化モノ譚

九榧むつき

第1話 猫ガタリ

「おぉい、みつまたぁっ」

 底抜けに明るい声が、裏の狭い路地に響く。声の主は差し詰め高校生であろうか。のそりと姿を現したのは、痩せっぽちの小さい猫…のようなものだ。

 骨と皮だけの荒れ狂った毛並みと、ギラギラに光る眼。

 最も異形を成しているのが、その尻に付いている尾であった。

 一つ目は千切れ、二つ目は折れ曲がり、三つ目に至っては、尾と云うよりも真っ黒い影の様だ。しかも、先端が赤子の手に近い形をしている。

 そして何より気配がこの世のモノではなかった。

 猫のようなその生物は、そのぎらついた眼で高校生を睨み、威圧に近い気配をぶつけた。だが、彼は肝が据わっているのか、そ知らぬ様子で再び声を掛けた。

「また例の話、聞かせてくれよ。」

 怖気づく様子も無く、笑顔で屈託の無い目を向けてくる。小さく、三ツ又と呼ばれた猫のような生き物は、その高校生の態度に嘆息を吐いた。

『お前、オレが怖くないのか。』

「全然。」

 即答で返す。バカなのか、懐が広いのか、ただ鈍いだけなのか。

『………』

 この男の胸中にイマイチ付いて行けない三ツ又は、渋々重い口を開いた。




 その深き山の奥、底知れぬ谷の間、獣でもない、人間でもないモノ達が集うという─

 “”のモノ。それらはそう呼ばれていた。

 長い石段を登った先の暗き山林に、古びた観音堂がある。其処を棲みかにしている坊主がいた。

 奴は赤黒い腕をしていて華奢に見える細さの割りに、骨と皮の間は筋のみの見事な肉体をしていた。




「食ったら不味そうだな。」

 あはは、と声を上げて笑いながら高校生が横槍をいれた。三ツ又は不機嫌に口を結び、睨みを利かせる。

 だが、ふと思い出したように口を開いた。

『そう云えば、まだ貴様の名を訊いておらなんだな。』

「そうか? 俺はタクマだよ。ぬきんでると磨くで“擢磨タクマ”」

 名前負けしてるよな、と愉快げに笑う。そう云えば此奴の笑った顔した見て居らぬな、と三ツ又は眇めた眼で擢磨を見遣った。ちくりと、咽喉の奥に小骨が刺さったような不快感が胸を突く。

 再び三ツ又は語り譚を始めた。




 と云われるモノと渡り合っていた坊主は、老齢ながら総てが魅了される強者であった。

 その坊主も長く隠遁をしていて、人間なのか、モノなのか、モノの怪の内でも噂される位であったがな。

 オレが其処へ流れ着いたのは、女に憑依していた頃の、まだ精霊の明け切らぬ時節の事。

 響く鐘音と読経が木霊する、焚き臭い堂の中に奴は居た。


「漸く参られたか。」

 奴は護摩の火を背に、向き直って女を見た。その瞳は澄んでいて湧水の如く清らかに思えた。オレは女の背から奴を威嚇し、気を荒立たせた。少しでも有利に運ぼうと思ったからだ。

「今、解いて差し上げよう。」

 オレは身構えた。奴の気配…それは殺気に近いものだったからだ。瞬時消滅させられるとオレは思ったのだ。

『グギァァァァァァッッ』

 女の咽喉を使って声を張り上げる。全身を波立たせ、有らん限りに威嚇したものの、事も無げに奴はばっさりと女とオレを切り離した。

 モウ…ダメダ。オレはその時点で諦めた。だって力の差は歴然であったから。オレの手を離れ、地面に倒れ伏す女の身体を見遣りつつ、恐らく次に訪れるオレを消滅へと導く一閃を待ち構えて、眼をきつく閉じた。

 だが。

『……!!』

 来たのは違うものだった。顎を掴む手と濡れて口腔を這う肉厚な生物。それが奴の舌だと感づいて眼を開いた時には、オレを見射る奴の眼が間近にあった。

「女の人はどうなさるんですか、和尚。」

「構わん、捨て置け。」

 その内、己で行きたい方に進みよる。と身勝手に言い捨てる奴はそのままオレを押し倒し、思う存分吸い上げる。オレは横目で奴に声を掛けてきた人間を探し、見遣るとそこには十かそこらの男の子が立っていた。

 恐らくオレは、助けを請いたかったのやも知れぬ。だが小僧はオレを無視し、呆れた…いや、諦めた様子で女の体を堂の階段に凭せ掛け、座らせた。

 その間奴は空いているもう片方の手で、オレをまさぐり始めた。弄り…やがったっ。

 オレは奴の前に元来の姿を晒さざるを得なかった。この痩せた体と異形の、情け無い尾を。

「…小さいな。」

 ぼそりと言った奴の言に、オレは激怒した。激怒はしたが、奴との大きさの差は歴然…どうしようもない。それでも口惜しくて悔しくて、オレは奴の顔に小さなこの手を何度もぶつけた。

 奴にしてみれば、屁でもない事だろうに。

「止めよ、痛いぞ。」

 そこには悔悟する奴の沈んだ眸があった。何故だ? 疑問がオレの心を覆い、迷妄させる。

 と同時にオレはその眸の美しさに不覚にも見蕩れてしまい、持ち上げた手のやり場を忘れてだらりと垂らした。

「済まなんだな、赦せ。」

 そう言ってオレを床に下ろし、頭を撫でる。その手がとても大きく、そして優しかった。嘗てオレが普通に獣として暮らしていた頃の、あの手によく似ていた。

『止めろ、』

 想い出すと哀しくなる。オレは俯き、啼いた。




 其処まで話し、三ツ又は俯いた。照れ隠しに見えるかも知れないが、三ツ又には想い出した事が辛かった。獣の自分とのモノの自分。あそこに居た時には散々悪態を吐いていたと言うのに、いざ離れてみると寂しい、そう思う己が厭に思えた。

「三ツ又、食うか?」

 目の前に差し出された干物の切れ端。鼻腔を擽る良い香りがする。烏賊だろうか、の。

 何の脈絡もなく差し出された干物を口に含み、沁み渡るその味に三ツ又の眸から雫が零れる。

「スルメ食って泣く奴なんて初めて見たぜぃ。」

 ケラケラと笑いながら、擢磨も手にした袋からスルメを取り出し、己が口にも運ぶ。

『笑うなっ、オレだって感傷に浸る事位あるわっ』

 慌てて論を返す三ツ又に、擢磨は微笑んで優しい眸を向ける。その眼差しがあの記憶に残る奴の眸と重なった。どく、と胸が高鳴る三ツ又の眼は目一杯に開かれる。

「目ん玉落とすなよ。」

 にまっと少年の笑顔が眩しく光る。三つ目の尾でその後頭部を叩き倒し、そっぽを向いて残るスルメをがしがしと食べた。




 憑かれるには憑かれるだけの理由がある。

「別に隙を見せるからだけではあらぬ、其の者も呼んで居るのじゃ。」

 妖、を。

 冷淡な眼差しを向ける奴は、飯をかっ喰らいながら宣うた。

「おかわり。」

 ずい、と差し出される髑髏しゃれこうべを前に度肝を抜かれる事無く、極自然にそれを受け取る。上下を返された髑髏はその脳味噌が詰まっていただろう中に、飯を嫌程詰められた。

「何時になったら、下る?」

 飯を装うて貰いながら、弟子であろう小僧へ無下に問うた。小僧も心得て坊主の言葉をさらりと聞き流す。

「はい。和尚様。」

「うむ。」

 極当たり前の如く逆さ髑髏を受け取る。飯を再び口の中へかっ喰らうのを確認して、にこやかに小僧が厭味を言った。

「第一、私が居なくなりましたら、ここの炊事洗濯掃除に草引き修理に水汲み繕い物他諸々、誰がなさるんですか。」

「なんとかなるわい。」

「食事はどうなさるんですかっ、」

「霞でも食うておる。」

 押し問答である。しかも小僧の側からすれば暖簾に腕押し、であろう。


「どうした、ぬしも食わんか。」

 面妖なな押し問答を繰り広げる坊主と小僧を前に、オレは食わずに居た。

 一応は皿代わりの朴の葉に飯を盛られている。だが、食う気はしなかった。

 何せ食料が人里から運び込まれている節は無く、此処で耕す様な場所も無い。ついでに云えば、水も何処から持ってきているのか、それすら謎だ。

 刻が止まったに等しいこの場所で、在るのはのモノと骸と暗い杜だけ。

 第一、オレはのモノだ。飯なぞ食えるか。

「食うてみよ、旨いぞ。」

 先の削れた白い箸を鳴らし、それ、と勧める。弱っていたか、先がぽきりと折れた。

「無駄に折らないでください。丞臣すけおみ様が御可哀相です。」

「この位で文句は言わんわ、奴ならば。のう丞臣。」

 手にしている髑髏に話しかける。つまりは友の頭を飯の椀にしている、と。

 余計に頭を抱え、オレはその場に蹲った。

「何を悩む?」

「和尚様の丞臣様に対する扱いが酷いからですよ。」

 横から小僧が口を挟んだ。

「残る身体うつわは好きにしてよい、との約束じゃぞ。」

 オレの聞耳を見て、奴が補足をする。奉るよりもこうして役立つ方が、彼奴も喜ぶでな。と。

 何事もこだわらぬ姿は、ある意味羨ましく思えた。






 譚語りを紡ぐ三ツ又の隣に座って、擢磨は空を仰いだ。

丞臣すけおみって誰だろう。」

 聴く気があるのかどうかわからない、暢気な態度に、正直三ツ又は頭にきた。話を請うたのは擢磨コイツである。

「なんかすんげー、デカイよな。」

 何を謂わんとしているのか。三ツ又は擢磨の胸中を図りかねた。見上げる空には鯨雲がどんと浮かんでいる。ひょっとしてこの雲の事を言っているのか、と勘繰りたくなる三ツ又は、暫し言葉を留め置いた。

「なんだ、まさかあのでっかい魚が食えないかって思っているとか。」

 ガキみたいに笑う擢磨に、真剣に表情にも嫌気が出る。あからさまな三ツ又の態度を見て、ゴメンゴメン、と擢磨は謝った。

「なあ、そのじさまの活躍、もっと派手なのは無いのかよ。」

 “じさま”。坊主のことをと言っているのだろうか。コイツにとっては案外身近な存在に思えるのかもしれんな。三ツ又は、こんな己ですら容易に受け入れた擢磨の変人ぶりを思うと、そんな風に感じられ、少し機嫌を良くした。






 最も難儀したのは、化け狐を相手にした時だろうか。

 いや、般若より変化し蛇姫を相手にした時だろうか。

 どんな相手の時であれ、奴はその相貌に微笑を浮かべ相対していた気がする。


「丞臣。」

 くるりと向きを変え、骸骨がのモノを拘束する。死霊と混在していた繋ぎ目をばっさりと奴が斬り、両者が分かれのを見て、すかさず奴は魂を彼岸へ送った。

 オレは小僧の傍で奴の描いた結界内より、小僧と共に一部始終を見学していた。

「待たせたの。」

 角の生えた稚児を骸骨から受け取った奴は、震えている小鬼の背を撫で優しくあやした。余程怖かったのか泣きじゃくる小鬼は、ポカスカと奴の肩を叩く。

「放せ、ワレソチが厭じゃ。」

 食ろうてやる、と喚き散らし、駄々を捏ねる小鬼に奴は意地の悪い笑みを浮かべて宣うた。

「なら、食うてみるか。」

 その桃色の愛らしい唇に、なんと己が口を合わせた。んーんー、と口を塞がれて空中で地団駄を踏む小鬼の姿は、稚児が老爺に悪戯をされている様で、少しばかり胸糞悪い。


 骸骨は一仕事を終えたと言わんばかりに、大きく伸びをし、その後ガラガラと音を立ててその場に崩れた。

「お疲れ様です。」

 丁寧に骨の山に一礼をし、小僧が一本ずつ片づけをしている間、オレは奴と小鬼の痴態を肴に大きな欠伸をした。こんな時ばかりはつくづく猫の姿で良かったと安堵したものだ。

 ひとしきり互いの気の混じり合わせが済むと、奴は顔を離して小鬼を床へと下ろした。顔を真っ赤にした小鬼は、変わらず厭じゃ厭じゃとべそを掻き、オレは埃を払った床の上で一伸びした。


 高だか口を合わせた位でそう喚くか、と半ば呆れつつ、鬱陶しい小鬼を眇めて見ていたが、様相が一変したのはその直後だった。

 小鬼はその稚児の殻を脱いだ。

『厭ジャ厭ジャ、爺ナンゾニ好キニサセテタマルカ!!』

 青黒い皮膚に剛毛の生えた腕。筋骨隆々とした肉体。背丈は堂の天井を突く勢いで伸び、そして耳まで裂ける程に歪んだ口から、鋭い歯牙がはみ出している。角はその額にそそり立っていた。

 鬼からすれば、腹に据えかねたのだろう。それともう一つ、奴の霊力に目が眩んだのかも知れぬ。

 鬼の剛腕が凄まじい勢いで奴に振り下ろされる。咄嗟に声も出せず、逃げ惑う事も出来ぬオレ達を涼しげに眺めつつ、奴は微動だにしなかった。

「縛」

 たった一言。何時の間に他の真言を唱えていたのか、〆の呪言に鬼はその動きを止めた。

「ちと悪戯が過ぎるわい。」

 幼児を叱る様に少し強面をつくり、鬼の額を指で弾く。その一動作で鬼が溜めていた襲気を、奴は体外へ逃した。

『痛い痛い』

 ひぃひぃ言いながら、普通の人間の大きさにまで収まった鬼は、転げまわりながら嘆いた。膚の青さも角の大きさも筋肉質の身体も変わりはしないが、奴には遠く及ばぬ風に見える。

「全く、だらしないのう。そら、もう泣くでない。」

 奴は再度、鬼に口付けた。何度ああやって気を交わしたのだろう、どれ程ののモノと気を混じり合わせたのだろう。ふとそれを考えて、オレは厭な気に囚われて、そっぽを向き見ないふりをした。




「派手か? それ。」

 苦笑いを浮かべ、擢磨が問い返した。

『仕方なかろ、いつも一瞬で終わってしまうのだから。』

 三ツ又はそっぽを向き、少し拗ねた表情をみせた。それでも尾が擢磨の腕にじゃれ懐く。

 何故だか心地良かったのだ、三ツ又には。傍に居る“擢磨”という存在が。

『奴とは、古い付き合いだったからな。』

 少し遠い目で懐かしむように、三ツ又は思い返した。

「俺の高祖父ひいひいじいさまは、そんなに魅力的だった、のか。」

 残ったスルメを銜え、奥歯でしがみつつ擢磨はさらりと言い流した。三ツ又は尾を腕に絡ませて、擢磨に寄り添う。

「なあ。三ツ又はじさまの事好きだったのかよ。」

 答えはない。代わりに三ツ又は遠く空を見上げた。




 慰みにもならぬ、ちっぽけなオレの身体。それでも奴は、微笑を浮かべて愛しげに愛撫を重ねる。オレは奴に身体を預けた。

『なぁ、何故オレなんかを愛でる。』

 痩せっぽちの、ごわついた毛並みの、みすぼらしいオレ。

「ぬしは美しい。儂の眼にはそう見える。」

 分からない。だが奴はいつもそう言っていた。

 “穢らわしい”は美しい、“美しい”は浅ましい、と。

「丞臣も見事な美しさよの。肉を脱いでますます磨きがかかったわい。」

 骨だけの相棒に称賛の美句を並べる。その髑髏の内側に飯がこびり付いているのを考えると、何とも形容しがたい気に駆られるが。


 此処には完全なモノ等何も無い。在るのはいつも、獣から反れ、人間から外れた、歪んだかたちの魂たち。

 それでもオレは…奴の言う通りなのかもしれない。オレは、こんなオレを愛しむ奴の存在が美しい、と思う。切ない程に、狂おしい程に。


 奴の肉厚い舌がオレの小さな口腔を埋めた。苦しいが中で蠢く舌が気持ち良くて、なすがままにオレは力を抜いた。

「ちと趣に欠けるかな。ぬしも苦しかろうて。」

 そう言うと、自ら唇を食い破り、オレにその赤い汁を飲ませた。波打つ心の臓に合わせて気の勢いが身体中を廻り巡る。震えてどうにかなりそうになり、オレは三つ目の尾で奴の腕にしがみ付いた。


 化けの皮が破れる音が、観音堂に響いた。毛の薄い肌が奴の懐の下で露わになる。オレは気恥ずかしさに顔を奴の胸に埋めた。

『フー、』

 必死で呼吸を整え、暴れる血脈を宥める。オレは奴の胸の中で、変容した己が手を見つめた。

 奴と同じ、大きい手。それが何だか不思議で嬉しい。

 触れるか触れないかで、奴の手がオレの初な身体をそろりと撫でていくのが分かった。オレはそのこそばゆい感覚に尾の毛を逆立てた。

『ふぎゃっ…』

 丹念にオレの尾も一つ一つ愛撫していく。千切れた尾も折れ曲がった尾も、黒い小手の指の間まで。

 ああ、温かい。触れられる事がこんなにも安らぐなんて、オレは今まで知らなかった。

 触れて欲しかったのだ。誰にも見向きもされない、己が存在に。




「なあ、三ツ又。おい、三ツ又って。」

 擢磨の声に、ふと三ツ又は我に返った。何かを思い付いた様な顔で、擢磨が覗き込む。

「な、三ツ又。一応人間の姿になる事も出来るんだろ。」

 何処かで言ってくると思っていたが、やはり来たか。三ツ又はフーと息を吐いて言った。

『今はもう無理だな。力が足りん。』

「其処を何とか、やっぱダメ?」

 上目遣いに強請る擢磨を横目に、またもフー、と息を吐く。モノは試してみるものだが、さて、と三ツ又は少し思案を重ねる。

『お前の霊力があれば、出来るやも知れんが。どうする。』

 試す様に訊ねる三ツ又に、一も二も無くすぐさま、キスでもすればいいのか?と逆に尋ね返された。

「あ、もしかして俺の血も入れた方がいいの?」

 警戒する、という言葉を知らんのか、こやつ。呆れながらも、三ツ又は擢磨の腕に飛び乗った。肩に手を掛け、ゆるりと顔を近付ける。

「ふあっ…」

 むず痒そうに擢磨が顔を歪めたが、気にせずにそのまま小さな舌を口の中へと滑り込ませた。

 そして。

『…からきし、だな。』

 ふぇくしょん、と派手にくしゃみをしつつ離れた三ツ又を目で追う擢磨を振り返り、ぼそりと呟いた。

「ひでーな。」

 笑顔で返しつつも、落ち込む擢磨の眼が気に掛かる。三ツ又はフー、と息を吐いた。

『…一瞬だけなら、可能かもしれん。』

 言ってから、随分無責任な言を吐いたと、自嘲した。あの時でさえ奴の力が無ければ無理であったというのに。擢磨の輝く期待に満ちた瞳に押され、致し方無く、三ツ又はその皮を脱いだ。



『のう、三ツ又、ぬしは…ぬしの魂は美しいぞよ。』

 囁く声が。奴の声が染み入る程痛くて、オレは何度も啼いた。



 元のちっぽけな姿に戻った三ツ又に、暫し惚けた視線を向けていた擢磨が、我に返って言う。

「やっぱ俺、じさまの血引いてるわ。」

 豪快に笑い声をあげる擢磨を怪訝に見詰める三ツ又。霊力もからきし無く、術式もそれにまつわる要素の欠片もないコヤツが、何処をどう捉えたらそういう結論に行き着くのか。

 ひとしきり笑い転げた後、不意に思い出したように擢磨は言った。

「俺さ、好きな奴いるんだ。」

 突拍子もない事を言い出す。寧ろこの脈絡の無さが奴と似ているかもしれんな。と一人ごちに三ツ又は納得した。

「名前は“ヨシワラアサミ”って言うんだ。」

「可愛い名だな。美人か?」

 三ツ又の問い掛けに躊躇う事無く頷いた。

「さぁーて、じゃ帰るかな。」

 立ち上がって伸びをし、塀の上から飛び降りた擢磨を三ツ又は見送る。擢磨は坂ノ下にいる友人らしき同級生に手を振って声をかけた。

「おーい、あさみぃ。」

 相手も手を振る。遠目ながら、三ツ又はその同級生とやらの姿をはっきりと捉えた。

 そういえば、何処ぞで見た覚えがあるな。

 記憶を手繰り寄せ、奴と身を共にしたあの時だと行き着き、納得する。

 あの、人化した時に鏡とやらに写っていた、奴の懐に抱かれいた者の姿だと、漸く三ツ又は気付いた。


 フハハハハハハ。気がつけば声を出して笑っていた。


「なあ、三ツ又っ」

 大きな声で擢磨が叫ぶ。

「また聞かせてくれよなっ」

『おう。』

 聴こえたかどうかは知らないが、その黒い手を精一杯伸ばして振った。三ツ又は歩き出した二人を見送ると、己も元の路地裏へと還っていった。

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