妃 候補〈1〉




 優しく。



 誰かがリシュの髪を梳いた。




 おでこから左耳の後ろへ……



 ……そうっと、撫でる手に。




 リシュは思い出す。



 リサナの手を……。





 ああ……



 なんだか懐かしい。



 こんなふうに母様に触れられるの



 久しぶり……。




 でも。



 ……夢?




 夢。





 母様はもういないはず……




 けれど何度もその手は触れる。



 優しく髪に




 ……そして耳裏へ、それから頬へ……



 ─── ⁉




(だれ?)




 冷たい手の感触にドキリとして、リシュは目覚めた。



 視線の先には自分を覗き込む白に近いくらい薄い水色の瞳。




「……ッ ⁉ ろッ ⁉」



 ───ロキっ!




 寝台の上、リシュが横たわる傍に腰を下ろしたロキルトが、じっとこちらを見下ろしていた。



 彼はふっと笑い、リシュの左頬に手を添えた。




「ちょ、⁉ やめて!」




 リシュはその手を撥ね除けて身体を動かし、起き上がる。




「な、なんなのっ⁉」




 なぜここに?



 部屋は別だったはず。



 それがどうして……。





「おはよう、姉君」



「……お、は……?え ………もう、朝?」




 薄明るい窓の外から小鳥たちのさえずりが聴こえた。



「なっ、なんでここにっ。どうしてわたしの部屋に居るの!」



「ここは俺の城で宵の宮は俺の部屋のようなものだ。どの部屋へどう入ろうと俺の自由」



 こう言ってふわりと微笑んだ顔は……。



 夕べあんなに不安定で、切なげで……苦しげだったくせに。



 ……そんな感情で心を満たしていたはずだったのに……




 今は欠片も感じない。



 爽やかにさえ見えるその笑顔に。



 リシュは動揺した。



「……もう起きたの」



 いつ起きたの。


 もっと眠っていてくれたらよかったのに。



「ああ、おかげさまで……と言うべきか? よく眠れた。こんなに清々しい朝は久しぶりだよ。ただ、目覚めてリシュが横にいなかったのが残念でね……。それでここへ来た」



「なんで……来なくてもいいのに」



「つれないな、姉君は」



 まるでリシュの反応を愉しむかのような、ロキルトの態度が、とても腹立たしい。



「下りてください、陛下。わたしの傍ではまた眠くなりますよ」



 なるべく彼の顔を見ないように、リシュは言った。






「そうか?」



 ロキルトは返事をしながらリシュに身体を近付けた。



 その距離におもわず身を引いたリシュだったが、ロキルトの腕がリシュの背中と腰に回される方が早かった。



「は! 離し……ッ」



 抱き寄せ、ロキルトはリシュの右耳の上に頬を寄せ……



 その髪の中に顔を埋めた。




「……ッ‼」



 必死に抗うリシュだったが、その力の差には適わず身体は少しも動いてくれない。




「ちょっっ や、だっ!」




 ……すぅ、 ───と。



 唇が触れている部分から、



 ロキルトの呼吸を感じる。



 吐息と熱が、触れている部分を溶かしてゆくように。



 深く吸い込む音と熱が、



 痺れるような感覚を、刻む。



 まるで毒にでも侵されてゆくように……。




 ……すぅ………



 音が繰り返され、ロキルトはリシュのその髪の匂いを確かめているようだった。



 ……やがて、



 ロキルトはゆっくりと顔を離して言った。



「今朝はもう眠くならない。しっかり眠れば……効果は薄れるのか? 最近、寝不足気味だったせいもあるか……。

 しかし不思議だな、芳しい匂いがおまえから相変わらず漂っているのに」




 抱く腕を緩めないまま、ロキルトはリシュを見つめた。



 その視線から……



 密着している身体の中にまで



 熱が




 入り込む。




 熱という毒が。




「寝不足? 眠りを拒むような生活をしていたと……聞いてますけど。あの、離してください、陛下」




「名前で呼ばなければ離さない」



「離すのが先。でなきゃ呼ばない」



「……嫌だ。もう少しこうしていたい」




 ロキルトは再びリシュの髪へ唇を寄せ……



「ッ ⁉ ちょっといい加減にっ」



 グイッ と 押し倒された拍子に、リシュの左手が何かを掴んだ。



 ───ま、枕だ!



 リシュは咄嗟にその枕で、自分に覆い被さろうとしているロキルトを叩いた。



「痛⁉ なにするんだっ‼」



「離してって言ってんのよ!」





 押さえ付けていた腕が少しだけ緩まった隙に。



 ───ぱふっ!


 ……ぱふっ!



 リシュは続けてロキルトを叩いた。



「なッ⁉ ちょっ───こら!……リシュ、てめー」



 柔らかく軽い枕で攻撃してくるリシュをロキルトが再度、抑えつけようとしたときだった。



「……あっ!」



 振り回していた枕がリシュの手からスルリと逃げ出し天蓋に当たり、紗の帳を掠め───。



 チリン……



 鈴の音を呼んだ。



(ま、まずい!)



 この部屋に置かれた呼鈴は一つではなかった。



 部屋の主が動き回らずともメイドを呼べるように四つ用意されてある。


 もちろん、寝台の近くにも一つ。


 今、丁度そこにリシュが放ってしまった枕が当たり鈴の音が響いたのだ。



「陛下っ、ほんとにやめて! 人が来ますっ」



 リィムが……。



 こんなところ、彼女に見られたら。


 リィムは今まで以上に勘違いとか、きっとする。



 ───コン、コン。


 扉をノックする音が響いた。


 そしてパタリと扉が開く。




「お呼びですか、リシュ姫さ……⁉

 ……まあ‼ 失礼いたしましたっ、陛下もご一緒でしたかっ。あ、あの……何か御用でしょうか?」





「今の呼鈴はちょっとした事故だ。何も用はない、下がれ」



「は、はい」



「いや、待て。……そうだな、姫に服を用意してくれ」



 ロキルトはリィムを呼び止めて言った。



「赤……いや、紅のやつを持ってこい。リサナがよく着ていたのがあったろ」



「ですがあれは姫さまには少し大き過ぎてまだ寸法の手直しが済んでいません」



「なんだ。……そうか。じゃあ別の赤」



「はい……。かしこまりました、ご用意致します」



 リィムが部屋を出て行った後、抵抗を止めたリシュに、ロキルトが訊いた。



「どうした? もう終わりか?」




「………じゃ、…ない………」



「ん?」



 聞き取れなかったリシュの呟きに、ロキルトは訊き返した。



「わたしはリサナじゃないっ‼」





 声が震えた。



 同時にリシュの身体も震えだした。



 その震えは黒紫の瞳の中に涙を溢れさせた。



「赤色なんて嫌い!」



 血と同じ色なんて。



 そしてロキ……



 あなたのことも。



「あなたのことはもっと嫌い! 西の街を焼きたければ焼けばいい! あなたの言うこと聞くくらいなら、西の街が無くなった後でわたしも命を絶つわ!」



 苦しげに顔を歪ませ、閉じられたその瞳から涙が溢れ雫がこぼれた。



 ロキルトは動揺し、いつの間にかリシュを離していた。



 リシュは自由になった腕を動かし、毛布を抱え込むとその中に顔を埋めた。



「……リシュ」



「出て行って!あなたなんか大嫌いっ‼」



 嗚咽で肩を震わせているリシュに……



 ロキルトは手を伸ばしかけたが止めた。



「おまえが泣くなんて。興醒めだ」



 そんな言葉を言い残し、ロキルトは部屋を出て行った。



 ♦♦♦



「姫さま? いかがされました?」



 部屋に戻ったリィムが、寝台に突っ伏したままのリシュに声をかけた。



「陛下は?」



「……しらない」



「喧嘩でもされましたか?」



 泣かされた。


 などと言えずに、リシュは毛布に顔を埋めたまま頷いた。



「お召し替えなさいますか?」



「あの子が選んだ服なんて着たくないわ」



「では別の服を持ってきますね。それから朝食にいたしましょうね」



 優しく気遣うように言って、リィムは部屋を出た。




 扉の閉まる音を確認してから、リシュはゆっくりと身を起こした。



 泣いたのなんて久しぶり。


 つい感情的になってしまった。


 泣くなんて、子供みたい。



 自己嫌悪に陥りながら、リシュは寝台を降り、顔を洗うために部屋を移動した。



♢♢♢



部屋に朝食を運んでもらったが、リシュは半分も手をつけられずに終えた。



あれから……頭も心の中も空っぽにしていた。



何も考えたくなかった。



ロキルトの前で泣いた自分が、とても惨めに思えた。



「姫さま、今日はこれから豊穣祭での衣装合わせがありますが。体調が優れないのでしたら、午後に変更いたしましょうか?」


「……いいわ、別に。大丈夫だから」


「そうですか」



ぼんやりと応えるだけのリシュに、リィムは明るく話しかけた。



「豊穣祭のために揃えられたご衣装や美しい飾り物は、選ぶのはもちろん、眺めるだけでも心は晴れますよ」



「……そうね。選ぶのは苦手だから、眺めるだけになりそうよ。リィムの意見を参考にするわ。お願いね」



「はい、喜んで。あ、それから衣装合わせにはスウシェ様も立ち会いたいと申されてますが、よろしいですか?」



「……ああ、宰相の。別に構わないけど」



「そうですか! 楽しみです!スウシェ様もお喜びになるはずです!」



黒い瞳をキラキラとさせながら微笑むリィムに、リシュは首を傾げた。



他人の衣装合わせに同席って。何がそんなに楽しみなのかしら。



リシュにはさっぱり判らなかった。














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