第6話 「別れ」

宿へ向かう道すがら、暗がりながら前を歩く騎士の顔が冴えないことに気がついて、ハユキは遠慮がちにそのことを口にした。

「クライド、どうかしましたか」

ハユキの問いかけにもかかわらず、クライドは珍しく上の空な軽い相づちを打つだけだった。


「クライド?」

ハユキは再び声をかける。やっとのことで振り返った彼は、取り繕うように笑みを浮かべた。

「ああ、いえ、何でもないですよ」

見え透いた嘘である。そんなハユキの不満は顔に出ていたようで、クライドは苦笑をした。


「先ほどのジファ・レインダートという青年について考えていました」

何んでもないようにそう口にした彼だったが、その因縁になにか浅からぬものをハユキは感じ取った。それは勘以外の何ものでもなかったのだが、きっとあたっている。


「彼がどうかしたのですか」

「ええまあ、彼のあの異様な速さの出世のうらには、ちょっとした事情があるのだろうな、と。いくら貴族でも士官学校卒業までには最短で16歳ですから」

「ちょっとした事情?」

「おそらく、彼はある職についています。……それは、私の——」


クライドの口をついて出てきた言葉は、あまりにも自然だった。けれどそれは今まで隠してきた、あるいは遠回しに避け続けていたことだった。


その話は、自然に、流れるようにクライドから出てきた。


ハユキは身構えたが、しかし、クライドは喉まででかかった言葉を飲み込んだ。クライドにとってそれは未だ過去になりきらない心の傷であったし、その事実は自分に不利に働く可能性があると彼が考えたからだった。


そうでなくてはならなかった。


「ハユキ様、もし私が——」

その事実のかわりに彼の口から不意をついて出てきた言葉に、クライド自身も驚いた。いつも付き纏う疑問だったが、絶対に口に出すまいと思っていたからだ。


「もし私が、あなた様の——」

「クライド!」

クライドの言葉は悲鳴に近いハユキの声に遮られた。クライドを見つめるハユキの顔には不安の色がいっぱいににじんでいる。

ほんとうに聡い人だ——とクライドは華奢な主を思って口元を緩めた。


「すみません。きっと私の思い過ごしです。本当に何でもありませんから、そんな顔をしないで下さい」

慈しむようにクライドはハユキの頭をなでた。今はまだその時ではないと彼は思う。けれど、先ほど役所で見せた姿や、ジファ・レインダートに向かって言った彼女の言葉が、クライドを焦らせた。


自分の背に隠れてばかりいたか弱い少女が、自ら手を離して、旅立ってしまうのではないか。そんな焦燥に駆られて、決して彼女に伝えることのないと思っていた言葉が口をついた。


——でも、ハユキがクライドの口にしようとする隠し事に耳を塞ごうとするなら、今はまだこれでいい。そう、これでいいのだ。



そんな二人のやり取りを、後ろから見ていたレオルドだけは、それでいいとは思えなかった。


明らかにこの主従はどこかおかしい。レオルドは気づいて口を挟もうとしたが、昨日今日知り合ったばかりの自分の言葉など二人に届かないだろうと思ってとどまる。



微妙な空気のまま、一行は宿屋に到着し、荷を降ろした。宿泊料は普段の三倍はしたが、街の事情を考えるとやむをえない値段だ。


ユシィの着替えなど世話を焼くレオ達を横目に、ふと、何気ないのを装ってクライドが部屋を出て行くのをハユキは見逃さなかった。


「情報収集なら、一言そう言ってくれてもよくありませんか、クライド」

後を追って部屋を出、一階へ降りようとする彼の背中へ声をかけた。


振り返ったクライドは、少し驚いた様子で主を見返した。

「申し訳ございません、ちょっと散歩がてら、と思ったものですから」

「そんな見え見えの嘘、聞きたくないです」


いつものハユキなら、ここまで追求したりはしない。

彼女は汗ごと拳を握りしめて、自分自身を絶望の中から救ってくれ、いつもそばに居てくれた騎士の目を真っ直ぐに見つめ返した。


ただ事ではない様子の主人の様子に、クライドも降りかけていた階段を登って彼女の前に立つ。


「ほうとうに、どうなさいました」

「いえ——ただ、決心がつきました」


クライドは、自分の脈拍が速く大きくなるのを感じる。それは顔に出さず、なんの、ですか——と問いかける。


「先ほどの答えを聞く、決心です。クライド、さっきあなたはなにか言いかけましたね」


ああ、とクライドは小さく呻いた。しまった、と。その彼の狼狽を悟ったハユキは更に詰め寄る。



「もし、あなたが——どうだって?わたしの、なに?」



ハユキは今のままでいいと、その時は思っていた。けれど、今はレオルドがいる。このままでは自分は絶対に神域に行くことは叶わないと、心の底でわかっていたハユキは、初めて心から権力が欲しいと思った。形骸ばかりの権力ではなく、国の政治にかかわれるだけの権力を。


そのためには、都合の悪いことになると塞いできた耳を、目を、しっかと開いてやらなければならなかった。


「きかせて、クライド。もう、私も子供ではいられない。私がギドの問いに答えるには、このままじゃけいないの」


自分になにができるのか、なにをもたらせるのか、なにを救えるのか。



「私は、あなたの隣に立ちたい。あなたの後ろをついていくだけじゃなくて、本当の意味で、あなたの力を借りたい」



「ハユキ様、それならいつでも私がお力をお貸し致し——」

「違う!そうじゃなくて!」


大声で言葉を遮って、潤んだ瞳で睨めつけるようにクライドを見上げた。



「私は本当のことを言ってといっているの!いつもあなたは私にとって耳障りのいい言葉しかくれない!いつでもそばに居る、助けになる、そんなことばかりで本当のことは何も言ってくれない……私もそれを望んでしまっていたから、仕方ないんだけど。でも、これは私の試験で、私のための旅なんだ。アンディを見つけるのは私でなければならないから。だから、もう、私のためのうそはいりません」


クライドは珍しく動揺を隠せないまま、眉尻を下げ、ハユキを宥めようとぎこちなく笑いかけた。


「ええ、もちろんです。だから私はお手伝いを——」


「主に黙って偵察に行くことは“お手伝い”の域を超えているとは思いませんか」


いままでだって、ハユキは調査をクライドに任せて宿の中に居ることがほとんどだった。危ないからと、そう言われてしまえばハユキは何もできなかった。中途半端に地位ばかり高い彼女がもし命を落とすことになれば、例え高級貴族であるクライド・ウェルザークといえども罪に問われることは免れられないのだ。


そして高位の惟楽の者を守りきれなかった騎士の処罰は、当然ながら重いものだ。それが怖かった。けれど。


「もう、あなたの背の後ろで守られて隠れているだけでは嫌なの」


それが足手まといになることも承知していた。それでも、この一歩を踏み出さなければ、いつまでたっても足手まといのままだ。


「ハユキ様!本来騎士とはそういうものです。主を守り、助けることが仕事であり誇りなのです!」


「では惟楽の者の仕事とはなに?騎士に一から十までやってもらっては、私の仕事は?安全なところでぬくぬくしていることだけが仕事なら、私は居ない方がましだ」


「なんてことをおっしゃるのです!」


ひどい大声で怒鳴られたハユキはそれでも臆することなくクライドを睥睨して、わからずや——と厚い胸板にか弱い拳を何度も打ち付けた。


日が暮れた後のハユキは、どれだけ気丈に振る舞っていても目から溢れてくる涙を止めることはできない。表情を悟らせないように俯きがちに、何度も何度もクライドを叩き続けた。


「あなたは過去の出来事を私のせいではないと言ってくれるけれど、あれだけのことをした私が、何もしないでいることがどれだけ苦痛かわかってほしい!私のわがままでクライドの仕事の邪魔だけはしたくないと思ってた。めんどくさいと思われて愛想を尽かされるのが怖かった……!」


ハユキの拳が力を失くして行き場を失い、華奢な肩が小さく震える。


「だけどそれ以上に、今は、苦しいの。クライドの隣に居ることが、こんなにも。どれだけ近くにいたって、隣を並んで歩いたって、私がいつまでもあなたの一歩後ろで守られている限り対等なんかじゃ決してない。それが苦しい」


「ハユキ様……」


「あなたはどうしても譲れませんか。私が——あなたの主が、少しでいいから頼ってほしいという願いを、聞いてはくれませんか」


主人の切実な懇願にクライドは苦渋をいっぱいに浮かべて、震える肩に手を添えた。そして、騎士は苦しそうに答えを絞り出す。


「ハユキ様、それがあなたを危険にさらす行為だとすれば、私は……承知致しかねます」


そして騎士は許しを乞うように、宥めるように主人を抱きしめようとしたが、それは叶わなかった。


ハユキが力一杯クライドを突き飛ばしたのだ。


「ハユキ、さま……?」


ハユキに突き飛ばされるはずのない鍛え方をしていたクライドだが、この時ばかりは動揺をしていたこともあって、彼女を抱きしめることができなかった。


虚しく宙をさまよう腕を、クライドはどうしていいかわからなかった。


ハユキは既に泣き止んでいて、赤くはれた目でただ静かにクライドを見据える。



「よくわかりました。いったんあの時の約束を反古にしましょう」


言われた途端、クライドの目が見開かれた。

あの時の、あの約束。

星明かりに、淡い青に輝くサリミレの花畑。こぼれ落ちてきそうなほどの満点の星空。どしりとして大きい老木のあの下で交わされた約束。


“ハユキ様、どこまでもあなた様にお供致します。あなた様に仕え、どんな旅でもお供致しましょう”


「どこに行かれるのです!」


階段を一人下り始めたハユキの背中に咄嗟に問いかける。


行き場を失くしたクライドの腕は、どこかへ行ってしまいそうな主を捕まえているためにまた動き始めた。


「一人にして下さい」


けれどその腕はまたもやハユキに届くことはない。それでもクライドはこんな時間に一人で出ていこうとする主を追いかけようとした。


「ついてくるな」


頭だけで振り返った彼女は冷たい目で一瞥し、言葉を続けた。


「これは命令です、クライド・ウェルザーク。お願いじゃない」


お願いなど聞き入れてはくれない。恨めしげな彼女の目はそう言っていた。


「もう一度だけ言います。ついて来るな」



クライドは絶句したまま、遠ざかってく彼女の背中を見つめることしかできなかった。







ハユキの目の前に大きな屋敷がふてぶてしく横たわっていた。


遠目から様子をうかがっただけでもわかる。流れてくるのは、町中の閑散とした雰囲気にそぐわぬ優雅な音楽に、屋敷から煌煌と漏れる夜目に眩しいくらいの光。


隠すことなど一切していない、ここが惟楽の所有地だということはすぐにしれた。なにせ昼間ユシィとハユキを轢きかけた馬車の轍を追うだけでいとも簡単に割り出せたのだ。


「本来こういう、必要以上に民から税金おそなえを搾取するやり方は取り締まりの対象だっていうのに、まったく堂々としたものだよね。いったいギドは誰に口止めされているんだか」


町を少し外れたその屋敷の周りの林に、ハユキは影を潜めてため息をもらした。


「さて、私一人で事件を解決してクライドに認めてもらうという我ながら短慮をおこしてしまったわけだけど、どうしたものかなあ」


ここでこうしていても仕方がない。先ほど表門の様子を見て来たが、人の出入りが激しい上に警備も厳重そのものだった。


「とりあえず、裏手にまわってみるか」


林の中を四苦八苦しながら裏手へ回り、裏口の門の様子を見ると、やはり見張りの数はそう多くない。


門の周囲に三人、門の前に二人。ハユキはれんが造りの塀にもたれかかり、じっと辺を見渡した。


見張りの他に人の気配はない。夜、体が思い通りに動かなくなってしまうハユキは一息ついてその場にしゃがみ込んだ。


「あの音楽……夜は舞踏会かパティーをしてるみたいだけど、これ、いつもやってることなのかな。明日、潜入でもしてみようかな」


ハユキの段階壱のお札があれば、恐らく楽勝で入場できるだろう。しかし、段階壱では高位すぎて逆に怪しまれるのではあるまいか。


いや、そもそも段階壱で神域にも行かずふらふらしている者など他にいない。


「うーん、啖呵きった手前、ギドに情報をもらうのは難しいだろうし、今日のところは帰ってユシィに細かい事情を聞きだすか」


言ってみたものの、ハユキはクライドのことを思い出して気が重くなるのを感じた。


「はあ、帰りたくない……」


呟きながら、改めて、クライドにどれだけ頼っていたのか思い知った。ここまで偵察に来てみたが、ハユキ一人の力でできることいえばせいぜい見張りの数を把握することくらいだ。


「頼りにしてほしいとか言っておいて、ほんと私って役立たず」


ハユキは自分のあまりの不甲斐なさに膝を抱え込んで、顔を埋めた。そのとき。


カサ――。


林の方から人の気配を感じ、ハユキは咄嗟に身構えて息を殺した。相手の方も足音をなるべくたてないように注意を払っているようだが、徐々に足音がこちらに近づいてくることをハユキは察していた。


一か八か、飛び出して逃げてみようかと腰を浮かした時。


「お前、そこで何やってる」


心臓が飛び跳ねる。驚きすぎて声にもならない。薄暗がりから唐突に発せられたその声にびくりと盛大に身体を揺らし、それからかろうじて暗がりに乗じようと思考を巡らせ息を潜めた。


「聞いてるのか?」


今度は憚らない、早足にこちらに近づいてくる足音。もう居場所もばれていることを悟ったハユキは諦め、息を飲んで護身用の短剣に手を伸ばした。


「ハユキ」


目の前に現れた、月夜に輝く銀の短髪。切れ長の目に整った目鼻立ち。


それは紛れもなくハユキの見知った顔だった。昔、ハユキが兄として慕っていたその人は、今も変わらず嫌みなくらい整った綺麗な顔をしていた。


「ラシン……」

「お前、馬鹿か?」


中身はもうすっかり変わってしまったのだが。


ハユキはとりあえず安堵したが、つい先日自分を殺そうとした男の登場に、短剣に手をかけたままラシンを睨みつけた。


「どうしてここに」

「それはこっちの台詞だ阿呆め。大体仕事だと察しはつくだろうが、鈍いやつ。で、クライドはどうした、あのでくのぼうは」


再会して早々、嫌味ばかり連ねたご挨拶に、ハユキの苛立ちは募っていく。ただでさえクライドのことでメンタルはズタボロだというのに、これ以上はキャパオーバーだ。


「クライドなら置いてきました。今は宿で待機していると思いますよ」

「置いてきた?お前を?馬鹿言うなよ、お前いったいクライドに何言ったんだ。あいつ、お前の信者みたいなとこあんだろ。全くご利益なそうなのに」


「散々私を利用して自分の利益にしてるあなたにご利益云々言われたかないです」


「ふん、お前なんぞ利用価値があるだけまだましだろ。ほとんど役にも立たないあんたを有効に活用してやってるんだから感謝されこそすれ非難される筋合いはないな」


そう言ってラシンは嘲笑する。言い返す気力も起きず、ただその憎々しげな顔を睨みあげる。


「だいたい、クライド抜きでお前になにが出来るんだ?考えてもみろ。お前の利用価値の大半だってお前の従者なんだ」


あなたなしでは何もできない——そう本人に向けて言ったのはハユキであったし

し、何より今の状況で誰よりそのことを痛感していたのは、やはりハユキ自身であった。


変わりたい、自分自身で歩きたい。そう願った。


しかしラシンの言葉で揺らぐなど、そんな甘い決心であったわけではないと、自身に言い聞かせるように大声を出した。


出してしまった。



「放っておいて!」


そう、怒鳴ってしまってからはっと我に返って口に手を当てた。


「誰だ!」


周囲からこちらに向かってくる複数の足音がある。

ラシンがちっと舌打ちをしつつ、素早く周囲を確認した。


「まずいな、逃げ場がない」


後ろには壁。左右、前方から向かってくる足音と少し開けたラシンとハユキの居場所を鑑みるに、見つかることは避けられない。


ハユキが逡巡する間、ぬっと視界が暗くなった。

何事かと視線をあげると、視界に壁のようにラシンの背中があった。


「ラシン……?」


咄嗟のことで間抜けな声をあげながら、彼女はふと懐かしさと驚きに目を見開いた。庇うようにもとらえられるその行為に、それ以上の言葉を継げられないでいると、ラシンが腕でハユキを壁に押し付けて見張りの視界からハユキを遮ろうとした。


「もう喋るな。あと絶対に勘違いはするな。今お前が捕まるのは俺にとって不都合この上ないんだよ。ったく、バカと一緒にいるだけでとばっちりくらうのはもうごめんだぜ」


この状況下で悪態を忘れないラシンの性格には恐れ入る。そのうえどうやら庇うともとれたその行為は、ハユキではなく彼の仕事について憂慮したがゆえの結果であったらしい。


わかっていた。そんなことは。ラシンがつい先日ハユキの命を顧みず盗賊に情報を売ったこともまた事実として受け入れられたはずだった。


けれど、ハユキは落胆を隠しきれなかった。

いつだって、兄と慕ったラシンの昔の面影を探して期待している。


「何者!」


いつの間にか気配に取り囲まれて、二人は完全に退路を断たれていた。

しかしラシンは包囲されようが尊大な態度を改めもせずに、むしろ極めて堂々と声を張り上げた。


「大きな声でわめきたてるな。俺は神域の使者としてここに来た!」


その堂々として、大勢を前にまったく気後れすることのない態度は、不思議と神域の者であることに疑いを持つことを許されぬもので、集まった屋敷の者は一様にかしこまって跪いた。


「ほら」


そう言ってラシンは日の暮れ泥む町にいくことを許可された者だけがもつ 御札を前につきだすと、いよいよ彼らは額を地面につけて謝罪をした。


「は、ははあっ。これは誠に大変な失礼を。おそれながら、主にお取り次ぎ致させていただきます前に、惟楽の御方のご用件をお伺いしても?」


次いで、一番身なりの良い男が姿勢を低くしたまま歩み出ると、ラシンにそう問う。


「さーて、用件ね。お前は何か怯えているようだが、神域の俺たちが出ばらなきゃならない理由に身に覚えでもあるのか?」



軽薄なラシンの笑みを仰ぎ見た男の額には脂汗が滲んで、息遣いが荒くなる。



「はあ……あ、あの、一度主人にお伺いを」


「その必要はない。今日はちょっとした散歩さ。あんたの主人に会う時は––––まあそれなりの覚悟しておくんだな。頭が高い!頭を下げて道を開けろ!!」


ラシンの怒気の混じった声に男たちは体躯を必死に縮こまらせ、ははあと心底恐れ多そうにこうべを垂れた。


全員頭を下げたことを確認すると、冷たく鋭いラシンの目に促されてその場を離れる。


ハユキが唐突な出来事に素早く動けないでいると、見兼ねたラシンが彼女の手首を乱暴に掴んで誘導した。


「痛っ」

「黙れ」

「ちょっとまって」

「いいから急げ」


早足に前を歩くラシンに、半ば引きずられるような形で小走りについて行くが、はゆきはそれ以上追求しようとするのをやめた。ラシンは焦っているようだった。



屋敷の音楽が遠のいて、ある程度の距離を稼いだことがわかると、ラシンは急に振り返った。ハユキの腕はまだ強く掴まれたままだ。


「いいかハユキ。お前の顔が見られたかどうか五分五分だ。一応隠してはやったが万に一つ見られていた場合面倒だからお前は早くこの町を出て行け」


「な、何を急に。だってこのままじゃ……」


「お前が懸念してることは全て俺たち神域の者に任せておけばいい。そもそも俺がここにきたのはあの惟楽の者の脱税とお供えの横領を摘発するための証拠をそろえることが目的だ。なのに――」


お前のせいだ、とは言わなかったが、その忌々しそうな表情から容易に察せられた。



とんだ仕事の邪魔をしてしまったらしいハユキは珍しくラシン相手に殊勝な心持ちになって黙ったまま彼の言葉を聞く。


「屋敷の惟楽の者は神域の者がここに来るのを何より恐れているはずだ。よってここに長居する事はスゲー危険なの。口封じされる前にどっか行けお前」

「じゃあなんで神域の者だってわざわざ名乗り出たのです?」


聞くと、あざけり笑いが帰ってくる。


「そりゃお前あそこで、迷っただけなので家に返してください、なんて言って返してくれるわけないだろ?ばーか」


「そーね!それはそれはタイヘンモウシワケゴザイマセンデシタ!」


先ほどまでのハユキの殊勝な態度は何処へやら。棒読みで謝罪をするとそっぽを向く。


「つーことで、町の住人の証言等々、証拠もとれたからもう俺は神域に戻るわ。ま、現行犯でも良さそうなもんだけど、全く権力者の息子ってのは面倒なもんだよ」


掴まれていた腕がぱっと解放された。ハユキが惟楽の者となった日から、ラシンはずっと嫌みを言うか睨みをきかせるか無視をするかしかしなかったのに。


今日は――態度こそ悪いけれど昔のようにハユキを案じて庇ってくれたような気がした。


仕事の心配をしただけだとわかっていても。


「ラシ、ン――今日は私を殺さなくていいの?」


腕に残る痛みが少しだけ、嬉しかった。


「今の仕事終わらせてからだ。今あの番犬騎士を敵に回しちゃ仕事がやりにくいし、今回の件、あんたが捕まると厄介だって言わなかったか?」

「そう……」

「変な顔してんじゃねえよ、じゃあな」


その内容ほど、声色には悪意を感じられず、背を向けて去っていこうとするラシンをなぜか呼び止めていた。


「ラシン!」


声を張っても、聞こえているはずのラシンは背は小さくなっていく。


憎いはずなのに、ハユキはそっとお礼を独りごちていた。


「助けてくれてありが――」


一瞬、ハユキは自分に何が起こったのかわからなくて混乱した。急に息ができなくなって状況をよく確認すると、誰かわからない手が彼女の口を塞いでいる。


――口封じ。


その言葉が頭を過り、ハユキは言い様のない不安に刈られて手足をじたばたと動かして抵抗する。


まさか、つけられていたとは。


「逃がすか」


低い悪意を含んだ声が耳元でして、ハユキの背筋にぞっと悪寒が走った。


ラシンの後ろ姿はもう見えるか見えないかの大きさにある。これだけ距離があればラシンがハユキの状況に気づくのは困難だった。


ハユキは声もあげられず、そのままラシンが遠ざかっていくのを見ていることしかできない。


助けて――クライド。


ああ、やっぱり、クライドがいなければ何もできないのだろうか。そんなことを頭の片隅でふと思ったとき、ガンっと強い衝撃が後頭部から加わって、ハユキは完全に意識を手放した。

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