04.

 軽やかに、殺人光線のようにきつい日差しがシエリールのまぶたを焼く。いかにも不愉快そうに、シエリールは、閉じた目を歪ませた。意識が浮かび上がり緩慢な動作で目を覚ます。

「おはようございます、所長」

 シエリールの寝室で、いつもの時間にいつものように紅茶を持って、巡季が待機していた。

 シエリールのベッドは特殊で、棺おけに寝ているのと同じ効果をもたらすように作られている。マットの下には、生まれた地の土が敷き詰められ、柵の様に少しマットの上に飛び出る形で板が張られていた。なるたけ金属を使わず、ほとんどが木で出来ている。

 これは、どこまでシエリールの身体が棺おけに寝ているのと同じ効果を得られるのかという、研究員たちの疑問と、遊び心から出来たものだ。そういう意味では彼らは優秀だったのかも知れない。

 その木枠には、こう英語で刻まれている。“私はここで生まれ、ここで死ぬ。私の一生はここにあり、私はどこにもいけない。それを悲しいということを知らない。”昔は、漠然とそうなのかと思ったものだった。今は、全くごめんだが。

「ああ、おはよう、巡季」

 巡季は、なれた手つきでもって紅茶をポッドから注ぎ、同じ部屋の中にあるティーテーブルにソーサーに乗ったカップを置く。シエリールは、寝ぼけたままで、そのテーブルについた。

ソーサーごと左手で持ち、右手でカップの取っ手を軽くつまんで口元まで運びカップを傾ける。古くなった血を髣髴させる少し茶色がかった液体を少量口に含み香りを楽しんだ。

 といっても、使ってる茶葉は味わうというほど高級なものではなく、懐事情に合わせた一缶五百円程度のものである。もっといい茶葉を味わったことのあるシエリールとしては、これがうまい紅茶でないということはわかるが、不満はない。

 巡季は、まるで執事のように恭しく主人であるシエリールの横に控えている。これが、古ぼけた冷たいコンクリでできたビルの三階でなければ、もう少しお嬢様っぽく絵になったかもしれないと想像したら、シエリールは思わず噴き出してしまった。

「所長、どうかなさいましたか」

「いや、私とこことおまえが不似合いだと思ってな。くくく」

 それにしたって、誰がお嬢様だって? 懐かしいが今はもう笑いの種にしかならない。

「お楽しみのところ申し訳ありません、朝一で鼠祢吉そねきちから情報が入ってきました。値段は言い値で買っておきました」

 実際、今は昼前である。シエリールは夜行性の生き物なので朝はゆっくりだ。だが、吸血鬼としては確実に早起きな方であると自負している。その朝一からだと六時間くらいたっているだろうか。まだ有効な情報であることを期待する。

「で、内容は?」

「はい、今月に入ってから、二人の吸血鬼が滅ぼされました」

 そう言って、巡季は写真を二枚差し出した。

「運よく、と言うよりは作意を感じますが、死体の状況の写真を入手できたようです」

 シエリールが、写真の一枚に目を向けると、そこには上着の前を破られて、十字に磔にされている男の写真だった。恐らくこの時点ではこいつは生きていただろう。吸血鬼は死ぬと塵に還る。目を引く胸には、刃物でこう刻まれていた。

“God bless you”

 シエリールは、性質の悪い冗談に気分を害する。自分たち、吸血鬼をはじめ裏世界の住人も神に愛されれば天国とやらにいけるのだろうか。そんな馬鹿なことありうるはずがないと自分で自分の発意を否定する。

 人がいて、世界が動いて、今日も生きている。適度に血が飲めて、うまい紅茶と葉巻を味わうことがあって、面倒を解決できれば、そこはシエリールにとって天国だ。わざわざ、死んでまでいきたいところだとは思えなかった。

「ふん、教会か。私たちは、常に人と相克しているのだ。珍しいことではあるまい」

 シエリールは、再びカップを持ち上げ、口をつけた。

「ですが、彼らを滅ぼしたものが問題のようです」

「ほう? 仲間割れとかか?」

「いえ、それが、アイゼンクという神父との報告があります」

 シエリールは、その名前にピンとこなかったので、ただ怪訝な表情を浮かべるに留まった。

「アイザック・アイゼンク。鼠祢吉が言うには、異教徒から吸血鬼までありとあらゆるものを殺害するエキスパートらしく、この町の教会に赴任してきたようです。仇名は、片手袋ノーフェロウ。左手にだけ、常に手袋をはめているとか。戦闘能力は、かなり高いといわれてます」

「ふむ。それで、その裏世界の有名人は私と何か関係あるのか?」

「彼の目的は、恐らくないとのことです」

 シエリールは、要領を得なかった。どういうことか、そっくりそのまま聞き返した。

「どうも要領を得ないな。その目的のない神父が、私とどう関係があって鼠祢吉は情報を持ってきたのだ?」

 もったいぶるように話している巡季は、さらに辛抱強く買ったものをゆっくりと並べた。

「彼は、事実を持ってきました。その神父に目的はなく、さらに、彼の赴任地には人外が全く住まなくなるという事実です。鼠祢吉の表現を借りますと、後にはぺんぺん草も残らない、そうです」

「ほう、では、鼠祢吉は自分の保身をかねて情報を私に持ち込んだのか。安かったんだろうな、その情報」

「はい、破格でしたので、言い値で買いました」

 鼠祢吉自身、ネズミの獣人である。つまり端的に言えば、死にたくないから先にあいつを消して欲しいということだ。

 この街、美作市で一番強い個体は恐らくシエリールだろう。これは、自惚れや、過小評価の結果ではなく、客観的な考察による共通の認識である。だが、鼠祢吉はそれでも安心できなくて、少しでも勝率が高まるように情報を置いていったということだ。これで金を取るとは、そこは誇りの残りカスと言えるだろう。

「わかった。対策はぼちぼち考えよう。私はシャワーを浴びてくる」

「はい。言い忘れてましたが、やられた二人は古木氏の子飼いだったということです」

 そう残して、巡季は事務所へと降りていく。

 単純に言えば、神父がシエリールを含めた人外に宣戦布告をしてきたと言うのがわかりやすいのだろうが、最後の一言でことはそんなに単純ではなくなった。

 恐らく似たような噂が、古木の元にも行くだろう。するとあの男は、シエリールが原因と勘違いするはずだ。彼女としては、ここらの吸血種とは面倒だから仲良くやっていきたいと考えているのだが、それも古木の態度しだいだと問題を後回しにする。

 シエリールは、熱めに設定したお湯を浴び、眠気と眠りによってついた汚れ、未練を流した。



 冷たいコンクリのうちっぱなしの壁が室温を外気温より少しだけ低く感じさせた。シエリールの仕事場は、ひどく殺風景な室内を切り取ったような場所だ。必要なものは置いてあるのに、何もない、と人に評させてしまう強制力みたいなものがここにはある。

 シエリールはこの街の雑踏を好んだし、このような部屋も好きだった。自分になにかあったとき、なんの後腐れなくここを去れるからだ。

 シエリールは、今日も凛然として、事務所に降りた。降りて、恐らく来ないであろう依頼人をただ静かに待つ。その様には、先日、猫を一匹探し出した報酬があったので、余裕があった。他にも負けず嫌いもあるし、矜持もあるので、普段も武士は食わねど高楊枝の精神を掲げていて、つまりはいつも通りの雰囲気だ。猫一匹で、あそこまで儲けられるのはこの日本という資本主義大国の中といえど右に出るものは居ないだろう。

 依頼人は来なかったが、それより価値のある友人が訪ねてきた。

「調子どう?」

 入ってくるなり、真澄はそんなことを言った。

「ぼちぼちだよ。昼間は力が入らなくて嫌だな」

 シエリールは、机に行儀悪くブーツを履いた足を乗せ、本を読んでいる。外では丁寧だが、知人の前というか、真澄の前では少し崩れた感じになる。巡季は、奥に行ってお茶の準備をしているようだった。

「ほい、お土産」

 真澄は、ラーメンスナックの四つの味が組み合わされているのをシエリールに投げて渡した。

「おおっ、毎度毎度すまないね。だから、おまえは好きだよ」

「なにそれ? 随分あんたの好きは安っぽいね」

 そう言いながら、真澄は大仰に肩をすくめて見せた。

 シエリールは、吸血鬼なのだが何故かこういう駄菓子が好きで、特にこのラーメンスナックは評価が高い。彼女は、偉そうな事務椅子の上でしゃがみこむといった、不思議な体勢で駄菓子をかじる。

「なんでそんなかっこでいつも駄菓子かじるの?」

「駄菓子を食べると、こんな感じにならないか?」

「いじけてるようにしか見えないよ?」

「違う」

 ちっちっちと指を振る。

「これは、こじんまりとした定着感ないし安心感だよ」

「はい、もちろん巡季さんにも」

 真澄はさらに持って来たビニル袋を、一つ巡季に差し出した。そして、来客用の固くなったソファに腰掛けた。

 巡季は、感情の起伏が少ない。見た目にも言葉にも行動にもだ。

「ねえ、巡季さんていつもあんな感じなの?」

「なに、朴念仁が気になるのか? 残念ながら人造人間ホムンクルスは皆あんな感じだよ」

「わたし、もっと巡季さんの好き嫌いとか見たいなぁ」

 その言葉通り、真澄はこまめに巡季へのお土産は違うものを用意してくる。この前は、ベタにチョコレート菓子を持ってきた。

 ベタと言っても、地元産のお土産でポテトチップスをチョコでコーティングしてある、見るからに微妙そうなものだった。実際食べてみると、甘さとしょっぱさが同居していて、真澄とシエリールの感想もあまじょっぱいものとなった。しかし、巡季は、黙々と全部食べた。これでも人気商品らしい。

「ありがとうございます。これは、大福、ですか。では、自分のお茶を入れてきます」

 巡季は、客が来るとシエリールと客の分の茶は入れるが、自分の分は必要ないとして入れることはなかった。それが最近、真澄が来るとお茶を入れてくるようになってきている。

 多分、きっかけはシエリールが言ったことに起因するのだろうが、自分から入れにいく姿を見ると、真澄は嬉しそうにその背中を見つめていた。今日も、真澄にお茶を置いて、ミニキッチンへと行った。その恰幅のいい背中に真澄は見惚れているようだ。

「おおい、それ、もしかして日本和菓子堂の特製大福じゃないのか?」

 シエリールによる気分をぶち壊す叫び。わざとだ。なんというか、友達を恋人にとられたくない心境みたいなものから来るちゃめっけである。

「はあ。そうよ、ちゃんとあんたの分もあるから安心しなさいな」

「さっすがー! だから、おまえは大好きだ」

 今度は、“大”をつけた。真澄は、あからさまなため息を吐いている。

「さっき聞いた気がするよ、それ」

 おそらく、真澄は百円の駄菓子で好きで、一個五百円の大福で大好きになるこの安い感覚にあきれているのだろう。

 さらに、その軽く出てくる好きという単語にも戸惑いを覚えているのであろう真澄の困惑ぶりを観察した後、口を開く。

「それは違うぞ、真澄。私は、長命だ。それゆえに、個人的に好むものは少ない。なぜならば、そのようなものができても大体は先に無くなる。だから、個人的に好きだというものは作らないようにしている。そういうわけだ、私の好意は最大の賛辞として受け取ってもらってかまわない」

 真澄は、一瞬驚いた顔をしたがすぐに笑顔になった。どうやら当たりのようだ。

「普段はピリッとしないのにね。あんた魔法で読心でもしてる?」

「そんな魔法は持ち合わせていない。持っていても友達の心を読むくらいなら、太陽の下、河を横断してた方がマシだ。なんなら、目的地が教会でもかまわない」

 いまいち、わかりにくい例えに真澄は少し頭を悩ませ、なにかに思い至った顔をする。読心術などなくても、真澄は考えが顔に出やすい。見てるだけでも楽しかった。

「でも、好き嫌いってなるものなの? 瞬間的に感じるものでしょう。そう、そこにどんな苦難が待っていてもそれらを忘れて落ちるのが恋ではないかと」

 真澄は、わざとらしい少し大げさな動きで、まるでロミオがジュリエットにするみたいに天井に手を伸ばす。

「む、ごもっとも。だが、他に関心を示さないことでそれはある程度制御できる。好きなものは殺したくないしな。稼業的に仕方ない部分もある」

「そーですか。でも、頂けるものはありがたく頂戴しましょう。って、あー、こら! それは、巡季さんの分!」

 シエリールは、三個の大福のうち二個目を奪って自分の机に逃げ帰る。だが、真澄は、ふふんと笑みを浮かべた。

 まるで、シエリールのこの行動はお見通しと言わんばかりに自信に溢れている。真澄は、さらに控えたるビニル袋を取り出した。お茶を入れて戻ってきた巡季に本命の一個を差し出す。日本和菓子堂の苺大福五百五十円!

「あー! ずるいぞ真澄! えこひいきだぞ。差別反対!」

「あれだけ食っといても、まだ文句を言うか。あんたには、ラーメンスナックあげたでしょ! まさか、値段の違いが心遣いの差なんて狭量なこと言わないよね?」

 真澄は、泣きまねをする。冗談でも、真澄のそういうところには弱い。

「うぐ。だが、おまえはいつも巡季ばかり贔屓してずるいぞ。おまえの気持はわかっているが、あからさまはよくないぞー」

 真澄の気持ち。それは、巡季が好きという気持ち。この気持ちは、シエリールにはしっかり伝わっているが、本人にはちっとも伝わらないのが歯痒いだろう。

 確かに、向こうとは寿命が違うし住む世界も違う。でも、真澄は、仕方ないと割り切っているように見える。好きになってしまったのだから、と。

 一応、真澄も何のとりえが無くとも、魔に関わる家、有坂家の娘だ。無関係ではない。魔を律する家の出で、人造人間ホムンクルスとくっついたら、それはそれで話題にはなる。

 巡季はそういうのに疎いためか、好意というものの扱いに困っているようだ。道のりは遠いのだけが、端から見ていてもやきもきする。進展速度は、真澄が生きているうちに思いが届くとは思えない速度だった。

「真澄さん」

「は、はひ!」

 真澄は急に声をかけられて、裏返った声で返事をした。慌てて顔に笑顔を浮かべ、体制を整える。

「これは、大福に苺が入ってますね。驚きです」

 巡季は、こくこくと頷きながら、苺大福を食べていく。驚いた、という巡季に真澄は驚いた顔をしている。さすがにシエリールもこの反応は初めてであるし、巡季が食べ物に興味を抱いたのを見るのも初めてだった。

「気に入りました?」

「いや、なんと言うか、日本人の発想には時折驚かされますが、これは素晴らしい。私はてっきりピンクの餅が苺を連想させ、苺風味をつけることで表現しているものかと思っていました。これは、まさに苺大福の名を冠するに相応しい」

 これは、気に入ったということだろうか。あの巡季が、例に無くよくしゃべっていた。おいしいものは、舌を軽やかにすると聞いたが本当らしい。真澄が不思議な充実感に浸っているのが丸わかりだ。

 シエリールも普段見ない巡季の姿に驚いていた。大福を食べながら、口が半開きになっているのに気付く。

「ああ、シエ。いらないならもって帰るけど、これいる?」

 真澄は、そう言って細巻きの葉巻を鞄から取り出した。

「おおっ! それは! もう、なんだ。私と結婚しよう、真澄」

 シエリールは結構マジ入ってる目で、真澄に迫る。

「好きから始まって、大好き、結婚ときたけど。次は、一緒に墓に入ろう? わたし土葬と棺おけは嫌よ」

「それもいいな。棺おけはなに、すぐ慣れる。大変なのは通夜までだ」

「もう。それにしても吸血鬼でも、葉巻吸うんだね。あんたに会うまで、知らなかった」

 ふと、真澄の純粋な疑問が口をついたようだ。

「ああ、我々も人間が快とするものは大抵やるよ。探せば、人がやることでやってないことはないんじゃないか。酒も飲む奴は飲むし、美食家を語る奴もいる。もっと言えば、殺すことに興奮する奴や、死体に性欲を抱く奴まで、似るんだよ」

 真澄は、シエリールが“殺すこと”や、“死体”という言葉を口にするたびに、顔をしかめる。

「あんたの例え方なんか嫌。でも、まあ、吸血鬼って人間からなる人もいるんでしょ?」

「そうだよ。そんなに嫌そうな顔をするな。私たちは隣人関係だということだ」

 真澄は、また顔に出たかと自分に呆れている。

「それにしても、わたしが一番聞いた話と違うのは、あんたたち、食事するのよね。しかも、あんたなんか、空腹でダメになってるときもあるし。なんか、吸血鬼って血があればいくらでも生きれるぜ、みたいだと思ってたよ」

「ふむ、私はともかく、一般の吸血鬼も、肉でできてるからな。タンパク質は必要なんだ。まあ、血からタンパク質を摂取すればそれだけでも生きていけるな。ただ、人からそれだけの血を得るのは難しくなってきたから、大半の奴は、人間と同じものでタンパク質の摂取をしてるんだ」

「そんなようなこと前にも言ってたよね。輸血パックで生きてるんだっけ?」

「そう。そこは、吸血鬼。最低限の血は必要だ。味を求めてというのもいるが、魔力を蓄えたり、体を維持したりと要るんだよ。……残念か?」

「うー、残念。うん、そうかも。シエは、吸血鬼だけど好きだから、わたしらを食料的に捉えている部分があるのはなんていうのかな、もどかしいというか、やっぱり残念がしっくりくるかな?」

 シエリールは、黙った。それは、そっくり真澄たち人間が、動物たちに仲間は食べないでとお願いされているに等しい。人間だったら、その動物を食べないことはできるかもしれないが、自分らにはその代わりはない。

 真澄はそのことを気に病んだのか、俯いていてしまった。

 だが、真澄は下にやっていた視線をすぐに上げる。そしてなにかを言おうとするが、言葉になっていない。

 シエリールは、今もらったばかりの葉巻の封をあけ、真澄がうらやむきれいな白い指でソフトケースをとんとんと叩き、出てきた一本をくわえた。葉巻をくわえ、自分のオイルライターの蓋をなれた手つきで弾き、火をつける。その様は、流れるようで、きれいな外見もあるが、愁いを帯びた様は映画の一コマを見ているかのようだった。同性の真澄に素直に憧れると言わしめる、圧倒的な美しさだ。

 ふーっと、煙を吐く。流れるような場面展開の中、映画では絶対言わないような一言を言う。

「不味い」

 真澄は思わず、こけそうになる。

「まずいなら吸わなきゃいいのに」

「この不味さは癖になるんだ。そうして、繰り返しているとその不味さが恋しくなって、いつの間にかこれはうまいって言うんだと勘違いするようになる。だから、私は敢えて葉巻の感想を言うときは不味いということにしている」

「どこまで、捻くれているの? あんたは」

「客観的事実を、主観的に持続するのは難しいのものだ。不味いと思ったものを、吸い続けた上で不味いと認識したまんまということは難しいということだ」

「……」

「何を難しい顔をしている? 単なる感情の遊びだよ。不味いものなら吸わなければいいだろうと言いたいのだろう? よく言われたよ」

「過去形?」

「ああ、今は人前であんまり吸わないからな。さっきの答えだが、とどのつまり、今はうまいと思ってるからさ。最初に、口にしたとき不味かった。もう二度と口にしないぞと思った。だけど、二三日するとあの不味さってどんなんだったかと気になり始める。そして、確認する。それを繰り返しているうちに、うまい不味い関係なくあの味が欲しくなるんだ。それだけのことさ」

 真澄はなんだが悟った顔で笑っている。

「あんたって、時々すごいよね」

 前後のつながりがなく、突拍子もない言葉だった。

「あまり聞きなれない評価だ。だが、好意のこもった評価は、喜んで受け取るがね」

「ちなみに、タバコを吸い続けてるから、とかじゃないから」

「ああ、わかってるよ。おまえは、そんな小さなことを捉えて全体を評価するような視点は持ってないだろう?」

 真澄は、友人に正しく理解されるのはやはりくすぐったいのだろう。はにかむように笑った。

「何を満足そうな顔をしているのか知らんが、その様子ならこれ以上の幸せは要らんな」

 シエリールは、いたずらっぽく笑う。彼女は色んな笑顔を見せるが、このいたずらっぽい笑顔は、普段の少し悪目、と言うか怖い、彼女の雰囲気に合っていて、一番魅力的な笑顔である。

「いやいや、もらえる幸せはいくらでも。ちょーだい」

「ふっ。強欲だな。人間のそれはいつ見ても興味深い」

「なんか人間のとか言うとあんたが人間じゃないことを強調されてみたいで悲しい。やっぱり、ぬくぬく生きてきたわたしはあんたになにも言えないのかな?」

 最近は、こういう細かいところで引っかかった。たいしたことではないのだが、それでも真澄はことあるごとに思い詰めるような顔をする。

「私は、自分と同じ価値観をもった存在からの同意を求めてはいない。おまえが、自分の考えでなにかをしゃべることを待っている。時には、それが相手を傷つけるかも知れないが、その違いが助けになるときもある。そう接してくれたとき、おまえは私のいい友人となるだろう」

「そう?」

「そうだ、特に私たちは生きてきた背景も経験も種族も違う。その相互交流は実に有意義なことになるだろう。だから、おまえは思うまま、感じるままに話をして欲しい」

 真澄は押し黙った。少し、考えるような仕草を見せた。

 シエリールもタバコの煙を吸い込み、黙ってその様子を見ている。

 真澄の目は光を失わず、力強くシエリールを見つめ返し、そして頷いた。

「それで、えと、なんだっけ。なんかくれるとかなんとか? くれるものはもらうよ。ちょーだい」

「おまえは、躾の悪い犬か? 理解というものに、もっと敬意を払うべきだ」

 ふうーっと、煙を吐く。

「……まあ、いい。今度、巡季と飯食いに行って来い」

 シエリールは、すっかり短くなった煙草を惜しむように灰皿に押し付けた。

「はい?」

 あまりに唐突すぎて、真澄は理解しきれず、右耳から入って左耳から出て行った言葉を追いかけていた。

「なんだ、そこまで間抜けを晒してくれると、提案した甲斐もあるというものだな」

 シエリールは、満足そうな笑みを口元に浮かべる。

「シ、シエ。もう、大好き! 本当に結婚しようか?」

 真澄は、興奮し机を回り込んでシエリールに抱きついた。

「私でいいのか? 本末転倒だろう……」

 シエリールは、あきれているように突っ込む。真澄は、やってしまったという顔をしたが、すぐに復活。今の真澄には、巡季とのデート権があるのだ。落ち込んではいられない。

「それで、あんたはどうするの? あんた料理できなかったよね?」

 意外と何でも器用にこなすシエリールと言えど、やらないことはできない。自明の理である。シエリールは、巡季に家事を任せていてそのほとんどはできない。多分やれば、うまくこなす自信はある。だが、数日のうちにどうにかならないことも自信があった。

「心配はいらない。私は、所緒しょおとディナーの予定がある。乗り気ではないのだが、普段のことがある、一度くらい付き合ってやらねばな」

 所緒とは、美作中央総合病院の医者である。二戒道 所緒にかいどう しょおという。怪我をした巡季が世話になる超凄腕の闇医者兼外科医だ。

 言葉では乗り気ではないなどと言っているが、シエリールの目はどんな美味しいものが食べられるのか明らかに期待していた。

「ふーん、もてるんだね、あんた」

「私に寄って来るのは、皆変人ばかりだがな」

 シエリールは、自嘲気味に笑って、ため息をついてみせる。真澄の目は珍しいものを捉えたかのように光った。普段は、恋とかに興味なさそうに振舞っているので新鮮だからだろう。

「勘違いするなよ、真澄? 恋人に飢えてるとかではないからな。変人も見方を変えれば、面白いんだが、ときどき疲れるんだ。それだけだ」

「なんだ、つまんない。二十八点」

「意外と高得点だな」

 二人は、そう言い合って笑いあった。



 結局、この日、客は来なかった。夕闇が帳を下ろし、騒がしい人工の昼間がやってくる。

 シエリールは、巡季の作る、不器用だが本そっくりに出来上がった晩飯を食べ、腹を落ち着けるためにお茶を飲んで過ごしていた。

 この時間、吸血鬼等、夜の眷属には一日がまだ始まったばかりだが、人間たち、昼の眷属には宴会を始める以外に向いてない時間である。

 結界が、人ではない何かが来たことを伝えるようにいつもとは違う鳴り方をした。緊張した糸を弾くようなもっと高い音だ。

 硬い革靴が、コンクリの床を叩き、一歩一歩をはっきりと事務所兼自宅の廊下に響かせていた。シエリールは、どんな大物が来たかと期待をもって眺める。万が一、敵に備えファーのついた黒いジャンパーも手の届くところにあることを確認した。

 扉を軋ませて入ってきたのは、先ず男が二人。いずれも、サラリーマンのようなスーツを着用している。その二人は、偉い社長の出迎えか、組長の出迎えか、どちらにしろぞっとしない状況しか連想させない感じで、入り口の両脇に待機した。

 最後の男は、いつの間に電源を落としたのか、真っ暗な廊下から浸み出すように現れる。ベージュのような色のスーツに、同じ色のハットをかぶっていて、首には朱色のマフラーがかけてあった。

 帽子を持ち上げ、それを胸にあてる。シャツの色は黒い。歳は、そう若くもないし、年長であるかと言えばそうでもない感じだった。三十から四十くらいの中年に見える。

「どうも、シエリール。うちのボスが話があるそうなんで、迎えに来てやったぞ」

 男の動作は高級な人間のものを真似てはいるが、言葉や、態度から、それが似非えせであることがシエリールにはすぐに見て取れた。

 シエリールは、その登場を自分の椅子に浅く腰掛け、腕を組み、反り返るような態度で迎え入れる。この客に自分がへりくだる必要はないのを知っての上だ。

「ほう、礼儀作法も知らない下っ端超越種スーペリアをお使いにして、私を呼び出すとは。いつになったら、それ自体が侮辱であることに気がつくのか。まあ、おまえを見ていると向こう千年、可能性はないな」

 シエリールは、深いため息を吐いて見せた。

「貴様」

 男は、静かに威厳があるように言葉を発する。

「ボスが、どんなことがあっても貴様と争うなと言うから我慢するが、二度はないぞ」

 威厳はあるようにして備わるものではなく、威厳のある元から切り放たれて初めてそう伝わるのだ。威厳まで似非で、言葉にはまるっきり説得力がなかった。

「私は、おまえのようなものが迎えに来るたびに同じことを言ってきた。初めてではない。それに、言わなかったこともない」

 偉ぶっている男は、食って掛かろうとしていたが部下らしき男が二人がかりでなだめた。

「で? ビッギー《biggy》。どこに、案内してくれると言うのだ?」

 シエリールにビッギーと仇名をつけられた男は、苛ついて、部下を乱暴に振りほどき襟を正した。

「来ればわかる」

 男は、そうぶっきらぼうに言い捨てた。どうも、男も、彼のボスもシエリールが拒否すると言う選択肢があるのを知らないようだ。シエリールは、救いがたい無知だと半ば絶望と同義の諦めを感じていた。

 ボスのことは、ノータリンと心の内の愛称は決まっていたが、ここまで来るとそれではすまないような気がしてくる。

「私は、行かない。気分が乗らないからだとボスに言え」

 本当は、アホさ具合にいい加減辟易したので間をおきたかったのだが、そんなことを口にするとこの男を殺す面倒が生じることになり、さらに、こいつを使いに出して本当に偉そうにしている上司とこれまた面倒なことになるので、飲み込んだ。

「おい! そんな勝手が……!」

 シエリールは、さもうんざりした表情を浮かべていたが、それを少し引き締めただけでビッギーは続く言葉を失う。

 ビッギーは、バツの悪い怯えを含んだ顔のまま自分の右にいる部下に黙って手を出した。部下も、黙ってその手に携帯電話を乗せる。ビッギーは、明らかに苛つきのせいで携帯電話の操作が雑になり、さらに機嫌を悪化させていた。ようやくをもって、ボスに連絡する。

 ボスこと、古木龍造とビッギーのやり取りは、いくら人に比べて耳が良いといってもシエリールにも丸聞こえだった。

「ボ、ボス。じ、実は、シエリールの奴が気分が乗らないとか言って拒否するんですよ。どうします?」

「おまえはアホか? 肩の上に大げさに乗ってるのは言葉をしゃべるかぼちゃか? ああ? なぜ、子供たちではなく、おまえを行かせたか考えろ! 僕は、命じたぞ。それに変更はない。中止もだ。おまえならやれると信じているよ」

 シエリールは驚きと感心に近いものを感じた。古木は、電話の向こうでも相も変わらず声色を使い分け、巧妙な演技をしていたからだ。

 古木は、ここら辺の吸血鬼の元締めで、四十人の子供と六十人の孫がいると言うのが口癖である。その勢力の強さ、年季の古さで一目置かれている存在だった。自分は、皆に尊敬されているし、この街で自分に逆らえるやつはいないと心から思っている。その影響で、このように勘違いする超越種が出てくるのだ。

 しかし、シエリールは、古木を指してノータリンと仇名をつけ、彼をお山の猿大将のように思っていた。率直に言えば、愚か者の典型であると思っているし、それに従う全員と言わなくても、大半の奴が同じ様に愚かであると感じている。

「ボスの指示は、下った。強制的に来てもらう」

 この場になってもまだ、強気の姿勢を崩さないのを見て、シエリールは、ビッギーの中の古木を覗きたいと真剣に思った。

 ビッギーは左の部下に指示を出した。部下は、部屋の電気を消す。表の通りは、昼間のように明るく、電気を消したビルの部屋をブラインド越しにも支障なく照らし出していた。

 だが、さっきよりは確実に暗い部分は増え、その暗闇はシエリールや、巡季の足元にも忍び寄っている。

 シエリールは、何が起こるのかほとんど警戒せずに椅子の上で身じろぎ一つせず、不遜な態度で見ていた。曲芸を楽しみにしている子供ような笑顔をうっすらと漂わせて。

「一瞬だ。暴れるんじゃないぞ」

 次の瞬間、シエリールの体だけが影に浸みこんでいくのがわかった。椅子は、なんともなっていない。同時に、巡季にも変化を感じた。恐怖と言う感情の欠損をしている巡季も慌てることなく状況の変化を見守っているようだ。

「ふむ、ビッギー、おまえは棺担ぎ《コフィンテイカー》だったんだな。丁重に扱えよ。壊れ物だからな。くっくっく」

 シエリールの笑えない冗談に気分を害しながら、ビッギーは与えられた仕事をこなしていく。

 棺担ぎとは、影を介して、移動したり、対象を移動したりすることができる種族である。戦闘力は低いが、その能力の特殊性から登用する権力者は少なくない。やはり、彼らにも能力に個体差がある。自分と相手の影が交わっているのが能力使用の絶対条件であるが、そのときの影の濃さや、運べる量、大きさ、速さ、動きに対する反応(暴れる相手をどれだけ無理やり運べるか)など、千差万別である。この能力、一見便利そうに見えるが、移動する場合、移動先を知らないと移動できないという制限もある。しかし、力のある個体になると地球の裏側でも移動ができるので、権力者などに愛されてきた。

 シエリールは、ビッギーが彼女の元を訪れたときのように影から染み出す。移動が終わると、そこは大きな部屋だった。広い空間に、長い豪華なテーブルが置かれ、その横には左右十人ずつぐらいがゆとりを持って座れるように無駄に豪華な椅子が配置されている。

 上座には、青年より少し若いくらいの金髪の男が落ち着き払ったような感じでその移動を見守っていた。その男は、鹿の首の剥製をかけた暖炉を背に一番豪華な椅子に座っている。

 左右に部下をはべらせていた。暖炉には、他に、マスケット銃と、サーベル、金の置時計が目につく。一回見ればお腹いっぱいになる貴族の食卓の光景だ。すでに、食傷気味である。

 その外見とは裏腹な身分と、立派なディナーテーブルと、暖炉を所持しているのが、彼らのボス、古木龍造だ。彼に相応しいのは、その無礼な部下が関の山だろう、とシエリールは値踏みした。

 シエリールはその上座から三つ目の向かって右側に座らされている。出てくるときも、寸分動かず、偉そうに胸を張り、腕と足を組んだ状態で現れた。巡季も、テーブルを挟んで反対側に座っている。

 後から、ビッギーとその部下二人も出てきた。ビッギーは帽子を取り、上座の古木の所にすかさず行く。何事かを耳打ちされた後、丁寧に下がっていった。シエリールは自分のときもそういう謙虚さが見えれば、こちらも相応に扱うのにと思う。思うだけ。

「いやあ、久しぶりだね。シエリール。今日は、些か強引に来てもらったよ。こうでもしないと君、中々会いにきてくれないでしょ? 忙しいのもわかるけど、もうちょっと会いにきてくれよ」

 古木は、寄りかかっていた椅子から背を離し、両手を目の前のテーブルの上で組んだ。

 古木は、今も柔和な表情を浮かべている。いつも笑顔を絶やさず、理解があり、寛大で、物腰の柔らかい人物を演じていて、シエリールは、そのどれも気に入らなかった。

 さらに言えば、ここらの元締めという面倒な役をやっていることを黙認しているせいで、偉いと勘違いして、シエリールを駒の一つと見ていることが、最も嫌悪していることだ。

 確かに、住んでる長さや、勢力の数は古木のほうが上だが、それはシエリールを駒扱いできる理由にはならない。シエリールを駒、道具として扱えるのは限られている。間違っても、このような粗末な存在ではない。シエリールは、そう思っている。

 その気持を、はっきりではないが、鈍い奴にも通じるように態度に出していた。それを見て、なお古木は好意的であるように振舞う。嘲りなのか諂い《へつらい》なのか、恐らくどちらかだろうが、シエリールは嘲りのような気がしていた。

 この手の連中は、どこまでも自分を大きく、相手を小さく評価する。それでも、シエリールより優れていると思っているところはいじらしいともいえなくもない。蒙昧もここまで来ると、何かの長所のように思えてきて敬嘆しそうになるときがあった。

「用件を手短に頼む」

 シエリールは、会うのも不快といった感じで、古木の挨拶を無碍にした。

「……この一週間で、僕の子が二人消滅させられた。君のことだ。写真はもう見ただろう? 酷いと思わないか? 彼らがあまりに哀れすぎる。まだ、若かったとはいえ、とても不愉快だ、シエリール」

 古木は、大げさに悲しんだかと思うと、一転して冷ややかな言葉と刺さるような視線を向けてくる。

「で?」

 シエリールは、その視線を軽く流しながら、次を促す。二人の様子を見て、左右の取り巻きたちがあからさまな怯えを浮かべていた。

「その狩人というのが、君の関わりだというじゃないか。この不始末の責任をきっちりとってくれたまえ。なあ、シエリール」

「ほう。初耳だ。私の関わり? 心当たりがない」

 シエリールは、全く身に覚えがないと言う態度を貫く。古木の視線がさらに鋭くなった。さすがこうなると、威厳を感じなくもない。

「僕の情報網によると、この間、黄砂会という人間の事務所が焼けたのに君が関わっているというじゃないか。シエリール?」

「ああ、それは誤解だ。古木。燃える原因に仕事を頼まれただけだ」

「だが、その聖隷教会の殺し屋の依頼主は、黄砂会だというじゃないか。恐らく、神の子を邪魔する化け物がいるんですと、金で泣きついたんだろう。それが、あまりにも説得力に溢れているものだからあのような凄腕が来たんだろう。そう思わないかい? シエリール?」

「そこのどこに、私が関係していると言うのだ?」

「神の子を邪魔しているのは、主に君じゃないのか? 違うかい? 事実、去年も黄砂会の幹部を一人殺してるね? 他にも、細々と邪魔してるみたいじゃないか。なあ、シエリール?」

「いいか。悪さをするっていうことは、自分勝手をするということだ。自分勝手をすると、当然それを面白くないやつもいるし、被害をこうむるやつもいる。連中は、悪いことにはなんでも関わっているから、ぶつかる確率が高いだけだ」

 シエリールの最近は、二度銃の大量輸送を邪魔し、売られていく子供たちを救い出したに過ぎない。それだって、抗争になったときのための妨害依頼だったし、売られていく子供の中に、敵対する暴力団の子供が混じっていただけだ。

 その代わりではないが、ある組の幹部を生きたまま渡したし、外国から出稼ぎに来た連中に追い込みかけていた他の暴力団連中に小学校中退にもわかるように、手を出すなと忠告してやった。

 それの動いてる金の割合はとんとんではないが、特別気持ちを込めて邪魔などしていない。

「結局、君は邪魔してることを認めるんだね? シエリール」

「私は、あいつらの依頼も受けてるし、不公平にした覚えは無い。それから、いちいち、名前を呼ばないでくれ。自分が誰かはわかっているつもりだ」

 自分の名を連呼する古木に向かって、うっとうしそうに言った。古木は、正面からたじろがない強い視線を向けてはっきり言う。

「いや、君は自分がどのような立場に生きているのか、よくわかってないように見受けられるよ。〔シエリール〕?」

 シエリールは、これについて誤解、もしくは思い込みを晴らそうするなら大変な労力と犠牲が必要になるので黙って軽く睨みつけただけに留める。古木は、それを正面から受け止めた。間を置いてシエリールは、話を戻す。

「よしんば、私が関わっているとして、では、動機は? 私は、なんのために好き好んで人間の、しかも暴力団の邪魔をしなきゃならない? そう思わないか? 私は、面倒が嫌いなんだ。それは、おまえもよく知ってることだと思ったが?」

 ここで、古木は明確な理由を言えなかった。また、適当にでっち上げることもできなかった。それぐらいシエリールは面倒が嫌いなのだ。

 それを見たシエリールは、いつもの調子で言う。

「依頼主まで掴んでいながら、理由が弱いな。それでは、相手を納得させられないぞ?」

 上から他人事を指導するような話し方に古木の言葉がきつくなった。

「その、人を小馬鹿にしたような話し方は止めろ。うんざりだ。なぜ君は、僕を馬鹿にする? ここの地域の平穏は僕がもたらしているんだ。君じゃない、この僕だ。その僕が、言う。この件は君が責任もって解決したまえ」

 その言葉に、今度はシエリールの視線が厳しくなる。古木は、明らかに大物の皮が少しめくれていた。

「何を勘違いしてるかしらないが、私は、おまえがここの古株だから敬意を払って友好的にしてるんだ。おまえは、命令できる立場にないし、私も命令を聞く義務はない。まして、小馬鹿にされる覚えも無い。人にものを頼むときには“お願いします”と言わなきゃならないことを、ママに習わなかったのか?」

 古木は、言い過ぎたかと幾ばくか後悔したのか、表情を硬くした。シエリールにここで本気になられれば勝てないことくらい古木でもわかっているはずだ。古木は、口元にうっすらと笑みを浮かべ、テーブルに乗せて組んでいる両手を強く握った。これ以上その皮が、めくれないように必死なのが伝わってくる。いかにも余裕を装ってドイツ語を使って皮肉った。

『お願いするよ《bitten》、かわいいお嬢さん《lieblich Fraulein》』

「これはご丁寧に、私の嫌いな祖国語で、痛み入る。他ならぬあんたの頼みだ飲もうじゃないか、バルデンバーグ」

 シエリールが口にしたのは、古木が昔捨てた名前だった。言い出したのは、古木なので、言い返せず、からっきしの威厳のために微笑んで見せる。

 シエリールは席を立とうとテーブルに手をかけた。そのとき、古木が声をかけてくる。

「なあ、君に提案がある」

 古木はいきなり話を変えて、切り込んできた。

「なんだ?」

 シエリールは相変わらず、人を見下す話し方が直ってない。シエリールの話し方と古木の態度、どっちも直りそうになかった。

「手を組まないか?」

「人間の神父くらい一人でなんとでもなる」

 古木は、組んでいた手を解き、大きく手を広げてみせる。

「違う違う。君は、黒い森に復讐したいと思ってないか? 僕は、ドイツにいる僕を見下したクズどもに復讐したいと思っている。君が、僕の配下になってくれれば、僕は黒い森の中枢に食い込める。そうすると、僕は、クズどもに復讐できるし、君もやつらの中に入っていける。どうだい、魅力的だと思わないかい?」

「正気かおまえ? 私に、あの狂気のるつぼへ戻れというのか? あいつらの研究体に戻るくらいなら死ぬ」

 恐らく、古木が言いたいのは、古木が取り立てられることでシエリールは研究体ではなく、研究者の側に回れるということなのだろう。つまり、シエリールが黒い森に追い回されることもなくなると。

 だが、連中はその程度でシエリールという成功体を解放しないだろう。シエリールは、どんな約束を取り付けたか知らないが、連中を甘く見すぎではないだろうかと疑念を先に持ってしまう。

 そもそも、すでにシエリールの位置を知るということに利用されているかもしれない。それに、さらに利用される可能性もある。

 古木はそれすら清濁併せ呑むつもりでやっているかもしれないが、甘いと思う。

 しかし、シエリールは古木の気持がわからないでもなかった。出世欲が強いやつには特に光って見える提案ではあるからだ。黒い森で発言力を持つことは、そっくりそのままヨーロッパを中心とする裏世界に同じだけの影響力を持つことになる。古木の復讐は辱める方法でも、追い出す方法でも、もちろん殺す選択も自由に選択できるだけの権利を得ることができるのだ。

「大義のために、枝葉は捨てるくらいにならないと、生き辛いだろうに。まあ、いいよ。では、帰りも送らせよう」

 古木は、控えさせているビッギーに合図を送ろうとしたが、シエリールがきっぱり断った。

「大義に目がくらんで、足元をそっくり持っていかれては相手の思う壺だ。自信過剰な策の弄しあいは傍から見るととても滑稽だぞ? 帰りは結構。自分のことは、自分でできる」

 古木は、小馬鹿にされたこと、自分の提案が断られたこと、滑稽と笑われたこと、それらで目には怒りの色が濃く浮かんでいる。だが、体の表面上はそれらを押し隠していた。

「ああ、そういえば。最近猫を捕まえるビジネスをやったことは?」

 シエリールは、思い出したように聞いた。

「いや、特に関心はもっていないな」

 怪しいほど満面の笑みで古木はそう答えた。

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