嫉妬(1)


 全は急げ。

 この日、真子の心は珍しくやる気に満ちていた。仕事終わりに家に帰ることなく、愛車を走らせて向かうのは母方の祖母の家。

 そう、両親が離婚した日に由美子と居た場所だ。昨夜、姉の由美子に誓った通り、父に話を聞きに行くのだが……どうやら、母にも詳しく話を聞くつもりらしい。

 少しでも、由美子の気持ちが晴れればと、心優しい真子は仕事で疲れているにもかかわらず夜道を車で走った。

 由美子は、父が自分のことを嫌っている理由は知らないままでいいと言っていた。でも、本当は気になっているんじゃないのか。真子が幼い頃、図工のコンテストで賞をもらったとき父は自分のことのように喜んで、普段無表情な顔が緩んでいた。真子の頭を撫でる父の背を物陰から眺める由美子が視界に入り、そして自分と目が合うと逃げるようにして去っていった記憶が、真子はどうしても忘れられなかったのだ。家族はみんな仲が良い方がいいに決まってる。ここで姉の役に立ったなら、母は喜んでくれるだろうか。自分の頭を、その愛情で満ち溢れた手で撫でてくれるのだろうか。父とは違う柔らかで安心のできる手に、褒めてもらえるのだろうか。そう考えただけで、アクセルを踏む足に力が掛かる。


「おばあちゃん! お母さんは?」


 祖母の家に着くが、敷地内のいつも母の車が置いてあるスペースは空になっていた。家の中に上がるのが面倒で玄関から祖母に声を掛けるが、耳が遠いためか真子が来たことにも気づいていないようだ。


「おばあちゃーん?」


 もう一度声を掛けるがやはり返事はない。明かりが付いているので居間にいるのは分かってるのだが……仕方ない、靴を脱いで上がるしかなさそうだ。居間の障子を開けると祖母がこちらを向いた。


「由美子?」

「真子だよ」

「ああ、そうけ」


 どうやら、耳だけではなく目も悪くなっているみたいだ。

 改めて祖母に声を掛ける前に真子は仏壇の前に正座をする。亡くなった祖父やご先祖様に手を合わせて挨拶をすれば、リンを専用のリン棒で3回鳴らした。「おばあちゃんに来たら、ご先祖様に挨拶をしなさい」と母に口うるさく言われている。挨拶をしなかったら今にでもどこからか怒った母が出てきそうなそんな気がするのだ。まあ、出てきたら出てきたで祖母に聞かずに手間が省けて有難いのだが。


「あばあちゃん、お母さんまだ帰ってきていないの?」


 耳元で、大きく。

 テレビを眺めていたしわくちゃな目が真子の姿をとらえる。


「あ? 嘉子よしこさ、まだ仕事からけぇってこねえんだよ」

「まだ帰ってきてないの?」


 おかしいと思いつつ、真子は壁時計を見上げた。時刻は、午後19時20分。そろそろ帰ってきてもおかしくはない時間帯だ。


「そっかー。じゃあ、お母さんは後でいいや。お母さん帰ってきたら、ウチが『明日来る』って言ってたって伝えておいてくれる?」

「あした? ああ、わーたよ」

「じゃあ、ウチお父さんのところ行くから」

「なんで、もうけぇんのけ。茶でも呼ばれろ」

「今度お姉ちゃんと遊び来るから!」


 そう伝えると、真子は靴を履いて玄関から飛び出した。ここから、住んでいた家までは30分弱。はやく行かねば。はやる気持ちで車に乗り込めば、エンジンを掛けた。



「真子さ、忙しいな……。どこさ行くんだか……」




 車を走らせること30分。真子は、以前住んでいた家に着いた。

 懐かしさに浸ることもなく、車を降りて最初に目にしたのは


「お母さんの車?」


 駐車場に止まる母の車。

 祖母の家にあるべき車が何故ここにあるのか。離婚して尚、父に何か用があったのか。いろいろ思うところがあるが、「お母さんがここに居るならラッキーじゃね?」と、真子は気にしていなかった。


「何の用か知らないけど、ウチが来たらお父さんびっくりするかなー」


 ここへ来た目的を忘れたのか、息を潜め玄関扉をゆっくり開ければ、リビングの方から母の声が聞こえた。


「よーし、静かに……」


 靴を脱げば、音を立てずに廊下を歩くのだ。




「だから、――にも、――――」


 母の声に真子は耳を傾けた。

 居間へと続く扉を挟んで聞こえるその声は、紛れもない母の声だ。でも、どうして母は父に会いに来ているのだろうか。

 真子は物音を立てないよう廊下に腰を下ろせば、出るタイミングを伺いながらも会話の続きを待ったのだ。


「最近、あの子の様子が可笑しいのよ」

「……」

「私もなんだか胸騒ぎがするの。やっぱり、あの子たち二人きりにさせるんじゃなかったんだわ」

「……だから俺は真子だけ引き取るとあれほど言っただろう」


「私を引き取る?」


 聞こえた会話に、真子は小さく呟いた。


「真子には、こんな思いをさせて申し訳ないと思っているわ……でも、由美子には真子が、真子には由美子が必要なのよ。だって……二人は、どうみたって姉妹じゃない」

「いい加減にしないか、あいつはバケモノなんだぞ! 俺たち家族をバラバラにしたバケモノなんだ!」

「バケモノじゃないわ! あの子はちゃんと生きてるの。確かに、昔あんなことがあったけど、ちゃんと生きてるのよ……私がこの手で、ちゃんと、強く、抱きしめたもの……身体はとても熱くて、なにも映さない瞳はまるで煤のようだった。けど、私を見上げて、お母さんって言ったのよ?」

「……聞いていられないな。お前だっての存在に悩まされているじゃないか。最近、まだ出てくるんだろう?」

「……本当ね、私がしたことが間違っていたのかしら……私は、お願いされたから、命捨てようとしてまでちゃんと守ったのよ」

「今すぐ真子だけでも連れて帰ろう。そしてまた三人、本当の家族として暮らしていこう」


「本当の、家族?」


 本当の家族とはいったい何を言っているのだろうか。真子は呟きながらも考えていた。

 由美子は家族ではない? いや、そんなことがある訳ない、自分の姉だ。小さい頃からずっと自分の隣で今まで一緒に暮らしてきた。

 しかし、実の娘にしては父の態度が冷たいところが引っかかる。冷たいどころではない、由美子を腫物のように扱っていたのだ。日常の中で会話もなければ、父は由美子のことをまっすぐ見ようともしていなかった。寂しそうな由美子の表情が、真子の幼心に焼き付いている。「真子は、お父さんからたくさん愛情をもらってね」そんな由美子からの言葉に、自分の胸が締め付けられる経験をした。両親の子供だというのに、どうしてこうものか。


 そこまで考えた時に、真子はもう一つの点に気が付いた。

 それは、母は異常なほど由美子に過保護だということ。最初は長女だから躾けや言葉が厳しいのではないだろうかとも考えていたのだが、そこには真子には向けられない愛があると時折感じていた。自分よりも姉を心配し、保護する母に自分は要らない子だったのではないかと寂しくなる日もあった。


 父の愛を受けられない由美子と、

 母の愛を求める真子。


 こんな似た者同士の姉妹だというのに、本当の家族じゃないってどうしてそう強く言えるんだ。真子は嘲り笑っていた。


「あなたは真子を選んでも、私には由美子しか居ないんです」


「っ――」


 ああ。

 ああ……そうか、そうなのか、やっとわかった、自分の思っていた通りじゃないか、悩む必要なんてこれっぽっちもなかったんだ、だって自分は、なのだから。




 ―― 愛情に満ち溢れたお母さんの手は、ウチのものじゃないんだ。


「っ……」


 目の前が真っ暗になる。途端、嗚咽がこみあげてくるのを歯を食いしばり耐えたが、我慢はできなかった。逃げ去るようにその場から離れれば、玄関扉も疎かに閉め、感情のまま車の中に逃げ込んだ。





「真子もとっても大切よ。私たちの子なんだから。でも、真子を守る為にも今は由美子が必要で――」


 ―― バンッ


 遠くの方から聞こえた物音に、母は口をつぐむ。

 静かになる室内に緊張が流れた。車の扉が閉まる音だということはすぐに分かった。しかしそれが近所のものなのか、そうではないものか。背を伝う嫌な汗に腰を上げれば母は部屋の扉を開けて玄関へ続く廊下に出た。


「……濡れてる?」


 部屋からの灯を浴びて光るソレは、廊下に転々と円を描いて落ちていた。


 ――ブー、ブー


「っ!」


 嫌な予感を肯定するかのように、ズボンのポケットに入れていた携帯が震える。着信は実家の母からだ。


「……もしもし?」


 普段電話をかけてこないのに、どうしたのだろう。せめて、悪い知らせではないことを願う。


『ああ、嘉子こんな時間までどこほっつき歩いてんだか』

「ごめん、すぐ帰るからっ」


 どうか、この涙のようなものがあの真子のものではないと……自分の勘違いでありますように――


『さっき、真子が来たんだよ。とーちゃんとこ行くってすぐ出てったけど、また来るって伝えてくれって』

「っ、あ、ああ……! 私、私、真子になんてひどいことを……!」





 玄関を出ても、真子はすでに居なかった。








 






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