誓いを此処に
緊急避難場所である中等部校舎は、惨憺たる光景が広がっていた。
壁は崩れ、火の手がいたる場所で上がり、鉄臭い血の匂いが大気に混ざり鼻をつく。そこは正しく地獄だった。負傷した者で溢れかえり、まともに動ける者は教師陣含めてごく僅か。しかし彼らも負傷した者たちの応急手当で精一杯の状況だ。
その中でも比較的軽傷だった凪沙は、半ば放心状態でその惨状を眺めていた。
「凪沙!」
自分の名前を呼ぶ声が人混みの中から聞こえたのは、そのときだ。ファントムの強襲によって、未だ学院内部に取り残された生徒は多い。声の主もその一人として数えられていた。
凪沙はのろのろと機械的な動きで振り向き、声の主の姿を確認する。
そうしてその人物の姿を視認したとき、そんな彼女の瞳に精気が戻った。
「――
「ああ、よかった! 無事だったか。先生たちに聞いたら、みんなが
人混みを掻き分けるようにして春市が姿を見せる。そのことに心底安堵した凪沙は、目尻から涙を溢れさした。積もり積もった不安が臨界を超えて、涙が止まらない。
「なんなのよ、もう……ファントムがいきなり現れて、それでパニックになって、みんな怪我して、それで……」
「わかってるから。辛かったな」
止まらない涙を拭う凪沙の肩を春市はあやす様にそっと抱いた。
「ねぇ、なにが起きてるの?」
「俺も詳しくはわからねぇ。ただ、この騒動はドラゴンのファントムが原因らしい」
「ドラゴン⁉︎ それって竜種のファントムのことよね?」
凪沙が唖然として訊き返す。同時に、身の毛も凍る不安と恐怖が再び凪沙に押し寄せる。
凪沙は思い出していた。
Aランクのファントムが出現した場合の生存率が極めて低いことを。だとしたら、自分たちは――
「大丈夫だ」
凪沙の不安を払うように、普段よりもずっと強い言葉で春市は言った。凪沙が顔を上げる。彼女の表情に疑いを持たせないように、春市はもう一度言った。
「きっと大丈夫だ」
それだけを言うと、春市は辺りを見渡した。本来ならここにいるはずの人物を探すも、その姿が見えない。
「そういえば、一成とハーネットはどうした?」
「そ、それは……」
春市からの問いに、凪沙は言葉を詰まらせ、逃げるように視線を外した。まさか、と今度は春市が最悪の事態を想像し、表情を青く染める。
やがて、数秒の間の後に凪沙はぽつりと口を開いた。
突然ファントムが多目的ホールに現れたこと。
フィアが凪沙を庇い、そのままみんなを逃す為に囮役となったこと。
ここに避難する道中で一成が怪我をして、今は治療中なこと。
全てを話し終えた凪沙の瞳には、ポロポロと再び涙が落ちた。
友達を置き去りにしてしまったという罪悪感が彼女の胸を穿つ。
「……じゃあ、ハーネットは今も多目的ホールに居るってことか?」
「うん……。あたしやみんなを逃がす為に、自分から囮に」
凪沙はぎゅっと胸の前で自分の両手を握った。
救助隊として、ライセンス持ちの教員が対処に当たってはいるが、人手が足りていないことは明白だ。仮に今から救援に向かったとして、そこまでの間にフィアが無事だという保証はない。
絶望的な状況だ。
だが、そんな中で、
「……わかった。ありがとうな」
春市はゆっくりとした口調でそう言った。
その表情は焦りも不安も感じられない。
春市は一人、今来た道を戻ろうとする。
悩む時間は必要なかった。
現状を理解し、その上で自分が何をするべきかを春市は即断で決めたのだ。
ドラゴンのファントムが現れた原因も。
そのドラゴンが何故マンティコアたちを従えていたのかも。
未だ春市はよくわかっていない。
ただ、それで十分だった。ファントムが現れた原因など、結局は考えたところで無駄なこと。学者でもない自分が謎を解けるわけもないのだから。
ならば、今の黒乃春市にできることはシンプルな感情からくる行動理由。
――フィア・ハーネットの救出。
それだけだった。
「わかったって……あんた、まさか助けに行くつもりなの?」
全てを察した凪沙が、春市を引き止める様に言った。春市は驚いたような表情を浮かべて見返す。
「当たり前だろ? あいつ一人でファントムの相手なんて無理なんだから――」
「そういう意味じゃない!」
春市の言葉を被せる様に、凪沙は感情に任せて叫んだ。
呆気にとられる春市とは対照的に、凪沙の表情はひたすらに真剣だった。ここに来るまでの道中、文字通りの地獄を見てきた凪沙にはわかる。安全な道は既に一つとして存在していない。学院中全て、無数のファントムたちが徘徊し、我が物顔で居座っている。そんな道を進んで行くことの、なんと無防なことか。
語気を荒らげ、凪沙は現実という言葉で春市に語りかける。
「あんたも見たでしょ。あのファントムの群れを! あの中を進むなんて、それこそ死にに行く様なものよ。そうじゃなくても、この状況が学生一人でどうにかなる問題じゃないことくらい、あんただってわかるでしょ!」
「わかってる」
「わかってない!
――だから行かないで。これ以上、友達を失いたくない。
言外に込められた凪沙の想いを、春市はグッと呑み込んだ。
そして、
「それでも、誰かが助けに行かないと
それを理解した上で、春市は言葉の隙間を縫うように語りかける。
「ハーネットが死んだら、みんなが悲しむだろ。
――そうならない為に俺は行くんだ。
告げて、春市は凪沙を見る。彼女は耐えるように頭を伏せていた。ふるふると体を震わせて、溢れそうになる感情を抑えるようにして拳を握っている。
「だからって、どうして
凪沙がぽつりと言葉を漏らした。
「私だって、助けに行きたいわよ。……でも、怖いの。怖くて怖くてたまらないのよ」
「凪沙……」
「なんでよ……なんで
小さく、か細く震える声がこぼれ、砂を擦るような泣き声がした。恐ろしい悪夢を見た子供のように、しゃくり上げるような嗚咽が春市の耳朶を打つ。
春市は困ったように、そんな彼女を少しでも安心させるように笑みを浮かべ、
「――目標だからだよ」
「目標……?」
「ハーネットが言ったんだ。俺はあいつの目標だって」
春市が思い出すような口調で言う。
脳裏に浮かぶのは、初めて二人で見上げた夜空とその時に誓った小さな決意。
「麻耶先生みたいな有名なライセンス持ちでもない。ただの学生である俺を、あいつは自分が目指す
嬉しかった。
決して望んで手に入れた
「だから俺はその時に決めたんだ。あいつの、フィア・ハーネットの目標で在ろうってな」
だからこそ……
「そんなあいつが、俺を目標にしたせいで、今危険な場所にいる。俺はそいつを見殺しにするような、つまんない男にはなりたくないんだ」
それが傍目には無駄死に近い行為だったとしても、春市にはその一つの理由で動くには十分だった。
誓ったのだ。自分の在り方を。
彼女の目標たる存在になると。
他でもない。
自分自身の魂に。
だから、目標である自分はそんな彼女を助けないといけない。
それが、黒乃春市の在り方なのだから――
凪沙は、春市の独白を黙って聞いていた。
「…………はぁ」
彼女は小さく溜息を吐いた後、制服のポケットから端末を取り出した。
端末先に付けられた端子が伸び、それを彼女は強く握る。
そして凪沙は、その端子を春市の
すっ、と音もなく端子が接続される。
「……忘れてたわ」
「凪沙……?」
春市は呆気にとられながら、凪沙を眺めている。さっきまでの決意と覚悟に満ちた表情が、まるで嘘のような呆けぶりだ。凪沙はそれを溜息混じりに見返して、
「あんたがどうしようもない馬鹿だってことをすっかり忘れてたわ」
困ったように笑った。
凪沙の指が素早く動きだす。小型端末の画面を高速で叩いていく。
春市は完全に固まっていた。凪沙がなにをしているのか理解できない。
春市が疑問を口にすりよりも早く、凪沙が口を開く。
「五分……いや、三分だけ頂戴。
「安全装置って、そんなことができるのか?」
「当たり前でしょ。……まあ、許可なく安全装置を解除したなんてバレたら
「待てよ。なんでそんな……」
「私だって、フィアちゃんを助けたいのよ」
春市の言葉を遮るように、凪沙は言う。
「学生用の出力を制限された
有無を言わさない迫力に、春市は言葉を無くす。
「適材適所よ。あたしだって助けに行きたい。でも……あたしの実力じゃあ、行ったところで足でまといにしかならない」
ほんの一瞬だけ、凪沙の指が止まる。
悔しさから、凪沙は唇を強く噛んだ。
「――だから……お願い。フィアちゃんを、あたしの友達を助けて」
「ああ、任せろ」
ピコン、と端末から電子音が鳴り、『安全装置が解除されました』と告げられた。
炎の壁が逃げ道を塞いでいた。
視界一面を埋める炎の壁から放たれる熱気は、体力を根こそぎ奪い取る灼熱の空間を生み出す。
額から流れる汗は止まらない。魔力を持つ者でなければ、とっくに意識を手放している。
制服の袖は汗で重たく、拭っても拭った気がまったくしない。
それほどの、正に地獄の顕現ともいえる空間にいながらも、金糸の髪の少女はその瞳に強い意思を宿していた。
「あきらめちゃ駄目……絶対にあきらめちゃ駄目」
翡翠色の魔力色を放つ大剣を握り締め、少女はもはや何度目になるかもわからない魔力の解放を行う。
真空の刃が炎を切り裂き、風を走るように相対するファントムたちを切り刻む。
断末魔を上げるファントム。しかし、それも僅かな時間稼ぎにしかならないことを少女は知っていた。ほんの数秒後には回復し、再び立ち上がってくるファントムに少女は奥歯を噛む。
――キリがない。
少女は脳裏を何度もよぎった絶望感を、無理矢理に噛み砕いて呑み込んだ。そうしなければ、いつ心が折れるかわからないから。ここで挫けてしまえば、それは即座に死へと直結する。
とはいえ、このままでは遠からず、自分の魔力が底をつくことは少女にもわかっていた。
だが、それがわかっていても、少女にはこの拮抗状態を保つ以外の方法がない。
「――何で、倒れないんでしょうか……」
決定打になるであろう一撃を入れた感触は、数回だけではあるが、確かにあった。しかし、未だに相対する三匹のファントムは健在。
これでダメージを負って、弱くなっていればよかったのだが、マンティコアのファントムたちは、まったく弱っている様子がない。
突如この場に来襲したファントムを少女がたった一人で迎え撃って、どれだけの時間が経っただろうか。一時間? 或いは十分?
体感の時間感覚はとっくに崩れている。
「ぐっ……」
極限の緊張感が小さな背中にのしかかった。人と戦う訓練ならば、自らの目標たる少年から少女は学んでいる。
だが、相手は人ではなく獣。それも厄介なことに高度な知能を持った化け物だ。少女はそんな人間外を想定した訓練をしていない。それが戸惑いを少女に与え、いらない緊張を強いる。
「――ツ!」
近づいてくる一匹の突進を転がるように避けて、そのまま少女は後方に跳んだ。
息が荒い。肺が悲鳴をあげている。体力が限界に近いことを肉体が教えてくれた。
ちらりと、少女は背後を振り返る。
そこには崩れた瓦礫の山と高い炎の壁があった。
退路はない。逃げることは許されない。
元々少女の戦い方は室内では不向きな広範囲、高出力の短期決戦型。そんな少女がここまで被害を最小限に抑えているのは、奇跡に近い。
だが、それでも少なからずの被害は出てしまう。
この炎の壁もその一つだ。
遠くで天井のシャンデリアが崩れる音がした。
このままでは建物が崩壊し、生き埋めになるのも時間の問題か。
膝が折れそうになる。それでも少女の心には消えない炎が灯っていた。
少女は自らを鼓舞する。
ここで自分が諦めてしまえば、彼に追いつくことなど一生掛かってもできやしない。
思い出せ。自分が何の為に剣を取り、何の為にここに残り、こうして立っているのか。
「ハアアアァァァ!」
叫び、翡翠色の風の塊がマンティコアたちへとぶち当たる。
断末魔の悲鳴すら上げず、動かなくなるマンティコアを見て、今度こそと少女は期待した。
しかし、そんな淡い希望を嘲笑うかの如く、マンティコアは再び立ち上がり、その獰猛な牙を鳴らす。
額にまた大粒の汗が浮く。
「……さて、どうしましょうか」
目の前にいるマンティコアたちが弱った様子はまるで見られない。
だとしても、だとしてもだ。
突進してきた一匹の牙を掻い潜り、少女は大剣を走らせる。続く二匹目の突進を転がって退避、退避した先には先ほど与えたダメージから回復した三匹目がいた。緊張感と危機感が頭の中で膨張していく。少女は考えることを放棄し、己が反射に身を任せた。魔力を地面に放ち、風による爆発の反動を利用してさらに距離を稼ぐ。
歯を食いしばり、全身を走る痛みに耐えながら、すぐさま立ち上がって大剣を構え直す。
危なかった。
そう安堵したのがいけなかった。次の瞬間、僅かに少女の気が緩んだ。
額から流れる汗が瞳を濡らし、視界をほんの一瞬遮る。
その直後、
「いっ……!」
確認はできなかった。一つわかったのは鋭い、肌を切り裂くような痛みが全身を走ったことだけ。
衝撃で少女の華奢な体が浮き、回転する。
視界が目まぐるしく回転しながら、少女は地面に倒れた。じわり、と血が地面を濡らす。目の前が火花を散るような激痛と、貧血からくる嘔吐感に少女は体が一気に重くなっていくのを感じた。
傷ついたのは左肩だ。抉るように左肩の一部が裂かれている。動脈を切ったのか、血が止まらない。制服が血で染まる。左腕が痺れて動かない。
――痛い。
起きなければ。少女は自分の体に命じた。
だが、血が抜けていく感覚は、本人の意思に逆らうように練り上げていた集中力を霧散させ、全身を重くする。思い出したかのような疲労感が、一気に肉体に襲い掛かってきた。
――痛い。痛い痛い。
――動け。動け動け。
唇が震えた。左手の指先が痙攣する。激痛で涙が止まらない。
意識が薄れていくのがわかった。動かないといけないと、頭が理解しているのに体はかすかに震えるだけで少女の意思に従ってくれない。痛みが今の今まで誤魔化していた疲労を思い出させ、少女の動きを完全に奪ったのだ。
ぼんやりとした意識の中で、一点に止まってしまった視界を見続ける。三匹のマンティコアがこちらを見下ろしていた。まるで、それは無力な自分を嘲笑っているかのようだ。
(ああ、死んじゃうのかな……)
朦朧とする頭で、少女は自らの死期を悟った。ここには自分以外誰も居ない。助けはこないのだ。ちりちりと炎の壁が肌を焼く。魔獣の牙が妖しく光った。
少女は僅かな抵抗で、右手に掴んでいた大剣を握ろうとした。手が震え、大剣が滑り落ちる。
抵抗していた
死ぬ。死んでしまう。その事実を少女はあっさりと受け入れてしまったのだ。
「ああ……」
自らの最期に、見知った少年の姿が脳裏をよぎる。ほんの数日前に出会ったばかりの、初めて自分が尊敬した少年の面影が。
自分が死んだら、あの人は悲しんでくれるからな。
だとしたら、不謹慎だけど嬉しい。
それは、自分がここに居たという証だから。
「黒乃さん」
信仰者が窮地の際に神の名を口にするように、少女もまた、ここにはいない自分の憧れである少年の名前を呟いて瞳を閉じる。
その時だ。
「――おう、呼んだか?」
聞き慣れた声がした。
「ったく、探したぞ」
「あ……」
迫るマンティコアたちと自分の間に割り込む存在を少女は感じた。
瞳を開く。急激な出血によって奪われた思考能力と霞む視界の所為で、目の前に立つ人物の顔がはっきりと見えない。
だけど、少女にはそれが誰なのかが直ぐにわかった。
道に迷った時も、模擬戦で取り返しのつかない失敗をした時も、心の底から落ち込んだ時も、自分が助けを欲した時に、必ずその人は自分の前に現れてくれる。
少女のピンチの時に必ず助けてくれる自分の
「まあ、あれだ。色々と言いたいことが山ほどあるが……」
苦笑したように笑っているのがわかった。
「とりあえずこいつらを片付けるのが先だな」
静かに、だけど明確な怒りを込めて、少年――黒乃春市は三匹のマンティコアを睨んだ。
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