別れ


「…………」

「テュランくん、起きたんですか?」


 大丈夫ですか。頭上から聞こえる、胡散臭うさんくさい声。固い長椅子から身体を起こし、凝り固まった肩を解すように軽く回す。

 開けた辺りには他に誰も居ないのか、やけに静かだった。


「おはようございます、テュランくん。何か食べられそうですか?」

「……今食ったら、多分吐く」


 呻くように、テュランが答えた。いつもより夢見は悪くなかったが、それでも食欲は無い。ジェズアルドも、それ以上は食い下がろうとしない。


「そうですか」


 全てを悟っているのか、それとも。考えるのも面倒なので、テュランも何も言わなかった。ただ、寂しいとは感じた。

 いつもなら、もう一人。ジェズアルドとは違って、しつこく鬱陶しいまでに飯だ水だ薬だと言ってくる毛玉が居る筈なのに。


「ヴァニラさんが居ないと、何だか寂しいですね」


 隣に腰を下したジェズアルドが、静かに言った。珍しく、本当に寂しそうな表情で居る。昨夜の軍服はいつの間にか着替えたらしく、今はいつも通りのスーツ姿だ。


「……それ、俺のこと責めてるのか?」

「テュランくんこそ、僕を責めないんですか?」


 激情に身を委ね、ヴァニラを殺したのはテュランだ。しかし、ジェズアルドの行動次第では彼女を人間の手に渡る前に助けられた筈なのに。

 それでも、テュランは彼を責めなかった。責められなかった。


「……やっぱり、ヴァニラさんを助けるつもりなんか、最初から無かったのですね」


 ジェズアルドが核心を突いた。そう、テュランにはヴァニラを救うつもりなんか無かった。


「終末作戦が始まれば、遅かれ早かれヴァニラは死んだだろうぜ。あの足じゃ、逃げるのも戦うのも限界があるし」

「本当に、僕好みですよきみは……。口寂しいですが、これ以上は我慢しましょうかね」


 そう言って、ジェズアルドが立ち上がった。既にこれからの作戦は、昨夜の内に伝えてある。


「では、これでお別れですね……テュランくん」


 別れを告げる彼の表情は、既にいつもの微笑に戻っていた。テュランは腰を下ろしたまま、もう目にすることはないであろう吸血鬼の姿を見上げる。


「きみと、ヴァニラさんと過ごした日々は楽しかったです。その分、今日からはまた退屈な毎日に戻ってしまうのでしょうが」

「……アンタも、仲直りしたら? 『お兄ちゃん』と」


 テュランがからかえば、これまた珍しく驚いたと言わんばかりにジェズアルドが目を見開いた。彼の正体など、とっくの昔に気がついていた。

 『真祖カイン』などではない。むしろ、もっと恐ろしい存在であることに。


「……気がついていたんですか、いつ?」

「忘れた。この復讐を始めるよりも前だったのは、確かだケド」

「ということは、今までわかっていながら僕のことをカインだと言ってからかっていたんですか。全く、本当に性格悪いですね!」


 そう言って、ジェズアルドと名乗る吸血鬼は憤慨した。滅多に見られなかった表情にくくっ、とテュランが口角を上げる。


「アンタのそんな顔、始めて見た」

「あー! もう、僕は行きますからね!」


 テュランに背を向けて、カツカツと靴音を響かせながら離れて行く紅い吸血鬼。そんな彼を本当の名前で呼び止めれば、意外にも此方を振り返ってくれた。


「じゃあな、元気でやれよ」

「……ええ。さようなら、テュランくん」


 ひらりと手を振って、ジェズアルドは立ち去って行った。吸血鬼は蝙蝠や霧に化けられるというが、彼もそうなのだろうか。聞いておけば良かった。


「さて、と」


 傍らに立て掛けてあった大剣を手に取り、ゆっくりと立ち上がる。ホルダーから抜き去り、剥き出しとなった刀身を見やり。酷い顔色の自分がぼんやりと映る刃から目を離すと、テュランは目の前に広がる景色に歩み寄った。


「うわっ、結構高いんだな……」


 眼下に広がる光景に、テュランは圧倒された。地上八十メートルの高さから見るアルジェントは、まるで作り物のようだ。

 国の中心に位置する、オルマタワー。数十年前に建てられた、国内で最大の高さを誇るランドマークである。周囲には商業施設や鉄道駅等が並んでいるが、今日は営業すらしていないらしい。

 氷のように冷えた窓ガラスに触れていると、近くで扉が開く音が聞こえた。見なくてもわかる。この展望台に来るには直通のエレベーターか、非常階段を上がってくるかどちらかだ。


「なるほど……確かにここなら目立つし、わかりやすい。待ち合わせには最適だな……おねえちゃん?」


 振り向いたその先に居たのは、間違いなくテュランが待っていた人だった。昨日の怪我のせいだろう、その足取りは覚束なくて今にも倒れてしまいそうで。顔色も悪く、長い黒髪も所々乱れてしまっている。

 しかし、瞳だけは力強い光を宿している。


「私、休みの日にはいつも此処に来ていたの。きみが居るかもしれないって思って……馬鹿みたいでしょう?」


 自虐的な笑みで、サヤが笑う。刀を既に抜いているところを見る限り、彼女も相応の覚悟を持って来てくれたらしい。


「でも、こうして此処で会えるなんて……待ち合わせの約束、ちゃんと覚えていてくれたんだ?」

「おねえちゃんこそ、今度はちゃんと約束を守ってくれたんだな」

「ごめんね? 駄目なお姉ちゃんで……ごめん。これからまた、きみとの約束を破るから」


 酷く悲しげな笑みを向けて、刀を構える。


「トラちゃん……いえ、テュラン。これ以上、人間に危害を加える前に大人しく投降しなさい」

「嫌だ、って言ったら?」

「殺してでも、止めてみせる」


 口調は厳しいが、その表情は今にも泣きだしそうで。昔の、頼れるお姉ちゃんからは想像が出来ない姿に思わず笑みが零れる。

 そして、テュランも大剣を構えた。


「良いぜ、これで最後だ。アンタをこの手で殺し、このアルジェントを再起不能なまでに破壊し尽くしてやる!!」


 人間に対する恨みを全て込めて。テュランとサヤが同時に床を蹴り距離を詰める。銀色の刃を煌めかせ、テュランは剣を振り下ろした。

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