第2話 「さあ、リリアン! いきましょう!」

「さあ、リリアン! いきましょう!」


「まってよドリー! ちょっと急ぎすぎだよ!」


 ふたりの女がナイトクラブに入っていく。茶髪の女が金髪の女を引っ張っていくような形で、黒服を着たゴツイ男にふたり分の学生証を見せた。入場料として3ポンドを払うとフロワに入れる。荷物を預けるためには1アイテムにつき1ポンド払う必要があった。荷物は少なめが必須条件だ。できればコートも羽織らないほうがいい。

 カウンターまで行くと茶髪が金髪のほうに振り返った。


「リリアンはなに飲む?」


 金髪の女は一瞬目を伏せ、少し迷ってから


「んー、リンゴ酒サイダーでもいいんだけど……スコッチにする!」


 と伝える。そうして茶髪のほうを見ると首を傾げて


「ドリーは?」


 と尋ねた。茶髪女――ドリーが笑顔を浮かべる。


「私はビール! それとポテトの丸焼きジャックド・ポテト頼むけど、リリアンは?」


「んー、いいやー! 先テーブルとっとくね!」


 リリアンはスコッチのグラスだけを受け取ってテーブルへ向かった。時刻は夜の10時半を過ぎていて、クラブはたくさんの人間があふれかえっている。

 途中女連れの男がリリアンの姿を見て口笛を吹き、肘で小突かれていた。強めの攻撃だったらしく男が微かに仰け反る。

 リリアンの金髪は薄暗いナイトクラブの中でもキラキラと光り、金糸でできているようだ。大粒のエメラルドのような瞳は贅沢な装飾品を思わせる。白い肌は磁器のようになめらかだ。なだらかな曲線を描く肢体に推定100㎝以上のふくよかな胸が乗っていた。人が欲望のまま描いた『美しい女』そのままの容姿をしている。

 リリアンがテーブルにグラスを置いて数十秒後、ドリーがビールのグラスとジャックド・ポテトの皿をテーブルに置く。

 彼女はリリアンを不安そうな顔で見た。


「本当になにもいらないの?」


「うん。ご飯たべたもんー!」


 ドリーが顔を歪める。


「食べたって……家出る前にチョコレートひとかけ食べただけじゃない」


 リリアンはスコッチのグラスに口をつけ、ヘラヘラと笑ってみせた。


「あれ? そうだっけ?」


「そうよ。それに今日だけじゃなくて、最近ずっとマトモに食べてないわ」


 リリアンが笑ったまま首を傾げる。ドリーは目を伏せた。


「……バルボ教授がいなくなってから、2ヶ月たつわね」


 ドリーの言葉にリリアンは身体を震わせる。笑顔を保つためドリーが持っているビールのグラスを凝視した。唇が震える。


「……そう、だね……テムズ川イシスの川べりで教授の血痕が発見されて、それっきり……きっと、もう……バルボ教授は……」


 ドリーのビールが大きく揺れた。一瞬だけ女の表情が強ばるが、彼女は務めて明るい声を出す。


「だめよ! いつまでも落ち込んでたってしょうがないわ! リリアン、あなたこのままじゃ身体壊すわよ!」


「うん……ご飯食べなきゃ勉強ついていけなくなるよね……」


「そうよ。オックスフォードの授業はどれもそんなに易しくないんだから!」


 リリアンは笑おうとして失敗してしまった。

 彼女たちふたりはオックスフォード大学の学生だ。1年間の授業と進級試験プリリズムを終え、今年の10月に無事進級を果たした。新学期早々とんでもないアクシデントに遭遇したが、それで今までの努力を無駄にするわけにはいかない。

 ドリーがリリアンの前にジャックド・ポテトの皿を差し出した。


「……教授の部屋、最初に見たのはリリアンだから、ショックなのはわかるわ」


 リリアンは力なく笑う。今度はなんとか笑顔の体裁を整えられた。

 医学専攻のリリアンとドリーはふたりともバルボ教授から薬学の個人授業チュートリアルを受けていた。

 個人授業チュートリアルというのはオックスフォード特有の教育システムのことだ。学生は各学科ひとりないしふたりの指導官チューターから毎週出された課題についてのエッセイを提出し、議論の中で専攻分野の知識を深めていく。医学専攻は講義やセミナーが授業の中心になるが、顔をつきあわせての個人授業は重要だ。

 結局バルボ教授の指導を受けたのは1年間と少しだけだったが、関わりは深い。

 ドリーがリリアンの顔を見てきたので、彼女はそれと気づかれないよう少しだけ視線をずらす。人の目を見るのは苦手だった。


「研究の助手まで任されて、すごく目をかけてもらってたって聞いたわ。よく、相談もしにいってたわよね」


「……うん」


「私なんかよりずっとショックだと思うわ。でも2ヶ月もずっと落ち込んでたら身体に悪い。リリアンにまでなにかあるのは嫌よ、私」


 女が思わず息をのむ。ドリーはあいかわらず穏やかな口調で彼女に語りかけてきた。


「だから、ね? 今でも精一杯明るく振る舞ってるのは知ってるわ。だけど、とにかくご飯は食べましょう?」


 リリアンの手がスコッチのグラスを弄ぶ。中に入った液体が少し波打った。


「……そう……そうだね……ごめん。心配かけて」


「ううん。私こそ無理やりこんなところに連れてきてごめんなさい」


「いいよ! 私も行くっていったし、静かなパブより気分転換になるもん!」


 ナイトクラブにはダンス・ポップが大音量で響いているから、暗い気分になるのを力業で妨害してくれる。薄暗いダンスホールは色とりどりのライトがグルグルまわっていて、理性も平衡感覚も狂ってしまいそうだ。酒とタバコと化粧と食べ物のニオイが混じり合い、人の熱気に満ちている。お世辞にも過ごしやすいとは言えないが、人の気分を高揚させた。


「じゃあ私もせっかくだからジャックド・ポテト頼んでくる!」


「そうするといいわ」


 ドリーの口元に笑みが浮かぶ。リリアンは一度テーブルを離れてカウンターに向うと、ドリーと同じ品物を注文し、皿を持ってテーブルに帰ってきた。それからお互いに笑ってビールとスコッチを飲み、しばらくとりとめのない話をする。


「そういえばリリアン、今日アナタのお姉さんから手紙来てたわよ」


 リリアンが渋い顔をした。


「え? あー……そうなんだぁ……」


「また会いたいから実家に帰ってきてって内容じゃないの? メールこなかった?」


「んー、来た気がするけど、こっちも忙しいし、あっちも忙しいだろうから、つい忘れるんだよね。アメリカ住んでるってのにちょくちょくこっち帰ってくるバイタリティはどこにあるんだろ。なんの仕事してるのかよく知らないけどさ。ケンブリッジの主席様が考えてることはわからんちん」


 ドリーがビールを一口飲んでからフフ、と柔らかく笑う。


「アナタだって成績優秀者スコラーじゃない」


「むこうとはデキが違うのー! 卒業試験全教科満点だってよ?」


「さすがにウソじゃないのそれは」


「えーどうだろーやりかねないと思うね私は」


「本当にお姉さんが苦手なのね」


 それからドリーはポテトを少しだけ食べてリリアンの顔を見る。リリアンのほうはドリーの手もとに視線を向けた。


「じゃあ帰ってこいって言われたら『同居人が風邪引いて面倒みなきゃいけない』とでもいっときなさい。なんとかなるでしょ。おばさんからこっちに連絡が来たときは口裏あわせるわ」


 リリアンの顔がパッと明るくなり弾んだ声が出る。


「本当!? ありがとうドリー! うちの親説教臭くてさぁ!」


「いいわよ。困ったときはお互い様だもの。あとで解剖学のノート見せてね」


「それくらい喜んで見せちゃうよー!」


 ドリーの手もとにあるポテトの皿を見てリリアンが笑った。ドリーの口元にも笑みが浮かんでいる。

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