第2話 三ツ尾ノ化ケ猫

 オレは奴が大嫌いだった。




 屋根の裏側の日ノ影で微睡まどろむオレに声がする。

『…ツ…マタ、』

 ああ、聴かなくなってから随分経ってしまったな。

『…そなたは…美しいのぅ』

 オレをそう呼ぶ、その声が愛しい。

『…のぅ、三ツ又…』


「…ツマタぁ、」

 下からオレを呼ぶ擢磨タクマの声が聞こえた。

「おおぉい、三ツ又ぁ。居ないのかぁ?」

 ヒラヒラと手を振る奴の手元から、何とも言えない甘い香りがして、オレは顔を上げた。即座に身を起こし、飛び降りる。

「あ、いたいた。またスルメ買って来たんだ。食べる?」

 有無を言わせずオレは飛び付き、そのまま擢磨を押し倒して、むしゃぶり付くように軟らかな肉に噛みついた。

「だ…ダメだっ、擽ってぇ。」

 笑いながら、擢磨が言う。構うものか。オレは気にせず奴の手をべろべろ嘗めた。

 それをあの男は、後ろから近付いて、ひょいとオレの首根っこを摘まんで持ち上げる。

「大丈夫か、擢磨。」

「あ、大丈夫だよ。」

 別に良いのに、と苦笑いを浮かべる擢磨を見下ろして、反対側の手で引き起こした。

『放せぇっ!!』

 摘まみ上げる手を何とか外そうともがくオレを一瞥し、そのままポイと放り投げる。慌てて身を立て直したオレは、全身の毛を逆立てて、奴に牙を向いた。

『何のツモリだ!!』

「つまらん化け物が襲っていたから、取り除いただけだ。」

 冷めた目でオレを見る。腹立たしい態度だ。たかだか十数年しか生きてはおらぬガキが、千歳を逝くモノの列びに居るオレを見くびるとは。

 口に残るスルメと云う肴の肉切れを噛み砕いて、オレはその男─芳原朝壬ヨシワラアサミと睨み合った。

「はいはい、それまでにしとけって。」

 擢磨の柏手ひとつ。それで元居た位置へ戻る朝壬を見つつ、オレは擢磨に抱き上げられて、頭と喉元を優しく撫でられる。

「三ツ又も。こんな小さな身体で無茶なことしたら駄目だぞ。猫なんだから。」

 あまりの気持ち良さにゴロゴロ喉を鳴らしてしまった。擢磨の頼みであれば仕方がない。オレは返事の代わりに、尾の先の黒い小手を振って了承した。




 そう。オレは『三ツ又』と呼ばれる化け猫だ。

 何故『三ツ又』なのか。それは、オレの尻尾が三つに分かれているからだ。

 とはいえ、普通の人間にはあまり分かれている様には見えないらしい。悔しいがオレの尻尾は、一つ目は短く千切れ、二つ目は途中で折れ曲がり、三つ目に至っては影の様にしか見えない…らしい。

 先の二つの尾については、誰しもが見ようと思えば見れる代物だが、三つ目に関しては、一寸特別である。

 黒くて実体を持たないその尾は、先が五つに分かれており、赤子の手の如く、自在に物を掴む事が出来るのだ。

 擢磨は、痩せっぽちで毛並みの薄汚れたぎらついた眼をしているこのオレを、皆が薄気味悪がって近付こうともしない、このオレを、手を差し伸べてこの家に連れてきてくれた。

 擢磨だけだ。

 だからオレはこうして此処にいる。




「あの役立たずを何時まで飼っておくつもりだ。」

 あの男、朝壬の耳障りな言葉が聞こえた。

『役立たずとはっ!!聞き捨てならぬっ!!』

「はい、そこっ。静かにするっ。」

 ビシッ、と擢磨の指先がオレと奴を制す。渋々オレは口を閉じた。

「それで。」

「それでって?」

 ちらりとオレを見、深く溜息を付いて、朝壬の奴は擢磨に話しかけた。

「どうするつもりだ。何か当てでもあるのか。」

 どうやら話は擢磨の祖父の遺言の事らしい。オレにはよくわからないが、擢磨は何かを頼まれたようだ。

「ん、そうだな。取り敢えずじさまが住んでいた昔の家でも捜そうかな。」

 ははは、と頼りなげに笑って朝壬の顔を見つめた。朝壬も真っ直ぐに擢磨を見つめる。オレは、そんな状況が気に食わず、ふて寝を決めた。

「擢磨、無理はするな。」

 ぶっきらぼうな物言いだが、朝壬がどれだけ擢磨を心配しているか、知っている。

『どんな状況になろうとも、俺が必ずお前を護る。』

 以前告白に近い雰囲気で告げられた言葉。それを思い出してそっと、撫でられた頭を朝壬に預け、擢磨も小さく頷いた。




 事は、擢磨の祖父が亡くなる前の話らしい。

 その遺言を託されたのは、息子である擢磨の伯父でも父でもなく、擢磨自身だ。これには擢磨の特殊な体質が絡んでいるのだろうが、何故そんな事を頼んだのか。

 いや、そもそも頼まれた内容を把握しているのは、擢磨とその擢磨にぴたりとくっ付いているあの男─朝壬位なものだし。

 実際オレはそこが気に食わない。

 わかっているのは、擢磨の祖父が幼子の頃に迷い込んでいた、山奥の観音堂に関係しているという事、だけだ。


 擢磨がオレを見つけたのも、多分…その所為なのだろう。

『………。』

 嗚呼、どうしても気が沈む。胸にチクリと刺さったままの棘が、オレの中で疼き、自ずと瞼を伏せた。




 オレは奴が大嫌いだった。




『…のぅ、三ツ又。』

 あやつの声は、何時もオレの心をざわつかせた。


 爆ぜる炉の音に混じり、小僧の寝息が煩く聞こえてくる。オレは背にのし掛かった小僧の腕を払いのけ、反対側に座するあやつの元へ赴いた。

「どうした、三ツ又よ。」

 薪をくべる細い指を眺め、オレは炉の縁に座した。

「眠れぬのか。」

 静かに響く凛声がオレの心を震わせる。オレは低く喉を震わせて、明々と燃え上がる焔を見つめた。

 あやつと二人きりの、この刻間が良い。そう思える気の流れが、炉の中で渦を巻き、熱気となりてこの身に還される。

『主は…眠らぬのか。』

 パチ、と枝が爆ぜた。まるでそれは焔が問いに対する答を打っているようにも感じた。

「わしは火の番をせねばならぬのでな。」

 微かに笑んで再度視線を炉に戻す。オレはあやつの眼差しが名残惜しくて、自ずと視線をあやつに向けた。

 あやつは、この観音堂に住まう坊主だ。人の界から外れ、化の界との境を有するこの古ぼけた御堂の主。

 オレが此処へ呼び寄せられたのも、オレ自身が望んだのかもしれない。

 獣にあらず、化物にあらず。

 どちらにも逝く事の出来ない中途半端な存在だった。それを“化ノモノ”と称して愛でるあやつの元へ、辿り着いて気付けば離れ難くなっている。

「近う寄らぬか。」

 その言葉に足を出しかけて、オレは掛けられたのがオレにではない事に気付かされた。

 浮かび上がる、夜陰の白体。音もなく立つ白骨の骸。現れたのは、奴、だ。

 カシャン、と足を踏み鳴らし、奴は入ってきた。

「待って居ったぞ。」

 その声音に、弾むような声の響きに、オレ自身居たたまれなくなり、炉に背を向け、外へ逃げ出した。




 飛び出した三ツ又を気にかけて、頭骨を外へ向けたままの躯骸に、和尚は細る指を添えた。

「構わぬ。その内戻る。」

 それよりも、と綺麗に並んだ歯列に舌を這わせ、一本ずつ丁寧に舐め尽くす。濡れる先から乾いていく骨歯をもう一度指でなぞり、和尚は頭を下げた。

「済まぬ、丞臣すけおみ。もう幾許もやれぬ。」

 憐れみとは違う沈んだ眸が白い骨顔を見詰めた。真黒の眼窩が和尚を捉える。カチカチ歯を鳴らし、何かを謂わんとしているが、その言を繰る肉舌は疾うに失われて存在しない。

 白骨の線が和尚の身体に伸ばされた。鋭い指先が和尚の背を掴み、引き寄せる。一筋の線のように細い腕が和尚の身体に絡まった。

「丞臣。」

 僅かに苦く笑する和尚は、そのまま骨体を押し倒した。反り返って浮き出た喉仏を唇に挟み、軽く吸い上げる。カクン、と顎骨が鳴った。

 ゆるりと頸椎をなぞり、背骨を一節ずつ、丹念にしごいていく。白指の細い骨がシャラシャラ音を奏でた。

 あばらに和尚は指を絡めて、撫でる様に梳いた。感じるのか、カタカタと奥歯が激しく震打する。声の代わりに軋む骨音が、丞臣の淫悦を表している。和尚は微笑を浮かべ、折れそうな鎖骨を銜えて、むしゃぶった。

 カカカカガガガガガッ

 全身の骨が折れそうな程、激しく揺れた。頭蓋はもげそうな勢いで振り回される。

「相変わらず、此処が弱いか。」

 手の指を絡め、暴れる腕骨を征し、執拗に鎖骨を舐め回す。大腿骨が責めるように何度も和尚の胴を叩いた。

 流石に応えたか、和尚は鎖骨から口を離した。

 だが、今度は指先が股の間の恥骨をいやらしく撫で始める。ビクッと全骨を震わせて丞臣は喘いだ。

 ゴツゴツとした、薄い肉に皮を被っただけの、日焼けした和尚の赤黒い身体は、白き骨体と対照的で生々しい。

 そんな和尚の中央から、それは歳老いた者とは到底思えない程の逞しさで、法衣を突き破るが如く屹立している。

 擦れた恥骨に竿を当てると、和尚はゆるりと腰を動かし始めた。

 カッ、ガガッ、ガシャガシャン!!

 動きに合わせ、肢骨体も暴れる。背骨をありったけ反らすと骨盤を何度もよじった。その動きは和尚のモノを更に育て上げるのに、充分であった。そして、射出いでるのを今かと待ち構える様に、雫が骨を湿らせる。

 やがて、堰を切った潮が、熱く躯骸に降り注いだ。




 放たれた雄汁を余す事なく骨盤に行き渡らせる。密に詰まった骨繊維の奥の奥まで、和尚の精子が入り込んでいくのだ。

 荒く息を継ぐように肩甲骨が上下を繰り返し、和尚の仔で満たされた骨盤は、重みを増して床に沈んだ。

「丞…臣…」

 そっと和尚の唇が髑髏の額に触れ、柔らかな接吻を施す。

 シャラ、と音を奏で、微かに応える。

 沙羅の香りが微睡みに誘うように、二人の意識を包み込んだ。




 外はさぶい。凍てた空気は命全てを消し去るようでもある。

 逃げ出して、どうなる。

 それでもオレは堂の周りを巡って、廻って、離れ難いが逃げ出したい衝動に翻弄していた。

 嫌、なのだ。

 奴とあやつの睦事を見るのが堪らなく辛い。ただ気を廻り合わすだけの仕様であろうと、オレには胸を掻き毟られる程、痛く苦いのだ。

 オレだってそうだ。あやつと睦み、気を廻り合わせている。それがノモノという存在の姿だ。あやつの精気がオレの器を満たし、満たされたオレの気をあやつが喰らい、力にする。

 人間である小僧を除けば、此処に居るモノ全てがあやつと何らかの形で交わっておる。ただ─

 空気の震鳴にオレは足を止めた。睦事が終わったのを悟った。

 奴…だけは。特別なのだ。肉体が在る時から、骨体の今に至っても。

 あやつは…和尚は何も言わぬ。それでもオレには感じられる。奴に対しての眼差し、先刻のような声音、そして傍に居るだけで違う僅かな表情。

 敵わない、どんなに足掻いても。オレがどんなに想っても、和尚にはきっと届かないのだ。叶わない、その想いが余計にオレを雁字搦めにする。

『何故、オレは此処に居るノダッ!!』

 嘆声が、ひとつ。凍る闇間に音も無く消えていった。







「三ツ又?どうしたんだ?」

 手が眉間の皺を伸ばしている。擢磨は云々唸るオレを抱き上げて、頭や顔を撫でくり回していた。

 どうやら魘されていたみたいだ。やな事を思い出していたのだから、当然か。

「悪いんだけど、付いて来てくれるかな。」

 今からじさまの家に行くんだ。と、擢磨は言った。一応場所の目途は付いたらしい。オレは擢磨の腕の中からスタン、と飛び降りた。

『構わぬぞ。』

 そういえば、奴が見当たらない。オレは怪訝に顔を顰め、辺りを見回した。

「ああ、朝壬かな。準備に一旦帰るってよ。」

 オレの様子を推察して、擢磨が答えた。見立て通りなので、オレも得心の顔で頷く。

 擢磨は自前の足漕ぎ車を取り出してくると、それに跨った。オレは渋々前篭に潜り込み、顔を擢磨の方へ向けた。

『全く、よく使うな。この足漕ぎ車を。相当揺れて乗り心地は悪いぞ。』

「自転車だって。それに前カゴに後ろ向きに乗るからだって…言ってんだけどな。」

 仕方がない、と諦めた様子で、擢磨は静かに漕ぎ始めた。




 風を切って走る。それは心地良く、オレは眼を細めた。

「じさまが神隠しから戻ってきた時は、大騒ぎになったって、ばさまがよく話していたなあ。」

 隣で擢磨が楽しそうに話し出した。

 擢磨の祖父。オレはそいつと会った事がある。無論、それは彼が人界に戻る前の話だ。オレの記憶には小僧だった時の姿しかないが。

「ばさまもワンワン泣いているじさまの姿を見て惚れたって言ってたから、変わってるよな。」

 まだ6つの時だぜ。と苦笑いを浮かべて擢磨は続けていた。

『…それで。何処まで行くノダ?』

 先刻から同じ様な道を往ったり来たりしている。街並みは擢磨の家とさして変わりはせぬが、一向に辿り着く気配がない。

「ええと…何処だろう。」

 周囲を見回して。そして呑気な声を上げる。擢磨は道に迷ったと、心底困ったという顔をし、視線をぐるぐる辺りに巡らせたが、解決する糸口も見えないようだ。

 オレは擢磨の操る車の前篭から飛び降りて、見覚えのある細い路地へと脚を踏み入れた。

「待てよ、三ツ又ぁっ」

 慌てて擢磨が追い掛けてくる。オレは少し気にかけつつも、手掛かりを求めて先へ進んだ。

 路地の先に在ったのは、小さな空地であった。誰の足も踏み入らぬ、草の伸び切った荒地である。草丈はゆうにオレを通り越し、容易く姿を隠してしまう。

 オレは、慎重に脚を進めつつ、気になる気の、流れる方へ向かっていった。


 そこは、小さな祠だった。ちょうどオレの背丈にぴったりな、そんな小ささを誇る大きさだ。

 祠を中心に、渦を巻くように陰の気が寄り集まっている。果たして此れが擢磨の受けた遺言と関係しているのかどうか、分からないが、オレが向かうべき所業のものに違いない。

 オレは一歩下がって魂気を溜め、次の一手に向けて低く身構えた。

「三ツ又、こんな処にいたのか。」

 いきなりひょいと伸びた腕に、体を持ち上げられた。オレは大慌てで顔を後ろに反らせ、手の主を仰ぎ見る。擢磨が…何の気も無しに踏み入ったのだ。しかも、目線の先にはあの祠がある。

「へぇ、こんな処に。ちっちゃい祠だねぇ。」

『待て!!其は!!』

 制す間もなく、擢磨は触れた。一瞬、何が起こるのかとオレは身構えたが、意外に静かであった。

 ナンダ、何も起きないのかと、オレが安堵しかけたその時。

「あ…れ…、」

 祠から幼児の手が伸びて擢磨の手首を掴む。それどころか中へ引き摺り込もうとしていた。

 オレは咄嗟に祠の上に飛び移り、その小さな手に噛み付いた。

『誰ゾ…タレゾ、…ヲ喚ブ…』

 鳴り響く地響きに近い呻き声。同時に溜まっていた陰の気も一気に噴き出した。

ソチカ、我ヲ……ス不届キモノハ!!』

 怒号と共に稚児の手は蒼く染まっていき、筋骨隆々の太く逞しい鬼の手へ変貌していく。

「っ痛い…」

 掴まれたままの擢磨が悲鳴を上げた。気を抜けば引き摺り込まれる勢いに対抗し、必死で踏み留まって居るのだが、その分腕に掛かる負担が大きい。

 オレも無我夢中で鬼の腕に牙を立て、爪を研ぐが、全く歯が立たない。

『…ルサ…ヌ、赦…サヌ…!!』

 オレは鬼の指一本一本を何とか噛み千切ろうと足掻いた。

「擢磨っ!!」

 何処かで叫ぶ声がした。奴の…朝壬の声だ。

 遅いっ!! とオレが喚く前に、朝壬の奴は無数の珠を括り着けた腕を突き出すと、印を結び、言を唱える。辺りを廻っていた陰の気は、それで一気に吹き飛んだ。

 そして珠を纏った手で、擢磨を掴む鬼の腕を捻り上げた。

『ヌウゥゥゥゥッ!!』

 唸り声を上げ、鬼の頭が僅かに現れる。

 オレは地面に飛び降りると、祠の中に納められているモノに目を遣った。

 何処ゾで見た事があるような。

 オレは尾先の黒い小手を伸ばし、それを掴み取った。祀られていたのは小さな小さな欠片のような、角。

 鬼は擢磨の手首を放し、朝壬は鬼を力任せに捩じ伏せ、オレはオレでこの小さい角と鬼を見比べた。

『エエイ…放セェ、』

 先程とは随分違う、子供の強がりを言っているような、幼い声だ。ふと見ると祠は消え、おかっぱ頭の小鬼が半べそを掻きながら現れた。

『やはり、主か!!』

 思わずオレは感嘆の声を上げた。

『コノ役立タズノちびガッ』

 言うに事欠いて、再会の第一声がコレか!?

 碌でもない事を云うそいつに、苦虫を噛み潰し、尚苦笑う。それでもオレは懐かしい旧友との再会に、思いは一入ひとしおであった。

 青い獰猛な鬼の姿から、一見、座敷わらしか祭の稚児の風情をした幼子に戻ったそいつ。小角鬼オヅキと呼ばれていた、鬼だ。奥山の御堂より人界へ下り降りた時に、各々に別れて以来だ。

『久しいな、』

 小角鬼はぶすとした顔でオレを睨んでいた。

『彼奴ハ…小僧ハ泣イテ居ッタゾ。』

 確かにそうだ。呆れ顔でオレは聞いていた。小僧は人界に下る間、ずっと泣いて居ったのだから。其れがどうしたと、オレは小角鬼を見据えてやったが、それでも長くあの御堂で皆と共に居ったのだから、寂しく感じたのは当然であろう。

『和尚ニ貴様ノ事ヲ頼マレテ居ッタノダ。』

 オレの事を? あやつ…が?

 ドクン、と心の臓が鋭く震えた。畏れに心がざわつく。


 そうだ…。あの時オレは。







『何故、オレは此処に居るノダッ!!』

 オレは叫んでいた。嘆声がひとつ、凍る闇間に音も無く消えていった。


 それに応えるように、火の爆ぜる音が一際高く谺する。

《苦シイ─…カ》

 焔が問うたようだが、答えなかった。だが、それはオレの心を代弁している様であった。熱を孕んだ風が何処からともなく、身体に纏わり付き、オレを懐く様に包む。

《ナラバ、ソノシガラミ、……消シテヤロウ》

 音が爆ぜる焔の如く響いた。何処からか解らない。だが、次刻には赤い朱のような炎舌が御堂を嘗め包んでいたのだ。

 ゴオオオオオォォォ…

 唸り声が御堂を包む。真っ赤な灼熱の化物が、御堂を呑み込んでいく。

 オレは、身動ぎすら出来ず、ただ眺めていた。

 恐ろしい─そう形容するのが相応しい、状態だったのだ。早く助けに行かないと。焦燥する気持ちは有れど、身体は一向に動く気配すらない。いや、何処かで無理矢理、この程度の火焔であやつが…どうにかなる事など無い、と高を括って、そうだと思い込もうとしていた。


 ガラガラと音を立てて崩れ始めた御堂の側より、男ノ子の泣いて名を呼ぶ声が聞こえた。

 オレはその時、初めて我に返った。

「うああぁん、和尚様ぁぁ」

 堰を切ったようにオレは駆け出し、小僧の元へ詰め寄った。

『三ツ又!?貴様ッ、何ヲシテ居った!?』

 顔の煤けた小鬼が眼を吊り上げて、オレを睨む。が、そいつには構わず、オレは泣きじゃくる小僧に咄嗟に、声を荒げてあやつの事を聞き糺した。

『あやつはっ!?坊主はどうした!!』

 浅はかな、何と愚かしい行為だろう。其れ程迄に想っているのなら、堂を飛び出すべきではなかったのだ。こんなにも、身体中が引き裂かれるような辛い狂苦が在るのなら、オレはあのまま彼処に留まり、共に焔に巻かれるべきであった。

 何もかもが歪んでゆく。思考も、視界も、感情も。

 苦しい、狂うしい、くるしい。

『《…シテヤロウ…》』

 脳裏に爆ぜる声が響く。

『…………ッ!!』

 チガウっ!!違う、オレが望ンダのは…

 ビョオオオオゥゥ……!!


 

 獣の声が響き渡る。オレは己が声の嗄れるまで、哭き続けた。焔は総て燃やし尽くし、それでも尚、煌々と燃えていた。




 水音が足元で小さく跳ねる。

 オレと、小僧と、小鬼─オヅキは苔むした石段を、降りた。

『………。』

 皆、無言であった。露を含み滑り易くなった石段を、足脚を取られながらも、ただひたすらに降りていく。

 今は、人界へと向かっていた。最早御堂は跡形もなく、未だ火焔は渦を巻いている。

 小僧は人間だから、人界に戻すべきだ。そう結論付けて、オレとオヅキは小僧を連れて、石段を降りていた。


 行けども先は全く見えない。だが、誰もそんな事に躊躇しなかった。考えようとすらしていない。

 だが。今はそれでいい─

 オレ自身、極力何も考えないようにした。

『三ツ又、本当ニ此ノママ進ンデ良イノカ?』

 不安になったのか、オヅキはオレに問い質した。脚を止め、ちらりと振り返るが、オレは何も答えず、再び段を下る。

 三日三晩、人界の長さでなら其の位であろう。下り続けて、少し周りの空気が変わってきた。

『オイ、匂イガ違ウゾ。』

 オヅキは辺りをクルリと見回す。泣くにも歩くにも疲れてか、小僧は今にも倒れそうだ。

 やがて周りは何も見えなくなる程に闇に包まれた。オレは黒い小手で小僧の裾を掴んだまま、しるべとなりてまだ続く石段を今一度踏み締める。

 あと、少し。

 あと、少し。

 あと、少し。

 歩き始めて遂に、足裏の肉球の感触が変わった。そしてオレは小手を開いて裾を離し、一目散に夜闇の人界へ姿を消した。







『…捜シタ、ゾ。』

 小角鬼オヅキの…幼い眉が寄せられて、其の裾野がなだらかに下がる。相貌が憤怒から哀想へ変化する。

 オレは其の双眸から顔を背けた。靄とした言い難い気持ちに、小角鬼オヅキと向き合うのが心苦しくなり…オレが踵を返すと、朝壬の奴が擢磨と対峙しておった。

「擢磨、俺は合流する迄待て、と言ったよな。」

 落ち着いた物言いだが、立腹しているのが分かる。

「えぇっ!? だってさぁ、三ツ又がずんずん中に入ってっちまうんだぜ。」

 シラツと事の流れを説明する擢磨。オレはウンウン、と頷きながら聞いた。が、おかしな方向に向いている事に気付き、オレは首を捻った。

「…つまりは貴様の所為、だな。」

 朝壬の眼がオレを射るように見据えてくる。強烈な危機感に、大慌てでオレは口を挟んだ。

『ちょ…ちょっと待て!! 擢磨の祖父の遺言を片付ける為に此処へ来たのだろう?』

「じさまの遺言…?」

 首を傾げる擢磨は、暫く考え込んで、得心が行ったように、平手のひらを拳で軽く打った。そしてオレを抱き上げた。

「これの事だよな。」

 ゆっくりと優しく、頭を背を撫でさする。何処か懐かしい、何処か切ない、そんな郷愁が胸を占めた。

『た…擢磨、』

「じさまはさ、三ツ又って名の小さな化け猫を見つけたら、側に居てやってくれって、言ったんだよ。淋しがり屋だからってさ。」

 ナンダ、ならオレは…。

 撫でられる度、郷愁が胸を襲う。其々の想いがその一撫でに籠められている気がした。が。

『………。』

 待てよ、つまり今回の事は遺言と関係無い、と?

「いやぁ、もっと色々じさまから話が聞ければ良かったんだけどさ。」

 あの、少し気の重そうな、深刻な表情はなんだったノダ?

「昨日あんまり寝てないのだろうが。無茶させてしまったんだから…その…」

 途中から言葉を濁して、目を游がせる朝壬の奴の態度に、擢磨は笑みを溢して軽く奴の身体を小突いた。

「分かってんなら、帰りは宜しく。」

 足漕ぎ車を指差して。乗せろと言わんばかりに擢磨は朝壬の奴にじゃれついた。朝壬は諦めた様に肩を竦めると、転けたままのそれを起こして素直に跨がった。

「さっさと乗れよ。」

「おう。」

 結局、何の為に此処へ来たのか良く解らぬまま、オレ達は小角鬼も一緒に、元の擢磨の住む町へと仲良く戻っていった。




 そう言えば、と。ふとした疑問が脳裏を掠める。…朝壬の奴、一体此処迄どうやって来たノダ? ま、今となってはどうでもいい事か。

 オレは擢磨の腕に抱かれて、奴の漕ぎ切る風を感じて、もう一度緩い眠りにその身を浸した。


 今度は好い夢が見られそうだ。




 ビョウ、と大きな欠伸一つ。三ツ尾の化ケ猫の物語。

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