんも見てねえ」

「いじっぱり」

「あ?」

「気のせいなんじゃねえか」話の一致のしなさに、隅っこの方にもたれかかっているヤキチがヘンっと笑う。「全然話が合わねえじゃねえか」

「ちがうもん!」イナミは正面のカイリに向き直る。「カイリは見たんだもんね?」

「もう……なんでそんなに笑えるの……?」カイリはわしゃわしゃ、身悶える。「私ほんとに怖かったんだからっ! イナミたちが歩いて行っちゃったとき、どんっっだけびっくりしたと思ってるのよ! 私歩けなかったわよっ!」

「で、でも、結局来たよ?」音圧に押され、イナミは目をそらす。

「だってゼンタがついて行っちゃうし、転ぶしで……」

「はぇー、それで勇気出して歩いてきたんだ、えらーい」

「もーキライよ! 妖怪もゼンタも!」

「ま、ままま、ともかくだ」タケマルが、とりとめのなくなりつつある話に割って入る。「お前らは、誰かがあそこから出ってたのを見たんだな?」

「うん」ジロウは、頷く。

「誰かって言うか……」イナミがまた面白そうに、肩を抱いて震えてみせる。「妖怪かもぉ……!」

「いやーっっっ!!」

 カイリの叫び声に、ゼンタとリンが久しぶりに振り返った。二人は今、くすぐり合うような軽いケンカをしていたようだ。

「うるせえなっ!」カイリの隣で耳を抑えながらソウヘイが吠える。「妖怪なわけねえだろ!」

「……で、もうそのまま部屋に戻ろうかとも思ったんだけど」ジロウが、話を戻した。「明かりが残ってるの、変だなって……」

「で、見に行ってみたのか」タケマルが、片目だけぐっと開いて目を回す。「勇気あるなぁ」

「そしたらヨシが来て……」

「いや、そこからはわかってる。ありがとよ」はあっとタケマルは息を吐いた。「うーん、そういう話だったか。こりゃヨシも怒るに怒れんのじゃねえか?」

「それとこれとは別でしょ」ヨシもいろいろと考え込みながらも、タケマルを睨みつける。「……まあ確かに、おかげですぐにゲンを見つけられたのはよかったけど」

「そうだそうだ!」

「そうよそうよ!」

 と、ソウヘイとイナミがここぞとばかりに主張する。

「でも、結局はヨシ姉頼りだったんじゃあ……」冷静に、ジロウは突っ込む。「ヨシ姉も、ちょうどいい間に起きてくれたわけだし……」

「ほんと、うまくいったよね」カヤが、笑う。「だから、このことは不問にしていいんじゃないの?」

「ちょっと、カヤまで……」

「もとはといえばタケマル兄がみんなを怖がらせすぎたからだし……ね?」

 この時カヤがタケマルを見た眼は、眠っているリンを見つめる時のように穏やかだったけれど、この笑顔がタケマルの心にグサッと刺さったらしい、へへへと耳の裏をかきながら、ぼそっと「すまん」と呟いたのが確かに聞こえた。

「でも、ほんとにゲン兄、首取られなくてよかったよぉ……」なぜかソウヘイの腕にすがっているカイリが、ため息。「ねえ、アマコ?」

 アマコは、答えない。

 しばらくみんなが心配そうにアマコの様子を伺っていたが、そのうちイナミがプッと吹き出した。

「寝てるみたいね」

「そりゃあ、ずっと泣いてたもんね」と、ヨシがアマコの背中を撫でる。「人形騒動に始まり、ずっと泣きっぱなしだったから……」

「微笑ましいじゃないか、え、ゲン?」タケマルが、ニヤつく。

「今日は二人で寝てあげるのよ?」カヤも、微笑む。

「ちょっと、ゲン?」

 ……また、沈黙。

 今度はヨシが、気が抜けたように笑った。

「……寝てるわね」

「座ったままかよ」ソウヘイが、笑う。

「こんだけ心配させといていい気なもんだぜまったく」タケマルも呆れて、両手を挙げる。「おら、みんなも昼寝してきたらどうだ? 眠いだろ?」

「もうクタクタよ」ヨシがガックリと、だけど気持ちよさそうにダランと背中から転がった。

 結局この会は、ここでお開きとなった。ヨシとカヤで、ゲンとアマコを同じ布団に寝かせてから、みんなであくびをしながら去っていく。私もたっぷり寝たあとだったので、夢も大した時間見ることはできずに覚めかけていた。

 だけど……。

 シズさんが寝汗を拭きに来たことと、夢の狭間で、私はおぼろげながらあるものを見ていた。

 一つは、みなが部屋を去ったあとで、ゲンがムズっと起き上がったこと。

 二つは、この部屋に、誰かが戻ってきたところ。

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