憧れの背中は遠く

 ――どうして直感に従わなかったのだろう。


 凪沙は自分の愚鈍さを呪いたくなった。

 自分の心臓がうるさいくらいに鼓動を鳴らしているのがわかる。

 それは突然やってきた。何の脈絡も、前振りもなく、恐怖の根源はその姿を見せたのだ。

 天井を割り多目的ホールに突如現れたファントムに、会場はざわつき出す。

 事態を正確に理解しきれていない声がちらほらと凪沙の耳に聞こえてくる。

 そんな中で、ファントム――マンティコアはちょうど近くにいた凪沙へと標的を定めた。赤い眼光がキラリと光る。


「ひっ……!」


 驚きに声を上げ、凪沙はその場から後ずさった。

 古来より人喰いの獣として恐れられているマンティコア。

 その牙が自分に向けられている。

 凪沙は顔面を蒼白し、目の前の現実に呼吸を忘れそうになった。

 反応ができない。突然の事態に頭の処理が追いつかなかったのだ。


「神城!」


 一成の叫ぶ声が聞こえた。それがやたらと遠くに感じた。

 マンティコアがその鋭利な牙で自分に襲いかかったのだと、そこでようやく凪沙は理解する。

 全てがスローモーションに見えた。

 避けるには間に合わない。

 自らの肉体が真っ二つに引き裂かれる未来を、凪沙は確かな事実として受け入れかけた。

 直後、


「凪沙さん!」


 一つの影が凪沙とファントムの間に割って入り、甲高い金属音を鳴らした。


「大丈夫ですか……」


 硬い物質同士が打つかり、軋み合う音が多目的ホールに響き渡る中で、その少女の声は凪沙の耳によく届いた。

 両の手で握る身の丈ほどの大剣がマンティコアの鋭く鋭利な牙を防いでいる。

 声の主たる少女の声は震えていた。足は竦み、奥歯をガチガチと鳴らしている。


「フィア……ちゃん……?」


 それでも、少女――フィア・ハーネットは凪沙の前に立っていた。


「せぇ……のぉ!」


 気合いの入った声と共に、フィアは力一杯両腕を唸らせて《ガラティーン》を振り回す。

 ブォン! と風を切る音がして、勢いよくマンティコアは壁へと叩きつけられた。

 その余波で建物全体が大きく揺れる。


「フ、フィアちゃん、無事?」


 正気に戻った凪沙がフィアのいる場所へと駆け寄った。

 明確なマンティコアの攻撃行動によって、会場内は混乱の渦にいる。

 生徒はもちろん、この会場にいる者全てが恐怖と混乱に冷静さを失っていた。


「は、早く逃げないと⁉︎」

「おい! 押すなよ!」

「落ち着いて! 高等部の生徒は中等部と初等部の生徒を誘導しろ! 来客の方達は我々教師陣の指示に従ってください!」


 初めて目の当たりにするファントムに、生徒たちは狼狽える。それを叱咤し、冷静さを取り戻そうと教師たちが奮闘しているが、それも無駄に終わりそうだった。

 風花学院の最大の欠点は、現役のプロが存在しないことだ。

 一部の教員を除き、何らかの理由で現役を退いたライセンス持ちの教員と見習いの生徒。それが風花学院の戦力の全てだった。

 学院の目的は特異能力者の育成。故に、実戦の経験者が圧倒的に少ない。

 それら全てが今、最大の圧迫と恐怖をこの場に居合す者たちに与えていた。

 混乱の中で、フィアが言う。


「逃げてください。私ができるだけ引きつけますから、その隙に」

「だ、駄目よ! フィアちゃんを一人残して逃げるなんて――」

「だけど、それしか方法がないんですよね」


 困ったような笑みを浮かべ、フィアは吹き飛んだマンティコアを見る。ダメージから回復し、ゆっくりとした動きで起き上がるマンティコアの瞳は確かな敵意を彼女に見せていた。

 しかもそれだけではない。


「嘘……でしょ……」


 凪沙は今度こそ言葉失った。

 見やれば、新たに姿を見せるマンティコア。

 その数は二。

 合計三体のマンティコアがフィアを取り囲むように並び立つ。おそらくは、この多目的ホール内に現れた全てのマンティコアだろう。

 取り囲まれたこの状況では、逃げることは不可能に近い。

 加えて目の前にいる三匹のマンティコアは、自分たちの狩りを邪魔されて怒っている。その怒りの元凶たるフィアをみすみす見逃す筈もない。


「すうっ……はああああ……よしっ!」


 三匹のマンティコアを見て、フィアは大きく深呼吸した。

 深呼吸し、息を整えて、震える唇を強く噛む。それから改めてフィアは《ガラティーン》を強く握る。その瞳は、はっきりとした覚悟が見えた。

 元より自分がこのファントムの相手をするつもりだったのだ。相手をする数が増えただけ。フィアは強く自分に言い聞かせる。


「――シッ!」


 先に仕掛けたのは、フィアだった。

 風を纏う大剣を構えた彼女は、一瞬でマンティコアたちの懐へと潜り込んだ。グルルッ! と唸り声を上げたマンティコアが、その牙と爪を使って迎撃を狙う。

 衝突の瞬間、建物全体が再び震えた。

 ファントムは生物の形をしているが生命体ではない。その実体は意思のある濃密な魔力の塊だ。

 故にその一振り、その咆哮の全てに魔力が宿る。魔力を持たない生身の人間が受ければ絶対に助からない死神の鎌。

 それこそが、ファントムが厄災の象徴とされる起因でもある。

 しかしフィアは、その攻撃を躊躇うことなく受け止めた。

 フィア・ハーネットの固有武装ギア・《ガラティーン》の材質は、現存する素材の中でもトップクラスに硬い強度を誇る。

 それはマンティコアの鋭利な牙すら通さない。

 正面からの打つかり合いは分が悪いと判断したのか、残る二体がフィアの両サイドから飛び掛かった。


「危ない!」


 凪沙は叫んだ。

 だが、それよりもフィアの行動の方が早い。魔力を走らせ、自分の両サイドを守るように風の障壁を展開。突進する勢いを止めるどころか、暴風に吹き飛ばされたかのように二体のマンティコアは派手に吹き飛ぶ。


「すご……」


 一連の攻防を間近で見た凪沙が惚けるような声を洩らす。

 攻撃手段のないフィアだが、防御に関してならばマンティコアを捌くことは容易だった。

 そして、彼女の狙いは膠着状態を維持すること。みんなを避難させる時間を稼ぐことが目的だ。

 フィアが叫ぶ。


「さ、今のうちに!」

「で、でも、フィアちゃんを残すなんて……」


 ――できるわけがない。

 そう口にする凪沙の不安を柔らかく解く声がフィアの口から発せられる。


「大丈夫ですよ」

「え?」

「私、強いですから」


 フィアは、はっきりと言い切った。一片の迷いもなく、一切の弱さもなく、この場に似合わない笑顔で言い切ってみせた。


「だけど……」

「いいから早く! このまま戦えば、他の人を巻き込んじゃいます」


 食い下がる凪沙に、フィアは精一杯の強がりを言う。


「……っ!」


 言外に込められたその意味を、想いを理解して、凪沙は悔しさで顔を歪ませた。

 無力な自分を、たとえ何もできなくても残ると言えない自分を、凪沙は恥じた。

 そもそも、この場でマンティコアたちに対応できるのは彼女だけ。仮に自分がこのままここに居たとしてもフィアの邪魔にしかならないことは、凪沙本人が一番わかっている。


「……みんなを避難させたら、先生たちに直ぐに助けに行ってもらうから」


 後ろ髪を引かれる気持ちを振り切って、凪沙は走り出した。

 その後ろをマンティコアたちは狙う気配はない。どうやら目の前にいるフィアを明確な敵として認識しているようだ。


「これで……いいんですよね」


 姿の見えなくなった凪沙を確認してから、フィアは呟いた。

 これでいい筈だ、と自分に言い聞かせる。

 もしもこの場に憧れのあの人が居たら、間違いなく彼はこうしていただろう。そんな信頼にも似た確信がある。

 だから、自分もそうした。

 憧れの背中に追いつく為に。実力も経験もないが、せめてその心の在り方だけでも真似ると決めたから。


「さあっ! 全力で、全開の時間稼ぎをしましょうか!」


 魔力を全身に漲らせて、恐怖を振り払うかのようにフィアは腹の底から声を出した。

 防御に徹するつもりだが、ただ無抵抗に攻撃を受けるつもりもない。

 来るなら来い、とフィアが固有武装ギアを構え直したのと同時に、ファントム――マンティコアが目の前から消える。

 突然目の前で相手が消えたことに驚愕から体を震わせ、硬直しかけた。おそらくは呼吸の一瞬、或いは瞬きの瞬間を狙われたのだろう。春市との訓練で、散々やられた技術だ。

 自分の未熟さに泣きたくなるが、幸いにも経験則から狙いはわかっている。

 意識を集中させ、網膜に影が映ったのと同時にフィアはその場で素早く右足を後ろに引いた。

 後ろにあったテーブルが倒れ、派手にグラスや食器の割れた音が響く。マンティコアが標的を外し、勢いあまってテーブルに突っ込んだ音だ。

 フィアは直ぐに突っ込んだ方向へと振り返った。


「セエェイヤァ!」


 気合いの入った声を腹から引き出し、テーブルに突っ込んだままのマンティコアに《ガラティーン》を全力で叩きつける。余波で辺りのテーブルやらなんやらが吹き飛んだ。

 腹部を強く打たれたマンティコアは悶絶し、やがて弱々しい悲鳴を上げて転がった。

 が、そこで気を休める余裕はない。


『ギィエアアァァァァァ!』


 仲間の危機に他のマンティコアが咆哮を上げて、フィアへと牙を立てる。狙いは首だろうか。


「なん……のぉ!」


 腰を捻り、横薙ぎに《ガラティーン》を振り回す。

 牙と大剣が弾き合い、火花を散らした。

 そこから更に追撃が来た。

 衝撃と振り回した際の勢いで体制が崩れた上から、御構い無しに三匹目が突っ込んでくる。

 マンティコアが《ガラティーン》に取り付いている状態では防御はできない。それを狙ったのだろう。


「まだまだあぁぁ!」


 だが、それすらもフィアは防ぐ。体幹に力を入れて、無理矢理に体を捻り、取り付いていたマンティコアごと《ガラティーン》を振り回した。

 遠心力が加わり、二匹のマンティコアが打つかり、甲高い獣の悲鳴を上げる。


「はぁ……はぁ……はぁ……さすがにキツい、ですね……」


 瞳に入りかけた汗をフィアは制服の裾で拭った。想像以上に体力を持っていかれている事実に、焦りを覚える。如何に膨大な魔力を持っているといえどその量は無限ではない。いつかは枯渇してしまう。

 疲労で集中力が低下しているのがわかった。先の試合で魔力を想像以上に消費したのが、こんな時に影響してくるとは。

 再び立ち上がる三匹のマンティコア。確実にダメージを与えているはずなのに、消滅或いは逃げ出したりする気配は微塵も感じられない。

 このままでは先に力尽きるのは――


(負けちゃ駄目だ……)


 脳裏をよぎった絶望感を、フィアは呑み干した。今は、そんな事を考えている場合ではない。ここで自分が倒れたら、このファントムたちは多目的ホールを飛び出して、他の生徒たちを狙うだろう。それだけは阻止しなければ。

 狙い通りに時間は稼げている。

 辺りを見渡せば、既に避難は完了したようだ。多目的ホールには自分以外の人の気配はない。

 残るは自分の脱出だが、マンティコアたちの攻撃を捌くので精一杯。だがそうしている間にも魔力が減っていく。悪循環もいいとこだ。今のところは問題ないが、この拮抗状態をあと何分維持できるだろうか。

 フィアは手に持つ《ガラティーン》を強く握る。自分の相棒にして、十五年の短い人生の中で初めて勝ち取った唯一の結果モノ。それを握るだけで、不思議といくらか気分が落ち着いていくのがわかる。


「帰ったら、みんなで海にでも行きたいなぁ……」


 それが盛大な死亡フラグであることを教えてあげれる者は、不幸にもこの場にいなかった。


 ともあれ――まだ自分は生きている。


 絶望して諦めるのは、まだ早い。

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