影(3)



 ちりちりと遠くの方で何かが燃える音に、由美子の意識が覚める。


「(あれ……ここ、どこ?)」


 暗くて何も見えない世界が広がれば、異常な不安感に襲われた。この場所に居てはいけない早く何処かへ……人が居る所へ行かなくては。しかし、体が全く動かないのだ。石のように重たくて、その場で小さくうずくまることしかできない。


「(なんでっ……はやく動かないと!)」


 この場所から動かないとどうなってしまうのか。

 それは、由美子にも全く分からないことだったが、何かが由美子の中で叫ぶのだ。ここからはやく立ち去れと、心の奥深く眠る何かが、強く叫ぶ。


「(はやく! 動いて!!)」

「っ……う、ひっく」

「(!?)」


 鼻をすする音が聞こえた。どうやらこの場所には、自分以外の誰かが居るようだ。


「(誰かいるの?)」


 声を出しても、それは自分のなかで消化されるだけ。すすり泣く声は止まず、どうやら由美子の声は全く届いていないらしい。

 動かぬ体に、届かぬ声。それは、由美子の精神を逆撫でする。


「ご……さ、お…………なかあっ……」


 何かを呟いているのか、その言葉がうまく聞き取れない。が、微かに聞き取れる声から、その声の持ち主は幼い子どもだと由美子は確信する。



 ―― ガシャンッ!


「(!)」

「ひっ……、こわいよ…………やだよ、もう出たいよ、くらいよ、たすけてっ」


 ガラスが割れたような音が聞こえたのを境いに、身体が小刻みに動き出す。……震えているようだ。なのに、熱い。肌を刺す外気は熱くねっせられているかのように、チクチクと細かい針で刺されているかのような痛みが襲う。呼吸をするのも、辛くなってきた。

 やはりここは危険だ。泣いている子どもを見つけて、早くこの場所から逃げなくては。

 バチバチと、耳に届く音もだんだんと穏やかじゃなくなってきた。一体何が起きているのだろうか。体の震えは止まらない。下唇を強く噛みしめれば、ぷつり……と、犬歯が唇の肉に食い込む。鉄の味が広がる。

 しかし、今の由美子にはそんなことどうでもよかったのだ。どうしたら、この体は自分の意志で動いてくれるのだろうか。


「……わたしが……わたしが、いい子にしてなかった、からかな……」


 後悔の言葉が、静かに零れる。小さな声なのに、激しくなってきた周りの音に掻き消されることは無く、はっきりと由美子の耳へと運ばれる。一体、何に後悔しているのだろうか。


「お母さんのお仕事じゃましちゃったから、ちーちゃんが……わたしがちーちゃんのだいじなお口を、ちーちゃんっ、お口なくなっちゃった……! わたしのせいで!!」

「(っ……)」


 頭をガツンと殴られたような痛みに襲われる。抑揚よくようが激しくなる子どもの声は、まるで壊れた玩具のようだ。

 何かが、頭の中を激しくかき回すのだ。いろいろな記憶がフラッシュバックする。妹の真子と遊んだこと、母に叱られたこと、真子の成人式の着物を選びに行ったこと、そして自分の着物も選びに行った時のこと、真子と喧嘩だってたくさんした、親には言えない内緒の話だってした、仲が良い姉妹だって近所の人が口をそろえて言うけれど、それが照れくさいこともあった。仲のいい姉妹。なのに、なんで……記憶の中にちらちらと入り込む男の子は誰? を持った男の子は、誰?

 分からない、分からないのに……今まで口にしたことのない名前が由美子の口からこぼれる。


「(ちーちゃん? ちーちゃんの、お口……っ!)」


 ああ。頭が追いついていかない。

 でも、ひとつ。分かったことが、ある。


「ちーちゃんは……」

「(……私が、)」



 ―― ガラッ!


「(っ!)」


 視界が眩しくなって、由美子は目をつぶった。誰かが助けに来てくれた。腕を強く引かれて、身体が動く。


 やっと、この場所から抜け出せる。




 一瞬の強い光が、消えた。

 さっきまで目を閉じていても感じていることができた強い光が、一気に暗くなる。その不安から、由美子はゆっくりと目を開ける。


「……ここ、どこ」


 まただ。また、知らない場所に来ていた。

 しかし、この場所は……。


「あれ、家?」


 よく見ると、自宅のキッチンではないか。意識が無くなる前には、確か日向の家に居たはず。話だってまだ終わっていなかったし、聞きたいこともたくさんあった。なのに、どうして自分は帰ってきてしまったのだろう。「おかしいな……」と、首を傾げるが、分からないものは分からない。もう一度、日向宅に向かって状況を聞くしかないと、間仕切りが引かれている脱衣所の前を通りかかったとき、



―― ゴツン


 何かがぶつかる音がした。


「……誰か、居るの?」


 声を掛けても、返事はない。が、確かにこの間仕切りの向こうから音が聞こえた。真子が、仕事から帰ってきたのだろうか。手元に携帯が無く、時間を確認できないが、もしかしたら帰ってきたのだろう。


「真子? お風呂、入るの?」


 返事がないことに、気になりはしなかった。虫の居所の悪い時なんて、だいたいこんなものだ。


「お風呂洗ってはあるけど、お湯出さないと入れないよ」


 間仕切りのカーテンを開けようと、手を伸ばす。

 すると、一気に空気が変わった。冷たく張り詰める。気づいた時にはもう遅い。。しかし、伸ばした手を引こうとしても何故か止まることは無いのだ。


「や……!」


 ―― トンッ……


 その手がカーテンを掴みそうになったとき、下腹部に重みを感じた。


「っ……」


 緊張の糸は、まだほどけていない。視線を、ゆっくりと下腹部へと向ける。


「ひ、っ……!」


 声が、掠れた。今朝真子が背負っていた子どもが、真っ黒な瞳で由美子を見ている。下腹部に重みを感じたのは、子どもが由美子に抱き着いているからだ。


「ウ……ァ」


 少年の微かに開いた口から紡がれる言葉は、籠っていて弱弱しい為何を言っているのか全く分からないその様子が、由美子をさらに恐怖へと追い詰める。

 顔は、真っ黒で焼けただれている。この子が、日向が言っていた火事で亡くなったというなのだろうか。


「っ……!」


 少年の顔を見て、由美子の喉が小さく鳴る。真っ黒のススと、焼けただれた肌以外に、口元から目が離せないでいた。破けてしまった布をに、その幼い口にはジグザグに糸がっていた。赤を通り越して、黒い。煤ではない他のモノが、びっしりと糸の上を所どころ覆っている。


「ウ、ンンン……」


 ―― ぶちぶち、


 少年が何かを伝えようと口を動かすたび、縫われた糸がギチギチと音を立て、食い込む唇の肉が悲鳴を上げる。

 パリパリと、黒く固まった血痕が落ちれば、糸と肉の境目から真っ赤な鮮血が溢れてぷっくりと玉になり、だんだんと輪郭を崩せばただれた肌の上を伝い、抱き着く由美子の服を汚した。離れたくて少年の肩を掴むが、びくともしない。子どもなのに強い力だ。


「ンウウウウウウ」


 掴んだところがいけなかったのか、開けない口の中に声がこもった。それもそのはず、袖から伸びるその腕は顔の皮膚と同様に爛れている。首筋もだ。もしかしたら、この服の下も火傷により……。


「ぁ……」


 そう考えただけで、由美子は眩暈に襲われた。胸が重くなる。


 ―― オネエ……チャン


「や、私は……違う……」


 由美子の脳内に響く声は、少年のモノだ。頭を左右に振り、否定をしても尚少年の声は止むことは無い。


 ―― アソボ、ボクトイッショニ


「私は……!」


 否定をすればするほど、涙が溢れて頬を伝い落ち、少年の肌を濡らす。理由が分からぬまま流れる涙に、少年はさらに由美子に抱き着いて、その顔を由美子の腹部へと埋めたのだ。


「は、なれて……お願いだから」


 ―― ……オネエチャンノ、ココ……アッタカイ


「お願いだから……」


 ―― マダ……


「っ、なに言って」


 ―― ココニ、ハイッタラ……オネエチャンノ、トシテ……、デキルカナ


「やっ、やめて、離れて! 私は、あなたのお姉ちゃんなんかじゃ……ないっ!!」


 由美子は、自分を見上げる少年の肩を力強く押し、言葉とともに否定した。すると、少年は簡単に離れて、柱に頭をぶつけて消えたのだ。








「由美子ちゃん、大丈夫?」

「!」


 名を呼ばれて目を覚ませば、視界に入るのはカズの心配した顔。先程の少年のこともあり、幼い顔に驚いて悲鳴を上げそうになった。


「あ、由美子ちゃん起きた! お母さん呼んでくる!」


 笑顔で駆け出すカズの背中を見れば、由美子はゆっくりと上体を起こす。開け放たれた向こう側はリビングでどうやら日向が倒れた由美子をここまで運んだようだ。自分はどうしたのか。先程見たのは、全部夢だったのか。


「……」


 掛けられていた毛布を捲って腹部を確認すると、そこには赤黒いシミが出来ていた。どうやら


「目、覚めた?」

「ぁ……ご迷惑をおかけしてすみません……」


 日向が部屋の中へ入ってくると、由美子はシミを隠すように毛布を掛けた。


「いきなり倒れたから驚いたのよ。何かあったの?」

「……いえ、ただ疲れているみたいで」

「そう。……あ、話の続きなんだけどね」

「はい」

「ここの団地のことを詳しく知りたいなら、上の階の403号室、金原かねはらさんの奥さんに話を聞くといいわ」

「金原さん? 普通、大家さんとか管理会社に聞くものじゃ……」

大家なの」

「え?」

「金原さんは、昔ここの大家だったのよ。今は、息子さん夫婦が跡を継いでいるの。あの人なら何でも知ってるって、ご近所さんも言ってたわ」

「何でも……なら、今すぐにでも」


 立ち上がると、由美子の視界はふらつく。


「こら、今日のところは大人しくしなさい。もし……知りたくない何かが、この先にあったとしたら今のあなたではますます滅入ってしまうわ」

「……でも」

「ちゃんと芯を持って、立ち向かいなさい」

「っ、……はい、わかりました」


 由美子の返事に、日向は微笑む。カズも、安心したように由美子を見上げると、抱き着いた。


「由美子ちゃんにおれの元気わけてあげるー!」

「カズくん……ありがとう」

「あらあら、この子ったら」




**




 お礼を言い日向宅から自宅へと帰ると、辺りは暗くなっていて由美子を不安にさせた。玄関扉を開けると、ギギギと鈍い音がに響く。部屋の中は真っ暗だ。真子が帰宅していてもおかしくない時間だが、まだ職場に居るのだろうか。家の中に入りたくない……このまま彼女の職場に向かって今晩は外で食事を済ませようか。

 そんなことを考えていると、



 ―― はらり……


 部屋のどこかで、紙が舞う音がした。

 ああ……結局、こうやって振り回される。由美子は下唇を噛みしめると、その音源を探しに、部屋の中へ上がったのだ。









 

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