前途多難な準備期間

 済し崩し的に舞闘会コンクールに参加することになった翌朝。

 黒乃 春市くろの はるいちは古き良きアナログ式の目覚まし時計によって目を覚ました。

 五時半前。

 太陽が顔を見せ始めるであろうこの時間帯に、朝が弱い春市が自主的に、しかも一人で起きることは奇跡に近い出来事だといえた。


「うー……眠い」


 今すぐにでも布団に戻って惰眠を貪りたい衝動を抑えて、のろのろと二段ベッドの上から降りる。降りる途中、横目で下のベッドを見たが、既にルームメイトの姿はなかった。どうやら一足早く部屋を出たようだ。


「はぁ……」


 実に清々しい朝だ、などとは微塵も思えないくらいに春市の表情は暗い。

 その理由は至極簡単。春市のクラス担任にして暴君の化身である水無瀬 麻耶みなせ まやによって、強制的に舞闘会コンクールに参加することになったからだ。しかも準備期間は今日を含めてたったの三日。前日には飾り付けなどの準備があるので、実質的な猶予は二日しかない。

 できることなら、なにもかも投げ捨てて一足早い夏休みに突入してしまいたかったが、そんなことをしたら自分の夏休みの日程全てが補習に成り代わってしまう。あの担任教師なら本気でやりかねない。

 それでも昨日よりは幾分かではあるが、春市の気持ちは楽だった。

 意外な事に、偶然その場に居合わせていたせいで巻き込まれたクラスメイトの神城 凪沙かみしろ なぎさ舞闘会コンクールの参加に積極的になっていたからである。

 本人曰く、売られた喧嘩から逃げたら男が廃るとのことで、こうして早朝から舞闘会コンクールに向けて特訓すると言ってきたのも他でもない凪沙であった。ちなみに明記するなら、凪沙は紛れもなく女性である。

 ともあれ、凪沙にしろ、参加の原因の一因となったフィア・ハーネットにしろ、やる気は十分なようで、それならばと春市も乗り気ではないなどと言っていられなかった。それに、特異能力者としての素質だけならフィアは春市よりも頭二つ分は抜けているのだから、勝算もまったくないわけでもない。

 自分よりも特異能力者としての経験の浅い、しかも同い年とはいえ女の子に頼るという状況に、多少の情けなさを感じなくもないが、今の春市にそんなことを気にしている余裕もなかったのだった。


「今日も暑くなりそうだな……」


 寝巻き変わりの半ズボンとTシャツを脱ぎ、学院が指定しているジャージに着替えた春市は、ハンガーにかけてあった愛用の赤いパーカーを羽織り外に出る。

 ちなみにルームメイトの一成だが、春市の予想通り一足先に集合地点に向かっているとの連絡が春市のスマホに送られていた。


 ――『起こしはしたぞ』


 簡潔に、それでいて明確にわかりやすい一文。心の中で謝罪の言葉を春市は呟いた。


「ふぁぁ……」


 欠伸を噛み殺して、まだ多くの生徒が眠っているせいで静かな廊下を進み、寮の正面玄関に向かう。

 今年は全国的に梅雨明けが早く、七月の初めあたりから連日のように猛暑日が続いている。その結果、コンクリートで舗装された道が休みなく降り注ぐ太陽の熱を吸って、ゆらゆらと陽炎かげろうを作り出していた。


「うげ……」


 その光景に春市は顔をしかめる。

 まだ太陽の昇りきらないこの時間帯でこれなのだから、登校時間にはどうなっていることやら。考えるだけでも気が重い。

 陽炎が立ち上る中、丁度男子寮と女子寮の真ん中に位置する場所で見覚えのある姿を見つけた春市は進む足の速度を上げた。

 春市と同じく学院指定ジャージを着た、二人の女子生徒だった。


「おはようございます。黒乃さん」


 気怠そうにして向かって来る春市に気づき、フィアはゆっくりと振り返る。行儀よく頭を下げ、いつものように生真面目な口調で挨拶を返す。朝が弱いせいでぐったりしている春市とは対照的に実に健康そうな顔色だ。


「おはよう。悪いな、少し寝坊した」

「いいえ。私もついさっき来たところですから」


 側から見たら仲の良い学生カップルのワンシーンにしか見えないな、などと内心で春市は思った。が、それをうっかり口走ろうものならその日の内にロリコンの二つ名が春市に贈られるのは間違いない。そんな春市の心境を知らないフィアは不思議そうに首を傾げる。


「あの、どうかしました?」


「いや、なんでもねぇよ。……ところで、それは凪沙? でいいんだよな?」


 フィアの隣で、半目でしぱしぱと瞬きを繰り返す凪沙を指差して、春市は訊いてみる。普段のファッションモデルの様に彩られた姿とは似ても似つかない。フィアは困ったような表情で春市を見返し、


「朝が苦手みたいで。凪沙さんが言うには低血圧らしいです」

「なんで低血圧持ちそんなやつが朝練するなんて言ったんだよ……」


 そう言って春市はペシペシと凪沙の頬を叩いた。凪沙の反応は鈍い。半目の目蓋を強く瞑り、んー、だの、むー、だのとよくわからない言葉を発している。


「一成は?」

「先に走ってくるって言ってました。一応コースは教えてもらってはいますけど」

「凪沙がこれだもんな」


 フィアにもたれかかるようにしてる凪沙に春市は頭をかいた。自分も朝に弱い方ではあるが、どうやら凪沙の場合は筋金入りらしい。


「おい凪沙。マジで起きろって。朝練するって言い出したのおまえだろうが」

「んー……わかってるわよ……馬鹿春市ハル……」

「そういうなら、とりあえずハーネットに寄りかかるの止めろよな」

「うん……」

「だからって俺に寄りかかるな!」


 もそもそとナマケモノよろしく、ぐだーと、もたれかかる凪沙に春市が抗議の声を上げる。

 全体重を預けているせいで、女の子特有の柔らかさを楽しむ余裕もないくらいに重かった。

 そして、そんな状況になっても凪沙はまったく起きる気配がない。

 それどころか、フィアよりも身長が合う春市にもたれかかったせいか、先ほどよりも呼吸が穏やかになっている。下手をしたらこのまま本格的に寝てしまいそうだ。

 春市は凪沙の肩を掴んで力任せに揺すった。


「起ーきーろー! あー! なんで俺が朝からこんなことしなきゃいけないんだよ!」

春市ハル……」

「ん、なんだよ?」

「……うるさい」

「誰のせいだ!」


 春市は思わず時間帯も人目も気にせず絶叫した。近くの木に止まっていた小鳥たちが驚くように空へと飛び上がっていく。


「朝から大声出さないでよ。みんな起きちゃうじゃないの」


 寝惚けながら、凪沙がどこか咎めるような口調で言った。春市はヒクヒクと唇を震わせ、


「むしろ起きてくんないと困るんだよ! ほら、いつまで抱きついてんだ! いい年した女が男にペタペタくっつくな!」

「役得じゃない」

「おまえ本当は起きてんだろ!」


 朝から叫びすぎて、頭の血管がはち切れそうだ。

 荒く息を切らしながらスマホの時計を見ると、すでに六時を過ぎそうだった。


「やばっ! もうこんな時間じゃねぇか。おい、凪沙、朝練どうするんだよ」

「…………朝練?」


 ぴたり、と凪沙の動きが止まる。

 ぼんやりとしてた意識がようやく覚醒してきたらしい。目尻を擦り、涙を拭って顔を上げてきた。

 自然、春市と凪沙の視線が重なる。


「あ、おはよー、春市ハル

「そこからかよ⁉︎」


 異性に抱きついていたから恥ずかしいなどと感じるほどお互いに初心うぶでもない。二人とも年齢=恋人無しではあるが。


「あの……練習どうします? もう時間ないですけど」


 フィアの困ったような、疲れたような呟きが朝の空気に溶けて消えた。

 舞闘会コンクールまでの長い三日間。その記念すべき一日は、そんなふうにして始まったのだった。

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