第3話 想いは届カヌモノダカラ

 擢磨タクマは空を眺めていた。いつだったろうか。祖父にあの絵を見せて貰ったのは。

『じーさま、ねぇこれ。誰?』

 装丁もされていない、掛け軸もどきに描かれた仙人画。優美で物憂げで凛として。子供心に魅了されたな、と擢磨は思い出して笑った。

 あの頃から何か自分は変わったのだろうか。変わる事が出来たのだろうか。そんな風に思うのはきっと、この空があんまりにも清んでいて青いからだと勝手な解釈を入れてみる。

「悪いな。待たせた。」

 ぶっきら棒に掛けられた声に、擢磨は振り向いた。そこにはあの絵と同じ…いや、それよりも逞しい男子が立っていた。

「いいってさ。つか、早ぇ位だよ?」

 裃を着けても迫がある。小学生の頃に妖に襲われた時も、彼は揺ぎ無い眼差しで擢磨を護ってくれた。

 芳原朝壬ヨシワラアサミ。それが彼である。今は学ラン姿の朝壬と擢磨は、並んで二人で学校へと向かう。家が神職の朝壬は朝の勤めがあるので、擢磨は神社まで迎えに来ていた。

 代々妖祓いをしていたのは、元々擢磨の家の方であった。朝壬の方は分家で。それが曾祖父の代に、異能とも呼ばれた高祖父が奥深山に雲隠れしてから、朝壬宅が妖祓いを引き継ぐ事になったという。

 そして現在。

「また、そういや仕事が入ったんだっけ?」

 擢磨の何気ない言葉に、むすっと口をへの字に曲げた朝壬。朝壬の機嫌が悪くなるのはいつもの事だ。

 類稀なる能力を持つ朝壬は、その高祖父の再来とまで言われていた。幼い頃から退魔の技にも長けていて、今では右に出る者はいない位なのだから。だから擢磨を護れたのだが。

「お前も暇なんだろ。必ず来いよ。」

 化け猫の三ツ又が擢磨の家に来てから、朝壬は必ずと言って良い程、擢磨を出かける際に誘った。以前はあれだけ仕事に付いて来る事を拒んでいたのに。まあその理由は少なからず擢磨に有るのだから仕方ないとして、擢磨自身はこの朝壬の変化を楽しんでいた。

 何せ、擢磨は妖に憑かれ易い。正確に言えば付き纏われ易い、の方だった。

「もれなく三ツ又も付いて来るけど? いいよな。」

 一気に朝壬の顔が不機嫌になる。その膨れっ面が余りに子供っぽくて、擢磨は密かに朝壬に見られないように笑った。




 当然の様に学校へ行き、当たり前の様に同年代の友と歩く。そんな他愛の無い事が、擢磨は珍しかった時期もあった。

 あの掛け軸もどきをこっそりと持ち出して見た時、少なからず擢磨はその側の世界にいた。妖が見えるという事は、ともすれば人外の境地に陥りやすい。

 それは擢磨を人の世界から少し遠ざけた。

「君…だれ?」

 不穏な気配にも気付かずに、擢磨が声を掛けた黒い塊のような人影。それは人間に害を成す類いの物の怪だと知ったのは、その事後の話だ。だから結果が災厄を招くなど露程も思わずに、擢磨は手を差し伸べた。

 寂しそうだ、と思ったのだ。他を怨む念には、その奥に悲しみや痛みを抱えている事が多い。そういう事に気付いたのも随分後になってからだが。

 その頃はまだ周りの者に擢磨が妖を見ている事をあまり理解されていなかったし、擢磨は擢磨で人と妖の区別が付いていなかった。

 寧ろ其処にいるのに誰にも気付いて貰えない、そんな寂しさが擢磨には堪らなく思えたものだ。


 黒い塊の人影は擢磨に近づくと、頭からすっぽりと覆うように呑み込んだ。一瞬の出来事であったので、擢磨は何がどうなったのかわからない。そんな折、声が聞こえた。

「その体を放せっ!!」

 数珠玉の掛かった手が闇を突き抜け擢磨を掴む。力強い腕は同じ年代の子供の物とは思えない程、逞しかった。光のある日常の世界へ引き戻された擢磨は、自分の居た場所を振り返り、退治されて消え行く塊と、自分を助け出した者の姿を同時に目の当たりにした。

 少し怖かったから、その出会いは擢磨に運命を感じさせた。

「………。」

 まるで今しがたまで絵の中に居た麗人が、危機を察して助けに現れ出たようで。

 呆けた様に見詰める擢磨に、少年は怪訝に眉をひそめて言う。

「大丈夫…か?」

 それが、幼き日の芳原朝壬ヨシワラアサミとの出逢いであった。




 樹の蔭で微睡む小さな猫体を眺めつつ、擢磨は思っていた。

 もし、あの時三ツ又に出逢わなければ、どうなっていたんだろう。

 確か初めて逢ったのは、じさまの危篤の知らせを聞いた帰り道だった気がする。

 目の前を黒猫が過ったから…駄目かもしれないと、勝手にじさまを殺してた。

 擢磨にとって、じさまは半分心の支えであった。けれど、老衰と云う自然の摂理には逆らえず、今は寝たきりである。


 通り過ぎて行った黒い塊。溜息を吐いて無常な世界に自身を落とした。だが現実は違っていて、その黒猫が擢磨を見たのだ。

「あ、」

 その時どんな顔をしてたかなんて、自分ではわからない。けれど猫の眼はただ真っ直ぐに擢磨を視ていた。

 揺るがない眸に魅入られて、すぐにただの猫ではないと確信した。

 言葉に出来ない擢磨の持つ蟠りを、解きほぐす様に猫は擢磨を見つめ入る。

「有り…難う。」

 何でそんな事を言ったのか。でも安心出来た。じさまが逝って亡くなる事は、擢磨が消える事じゃない。当たり前の事なんだけれど、どこかで擢磨は混同していた。

 じさまが擢磨の一番の理解者だったから。そのじさまが亡くなるという事が、自分という存在を否定されるように感じられて。


 結局、じさまは持ち直し、擢磨の気苦労で終わったのだが。

 そういやその時だな、じさまに三ツ又の事を頼まれたのは。

 後々で考えて見れば奇遇な話だ。きっと全部見えない糸で繋がっているんだろうと、一人ごちの考えに自身で吹き出す。

 じさまもじさまだ、と擢磨は笑う。

 今だから思う三ツ又との出逢い。朝壬との出逢い。繋げてくれたのは皆、じさまだもんな。




 火葬場にて棚引く灰色の煙を眺めつつ、あの時どんな気持ちで朝壬は傍に居てくれたんだろう。


「泣かないのか。」

 朝壬は隣に並び立つ擢磨に声を掛けた。その眼は涙を見せない擢磨を責めているようで。でも朝壬も泣いてはいなかった。

「うん。」

 条件反射で答える。じさまが死ぬのはわかっていた事。ちゃんと死ねるんなら、それでいいじゃないか。

 身体を無くしても死にきれずにさ迷うものを知っている。それからすれば、どれだけ幸せな事だろう。

 そう考える自分が如何に周りとずれているか。分からぬでもない擢磨だが。

 やっぱり薄情なのかな、俺って。そう想うとつい口許が笑ってしまった。


「せめて、俺の前では強がるな。」

 言われたさきで擢磨は笑っていた。いつもと変わらぬ薄っぺらな笑顔だと、朝壬は思ったに違いない。

 悔しさに眉間を歪める朝壬に、笑いながら擢磨は答えた。

「ごめんな。」

 違うんだよ。一人ごちに朝壬には聞こえないように呟く。

 泣かないのも、甘えないのも、押し殺すのも、全部意固地な自分のせいだから。

 わかってんだけどな。

 擢磨は青に広がる空を見つめた。




 悲しみを、怒りを、悔しさを…憎しみに変えれば、あの黒い塊の様に哀しい存在になってしまう。

 だから、笑う事しか出来なかった。あの呑まれた時の渦を巻く黒いモノの感情が、辛いと嘆いていたのを知っているから。どうにもやるせない、遣りきれない思いで満たされていたのを知っているから。

「お前もそんな想いをして来たんだろうな。」

 ふと呟いた言葉。ピクリと猫の耳が震えた。




 じさまを送った翌日、擢磨は三ツ又に逢いに行った。

『また来タカ。』

 眼が呆れて擢磨を見た。苦笑いしながらも擢磨はスルメで三ツ又を釣る。

 色々と他愛なく話をした。三ツ又からじさまの幼少の頃の話も聞いた。ノモノの事も聞いた。

 奥の深山の話も聞いた。

 擢磨はただ笑って、それらを全部聞いた。

「なあ、三ツ又も変化出来るんだろ?」

 何気無しに言った言葉に、三ツ又は困ったような顔をして、答えた。

『出来ぬ…訳ではない、ガ。』

 無理だと言う三ツ又に、半分諦め、半分落胆の息を吐き、やはり擢磨は苦い顔で笑おうとした。

「…んっ!!」

 掠め取られる様に合わさった唇は、小さな猫体の姿を変える。

 一瞬の事。昔見たあの掛け軸もどきの世界に在する麗しの人。目の前で擢磨を見る双眸は、擢磨を通り越して遥か彼方を見詰めていた。

 語っていた時の、懐かしさとも愛おしさともつかぬ、あの遠くを見つめ愁える眸。

 その時気付いた。初めて本当のあの絵の人に巡り逢えたのだと。優美で物憂げで、それでも凛として。


 同じ眸で彼方を見つめる三ツ又の姿に、追いかけても届かない処に想いがあるんだと、擢磨は気付いたのだ。

 姿形も似ていて何より真っ直ぐ自分を見ていてくれる、芳原朝壬という存在。

 けれど、優美で物憂げで淋しがり屋で、それでも凛と生きようとする、化モノの三ツ又という存在。

 悪あがきだな、と自分でも思う。例え三ツ又の眸が遥か彼方に向いていても、惹かれたのはあのバカで愚かでチビの化猫なんだと、気付かされてしまったから。


 擢磨は可笑しくなって笑った。




 分かったのだ。


 あまりに澄んでいて目に染みる位青いから。

 空に憧れ恋した生き物。あれは確か不可能を可能にする話だったけど。自分に置き換え、考える。

 羽根が無ければ、幾ら望んでも、空は決して届かぬ存在なんだと。

 それでもきっと手を伸ばして見上げるんだろうなって。

 届かなくても、伸ばした手がここにあるから。

 気付いてくれれば言うことなし。

 俺から望む事は何一つ無いと。

 きっとこれからも、あのちっぽけで淋しがりやで頑固者の化猫に、俺はこの手を伸ばし続けるんだろうな、と空に向けて独り、笑った。




『何故…そちハ笑ウ。』

 小角鬼オヅキに真摯に言われた時、擢磨は胸の内を廻る気持ちに翻弄された。

「俺ってヤツを見失わないように、かな。」

 朝壬のように強くはないし、三ツ又の様に凛と立つ事も出来ない。だから、諦めたってぇのに。

 寂しさも辛さも苦しさも、どうしようもない悔しさも、全てひっくるめて擢磨は笑った。




 飲み込んだと思っていた蟠りが、まだ咽頭に残っていたのだと、その胸の息苦しさに改めて思った。

「馬鹿だなぁ、俺って。」

 何気に笑う。笑い声を上げる。大声で笑いながら空に顔を向けて。

 だって、涙が零れそうだったから。

 ひとしきり馬鹿笑いをし、擢磨は改めて前を向いた。

「さぁて、帰るとするか。」


 空は、青から赤へと移り、夕闇の世界へ変わろうとしていた。






   想いは…望んだ形では届カヌモノ…だからこそ、の物語り

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