夜: 橋の上の戦い [リーゼリッヒ・ヴォルフハルト]

 風一つ無い、虫の鳴声一つ無い夜の町を歩く。

 私達の頭上に踊る四つの明かりが、ゆらゆらと揺らめきながら周囲を照らす。

 カシャリカシャリと、鎧の擦れる金属音が聞こえる。

 先程の橋を渡ってから、私達四人の口数は極端に少なくなっていた。


東雲しののめ、お前本当に恩寵が何も無いのか?』


 国司殿の確認にも、再度頷いて肯定の意を彼は示した。

 東雲しののめはじめ——学園のクラスメイトであり、喧嘩に巻き込み怪我をさせてしまった人物であり、決闘の立ち会い人であり、そして今夜から夜間警備を共にする同僚である。

 恩寵を持たない人物など聞いたことも、見たこともない。

 それは日鉢殿も国司殿も同じだったらしく、四人で歩きながら、と言うより警備を開始してからその話題で持ち切りだった。

 さぼっていた訳ではない。夜の鐘が九時を告げる頃にはもう、外には誰も出歩いていなかった。

 お二人に聞いたところ、夜十時以降の外出禁止はもう習慣化されているらしく、島に住む人間は九時にはもう家にいるのだそうだ。

 私達は無人となった夜の町並みをゆっくり歩きながら、ああでもない、こうでもない、と萌の恩寵について議論を交わしていた。

 当の本人はと言うと——私達の会話に反応して、顔をむにっとしたかと思えば、キリッとしたり、ふにゃぁと笑ったり、う〜んと困ったり、日鉢殿に触られて顔を赤らめたり、国司殿の話を真剣な顔で頷いたりと、表情の変化は忙しいことこの上ない。

 私の国と同様に、この国においても、恩寵の優良性や希少性を判定する機会はあるそうだ。

 萌曰く——と言っても彼は喋っていないので、私達の問いに頷いたり首を振ったりした結果なのだが、そこで<何も無し>と判断されたらしい。

 ならば、<無効化キャンセラー>や<虚無顕現ブラックホール>と言った希少性が高く、判定が難しいものかと言うと、そうではないとのこと。

 例えば<無効化>の恩寵者なら、『恩寵の有無を調べる』と言う行為を無効化し、<何も無い>とする結果が得られることがある。だが、『恩寵の有無を調べる行為』への『恩寵の行使』を調べれば、<無効化>の恩寵を使ったのだから、『恩寵行使の形跡あり』となる(それすらも無効化できる者もいると言う説もあるが)。萌の場合、それすらもなかったそうだ。

 どうも、『何も無いと言うより、まるでだ』と断定されたそうだ。

 それは確かに、あの時、校庭で<見て>しまった彼の恩寵にピッタリの表現だ。

 日鉢殿と国司殿から聞いたところ、この国でも恩寵の優劣によって、どのような人生を送るか、いやが決まってしまうようだ。

 意図せずして他人に害を与えてしまうもの、特定の怪異との決戦に有効であると判断されたもの、希少性が高いもの——そんな優れた恩寵の所持者は、国の機関や特殊な学園が引き取り、専門的な教育を施すのだそうだ。

 私が育った欧州圏では、教会、国家、騎士団などがそのような恩寵者の育成にあたっているが、日本では国が一手に引き受けているのだそうだ。

 その意味で私が入学させて貰った鳥上学園はどうかと言えば、

『上と下の両極端かなぁ? ウチの学園は』

 とは日鉢殿の言葉だ。

『ほらさ、昇武祭があるでしょ? アレでここで練成した武器をタダであげちゃうもんだからさ、高貴な血筋のお偉いさん家の跡取り息子さんとか結構いたりするのよ。それにほら、<八岐大蛇>を倒したとこなんだし、血気盛んなお家の子供とかも、ね』

 恩寵が発現するようになってから千数百年——血統と恩寵の因果関係について疑問を持つ者は少ないだろう。すなわち、優れた恩寵は優れた血統から生まれる。

 本来は全く逆で、似たような恩寵を持つ者同士の子供は親と同じ恩寵を持つ傾向が高い、と言うものだったと聞く。

 優れた恩寵者同士が婚姻を結び子を成す。そして子は親同様優れた恩寵を持ち、他の優れた恩寵者を配偶者とする。

 何代も何代もそれを繰り返し、出来上がったのが優良恩寵者を輩出する一族だ。

 貴族、王族、華族、枢機卿団、職人集団、特権階級、支配階級、呼び名は場所によって様々だが、そうした血族が力を持ち暗黙のうちに歴然たる階級・格差社会を築き上げている。

 怪異と言う脅威がある以上、生まれ持った恩寵で人間としての優劣が決まってしまう。

 とても——悲しいことであるが……。

『ま、だからってお偉いさん方の子達ばっかじゃないけどねー』

 それに拍車をかけているのが、恩寵兵装の存在だ。

 何ぶん練成するのに必要な幻想鉱石を採掘できる鉱脈は限られている。

 この国の代表的な恩寵兵装『日本刀』を例に取ろう。

 誰でも扱える『数打かずうち』や『雑打ざつうち』と呼ばれる一般的な『日本刀』であれば、必要とする鉱石量も少なく、練成に必要な鍛冶職人達のレベルも低い。

 だがこれが『真打しんうち』となると、必要とする鉱石量、職人集団のレベル、そして何より増幅される力の桁が段違いだ。

 その『真打』を『優良恩寵者一族』が扱うことで、怪異に対抗する力となる。その他大勢の(彼等が言うところの)はその恩恵と庇護の元で生活できると言う訳だ。

 曰く、『誰のお陰でお前らは生きていられると思っているんだ?』と言うことだ。

 もっとも……それでやっと、人間と怪異のパワーバランスをようやくこちら側に傾けられるかどうか、と言うレベルなのだが……。

『で、も、さ。東雲クンみたいな、可愛い子もいる訳じゃ〜ん? ほれほれ〜うりうりー』

『〜〜!!』

『日鉢殿……』

『もーリーゼちゃん、そんなずぃぃーって怖い顔寄せない。美人さんが台無しじゃない。あ、もしかして東雲クンいじり一緒にしたのかしら?』

『日鉢殿、我々は職務中ですよ』

『いやーん、それもこれもお姉サンなりの緊張のほぐし方ってやつ?』

『東雲、これが大人社会の可愛がりって奴だ。せつねぇだろ? 上司の俺に相談してくれたらこいつをクビにできっから。おう、頼むぞ』

『せめて訓告どまりですって。そんな性格だから四十路よそじになってもお嫁さん見つかんないんですよ』

『俺は三十代だ。四十じゃねえ!』

『その面構えと髪型じゃ誰だって四十越えてると思いますって』

『うっるせぇーなぁ、畜生! 髪は関係ねぇだろ! 髪は!!』

『東雲クーン? リーゼちゃ〜ん? 二人は巌サンのこと何歳位だと思った?』

『私は——幾多の戦場を経験された歴戦の戦士とお見受けしました』

『つまりオジサマって訳ね、ふんふん』

『なぁ東雲、お前は俺のこと二十歳ぐらいだと思ってるよな、な? な?』

『——!?』

『巌サン、何脅迫してるんですか……。流石の私もそれにはドン引きです』

 そんな私達の会話も、『橋』を渡る度に段々と少なくなっていった。

 この島には大小様々な河川が流れており、川を渡るために必要な橋が多くある。

 大きな川で分けられた区画毎に呼び名をつけているそうだが、残念ながら私にはまだその名前と場所が完全に一致していない。

 私達が橋を渡る先は、八個ある区画の中で『廃墟』と分類されているところだ。ここを警備巡回するのが今夜の私達の主な任務だ。

 任務の前に、もう少し萌の恩寵についてお二人の意見を聞きたかった。ただ……話題が話題なだけにおいそれと聞けるものではない。

『人は皆、生まれながらにして平等である』

 そうなのだ。例え、我々人間が恩寵と言う異能の力に目覚めようと、『人は皆、生まれてくる』のは、誰しも平等だ。

 特権階級や優秀とされる血族は存在する。だが、彼等とて必ずしも一族が受け継いでいる恩寵が発現するとは限らない。ただその可能性が高いだけなのだ。

 もし、一族の恩寵が発現しなかった場合、その場で縁を切られ教会へ捨てられてしまったり、殺められる子も存在する。その子を生んだ母親に責を求めて離縁、もしくは殺害する血族も存在するのだ。

 私はこの『目』のお陰で、教会へ預けられ、あの雪の夜を経験できた。だからこそこの国にいる。あの人に会うまでは、他人の恩寵を妬んだり、羨んだりしたこともあった。けど今はこの『目』を持てたことを誇りに思う。

<何も無い>と判断された彼は、一体どんな道を歩いてきたのだろうか?

 いや、歩まなければいけなかったのだろうか?

 隣を歩く彼の横顔をこっそりと見る。穏やかな表情だ。出会って一日も経っていないが、私の中では彼は良くこんな顔をしているように思う。

 一体、彼は何を思うのだろうか? 羨むのか、妬むのか……。それともただ達観しているだけなのか。彼は何を思い、生きていこうとするのだろうか。

 ただ——……いや、止めておこう。今は任務に集中しなければ。


「そろそろ区切りの橋だ。気ィ引き締めろ」

 大きな石灯籠の明かりが遠く前方に見える。

 橋の両端、親柱が大きな石灯籠となっているアーチ型の石橋だ。灯籠の明かりが橋のこちら側と向こう側の景色を照らす。

 全長は長くないが幅のある石橋だ。下を流れる川へは高さがある。

 両岸には白い陣羽織を着た警備の者が二人ずつ立っており、計四名でここの橋を守っていた。

「伍係、国司以下四名到着した」

「ご苦労。予定より遅れているぞ。何処で油を売っていた?」

「そいつは悪かった。新人達に仕事の仕方を教え込んでたもんでね」

「そんなことは言い訳にならん。さっさと仕事に行け」

 敵意すら混じった言葉を投げられ、私達四人は無言のまま橋を渡る。

 水の流れる涼やかな音が、石橋を歩く音に混じって聞こえてきた。

 橋を渡り終え、

「伍係、国司以下四名、これより警備を開始する」

 逆側の岸にいる者達に国司殿が声を掛けるも、返事は無い。彼らは鋭く、汚いものを見るような侮蔑の色が混じった視線を返すだけだ。

 国司殿と日鉢殿はそんな彼等の反応には気にした様子も無く、歩く。私と萌は従うだけだ。

 周囲を警戒しているのが伝わってくる。先程までとはお二人の纏う雰囲気が違う。

『廃墟』の区画——八つの区画中で、北西部に位置し、かつては位の高い者達の居住区であったそうだが、今は誰も住んでおらず、更地と無人の屋敷が点在し、その奥に広大な森林があると聞いた。

 所々にぽつりぽつりと灯籠が並んでおり、明かりが灯っている。全くの闇ではない。

 寂しいところではあるが、小規模な模擬戦闘訓練ができそうな空き地もある。

「ここらの屋敷はね、住んでる人がいないだけで、掃除とか草刈りは定期的にやってる人がいるのよ」

「主不在の屋敷、と言うことですか?」

「そ」

 短く答えた日鉢殿は、鋭い目つきで周囲をゆっくりと見渡している。

 左手には黒い大弓を携えており、敵を射る体勢を取っている。矢が何処にも見えないのを除けば、得物を狙う狩人のようだ。

「不在、って言うか神隠しにあっちゃってね」

 神隠し——確かそれは……

「突然いなくなったのですか?」

 人が理由もなく突然いなくなることを意味する慣用句のはず。

「そ」

「もしや……怪異の襲撃ですか?」

「いいえ。それが違うのよね〜」

 日鉢殿が私に顔を向けニヤリと笑う。

「あいつらの場合だと残り香で分かるのよ。結構多いのよ、この町。突然いなくなる人って」

 思わず口を開きかけた私を、

「おい、そこまでだ。裏手に回るぞ」

 短槍の鞘を払った国司殿が、低い声で制した。


『奴らが出るとしたらここだ、ケツの穴をしっかり締めとけ』

 国司殿のこの言葉を最後に私達の間から会話が消えた。

 裏手には草むらが広がっており、その奥は森となっている。

 日鉢殿が、宙にある明かりを二つに分裂させる。一つは草むらを歩く私達を照らし、もう一つは木々の間の宙をゆらりゆらりと漂う。夜の森の闇が日鉢殿の明かりで少しだけ顔を表す。

 静かだ。

 私達が草を踏む音と、鎧の擦れる音しか聞こえない。風の音も、虫の鳴声も無い。

 歩いている内に気付いた。先頭に立つ国司殿は前方の草むらを特に注視しており、その後ろを歩く日鉢殿が横手の森を警戒している。

 警戒する範囲を分担しているのか。ならば我々にもそう指示を出して貰いたいものだが、私達では役不足ととられたのかも知れない。

 隣を歩く萌に手で合図を送り、彼には森と逆側の空き屋敷側を見てくれと指示を出す。四つの範囲の中では最も危険度は低い。

 彼は私と、前を歩く二人を見てから、少しの間考え込んでいたが、私に頷いてみせた。

 さて、私は後方を受け持つとしよう。


 だが、

「晴れてて雲も風もなけりゃこんなもんか」

 何事もなく終わってしまった。

 二往復ほど巡回のルートを回ったが、何事もなく、何も起こらなかった。

 空き屋敷群を再度見回り、橋への帰路へつく。

「天気が悪いと出るからな。今夜はこんなもんだろ」

 星がよく見える晴れた夜空だ。虫の鳴声が聞こえないのが気になるが、国司殿の言う通り『悪天候時に出現する』のなら、今日のような夜は何事も起こるまい。

 怪異が出ないことは喜ばしいことであるが、いささか拍子抜けしたと言っては嘘になってしまうか。

「やっぱり平穏無事が一番よね〜。ね、二人もそう思うでしょ?」

「〜〜!?」

「日鉢殿……どさくさに紛れ、萌の何処をお触りですか?」

「いやん。お姉サンに全部言わす気?」

「次は橋番だ。やるならそこで——……」

「どうしたんですか、巌サ——……」

「? お二人と——……」

 国司殿が、日鉢殿が、私が、言いかけた言葉を、最後まで紡げない。

 背負った両手大剣が微かに震え出す。冷気が鞘から溢れ出し、私の巡礼服を通し、肉体へ伝わってくる。

「っと!」

「えっ!?」

「なっ!?」

 遠く、島の出入り口の関所の塔の方角から、何かとてつもない存在が出現した。圧倒的な何かだ、が——これは怪異ではない!? 恐らくは、恩寵兵装の『展開』、いや『解放』か! だが、この威圧感は一体何なのだ!?

 違う。暴ではなく聖! 狂ではなく貴! 威圧と言うよりは圧倒だ!

「急ぐぞ!」

 国司殿が掛け声を発するよりも早く、自ら先頭を切って走り出す。

 私は後に続きながら、眼鏡を外し<見る>べきかどうか迷っていた。

 入口の関所へは視界が通らない。高い建物に登れば何とかなるが、廃墟の区画にも、橋までの道にもそのような高さのある建造物は無かった。

 まずは、橋のところの者達と合流するのが先決か!

「!」

 薄らと雲のようなものが上がっている!

 私は意を決し、眼鏡を素早く外すと——


 文字が、私の視界全てを埋め尽くした。


 大小様々な形状の文字が、己の存在を私に主張する。

 空の色素成分、空気の構成物質とその比率、建造物の成分・施行主や建築日——私の視界内に存在する見えるはずのない情報が目に飛び込んでくる。

 これが私の恩寵<強制視>だ。平たく言えば『ありとあらゆる情報を可視化する』恩寵だ。

 その結果がこれだ。ありさえすれば、目に見えるはずのない知り得ない情報ですら、全て見させられてしまう。世界は何と雑音に溢れていることか。

 走りながら呼吸を整える。恩寵は振り回されるものではない、扱うものだ。情報が溢れるのなら、私がそれをコントロールすれば良いだけのこと!

 人の意識は不思議だ。普段、地を歩く蟻など誰も気にもとめない。恐らくは視界の端にほんの微かになのだろう。だが意識しなければ見えない。蟻を見ようとする意志を持ち、注視すべき場所を特定し、目を凝らして、やっと見えるのだ。

 私がすべきはコントロールだ。私が見るべきもの、見たいと欲するもの、見なければいけなくてそこに確かにあるもの、それだけを見るべく己の意識と精神を集中させる!

 鈍い痛みと共に、私の視界が段々とクリアになっていく。頭痛は情報の取捨選択の代償だ。未熟な私では完璧に肉体へ恩寵を適用させることができていない。脳が許容範囲以上の労働に堪えきれずに悲鳴を上げている。

 大豪寺との決闘で使い過ぎたツケがここにきて襲ってくる。

 遠方に上がるあの煙は——

「巌サン! 狼煙のろしです!」

「チィ! あの色は、」

「外界との閉鎖隔絶の実行、各地守護の発動、そして緊急対応事案脅威度よんの発生、ですね」

「オイ!? お前何で——っとなるほど、それがお前さんの<強制視>って奴か」

「呼び子の笛も鳴っています。関所が何者かに襲撃されているようです」

「えっ、呼び子の笛!? 聞こえます巌サン?」

「ここまでは届いていません。私にはのです」

「へぇ!」

「しかも、この音は……可聴音ではありません。笛同士にのみ伝わる振動のようです」

「その鳴らし方なら敵さんは怪異じゃねぇ。人間だ」

 クソッタレが、と舌打ちと共に国司殿が吐き捨てる。

「うっそ! まさか外町の駐屯軍でも攻めてきたんですか!?」

「それならせいぜい『参』止まりだ。『肆』ってことはよほどやべえってことだ」

 前を走る二人の速度が上がる。学生のお守りをしている暇はない事態、か。

 隣を走る萌を。彼は私に力強く頷き、二人に遅れまいと速度を上げる。彼の走るフォームから分かる情報が『目』を通して脳へと送られる。

 地面を蹴る脚力、鎧の下に着た服から分かる胸の上下運動幅の数値、慣れない装備及び重量での運動能力の変動値、顔の表情筋の動作状況、首の筋肉から分かる脈拍数——全ての情報より推測する、無理をしている、が、現在地から橋までの距離を考えればギリギリ持つ!

 眼鏡をかけ、運動中に揺れないよう懐から取り出した糸で縛る。

 肉体と恩寵、二つを同時に行使するのが怪異と対決する戦士に求められる必要最低条件だ。両立させようとすると悲鳴を上げる我が身の未熟さが恨めしい。だが、今は己の無力さを嘆いている時ではない!

 前を走る二人に遅れまいと、両足を車輪の如く動かし、地面を蹴り続ける。

 隣を走る萌の肩が上下に大きく動いている。そろそろ限界なのだろう。だがあの角を曲がれば橋が目視できる。

「おい、お前達!」

 私達がやってくるのを待ちかねていたのか、角を曲がると橋を警護していた者達から声がかかる。

「緊急事態だ! 我ら四人はこれより本部に戻り対策班へと回る! この橋の警護は貴様らに任せた!」

 我々が橋まで来るのも、返事すら待たずに、彼ら四人は踵を返して夜の闇へ消えていった。

「おい、二人とも、こっち側まで走りきれ」

「はい。大丈夫か、萌? もう少しだ。しっかりしろ」

 先に橋を渡り終わった国司殿が、私達にもそちら側に来るように促す。

「でかいことが起きてるみたいだ。が、まずは深呼吸しろ」

 大きく息を吸い、ゆっくりと吐く。走ったことによって乱れた呼吸を整える。

 隣では、肩で息をしながら萌が深呼吸をしている。ゼイゼイと息を切らす声は聞こえてこないが、<強制視>を使わずともその動作を見ただけで音が聞こえてきそうではある。

「いいか、俺らの仕事は簡単だ。この橋を守る、それだけだ」

 初めて会った時同様、国司殿の指示は極めて簡素だ。

「知ってるかも知れんが、この島には<存在強化>っつぅ結界が張られてる。平たく言えば、門を通らないと先には進めねえってことだ」

 短槍の石突きで地面をコンコンと叩く。

「普段は島の外周と、外町との連絡門ぐらいにしかかかってないんだがな。緊急時には島にある『橋』にもかかることになってる」

 狼煙が上がったってことはそう言うこった、と付け加える。

「区域を行き来するには橋を通るしかなくなるからな。要所を押さえて敵を通さず逃がさずって寸法よ」

「関所から私達のいる橋まで距離がありますが、襲撃者はこちらまで来ると?」

「知らん。かもな。この先の空き屋敷にお宝が埋まってるとは思えん。入居希望者にしちゃかなりの派手好きだな。憶測、推測、妄想は自由だ。したければ勝手にしろ。だが、ビビるな。腹でしっかりと呼吸しろ」

 国司殿の拳が、萌の胴鎧へ押し込まれる。

「呼吸は肩で浅くするな、腹で深くだ。てめぇの頭で考えて、今の状況を判断しろ。恐怖に囚われて自分を見失ったら終わりだ。どんな雑魚にもぶっ殺される」

 国司殿が私達の目を交互に覗き込みながら、私達を落ち着かせるようにあくまで冷静に声をかける。

「俺は怪異共がこないかが心配だ。この先には誰もいないが、俺らの後ろには守るべき人間がいることを忘れるな」

「関所での戦闘に呼応して出現すると?」

「うー〜ん。そんな記録はないはずだけど、アイツらのことだから可能性はゼロって言い切れないわね」

 この橋を守るのが俺らの仕事だ、と国司殿は私達二人に念を押す。

「どんな小さいことでもいい、自分にできることをしろ。それぞれが仕事を全うする。関所を守る奴、応援に行く奴、怪我人を手当てする奴、敵を追跡する奴、通さねえ奴、監視する奴、色々だ」

 言葉を区切り、大きくふぅー、と国司殿が息を吐いた。


「安心しろ。敵は全員、俺が潰す。お前らは黙ってそこで見てろ」


 その気迫に、思わず息を飲む。

 その言葉には、覚悟と誇りと力を持ち合わせた戦士のみが込められる凄みがあった。

「あのー巌サン? 忘れられてるみたいなんで言っときますけど、私もいるんですけどぉ?」

「いたのか。てっきりブルって便所にでも逃げ込んだかと思ったがな」

「あ〜ら、残念でした。こっわーい人が上司なもので。お給料分はキッチリ働きますよ、キッチリと」

 二人の軽口は相変わらずだ。

 さて、私はどうするか。

 高所に登り、<強制視>で状況を把握すべきだろうか? 何が起こっているか掴めるだろうが、橋の警護と言う任務からは外れることになる。

 だが把握できたとして、どうするのか? 私一人駆けつけたところで戦局を左右できる訳ではない。

 敵は人間の襲撃者だと言う。軍隊の攻撃がレベル参に分類されるのなら、その一段上のレベル肆とはどのくらいの脅威なのだろうか? 対処できるものなのか?

 そもそも敵の目的は? 鳥上島は日本皇国が門外不出とする鍛冶技術、職人集団、幻想鉱石の鉱脈がある。それらを狙ったものなのか?

 いや、狙いは私達かも知れない。異邦人の排除・排斥、有り得なくはない。が、それでこの国の関所を襲撃するのは少々筋が通らない。ひっそりと島に忍び込まねば対象に警戒されてしまい、暗殺する難度が上がってしまう。

 だが、襲撃者が狂人ならば? 狂人の理論を理解するのは難しい。狂った人間を理解するのは己も暗がりの中に身を置かねばならないからだ。

 欧州と日本の繋がりを良く思わない国家の組織的攻撃と言う可能性もある。ならば連続的な襲撃があるかも知れない。ヨーロッパの名家の一つに数えられるルツェルブルク家の継承権を持つシャルロッテの訪問を快く思わない人間は多くいるはずだ。

 皆は大丈夫なのか? シャルロッテ達は問題ないだろう。学級長と大豪寺は大丈夫だろうか? 日鉢殿の話では二人と一緒にいる警邏係は優秀な者達らしい。なら、このような事態になれば襲撃された地点の応援に駆けつけるのではないだろうか? 襲撃者と戦うことになるのか? 透子や静は? 学園の皆は?

 独り物思いに耽っていると、目の前で誰かが手を上下に振ってきた。萌だ。

 はて何事かと首を傾げた私に、彼はニッコリ笑いながら右手の親指をビシッと突き出した。

 ……。意味不明だ。さっぱり分からない。彼の指は少し震え、笑顔が少々ぎこちない。

 私の頭のはてなが一つ増え、傾けた首の角度が水平に近くなる。

 その私に向かって、彼は今まで以上に満面の笑みを浮かべながら右手を突き出してくる。握り拳の中で親指だけがグイッと上に立っている。何だ? 合図? 暗号? この島の風習か? 学園——もしや弐年参組のみに伝わる戦の儀式か?

 むむむ……大豪寺との決闘前もこのようなポーズを彼は取っていたが……。

 必要以上に眉間に皺が寄ってしまっているのを感じるが、取りあえず右手で萌と同じポーズを取ってみようか。

 すると、彼が嬉しそうに笑いながら、私と同じポーズの右手を子供のように上下に動かす。

 くっ、分からない。戦の気運を前に彼も緊張しているのは伝わってきたが、それを伝えたいのではあるまい。

 透子ならば間違いなく知っているだろうが、私は透子ではないのだぞ!

 戸惑う私をよそに、萌は一人納得してしまった様子だ。

 ふぅ、と思わずため息が出た。

 考え過ぎだ。思考は留めずにいるべきだが、答えが問いに陥るべきではない。そう、いくら<強制視>と言う恩寵があろうと、のだから。

 大きく深呼吸をし、知らずのうちに入っていた肩の力を抜く。

 自然、熱くなり始めていた思考回路が背中から伝わる冷気によって冷やされていく。少しずつ、少しずつ、静かに、着実に、ゆっくりと。

 もう一度、ため息をつく。らしくない。戦いを前にして猛り立ってしまったか。異国の地での戦いとは言え、新兵の初陣と言ったところか。我ながら情けないな。

 しかし、自分を自嘲気味に語れる程の冷静さは取り戻せたと言うことか。

 視界の端に、そんな私を何処か嬉しそうに見ている萌の姿が映った。

 もしや、彼はこれを——


 その時——風が、吹いた。


「ああん?」

「おっと!」

 風が吹く。ごうごうと音を立てながら。段々と強くなる。

 最早風とは呼べない代物となった強風——いや暴風が辺りを駆け巡る。

 川の流れを、草の揺れを、石の橋を、土の地面を、全てを削り取ろうと荒れ狂う。

「チッ!」

「わわっと!」

「くっ!」

「!!」

 足腰に力を入れておかねば、吹き飛ばされてしまいそうだ。

 烈風が巻き起こす轟音に混じり、遠くにある草や木々の悲鳴にも似たざわめきがここまで聞こえてくる。

「オイ、揺れてないか?」

 国司殿の言葉通り、地面が揺れている。

 この嵐の影響? ——いや、違う。大きくはない。わずかに、微かにだが地面の揺れを感じる。

 生暖かい気味の悪い風がうなじをぬめりと触る。

 先程まで感じ取れていた関所の方角からの圧倒的な存在感はもはや何処にもない。私達を宙に吹き飛ばそうとする暴風に耐えながら、何か良くないものが近づいているのを感じていた。


 途端、ピタリと風が止んだ。

 だが、


「来るぞ!」

「東雲クン、リーゼちゃん! 気をつけて!」


 音が、止まらない。

 風の音は止まった。けれど、橋の先で音がする。何かが這いずり回る音がずりずりと。

 聞こえる、木々を揺れ動かし、草をかき分けて進む何かの音が。

 ゆっくり、ゆっくりと何かが擦れる不快な音が近づいてくる。

 すると——

 暗がりの向こう側から、無数の灰色の塊が現れた。

 濁った灰色だ。その中に血のような赤い丸が二つある。

 それは目だ。私達を見る目だ。

 橋の両側につけられた石灯籠の放つ光が大きくなり、奴らの姿が露になった。

「東雲、ヴォルフハルト、お前ら二人は直接見るのは初めてだろうな。これがこの島に出てくる怪異——『ヒトガタ』って奴だ」

 橋まではまだ距離があるため細部までは見られない。だが、名は体を表すと言う格言があると聞くが正にその通りだろう。

 ヒトガタ——漢字で表せば『人型』となるだろうか。一見すると灰色尽くめの服装の人間が動いているようだ。

 外見や体格は人間と似た構造だ。頭部、首、胴体、左右から出た二本の腕と足、人間と形容できるだけのパーツが揃っている。

 違いは二つある。一つは臀部から伸びた尻尾だ。両脚よりも太く、腰とほぼ同等だ。奴らはこの太く伸びた尻尾を地面に引きずりながら歩いてくる。両足で歩行はしているものの、人と言うよりは蛇のようだ。両手両足が生え、頭部が人に似た蛇と言っても良いだろう。

 風が止んでから絶えず聞こえてくる不快な音は、奴らの尻尾が地面に擦れている音に違いない。

 そして、二つ目の違いは、両腕が三つのパーツで構成されていることだ。先端のパーツはまるで片刃の剣のように伸び、石灯籠の灯りを反射し鈍い輝きを放っている。手で日本刀を握っている、とでも形容できるだろうか。

 こちらに来るにつれ、シィーシィーと、奴らが息を吐くような音が聞こえ出す。を前にして舌なめずりをしているつもりか。

 既に奴らは数十では効かない。百には届かないだろうが、時間の問題だろう。

 姿、形こそ時と場所で違えども、怪異共のすることは共通だ。即ち——人を喰らい、人の住処を我がものとする。

 関所のこと、襲撃者のこと、学友のこと、心配すべき事項は多々ある。

 だがしかし! この数の怪異共を私達の後ろ側に通すことだけは絶対に許されない!

『いいか、俺らの仕事は簡単だ。この橋を守る、それだけだ』

 国司殿が前へと進み出て、短槍を右手一本で脇に構えながら、橋の中央に立つ。

 あくまで自然体ながら、眼前にそびえる怪異の壁など眼中にないような泰然たる気迫!


しんしき、貫く矛を今ここに。刃振るわん天果つるまで」


 謳うは確固たる意志と決して朽ちぬ闘志!


 日鉢殿は一歩だけ進み、左手で携えた黒い大弓を上空へと掲げる。


「南無八幡大菩薩! 願わくば、我が前に立ちふさがりし悪鬼羅刹達を射滅いころさせ給え——!」


 右手で弦を引き絞ぼりながら、声を上げる——祈りにも似た決意の言葉を!

 これこそが恩寵兵装のあるべき姿だ! 打ち手と担い手、異なる二つを混ぜ合わせ一となす、人が築き上げし技術にして怪異達への決戦兵装!


「<心色一貫しんしきいっかん>」

「——<玄鋼之与一くろがねのよいち>——!」


 国司殿が、日鉢殿が、それぞれの兵装の真の姿を喚び寄せる!

 くすんだ色の外套がはためき、国司殿は気合いの声すら発さずに無言のまま、橋を飛ぶように渡りきり怪異の群れへと身を投じる。

 チラリと外套の下から薄い板金鎧が見える。機動性を最重視した軽装の鎧が外套の下にある。間接部の装甲など全くない。萌の着ている当世具足が重装に見える程の軽装だ。

「キシャァァァァァアァァァァァ!!」

 夜の町に無数の奇声が響く。

 奴らの赤い瞳が大きく開き、両腕の刃を振り回し、飛び込んできた愚かな獲物の体を八つ裂きにせんとする!

 だがしかし、国司殿は更に前へと足を踏み出す!

 前進する勢いをそのままに自分の前にいる怪異への懐へと飛び込むと、短槍を両手で上下に半回転させ怪異の顎を石突きで打ち砕く!

「ギガァ!?」

 奇怪な声が上がるが、国司殿の勢いは止まらない。更に一歩前へ踏み込み、敵腹部へ左肘打を見舞い、体全体を当てて突き飛ばす。

 その三つを流れるような動作で完了させ、怪異達の中で僅かに空いたその隙間へ体を滑らせ、敵達の刃から身をかわす。

 無数の死が蠢く中で、まるで舞いを踊るように両手両足が美しく動く。

 全身を何度も回転させ、複雑なステップを踏みながら、短槍が幾度も閃光を放つ。まるでハリネズミが全身の針を自ら飛ばすように、周囲を取り囲む怪異達の黒い体躯に光が突き刺さり、奴らを本来あるべき場所へと還していく。

 間髪入れずに、

「燃えろ、燃っえろー!」

 轟音が死にゆく怪異達の断末魔の悲鳴を打ち消す。

 日鉢殿の大弓から高速で放たれたが、火の粉をまき散らしながら赤い軌跡を宙に残し、怪異と衝突し、大爆発を引き起こす。

 爆煙もまだ収まらぬうちに、次の矢を装填する。

 日鉢殿は、兵装の『展開』により、左腕全体を覆う漆黒のガントレットが当世具足の上から装着されており、左手の防具は大弓と一体化し、左肩には可動式の盾が取り付けられていている。

 そして右手の一部にも同様の防具がついている。親指、人差し指、中指の三本指と甲だけを覆う防具だ。肩から指先まで全体をカバーしている左腕と比べれば、右手の防具はいささか心もとないのは否めない。のだが——

「あーっはっは! 燃えちゃいなさーい!」

 弓柄を握る日鉢殿の左手と右手の装具がぶつかり合い、何かが発火し燃え上がる音がする。弦を持った右手を真後ろに引くと、が装填されている。

 弦をキリキリと引き絞ると、火の粉がパラパラと空を舞う。

「——吶喊穿孔鋒陣とっかんせんこうほうじん、『窮幡蜂くまんばち』!!」

 その叫びと共に、炎の矢が大弓から打ち出される。

 炎の矢は一直線に怪異達の群れへ向かう。そのはやさ、瞬きすら許さない!

 炎は矢の形状から獲物を穿つ火蜂ひばちと変化し、猛然と襲いかかる!

 襲いかかってきたを撃ち落とすべく、怪異は両腕の刃を振るう。しかし、その動きの鈍さをあざ笑うかのように、火蜂はかいなをかいくぐり、その体内へと突き刺さる!

 刹那——夜の町には似合わない大音量の爆発音が鳴り響く。真昼のような明るさを引き起こしながら、周囲にいた怪異達ごとをまとめて爆裂四散させる!

「——っ熱ィ! オイ、燈! 俺まで焼く気か!?」

「あっはっははー! 任せて下さいって! 巌サンの頭に残ってる薄いものまで皆私が燃やしちゃいますよぉ!」

「全く、口の減らねぇお嬢さんだな、オメェって奴は!」

「そりゃ〜上司の方のご指導の賜物ですから! どうせ燃えちゃうんですから、細かいこと気にしないで下さい! もぉぉぅいっちょー〜ぅ!」

 再度、爆音が響き、黒煙と共に火の粉が舞い上がる。

 石橋が境界線だ。

 こちら側からは火の玉が射出され続け、あちら側では怪異の群れが短槍の銀光と爆発の赤光によりその歩みを留められている。

 何時か見た雪夜の光景が頭をよぎる。壁を隔てた先にいる怪異、向こう側で戦う異国の騎士達——。

 私が今すべきことは、ここでお二人の勇士を眺めることではない。

 そうだ! 今の私には抗うための力がある! 血と汗を流しながら培った技がある! シャルロッテからの借り物とはいえ、戦うための剣がある! ただ見ているだけだったあの幼子はここにはいない!

 両手を背に負った大剣に添える。右手を柄頭の蒼い宝石に、左手を柄の縁へと! 大剣から伝わる冷気を体全体へと流す。

 名匠が鍛えた恩寵兵装には通常のものとは異なる大きな違いがある。力の増幅量、異なる力の発現、武装の展開、カラクリや乗物の実体化——何よりも違うのは、打ち手が託した真なる想いだ!

 兵装の真の姿を引き出すには、兵装を体の一部となるべく『同調』し、内に秘められた打ち手の想いを己の肉体に『展開』しなければいけない。

 柄から伝わる冷気が段々と弱くなっていく。手の感覚が無くなったのではない。ただ、寒いと感じなくなっただけのこと。それと同時に私と剣との同調が進んでいく。

 両手から伝わる寒さが無くなる。大剣の切っ先が鞘に覆われているのを感じる。私の意志が剣を伝わり、剣の想いが私の中に入ってくる。

 同調が終わり、


 私は紡ぐ、剣の願いと——


 “愛しき君よ、貴女を想うウム マイネ リムスター、イッヒ ファーミッセ ディッヒ

 無窮の闇に身を浸す貴女が、イッヒ ホッフェ、ジー ニヒト苦痛と悲嘆に沈まぬようにミット エンドローゼン タウア ツー ゲーヘン

 無限の闇を斬り払う貴女が、ホッフヌング ウント フライントリッヒカイト ニヒト希望と優しさを持ち続けられるようにイン ウンエンディッヘ デュンケルヘイト シンケン ミュッセン

 ただただ、貴女の、無事を願うイッヒ ヴィル アインファッヘ ヌア イーレ ジッヒハーレ


 ——その名前を。


 “我が愛しき<氷の貴婦人>よマイネ ダーメ フォン アイス


 剣の銘を口から発し、その内に込められた想いを私の内に展開する。

 途端——心臓を掻きむしり取り出したくなるような悲しみと、自分の頭を打ち壊したくなるような吐き気が全身を襲う。

 この感覚、未だに慣れることはできない。だが、こう言った齟齬があること自体、私が兵装を『展開』できても、その新価を発起させる『解放』には至らないことの証明だろう。

 兵装の甲冑が我が身に展開される。

 上には王族の姫君が着るような蒼と白を基調としたドレスジャケットを羽織り、腰から下にはジャケットの袖と揃いの作りのレースとフリルが鮮やかに編み込まれたペチコートとその上には二重に着込んだスカートがある。透き通るようなショールは胸元のブローチで留められており、きめ細かい銀糸で編んだ刺繍入りのロングドレスグローブとストッキングが手足にある。シューズも刺繍され低いがヒールまでついている。

 これだけならば、さる高貴な家柄の令嬢が舞踏会へと赴く正装と言えるかも知れない。だが、私が行くのは人を喰らう怪異を討伐する戦場だ。

 ジャケットの下には雪のように白く輝く胴鎧がある。ドレスグローブとストッキングの上には白金鉱のガントレットとソルレットがあり、足にはシューズの凝った意匠を台無しにするかのような飾り気のない鉄靴が装着されている。ペチコートと二枚のスカートの間には腰当と股当が一体になった板金が打ち付けられている。頭部には額を保護するサリットあり、大剣の柄部に取り付けられたものと同じ蒼い宝石がついている。甲冑の中での飾りと言えばこの宝石とブローチ位だろう。

 これが『ドレス・アーマー』と呼ばれる甲冑だ。

 女性が着るドレスと、戦士が着る甲冑を組み合わせた立派な兵装だ。欧州圏の女性が戦闘時に装着する防具として確固とした地位を(私としては誠に遺憾ながら)確立している。

 初めて実戦に用いたのは、女性騎士であり偉大な聖人でもあった聖コンスタンスであると言う説があるが、定かではない。戦場にこのような女性らしさを持ち込んで何の意味があるのかと小一時間お伺いしたいところではあるが、彼女は既に千年以上前に天に召されている。

 両手大剣ツヴァイハンダー<氷の貴婦人>を握りしめる。

 我々欧州圏における剣は、十字架を模しているとする説が旧時代よりある。その意味では、私の手にしている<氷の貴婦人>は良い例だろう。

「ハァッ!」

 纏わり付いた冷気を振り払うように、短く、声を発する。

 通常の両手大剣ツヴァイハンダーより長い柄には、その柄頭に透明な蒼い宝石が取り付けられている。ルツェルブルク家が管理する鉱山から取り出される幻想鉱石の一つ『高貴なる光エーデルリヒト』鉱石だ。

<氷の貴婦人>には、ツヴァイハンダーにしては少々短い棒鍔と、鍔の先にはリカッソと呼ばれる握ることのできる刃の無い刃元がある。長い柄、棒鍔、刃元、これら三つで十字架を模した形になる。

 刃元と刀身の間に第二の鍔があり、そこから伸びる刀身は一メートルを超す。長く伸びた刀身は鮮やかな蒼色で、向こう側を見ることができるほど透き通った美しい両刃だ。これはエーデルリヒト鉱石を怪異を斬るための刃へと練成したものだ。刀身を入れた剣全体を見れば、先程とは逆向きの十字架となる。

 私の身の丈を越す長大な両手大剣ではあるが、別段重いとは感じない。

 柄の中央部を左手で、刃元を右手で握り、上体をやや捻りながら、剣を背中に担ぐ『憤怒ツォーンフット』の構えを取る。

「ハァァァーッ!」

 雄叫びを上げながら、構えを崩さずに石橋を走り抜ける。

 国司殿の単騎駆けと日鉢殿の狙撃爆破により、怪異達の押し寄せる『壁』には穴ができている。ならば、私の成すことは決まっている。

 突撃する国司殿のサポート! 及び、敵の最前線を崩す日鉢殿の狙撃で生き残った怪異の討伐だ!

「シッヤァァァァ!」

 私の接近に気付いた三体が、奇声を発しながら、両腕の刃と紅く濁った獣の瞳をこちらに向ける。——が、遅い!

「ヤァーッ!」

 直前まで加速を続け、背中に背負った大剣に全ての推力を乗せながら振り下ろす。相手の肩口へ襲いかかった蒼刃は、虚空に蒼白い軌跡を残しながら怪異の体を肩から斜めに両断する。

 崩れ落ちた仲間のことなど気にもせず、両脇にいた二体が私との距離を詰め、左と右、それぞれが片方の腕を振るう。

 振り下ろした大剣を、肩口で刃を一直線に取る『雄牛シュティァー』の構えへと移行しながら足を踏み出し、振り下ろされた一本の刃を刀身の根元で受け止める。

 金属音が響く。同時、もう一体の振り下ろした刃は、私の初撃で創られた蒼白い軌跡と衝突する。ビシリと言う亀裂音と共に、その動きが止まる。

「ギギ!?」

 右足を更に踏み込ませながら剣を上方へと押し出し、相手の刃を私の外側へと逸らす。左足を引きつけながら体を回転、その力を利用して剣を巻き打ち、もう一体の首を飛ばす。——これで二つ!

「シャァァ!」

 三体目は両腕の刃を狂ったように振り回し、宙に残っていた蒼白い塊を破壊する。ガラスの砕ける音がし、破片が辺りに——私へと飛んでいく。

 その光景を見て、怪異はニタリと、何とも形容し難い薄気味悪い笑いを浮かべる。

 が、私はそれに構うことなく右手を刃元から柄頭へと移行させ、左足の踏み込みと共に、相手の喉へと突きを繰り出す。

 蒼白い破片は私へ刺さる間際、白い霧となって蒸発する。当てが外れた愚かなヒトガタは私の突きを受け流すべく思いのほかの早さで刃を移動させる。

 甘い! 右手で掴んだ柄頭の宝石を反時計回りに押し込み、直線だった突きの軌道に角度をつける。狙い違わず、蒼い刀身は黒いヒトガタの体を貫き、鈍い手応えを私に伝えながら、灰色の血を辺りにまき散らす。

 剣を敵の体から抜き、後方へと回転させながら、左前の上段構え、『日輪フォン ターグ』へと移行する。剣の動きは止めずに、回転でついた勢いをそのままに真っ向から振り下ろす!

「セィヤァーッ!」

<氷の貴婦人>が空気を裂き、既に致命の一撃を与えられた怪異をその立っていた地面ごと真っ二つにする——これで三つ!

 地面にできた氷結から剣を抜き取る。

「おわ、リーゼちゃんやるぅ〜」

 私が仕留めた三体の怪異『ヒトガタ』の死骸はもうない。塵となって闇へと還ったのだ。その代わり、私が振るった<氷の貴婦人>の軌跡が未だ空に留まっている。

 これが、この恩寵兵装の特性だ。振るった剣の軌道に沿って——僅かな間ではあるが——『氷塊』を発生させる。文字通りの氷の塊ではあるが、そこらの怪異では容易には打ち破れないだけの強度はある。

 だが、たった数発の斬撃で破壊されたのは予想外だ。日鉢殿の火蜂ひばちによる射撃と爆撃で周囲の温度が上昇して、通常より強度が落ちていたのだろうが、意外だった。流石は『武士』の国に出現する怪異と言ったところか。

 もっとも、剣で生成した氷塊はこのドレスアーマーを着ている私には全く影響を与えないのではあるが。

 刀身の動きに沿った『氷塊の発生とその無効化』——それが私のした<氷の貴婦人>の特異能力だ。

 私の隣で戦う者にとっては邪魔になってしかたがない能力だ。そう言った意味では、一人で突撃している国司殿や、遠隔攻撃の日鉢殿、そして私の氷塊など気にも留めないテレジア殿と共に戦えるのは——

「ほぉれほれほれ〜ー!」

 轟音が三度鳴り響き、私の思考を遮ぎる。

 火の粉と爆煙が所狭しと一面に舞い上がり、夜の町が一転、真昼の戦場の様相を呈する。

「クソッタレ! 畜生め、今日も朝まで始末書か!」

 舞い上がる煙から転がるように飛び出してきた国司殿は、橋の向こうにいる日鉢殿へと悪態をつく。何事もなかったかのように槍を構え直し、怪異達の群れへと——

「国司殿!!」

「あーーっ! やっちゃったぁぁー!!」

「あぁ? ——ってオイィィ、燈ィィ!?」

 正確には、日鉢殿が特大の火蜂を射込んだ怪異達への群れへと飛び込んでしまう。

 火蜂が爆発する寸前、国司殿は周囲に視線を走らせる。辺りの状況を、他の怪異達の位置を確認するように。身を隠すことも、伏せることも、防ぐこともせずに。

 閃光が輝く。

 一瞬の後、この夜一番の爆音が私の鼓膜を破壊するかのように鳴り響く。

 炎の渦が怒れる龍の如く辺りを喰い散らかし、火の粉がその大破壊の証左を示すように黒煙と共に上空へ舞い上がる。

 私達だけでなく、怪異達もその破壊力を唖然として見上げている。

 その中から——無傷の国司殿が煙を割って飛び出し、着地しながら右手の短槍をヒトガタの眉間へと押し込む。

「燈ィィィ! 同士討ちなんざ死んでも死に切れねえぞ!」

「いや〜、ははは……。火力が足りなかったみたいで……はは」

「そこを謝んのか! ったく、狙撃手が誤射してどうすんだ、オイ!? 眠ィのか? 公務員が職務中に居眠りなんざ税金泥棒もいいとこだぞ!」

 日鉢殿への叱責を口にしながらも、国司殿は舞うように体を躍らせ、周囲を取り囲むヒトガタ達へ致命の一突を連打する。

「さっきのは巌サンが勝手に突っ込んできたんですー! それにアタシは狙撃手じゃなくてただの射手ですよーだ!」

「口じゃなくて手を動かせ、手を! 言い訳する暇あるんなら、一匹でも多くこいつらをぶっ潰す手段でも考えとけ!」

「あーもー! 口悪過ぎです! そんな性格だから四十になっても独り身なんですよ!」

「違ェ! 俺は三十代だ!」

 槍術と言うよりは、棒術に近いような槍捌きだ。刃で突くことを主とせず、両端を使い、まるで糸でもついているかのように体から離れずに槍が踊り続ける。

 怪異達も勿論それを黙って見ている訳ではない。その周囲を取り囲み、お互いが一つの意志の元で動いているかのようにシンクロしながら、この人間の体を切り刻むために刃を振り、逃げられる空間をなくすように体を詰め寄せ、尻尾をも振り回す。

 だが、届かない。周囲を十重二十重に囲みながらも、国司殿の体には奴らの攻撃はかすりともしない。国司殿の槍術と体術に翻弄されている内に、一匹、また一匹と確実に数が減っていく。たった一人の人間が、一本の短槍と己の身体のみをもってして、無数の怪異を圧倒し、押し込んでいく。

 凄まじい技だ。培った技術と経験だけ敵の大群を圧倒している。一体、どれほどの修練をつめば人間がこのような動きをできるのだろうか? 私には検討もつかない。

「あー! はいはい! 分かりました分かりました!」

 三本の火矢が赤い軌跡を空に残し、国司殿の周囲にいるヒトガタの群れへと突き刺さる。

 国司殿が後方に大きく跳躍すると、三つの爆発が作用し、巨大な爆裂の爪痕を残す。

 ヒトガタ達が存在した場所の地面が大きく抉れている。その他にも、大小様々なクレーターが幾つか点在している。日鉢殿の優れた力の証明であろう。

 日鉢ひばち火蜂ひばち——か。彼女の恩寵はその名の音が示す通り<火炎召喚>か! 召喚する炎の形を『蜂』にすることで、威力を増加し、自律行動を可能としている。

 矢を一本も持たないのも、そのせいだ。兵装<玄鋼之与一くろがねのよいち>が実現しているのは、『射手強化』、そしてより単純な『射撃』だろうか。複雑に組み合わせられた恩寵を破ることは難しいが、時としてシンプルな方が効果を発揮しやすい。

 ヒトガタ達が橋へ迫るのを止め、シィィィィと息を吐く。このままでは決して突破できないと悟ることはできたようだ。果たしてそれは知性か、もしくは本能か。奴らに知能があるかどうかは未だに大きな議題の一つだ。

「ギィィィィジャァァアァァァ!!」

 一匹のヒトガタが一際甲高い奇声を放つ。

 それに呼応するかのように、全てのヒトガタがまるで私達のことなど眼中に無いように、不快極まりない金切り声を上げ始める。

 もはや声と呼ぶより一種の攻撃だ。鼓膜だけでなく体全体を破壊するかのような振動がこちらに伝わってくる。

「来るぞお前ら!」

 国司殿が注意を促す声も、奴らの狂声に掻き消される。

「ギィィギャァァァァアァァァァ!」

 己の身を引き裂くかのような声を張り上げる。

「……なっ!?」

 その光景に、思わず目を見張った。

 それはヒトガタと呼ばれた怪異の変質した姿だった。

 腕の刀が一本ではなく五本に分裂した個体、片腕の長さが退化しもう一方の腕の刀が強大化した個体、腕が更に二本生えた個体、二本ではなく四本生えた個体、二つの腕が一つになり槍のような形状になった個体——それだけではない。

 互いの体に刃を突き刺し、互いを喰らい、練り合って、巨大なヒトガタとなる。いや、もはやヒトガタと言う名前は適切ではない。

 分裂し、増殖し、共食う——吐き気を催す異常さだ。今から見ればあの不快な奇声ですら涼やかに聞こえてしまいそうだ。

 これが、怪異が依然として我々人類の障害である点の一つ——すなわち、進化と適応、多様性だ。

 現状を打破すべく進化し、ひとの攻撃に適応する。奴らの取る道は一つだけではないのだ。ひとを制圧すべくあらゆる進化を試みる。

 だが、我々と会敵してから半時間も経っていないはず! これは早すぎる!

 奴らの変化が終わると、先程までの喧騒が嘘のように、夜の町が静寂に包まれる。違うのはそれだけではない。奴らの放つ異常さ! こちらを喰わんとする血走った目つき! そして先程とは段違いの殺意と狂気だ!

「うわっ! もう変化する訳!? 早くない!?」

「国司殿! ここは増援を呼ぶべきでは?」

「ここが忙しんなら何処も同じだろう。連絡門が襲撃されてるなら、ここなんぞに応援回す余裕はねぇ。それにだ、」

 取り乱す私達を尻目に、

「お前ら、俺が言ったこともう忘れたのか?」

 国司殿は全く動じる様子がない。

 ただそこに立ち、槍を手にぶら下げている。


「言ったろ? こいつら全員、俺が潰す。お前達はそこで見てけ——ってな」


 その声は、奴らの発したどんな奇声よりも強く、はっきりと、私達の心に響いた。

 微動だにしないその背中が静かに語っている——この言葉は虚勢や強がりでなく、ただ事実を述べているに過ぎないのだと。

「ギジジジジィィィィィジャァァァァ!」

 もはや刃の群れと形容するのが正しいか、そんな中へ、たった一人、国司殿はまるで近くに買物でも行くような足取りで向かっていく。

「一人で良いかっこするなんて、今じゃ古いですよ! 巌サン! もっと燃えて燃えて、燃えちゃぇー!」

 日鉢殿の放つ火矢が、一足先に敵陣へと突き刺さる。四匹のヒトガタを喰い、大型になったヒトガタが右腕でその火矢を払い落とす。接触し、その腕が大きな炎に包まれ爆散するが——

「うっそ!」

 煙も止まぬ内に塵となった欠片が集まり、新しい、より禍々しい形となった腕が出現する。

 再生!? 日鉢殿の火矢に対応したのか!

 シンプルな恩寵はその単純さ故に大きな力を発揮する。だが、それが仇となり対応されやすい。だが、この速さは一体!?

 私達の驚きをよそに、国司殿はその歩みを全く止めることがない。

「ちょぉっ! 巌サン!?」

 その身へ、大小様々な形の異様で無数の刃が、耳障りな声と共に四方八方から振り下ろされる!

「ギィィジャァァァァアァーーッ!!」

「ギャァァィィガガァァァーーッ!!」

 一瞬の空白があり——降り掛かる全ての刃から身をかわし、振り下ろされた腕を駆け上る槍兵の姿があった。

 銀光が五度、怪異達の蠢く暗がりの中で閃いた。

 眉間、顎、喉、胸、腹——五つの大穴を穿たれた大型のヒトガタが黒い霧となって跡形もなく消え去る。

 狩りを終えた槍兵は音も無く地面に降り立つ。

「燈ィ! 一発でダメなら二発撃て! それでもダメなら三発だ! 怪異こいつら相手にビビるのは千発ぶっ放してからにしろ!」

「ビビってませんし、 諦めてもいません! 可愛い部下がせっかく心配してあげてるのにその憎まれ口は何なんですかホント! パワハラですよ、パワハラ!」

「だから口じゃなくて手を動かせって言ってるだろ! 手を!」

「二人とも気をつけてね! こういうひねた大人になっちゃったら寂しい独身生活が待ってるわよ!」

 日鉢殿の右腕が黒弓の弦を引き絞る。弓のしなりと限界まで引き絞られた弦が満月を形作り、その中央に走る真紅の火矢はこの世全ての闇を燃やし尽くさんと煌々と燃え盛る。

 私は意を決し、眼鏡を外す。

 視界を埋め尽くす可視化された文字情報と、何時まで経っても決して慣れない頭痛が、鎖から解き放たれた飢狼のように私へと襲いかかる。

 苦痛を感じるが、耐えられない程ではない。ここが勝負所だ。迷っている暇も、躊躇している余裕もない!

<氷の貴婦人>を大地に刺し、橋のたもとを背にして立つ。

 私は耐えてみせる、この痛みを! この雑音にみちた世界を!

 この痛みと雑音こそが私の授かりし力なのだから! 奴らを葬るのに必要なれば、迷っている時ではない!

 国司殿は、奴らの中へ単身潜り込み戦い続ける。

 日鉢殿は、豪雨のように奴らへ『火蜂』を撃ち続ける。

 ならば私が成すべきは——この橋を守る番人! この後ろへは奴らを決して通すまい!

 “この身は剣——狂った暴威に光を示し、悪しき獣達から人々を守る刃である”

 誓いを胸に、剣を両手に、祈りを天に。

 “天よ、我が声を聞け! 我が身、この終生を賭して、ただ一振りの剣とならん!”

 幾度となく口にした誓いの言葉——だが、これほどまでに高揚したことがあっただろうか?

<氷の貴婦人>を天空へと解き放つ。

 蒼刃が私の意を示すかのように、強い輝きを発する!

 “我が名はリーゼリッヒ・ヴォルフハルト! 剣の聖女、聖コンスタンスの名を冠する刃なり! 悪しき怪異よ! 我ら人類の敵たらんとする者達よ! 私を滅ぼさずして貴様らに未来があると思うな!”


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 僕は、決して手の届かない何処か遠くの光景を眺めるかのように立ち尽くしていた。

 目の前では、さっきから皆が戦っている。

 国司さんが、日鉢さんが、リズさんが、槍を、弓を、剣を手に、変異したヒトガタ達を相手に戦っている。

 でも僕は——その光景を震えながら見ていた。

 膝の、手の、ブルブルと言う震えが止まらない。心臓が口から飛び出そうなくらい大きな鼓動を立てている。カチカチカチカチとさっきから聞こえてくる耳障りな音は、僕の歯が震えてぶつかっている音だ。

 ——怖い…!

 僕は初めて怪異を目の当たりにした。

 文明を滅ぼした怪物、人を喰らい、大地を汚染する化物——学園ではそう習ってきた。僕達のご先祖様と彼らとの戦いがどう言ったものだったか、勉強してきた。いや、勉強してきたつもりだった。

 でも、僕の目の前にいる『ヒトガタ』は、そんなもの全部合わせたよりもリアルだった。

 僕を睨みつける爛々とした目、よだれを垂らしながら漏れる吐息、鋭く尖った刃物のような牙、ゆらゆらと揺れる灰色の体躯、日本刀の美しさとは比べ物にならないほど醜く歪んだ刃——もはやヒトガタとは呼べない化物の形をした何かだ。今の僕の顔はみっともないくらい歪んでいる。

 僕ができてたと思い込んでた覚悟も決意も、目の前で繰り広げられている生きるか死ぬかの境界線が、全部吹き飛ばした。そう、まるで台風に飲み込まれた紙切れみたいに。

 これまでずっと続けてきた稽古も、お師匠様の言いつけも、そんなもの、所詮ただのおままごとだったんだ……今目の前に入るこいつらの前では。

 ——怖い……! 怖い、怖い、怖い、怖い!

 はぁはぁと息が乱れ、呼吸ができない。

 体中から汗びっしょり湧いてきて、下着がびっしょり湿ってる。鉄棍が、具足が、腰に差している雑木ざつぼくすら重金属みたいに重い。

 ——怖い! 怖い!

 僕の体が、ここにいろと、命じている。ここから先は絶対に行ってはいけないと。

「吶喊穿孔鋒陣、千手式! 『乱れ窮幡蜂』!」

 日鉢さんの黒い大型和弓から放たれた三本の火矢が、紅い炎の軌跡を宙に残しながら川を渡り、怪異達へと襲いかかる。

 突然、三本の矢が爆裂し、何十もの炎の塊になる。いや、塊じゃない、炎の蜂だ。蜂達が爆発によって速度を増し、それぞれが確固たる意志を持って敵陣を強襲する。

 途切れない爆発音が、永遠に続く鐘のように何度も何度も響き渡る。

 火蜂達は敵の体内に潜り込み、内部からその体を爆発させる。今放たれた火蜂の数は百には届かない、けれど二十ではきかない。それぞれ各自が己の使命、一匹一殺を全うする。

 けれど——

「うげぇ……!」

「チィ!」

「くっ、切りがありませんね」

 黒煙を割って現れたのは——怪異、怪異、怪異! ヒトガタの成れの果ての大群!

 ヒトと言うよりだんだんと蛇に近づいている。尻尾をくねらせながら地面を這いずり回り、何本もの腕を生やし、その腕から何本もの刃を尖らせている。僕達の指のように五本の刃を開閉させているもの、腕自体が巨大な鉈のようになっているもの、蜘蛛の足のように刃を地面に突き刺しながら進んでくるもの——様々な形に変異しながらも、巨大な尻尾とこちらを睨み殺すような真っ赤に染まった瞳だけは変わっていない。

 それよりも、ヒトガタの体が段々と大きくなっている。もう人の身長なんか優に越えている。大きな個体は校舎の二階ぐらいの高さがある。

「巌サン、もしかして時間切れあさまで頑張れってことですか、これ!?」

「知るか。どっちみち残業代はでねぇぞ。敵が増えるから終わらねぇんなら、それより速くぶっ潰せば良いだけだろうが」

「いやいや、町壊しちゃってますからね!? 始末書何枚書けば許してもらえるんですか、これ!?」

「壊してるのは俺じゃねぇ。どっかの誰かさんだ。始末書もそいつが頑張って全部書いてくれるだろうさ」

「うっわ! ひど! 今のは『責任は全部俺が取る』って言って部下を感動させる場面じゃないですか!?」

「日鉢殿、及ばずながら——……ハァァァー! セィッ!! ——この国での始末書の書き方、後ほど教えていただけますか?」

「もう! リーゼちゃん大好き! どこかのゴツい嫌みな上司の人とは大違いね」

「責任は俺が取る、当たり前じゃねぇか! 今更言うことでもねぇだろ。天引きされるのは俺の給料からだしな。だけど町を壊してるのは俺じゃねぇ、俺じゃねぇんだよッ! そこんとこハッキリしとけ!」

「きぃぃぃー! 後ろに気をつけて下さいね。次の矢、巌サンのところ行っちゃうかも知れないんで!」

「おう! 上等! でかいのぶちかましてこい!」

 ——怖い……! ……怖い!

 軽口をかわしながら皆は敵を次々と倒していく。

 国司さんの動きは凄い。こんな状況でなければ誰だって見とれてしまう。敵に囲まれながら全く乱れない槍捌き、四方八方からの無茶苦茶な攻撃をかすり傷一つ負わずに回避する体術、その動きの一つ一つが教練のお手本みたいに鮮やかで、それでいてとても荒々しい。

 日鉢さんの恩寵なんて僕がこれまで生きてきた中で、お師匠様を除けば、文句無く一番だ。自分が生まれ持った恩寵と、それをサポートする兵装を組み合わせることで、ここまで凄いことができるなんて思いもしなかった。

 リズさんも凄い。向こう側の橋の袂に立ちふさがり、自分の身長よりも大きい大剣を軽々と扱いながら、国司さんと日鉢さんの攻撃から逃れて橋を突破しようとするヒトガタを一匹、一匹と確実に倒していく。奴らの奇怪な体躯から繰り出されるあり得ない軌道の刃を、まるでに完璧に予想し、受け、流し、かわし、確実に急所へと反撃している。

 とても綺麗な蒼い刃の両手大剣を、流れるように構えを変化させながら、突き、斬り、薙ぎ払い、振り回す。見たこともぐらい華やかなドレスを着ている。命をやり取りする殺し合いの場なのに、リズさんが着ているととても自然に見える。

 一瞬、リズさんを見つめる僕と、僕を見るリズさんの視線が合った。

 けれど、彼女は視線をすぐ外し、正面から襲いかかるヒトガタ達を見据える。

 彼女の瞳は——ここで立っているだけの僕を責めてはいない、むしろ僕のことを案じているように見えた。

 だって、そうだろう。僕なんかの出る幕なんかない。

 僕は、国司さんような技なんて何一つ無い。日鉢さんような敵を制圧する術も持っていない。リズさんみたいな武器も、剣術も、無い。

 僕が行ったところで、皆の邪魔になるだけだ。

 ——怖い……!

 だから、僕はどうしようもなく、怖い。

 だって——だって! 僕は、今、この場で何もしないで、皆の足手まといにならないように見ていることが、正しいことなんだって思い始めているんだから!

 ——怖い……! 怖い……!

 

 ——ダメだ、ダメだ。ダメだダメだ! ダメだー!!

 両手に持った鉄棍に思いっきり頭を打ち付ける! 額に取り付けた鉢金とぶつかり、ガチンと大きな音がした。

 ——自分なんだ、自分なんだ!

『いいか、萌。俺達ジゲンの剣士はな、他人に理由を預けない』

 ——自分なんだ。皆が凄いとか、皆と比べて僕は何も無いとか、皆と比べると足手まといだとか! 違うんだ、自分なんだ!

 僕の身には防具が、立派な防具がついてるじゃないか! 両手には鉄棍ぶきを持っているじゃないか! 何時も稽古で使っている雑木だってあるじゃないか!

 僕の目の前には何があるんだ!?

 敵だ、敵がいる! 戦場がある! そこは僕の知り合いが命をかけて戦っている場所じゃないか!

 それのに、僕は何もしないの? ただ見ているだけなの? それで良いと思うの?

 ——違う……。違うよ! そんなの絶対に間違ってる!

ジゲンの剣士おれたちはな、絶対に刀を抜かないんだ』

 もう一度、鉄棍に頭を打ち付ける。さっきよりも力一杯! ガツンともう一回!

『例え自分の首がぶった斬られても、それでも俺は刀を抜かなかったぞ、ってあの世で自慢するのがジゲンの剣士だ』

 僕の中で、何かが叫んでいる。それが何なのか僕には分からない。何を叫ぼうとしてるのかも分からない。

 体中の震えは止まらない。冷や汗も出ては流れて、流れては出ての繰り返し。

 だけど……だけど!

『でもな。それでもあるんだよ。刀を抜かなきゃならない時ってのが』

 額を鉄棍にもう一回全力でぶち当てる。鉄同士がぶつかる鈍い音がする。

 段々と痛くなる額とは裏腹に、僕の思考はゆっくりと、本当にゆっくりだけど熱を失い冷静さを取り戻してく。

 それと同時に、お師匠様の教えが頭に響いてくる。

 一つ一つ、言われた時間も場所も、お師匠様がどんな顔をしていたのかも全部思い出せる。

『自分の命なんぞどうでもいい。だけど、刀を抜いて示さなきゃいけないものがある——そう思える時が、萌、お前さんにも何時か来るぜ、きっと』

 体が、熱い。

 震えは全然止まらない。歯もカタカタ音を立ててるし、両手で握り締めた鉄棍はブルブルと震えてる。膝だってカクカク笑ってる。

 ——うぁぁぁぁぁぁぁぁぁーーーーッ!!

 でも僕は声を上げる。声を出せないとか関係ない。体の一番奥底にある何かが熱い。燃えている。声をあげずになんていられない! どうやっちゃってもこの熱は収まりそうもないんだから!

 敵に対する恐怖、生き死にの戦場を実感した恐怖、足手まといでいることの恐怖、その足手まといのせいで誰かが傷つくかもしれない恐怖、だからここで何もするなと自分の弱さを正当化しようとする恐怖、それを受け入れる恐怖——!

 言い訳ばかり考えて、何もしていない自分自身への恐怖!

 僕は——それを全て肯定する! 否定なんてできるはずがない!

 だって僕は、お師匠様の弟子だから。ジゲンの剣士を目指すんだから!

 全てを自分で背負うんだ。僕の感じる恐怖、臆病さ、弱さ、それを含めて全部が僕なんだから!

 僕にはある! 戦う理由とか、剣を振るう理由なんて立派なものじゃないけれど、あるんだ!

 心の何処か底の方にある。それが僕に語りかける。熱くさせる。燃やそうとしている。叫んでいる。震えている。グツグツと沸騰している。

『それは……意地だ』

 ——うわぁぁぁぁぁぁぁーーーッ!!

 気合いの雄叫びが、口から自然に出た。声にはならなくても、僕の体が叫んでいる! いや、叫ばずにはいられない!

 お腹の奥が燃えているみたいに熱い。

 恐怖も、弱気も、臆病さも、全部が全部、体の奥から溢れてくる熱に冒されて、心の中にある全部の感情が、チリチリと音を立てながら燃えていくのを感じる。

『他人からすればどんなにちっぽけで、バカらしくて、それが何なのか言葉にできなくたって、分からなくても良い。でも、自分じゃ絶対に譲れない——ただの、意地だ』

 震える歯を噛み締める。カタカタと鳴る歯の打ち鳴らされる音が、ギリギリと言う重い歯軋り音に変わる。

 強く、強く、歯を噛み締める。

 何時の間にか、苦しかった呼吸が楽になっていた。

 目の前の光景が今までより広く、明るく見える。

『例え自分が死んだとしても、絶対に譲れない意地なにかがあるから刀を抜くんだ』

 鉄棍を持つ両手を握り締める。震える手を押さえ込むように。鉄の硬い感触が伝わってくる。

 僕の熱が両手から伝わっていく。冷たい鉄の感触が緩やかに変化する。

 ——……熱い!

 両足を、片足ずつ地面に打ち付ける! 一回、二回! もう一度、一回ずつ!

 ——うぁぁぁぁぁぁぁーーーーッ!!

 熱い! 熱い! 熱い熱い熱い!

 ある。僕の中には確かにある! 絶対に、誰にも譲れない——意地が!

 共に戦う人達をただ見てるだけじゃダメなんだ。

 できるできないの問題じゃない!

 ——僕が……全てを背負うんだ! 理由も、意味も、結果もありとあらゆるもの全て!

「でかいのいくわよ! 二人とも気をつけて!」

「おう、派手にかませよ!」

「はいッ!」

「あっと失っ礼。巌サンは別に気をつけなくて結構ですんで、はい」

「いいから早くぶっぱなせ!」

 僕の底にある意地が、煮立っている。沸騰している。熱を上げて燃えだしている。僕の中にある、全てに火をつけ回る。

『自分の命なんぞ最初はなから勘定に入れるなよ? だって、自分の首を斬り飛ばされても抜かないのがジゲンの剣士おれたちなんだぞ?』

 それでも、僕は刀を抜く。倒さなきゃいけないから、示さなきゃいけないから。戦うことからは逃げられても、自分自身からは逃げられないから!

 言葉にはできない何かが、僕を駆り立て、急き立てる。


「南無八幡大菩薩——願わくば、我が矢刃にその神武を与え給え! 我もまた、きてくだつ者なり!」


 日鉢さんが詔を天に捧げ、黒弓を構える。けれど、弦を握る右手には炎の矢が出現しない。

 その代わり——弦を引き絞る日鉢さんの意志に呼応するかのように、夜空に散っていった無数の火の粉がフッと姿を現した。

 いや、火の粉ではない。出現したものは火の粉ながら、渦巻き、燃え上がり、その一つ一つが確固とした形——蜂となる。

 火蜂の大群が空を支配し、真昼よりも明るくなる。蜂達は、国司さんを、リズさんを、日鉢さんを、そして変異したヒトガタ達を照らす。幾多もの炎が照らし出す灯りは地面に複雑で微かな影を描く。

 日鉢さんが限界を越えてまで弦をキリキリと引き絞る。

 宙を浮く拳代程の大きさの無数の蜂の群れは、羽音ではなく己を燃やす炎を鳴らす。その一つ一つが獰猛な意志を持ち、眼前の怪異を睨みつける。

 圧倒的な数の差を持ってして彼らは待っている——その獣性を解放する瞬間を、一気呵成に敵を滅ぼすその時を! 彼らのからの攻撃命令を!!


永劫撃滅車陣えいごうげきめつくるまじん! 『鈴瑪すずめ——』、えっ?」


 日鉢さんが驚きの声を発する前に、僕は走り出していた。


 僕と日鉢さんの前、そして国司さんとリズさんの後ろに、音も無く二体のヒトガタが橋の上に現れた。両腕が異常に長い。腕の先端から伸びている五指は一本一本が鎌のように細く尖っている。

 あり得ない場所に敵が出現して、思わず日鉢さんの動きが止まる。

『橋を通らなければこちらに渡れない』、そう国司さんは僕達に教えてくれた。

 でもそれは、『向こう側から橋を通ってこなければいけない』ってことではないみたい。恐らく、きてもこちら側には来れるんだ。だって、こちら側に来る事実は変わらないのだから。

 橋の上に突如出現したこいつらに気付いたのは、僕と日鉢さんだけだ。国司さんは、何時でも飛び出せる低い姿勢で上空の火蜂と自分を囲むヒトガタ達を睨みつけてる。リズさんは両手大剣を下段に携え、上方に出現した蜂の大群を視界に収めながら、眼前の敵に対して油断のない構えを崩さない。

 だから二人とも、後ろの橋で起こった変事に気付けない。

 宙を舞う蜂達も狙いを定めた獲物への突撃命令を待つのみ。よもや女王の命を狙う暗殺者が自分達の後方に降り立ったとは思いもしない。

 橋に降りた二体のヒトガタは静かに、その長い腕を槍のように後方に引く。

 数秒もすれば、その腕が突き出され、日鉢さんの胴を貫く。

 ——あぁぁぁぁぁぁぁぁーーーーーッ!!

 走り出していた足はもう止まらない。一直線に突き進む!

 両手に持った鉄棍を『右蜻蛉みぎとんぼ』に取る。右肩の上にピンと置くように両手を添える。まるで蜻蛉が羽を休める棒切れのように、地面から真っ直ぐに、力を抜きながら。

 右蜻蛉を崩さないで全力で疾走する。距離が近づくにつれ、ヒトガタがはっきりと見える。

 奴らの形、色、目、腕、刃、形状だけじゃない、発する吐息、狂気、殺意、敵意! 人間としての本能がこいつらを敵だと認識している。それは相手も同じことだろう。

 でも——今はそんなこと、どうでもいい!

「へ——!?」

『抜いたら斬れ。刀がなければ拳で殴れ。手を斬られたら蹴飛ばせ。手足がダメなら体でぶつかれ。首を斬られたら、相手の喉笛に食らいついてやれ』

 足を踏み出す度に、敵に近づく度に、体の感覚の何処かが無くなっていく。不必要な感情ものが消えていく。恐怖も、怒りも、戸惑いも、葛藤も。全てが無くなっていく。

 あるのは一つ、僕の底にある——誰にも譲れないちっぽけな意地だけ!

 奴らが日鉢さんを通り越す僕に気付く。二体のヒトガタが僕の方へと向き直り、引いた腕をそのまま僕へと突き出し————遅い!!

 その槍状の腕が突き出されるよりも速く、

 ——キィィィェェェェェェェェーー!!

 頭の頂点から抜けるような高い叫び声を発し、全身の筋肉を絞る。右足を踏み込み、体幹を沈み込ませ、右蜻蛉から袈裟に斬る、これら三つの動作を全て同調させる。走り込みによる前方への推力、体幹の降下による下方への推力、その二つの力を振り下ろしの一刀に全部乗せる!

 ジゲンの太刀に二の太刀にのたちは無い! この一撃で終わりだ! 僕の持てる全てをこの一撃に! この敵を、立っている大地もろとも真っ二つに両断する!

 全身全霊で放った斬撃は、ヒトガタの肩口から下腹部までを裂く。

 鉄棍の通った後にぽっかりと大きな隙間が空く。

 ほぼ真っ二つに裂かれたヒトガタは、奇怪なダンスを踊るようにカタカタと少しだけ動いて、黒い霧となって散っていった。両手には鉄棍から伝わってきた柔らかくて硬い何かを押し潰す——そして決して忘れることのできない——嫌な感触が残った。

 ——あ……れ?

 一瞬、僕は自分が何をしたのか、できたのか、理解できなかった。敵を斬った事実が信じられずに、消え逝くヒトガタの残骸を呆気にとられて見ていた。

 その間が、命をやり取りする戦場では致命的だった。

 もう一体のヒトガタが無言で腕を伸ばしてくる。細く鋭い薙刀のような五指は閉じており、五本の刃は長大な槍となって、空を裂いて僕の胸に伸びてくる。

 即座に思考が切り替わる。後悔も、躊躇いも、を抜いている今は無用の長物なのだから!

 でも足りない、鉄棍が届かない。リーチが違いすぎる。このままじゃ! 後一歩踏み込まなきゃ!

 なら、踏み込んで斬れば良い!

 左足を踏み出すと同時に姿勢を整え、鉄棍をさっきとは逆の左蜻蛉に取る。

 鉄棍が届く間合いに入れたけれど、逆に敵の槍との距離が短くなった。槍はもうすぐそこまで突き出されている。一秒もしない内に僕を貫くだろう。

 だけど——それでも僕は、鉄棍かたなを振う!

 ——イィィィィェェェェェェェーーー!!

 ジゲンの太刀は先手必勝、常に相手より先に太刀を振り、一刀の元に斬る。だが、もし——相手が自分より先に太刀を振ったとしたら?

 答えは簡単、相手を斬れば良い!

 あり得ない理不尽さと究極の単純明快さ! これこそが真鋭しんえいジゲン流の刀のことわり

 時間の流れがスローモーションになる。

 僕の左胸を貫こうと突き出されるヒトガタの大槍がゆっくりと迫ってくる。

 対する僕は、体を沈めながら左蜻蛉からの打ち下ろしをヒトガタの頭部にみまう。

 速く! ——例えほんの一瞬でも!

 早く! ——この身が槍に貫かれるよりも!

 はやく! ——鉄棍を振り下ろし!

 はやく! ——眼前に立ち塞がるこの敵を斬る!


 ——届けェェェェーーー!!


 微かに……ほんの僅かな差だけれど、

 もの凄いスピードのとても大きな鉄塊と正面衝突したみたいな凄い衝撃が左肩に走った——けど、それよりも……

 ほんのちょっぴりだけだけど、鉄棍が何かに当たる感触の方が早かった。


 左肩を襲った衝撃に耐えられず、僕の両膝がくの字に曲がる。後ろに吹き飛ばされないようにするのがやっとだ。

「—雲—ン!!」

「—!?」

 ——痛い……。

 視界が暗くぼんやりとしていく。それよりも今まで経験したことのない、尋常じゃない痛みが左肩の辺りからする。痛過ぎて、涙も声も出ない。

 誰かが僕の名前を呼んでくれたような気がした。

 痛い。痛いのに、左腕の感覚が全くない。それに、寒い。体の左半分が氷水に浸かっているみたい。

 くるりと体が後ろに回り、左側から地面に崩れ落ちそうになる。

 地面に倒れる前に、目の前が本当に真っ暗になる前に——ヒトガタが立っているのが見えた。大きくへこんだ頭部と、紅く染まった長い右腕がぼんやりとした意識の中でも確認できた。

 瞬間、僕の体の奥で何かが燃え上がった。

 崩れ落ちそうな左足に力が入る。

 僕は何をしていたんだ? 何を考えていたんだ? 敵が、いるじゃないか。それなのに、何をしているんだ? 敵がいるのなら——倒れている場合じゃない!

 左腕が使えないなら右腕を使えば良い。僕にはまだ武器がある!

 目の前には、敵がいる! 倒すべき、倒さなきゃいけない敵がいるんだ!

 命が無くなる前にするべきことがあるんじゃないのか!?


 ——うぁぁぁぁぁぁぁぁ!


 思考を完全に置き去りにして、右腕と右足が自然に動いた。


 カラン、と言う鉄と石がぶつかるような乾いた音が、遠のいていく意識の中でぼんやりと聞こえた。

 消え去る直前の線香花火のように、ほんの一瞬だけ体中を駆け巡った炎は、すぐにぽっと消えてしまった。

「全軍————を——! ———!!」

 夜の空に浮かんでいた無数の紅い炎が、稲妻のような速さで無数の折れ線を描く。遠くにいる灰色の何かの群れを何度も何度も永遠に貫き続ける。

「—! ———か!? ——か———!」

 誰かが、僕の名前を呼んでくれたような気がした。

 視界がぐるりと九十度横に回転する。あれって思っているうちに体が橋へと倒れ込んだ。

「—! —っ———ろ、——を———や————!」

 誰かが僕を抱え起こそうとする。

 暖かい温もりが僕を包む。つむりかけた目を微かに空けることができた。

 ——あ、……リズさ、ん……だ。

「—るな! —を——ぐ! おい、萌、目を——るんだ! 私を——!」

 あ、リズさん、凄い綺麗な洋服を着てる。お姫様みたい。

 大きな瞳は紅く輝いている。頬が少し赤いけど、肌は雪の結晶みたいに白く輝いてる。髪の毛は透明な金の糸みたいだ。額を覆う装具についてる蒼い宝石は、今まで見たことがないぐらい美しく輝いている。

 リズさんが僕の首に左手を回して、右手に握った何かを僕の胸に押し当てる。

 すると、凍ったみたいに寒い僕の体に、リズさんが触ってくれたところから優しい暖かさが流れ込んでくる。でもやっぱり……うーん——……

 ——め、がね……—ほ——いい、で——……

「萌! ——った、———から喋らな——くれ!」

 あれ? 何で、リズさん、辛そうな顔してるんだろう? とても苦しそう。

 僕の、せいなのかな?

 僕のせい……なんだ。

 僕の……僕の——……


『ごめんね……はじめちゃん、ごめんね……』


 あれ、今の……声……——?


 リズさんがくれた優しい温もりに包まれる中、とても懐かしくて、とても悲しい泣き声が聞こえた。

 けど、その途端、僕の意識は暗闇に落ちていった。


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