第3話 「引き渡すとするか。病人も、悪人もな」

 ふと、カウンターのほうが騒がしくなったのでふたり同時にそちらを見た。


「ふざけないでよ!」


 金髪の女が椅子から立ち上がって手を振り上げている。その手がカウンターに座っている男に向って振り下ろされ、バシンと乾いた音がした。

 リリアンは思わず肩をすくめて


「うわっ」


 と小さい声をあげる。

 リリアンたちからは背中しか見えない金髪女が声を荒げた。


「図書館で5時間も恋人ほっといたあげくめんどくさいってどういうことよ!」


 カウンターに座っている男が、それこそめんどくさいとハッキリ顔にだしたまま口を開く。


「いつものことだろ」


「そうよ! いつものことよ!」


 肩で息をしている女は、随分とお怒りのようだった。


弁論部ユニオンの予定がはいったらそっち優先させるのは当り前! 図書館に入り浸ってデートの約束すっぽかすのは日常茶飯事! あげくの今日じゃない! 2ヶ月我慢し続けたけど、もう限界よ!」


 怒鳴られた男は心底うるさそうに眉を顰めた。


「そうかい。じゃあとっとと消えろ」


「言われなくてもそうするわよ! 最低っ! この自己中男! 噂以上だわ!」


 さよなら! と捨て台詞を残して女が去っていく。残された男は頬を腫らしたまま、何事もなかったようにタバコに火を付けていた。

 ずいぶんな長身で、おそらく190を越えているだろう。逆三角形を描いた体躯は服の上からでも鍛え上げられていることがよくわかる。彫りの深い顔立ちと太いキリリとした眉も相まって非常に男クサイ風貌だが、切れ長の目を覆うまつげは非常に長い。洗練されたシルエットは古代ギリシャの彫刻がそのまま動きだしたような印象を受けた。


 ドリーがリリアンの服の裾を掴み囁く。


「ね、タカヒロ・ニシノでしょ。アレ」


「うん。またフラれたんだ。あの色男ロメオ


 名を西野隆弘という男は日本人とイギリス人のハーフだ。父親は日本の複合企業社長、母親はイギリス人貴族の娘という今時漫画でも出てこないような典型的御曹司である。恵まれた体躯と容姿、ついでに非常に恵まれた家庭環境のため色男ロメオと いうあだ名がつくほど女性にモテた。しかしその傲慢さと自己中心的な態度ゆえ交際が長続きしたことはない。告白されて3ヶ月以内に告白してきた女性が別れ話を切り出すというのが周知の事実となっていた。それでも言い寄る女性が絶えないのは性格というマイナス要素を差し引いてもプラス面が魅力的だからだろう。

 ドリーがビールを少しだけ飲む。


「まあ2ヶ月なら長く持ったほうよね」


 リリアンもスコッチを飲んだ。


「最短3日だって話だよね」


「私当日って聞いたわよ」


「なにそれマジで?」


 リリアンがポーチを探り始める。


「西野隆弘って絶対ホモだよ。そんで意中の相手が振り向いてくれないから女に走ろうとしてるんだけど結局ダメ系の俺様誘い受けだよ」


 ドリーがため息をついた。


「私アナタがなにいってるかちょっとよくわからないわ」


 彼女の顔には『呆れた』とハッキリ書いてある。オーバーに肩を竦めていた。こういう話題になったときのお決まりのリアクションだ。ビールを片手にドリーは更に言葉を続ける。


「アナタ長期休暇の時もギリギリまで日本でその手のコミック買いあさってたとか言ってたわよね。本当わけわかんない思考回路だわ」


「買っただけじゃないですー! 夏コミで新刊完売しましたぁ!」


「えっ! 聞いてないわよ! どういうこと!? すごいじゃない! おめでとう!」


 呆れたという態度をとりつつ祝福してくれるあたり、彼女は優しいのだろうとリリアンは思った。


「自費出版だよ。私の部屋に薄い本いっぱいあるでしょ」


「えっ、ああ……そういうこと。私てっきり漫画家になったのかと……あんなもの自分で描いてるのね……これで成績優秀者スコラーなんだから嫌になるわ」


「んふふふー! 羨ましい?」


「うるさいわね」


 ドリーが肘で小突いてきたのでリリアンは笑顔でスコッチのグラスを避難させた。それからポシェットの中に目当ての小瓶を発見し、テーブルの上に置く。15g入りの胡椒だ。自分のポテトの表面にまんべんなくふりかけたあと、ホクホクと湯気の立つポテトを口へ放り込む。バターと胡椒がポテトの味を引き立てていた。舌に胡椒の粒が当り、ほどよい刺激を与えてくれる。もう少し胡椒が必要かなと思い、瓶を手にとった。ドリーがリリアンの腕を掴む。


「それ以上は身体に悪いわよ」


「止めないでー! 味が薄いと死んじゃう病気なのー!」


「聞いたことないわよそんな病気」


 リリアンがポテトを見ていると、ドリーに腕を軽く引っ張られた。


「ねえ、タカヒロが見てるの、ミック・カーシュじゃないの? セント・キャッツに住んでる」


「え? っていうかまだ色男ロメオの話なの?」


「ちょっと気になっちゃって。ミック・カーシュってミュージシャン志望の『ハウス』卒業生でしょ」


 『ハウス』とはオックスフォード大学のカレッジであるクライストチャーチの呼び名だ。オックスフォードには他にもたくさんのカレッジがあり、リリアンたちはオリオルカレッジに所属している。学寮でもあり学舎でもあるカレッジには教師も生徒同様に所属し、大体の学科は教師の所属するカレッジで授業を受ける。

 セント・キャッツもカレッジのひとつである。ハウスとオリオルはどちらも煉瓦造りの中世を思わせる外見をしていた。オックスフォードの建物は大半が中世時代のまま取り残されたような見かけをしていて観光の要にもなっている。一方セント・キャッツは1962年にデンマークのユダヤ人建築家が設計した建物で近未来的な装いをしていた。つくられた当初は賛否が分かれたものの、現在は相応の評価を得ている。そんな外見だからなのか、リリアンたちはセント・キャッツに『変人が多い』という印象を持っていた。

 リリアンがドリーの視線を追いかける。ダンスフロワのすみでテーブルに集まっている集団がいた。踊っていない連中はほとんど同じようにテーブルを囲んでいるから別段珍しいわけでもない。


「ルセック教授は『芸術家の卵』が大層お好きみたいだからねぇ。スペンサーマニアだし、自分もスペンサーみたいな奴のパトロンになりたいんじゃないの」


 ルセックはセント・キャッツに所属する英国文学の講師だ。

 ドリーが口をへの字にまげる。


「リリアン、アナタさっきスペンサーファン全員を敵に回したわよ」


「別にスペンサー自体をバカにしたわけじゃないですぅ!」


 ドリーの視線の先では金髪に編み込みを入れた男が仲間たちと笑い合っていた。その中に線が細く気の弱そうな男がいる。決して背が低いわけではないのだが、華奢な体つきのためか本来より小さく見えた。

 ドリーが不審そうな声をあげる。


「『ハウス』のジャッキー・ボーモントじゃない。ボーモント議員のご子息があんなガラの悪い奴らと絡んでていいのかしら」


「まあ、いよいよヤバくなったら逃げるなり叫ぶなりするんじゃないの?」


「アナタって思いのほか冷たいわね。タカヒロはなんであのテーブルを見てるのかしら」


色男ロメオも『ハウス』所属じゃん。あの中に思い人でもいるんじゃないの」


 ドリーが鼻を鳴らした。


「そのネタやめてよ」


 リリアンは薄暗いダンスフロワの中でミックたちのテーブルに目を凝らす。

 ジャッキー・ボーモントはずいぶんと顔色が悪いようだ。会話をしていても相手に目線がいっていないように見える。

 彼女がジャッキーの様子をよく見ようとしたとき、カウンターにいた西野隆弘が叫んだ。


「おい! ジャッキーっ!」


 華奢な身体が傾き、仰向きに倒れる。頭を打ちそうになるところを駆け寄る隆弘が受け止めた。先ほどまでジャッキーと会話をしていたミックは茫然と目の前の出来事を眺めているだけだ。隆弘がジャッキーをダンスフロワの隅に寝かせたと同時にリリアンが駆け寄った。


「そいつ意識戻らないの!?」


「ああ」


「かして! あと救急車呼んで!」


 タバコを咥えたままの隆弘が倒れた男を煙から守るように一歩離れる。今まで騒がしかったフロワから人のざわめきが消え、音楽だけがかかっていた。

 リリアンが声をはりあげる。


「ジャッキー・ボーモント! 大丈夫!?」


 返事がない。リリアンは男の頭を後ろにのけぞらせ、自分の頬をジャッキーの口元に近づけた。呼吸音が聞こえない。即座に男のシャツに手をかける。


「ちくしょう!」


 彼女がジャッキーの着ているシャツをはだけさせ、心臓の位置に手を置いた。肘を真っ直ぐに伸ばして思いきり男の身体を押す。それを一定のリズムで繰り返す。なかなか体力のいる作業だ。

 不安そうにジャッキーの様子をみる野次馬の中からドリーがリリアンに近づいてきた。


「リリアン! 大丈夫なの!?」


「自発呼吸してない! 心臓マッサージかわって! 今人工呼吸するから!」


「わ、わかったわ!」


 ドリーがリリアンと心臓マッサージを変わってくれたので、リリアンはジャッキーの鼻をつまんだ。それから口を大きく開いて息を吸い込み、男の口を塞ぐように口付ける。肺の中にある空気を1秒ほどかけて吹き込み、ジャッキーの胸があがるのを確認すると、同じ要領でもう一度息を吹き込む。

 ドリーは額に玉のような汗を浮かべ、必死に男の心臓を刺激しつづけていた。リリアンもまた息を大きく吸い込み、口移しで男の肺に空気を送り込む。

 ジャッキーが心肺停止状態になった理由はだいたい察しが付いている。テーブルの上にいくつものカプセル剤がジッパーのついたビニール袋に入って 放置されていた。いくつかのカプセルは袋から出たままになっている。自主的か無理やりかは解らないがジャッキーはこれを服用したのだろう。ナイトクラブではドラッグの服用が日常的に行われている。まさか自分たちが巻き込まれるとは思ってもみなかったが、ニュースではよく聞く話だった。

 もう一度ジャッキーに口移しで空気を吹き込むと、リリアンは顔をあげてドリーを見る。顔が少し赤いようだ。


「ドリー、少し休んで。心臓マッサージ代わる」


 ドリーは首を振った。


「大丈夫! 人工呼吸続けて!」


 ジャッキーの身体がマッサージのたび大きく跳ねる。ドリーが心臓マッサージを代わる気配がないのでリリアンはまた人工呼吸を再開した。三度目に息を吹き込んだとき、男の腕が動きまぶたが震える。リリアンが唇を離すのと同時にジャッキーの目がゆるゆると開いた。間近で見ると思ったより童顔で、子犬のようにつぶらな瞳をしている。ふわふわとした髪がやわらかそうだ。童顔なのもあいまって一瞬女に見える。ブルーの瞳がリリアンを見てきたので、彼女は咄嗟に男の喉元へ視線をうつした。喉元もやはり女のように細い。


「君、は……」


 声が擦れていて聞き取りづらかった。もう20歳になっているはずなのに、声変わり前のような印象だ。

 目の焦点が合わない男の頬を軽く叩き、リリアンはジャッキーに話しかけた。


「私はリリアン・マクニール。ジャッキー・ボーモントだろ? 自分がどこにいるかわかる?」


 ドリーが心臓マッサージをやめて様子を見守っている。寝転がったままのジャッキーはうつろな目をさ迷わせ、周囲を見渡した。


「クラブに、いたと……おもうんだけど……」


「記憶はちゃんとしてるね。今救急車がくるから、気をしっかりもって!」


「う、ん……ありがとう、リリアン……」


 男の瞼がゆっくりと下がっていく。ドリーが身を乗り出して口を開き、リリアンが彼女の動きを手で制した。


「大丈夫。呼吸はしてる。安静にしとこう」


 ドリーもジャッキーの胸が上下していることを確認して大きく息を吐き出す。彼女はそのまま肩の荷が下りたようにヘナヘナと床に座り込んだ。野次馬たちの表情も安堵に変わる。今まで周囲を支配していた緊張感が少しだけ緩んだ。

 リリアンは周囲を見渡し、ミックと彼の友人たちが見あたらないことに気づく。西野隆弘が人混みの向う側にいた。背が高いので非常に目立つ。


「おい」


 隆弘が入り口に立ちふさがっていた。誰かに声をかけている。立ち上がったリリアンの視界に金髪の編み込みが見えた。ミックと友人たちがいつのまにか人混みをかきわけ、避難していたらしい。隆弘が声をかけなければそのまま逃げられていただろう。


「ダチがあんなことになってるってぇのに、テメェらはそのままトンズラする気か?」


 タバコを咥えた隆弘が男たちを睨む。道をふさがれた彼らは焦ったように目配せしあい、隆弘を避けるようにして少しずつ距離を取った。


「い、いやぁ、きゅ、救急車がさ……来たら、すぐ、誘導できるようにさ……」


 ミックの言葉を聞いて隆弘が鼻で笑う。


「そうかい。俺がかわりに行ってやるから安心してジャッキーの傍にいてやりな。そのうち、警察もくるだろうぜ」


 ミックの肩が揺れた。男たちは再び目配せをしあい、隆弘のほうを睨みつける。

 そして、駆けだした。


「このクソ野郎!」


 隆弘を押しのけてでも逃げるつもりのようだ。数人の男に突進される形になった隆弘が咥えたタバコに歯を立てた。ブチリと音がして火の付いたタバコが床に落ちる。

 彼はポケットからティッシュを取り出して口元を拭う。突進してきた男たちの足をすくうように蹴り飛ばした。大きな音を立てて男たちが転倒する。痛みに呻いているミックの腹に隆弘の足が乗った。


「手間ぁかけさせやがって」


 ミックが咳き込むように呻く。


「ぐぅうっ!」


 そのまま腹を踏みつけられた男は脱力して動かなくなった。彼が気絶したことを確認し、隆弘は近くに倒れていた男の頭をサッカーボールよろしく蹴り飛ばした。首がおもちゃのように揺れ、こちらも小さいうめき声とともに動かなくなる。それから這いずって隆弘を距離を取ろうとしている男の背中に足を乗せた。


「逃げられると思ってんのか? 痛い目みたくなかったら大人しくしときな」


 店の外からサイレンが2つほど聞こえてくる。


「ちょうどどっちもご到着だな」


 隆弘は噛みちぎってしまったタバコの変わりをとりだし、火を付けた。それを一口楽しんでからニヤリと人の悪い笑みを浮かべてみせる。


「引き渡すとするか。病人も、悪人もな」


 警察と救急隊が同時にフロワへ入ってきた。リリアンとドリーはストレッチャーを持った救急隊の元に駆け寄り、眠っているジャッキーの元へ誘導する。

 リリアンがジャッキーの状況を説明した。


「今は自発呼吸してますけど、一度心肺停止状態になってます。多分テーブルの上の薬物が原因だと思います」


「ご協力ありがとうございました。あとは私たちにまかせてください!」


 ジャッキーがフロワから運び出され、救急車に乗せられる。

 一方で、隆弘に気絶させられた男たちが警察にたたき起されていた。


「おい、起きろ!」


 ミックの頭が揺れる。脱力しきった彼の隣で警官に肩を貸された男が小さく呻いた。


「ぐぅっ……」


 その様子が少し変だったので、リリアンは小さく首を傾げる。近くにいた警官もテーブルの上にあった薬の捜査をやめて男たちを見た。

 今まで気絶していたミックの目も開く。3人の身体が硬直したようにピンと張り、全員が同時に低いうめき声を吐き出した。


「うっ、ぐぅうぅぅぅぅううっ!」


「がぁぁっ、あっ、あぁあああっ!」


「ひぐっ、ぐぅぅ、ううううっ!」


 硬直した身体が大きく痙攣を始め、肩を貸していた警官が膝をつく。ミックの身体が再び地面に転がって、身体が大きくのけぞった。


「ぎゃあっ、ぎゃぁあああああ! あぁあああぁあっ!」


 肌に不自然なほど赤みが差し始める。こめかみや喉に血管が浮き出て、目も充血しはじめたようだ。

 尋常ではない3人の苦しみ方に警官が叫ぶ。


「だっ、誰か! 救急隊をっ!」


 しかし救急車はジャッキーを乗せて病院に行ってしまった。店員が受話器を取って病院に電話をかける。

 けれど救急車が再び到着するより、3人の容態が急変するほうが当然ながら早かった。


「ぎゃヴぉえ」


 妙な嗚咽の音と共に、ミックの口から血が噴き出す。ゴポリと音を立ててあふれ出した血に野次馬が悲鳴をあげた。


「きゃああああぁああっ!」


 ミックの横で丸まっていた男の目尻から血があふれ出し、もうひとりは鼻と耳から出血していた。警官が慌てふためき、男たちのすぐ近くにいた西野隆弘の顔が青ざめている。野次馬たちが我先にとフロワから逃げ出す中、ミックが目を見開いて喉をかきむしった。


「げぇっぷ」


 笑い袋を押したような間抜けな音だった。直後生レバーのような血の塊を吐き出して、ミック・カーシュの身体が血溜まりの中に倒れる。あとのふたりも同様にしてドシャリと重い水音を立てた。

 3人を連行しようとしていた警官が無線で指示を仰ぎ、ドラッグの捜査をしていた警官が西野隆弘に離れるよう告げている。

 リリアンは血だまりに沈む3人の姿を、ただ茫然と見ていることしかできなかった。

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