影(2)



 ぷつん。


 それは、由美子の中で静かに音を立てる。


「……すか、……きいて、くれない」

「由美子ちゃん?」

「……なんで、返事をしてくれないんですか?」

「っ!」


 低くなる由美子の声色こわいろに、母親の肩が跳ねた。


「そうやって、空気を読めアピールをすれば済むと思っているんですか? なにかあったら、私がなにかをしてしまったなら、謝りますから……だから、私をそんな目で見ないでください……お願いだから……」


 この人は、違うと分かっていても由美子の中でどうしても父と重なってしまう。うすうすは気が付いていた。あの家庭の中で、家族の輪に入れないのは無口な父なんかじゃない、自分自身だと。気付いていたから、空気を読んだこともある。笑顔で、その場から離れたこともある。家族なのに、どうして自分だけ父に相手にされないのか。妹の真子の、父に頭を撫でられ褒められ嬉しそうに笑っている姿をみて、悔しく思ったこともある。

 その代り母は毎回褒めてくれた。相手にされていない由美子を知ってか、父の分まで優しく頭を撫でてくれた。怒られたこともあるが、優しい言葉もたくさんくれた。

 しかしそんな母の眼には、必ず憐れみと同情の色が見え隠れしていたのだ。


「っ、なんで……私だけ、そうやって……ひとりぼっちに、するんですか……?」


 他人だと分かっているのに、止まらなかった。

 気持ちをぶつけるかのように、日向にすがる。


「どうして避けるのか、……教えてください」

「!」


 日向の眼が、揺れた。



「ぁ……ご、ごめんなさい」


 その声はか細かった。

 やっと見せてくれた反応に、由美子は安堵の溜息を吐くが、日向は息子を直視したまま動かない。いや、息子すら見ていないだろう。その足元に広がる地面を、ただひたすらに目に焼き付けていた。


「こちらこそ……取り乱してすみません」

「避けていたのは、事実よ」

「そう、ですか……どうしてなのか、理由を教えてくれませんか?」

「ええ。私の知ってる範囲で良いなら」


 顔を上げた日向の表情はとても暗かった。避けていた由美子につかまってしまったからなのか、それとも、これから語ることをあまり口にはしたくないからか。

 辺りを見渡せば、こちらを見ていたほかの母親たちと目が合うが、すぐにらされてしまった。その反応に、日向は下唇を噛みしめた。仲間が居なくなってしまったような……自分が側に付いたような、そんな気分だ。


「長話になりそうね。部屋の中でも、いいかしら?」

「はい、構いません。あ、でも……」


 言いにくそうな由美子の反応を知ってか、日向は苦笑した。もう、諦めたらしい。


「もちろん、私の家で。ね?」

「……ありがとう、ございます」








「お邪魔します」

「お茶でいいかしら」


 日向家。同じ団地なのだから、部屋の間取りは同じはず。違うのは、左右対称になっていることだけ。の、はずだがまるで自分の家とは違う新鮮な感覚に由美子は辺りを見渡した。日向の言葉に「はい」と返事をすると、和真カズが嬉しそうに由美子の手を引いてリビングに連れていく。


 まるで別世界だ。そんなことを言ったら大袈裟だと笑われるだろうか。しかし、実際由美子たちの部屋よりも明るく、そして空気が澄んでいる。暖か味のある、帰りたくなる部屋だ。

 床に座れば、カズにソファを促された。


「私はここで大丈夫だよ。ありがとう」

「このソファ気持ちいいのにー」

「ほら、カズ。ちょっとお母さんたちお話があるから、静かにできるね?」

「うん!」


 目の前に差し出されたお茶に頭を下げる由美子。日向は、炬燵こたつを挟んで向かい合うようにして腰を下ろす。


「ありごとうございます。いただきます」


 熱いお茶を一口。舌がちりりと痺れた。喉を流れていき、胃の中にたまると冷えていた体が一気に温まる。


「……どこから、話したらいいのかしら。まず、ええっと……」

「松木……いえ、飛平とだいらです、飛平 由美子。両親が離婚したので」

「飛平さんね。何も知らないのに、あなたたちのことを無いように扱ってしまって、本当にごめんなさい」

「いえ、こちらこそ……もしかしたら、私たちがカズくんをいじめているように見えってしまったんじゃないかって謝ろうと思っていたんです」

「カズがいじめられるだなんて、そんな。あの子、芯はしっかりしてるのよ」

「はい。この前下見に来たとき、驚かされました」


 日向の言葉に、由美子はカズと出会った時のことを思い出していた。冗談だったのだが、男の子がいると言われたときのことは、忘れることは無いだろう。


「あら、ごめんなさいね。あとで、注意しておくわ」

「いえ、あながち間違いじゃないかもって思うことが……ありますし」

「……ねえ、飛平さん。私たち家族もね、ここに引っ越してきてまだ1年くらいなの。だから、ここで何が起こったのか詳しいことは知らないわ。いまからお話しすることも、皆さんの会話で得た情報ばかり。その情報が、真実かも分からないわ」

「……はい」

「それでも、知りたい?」

「知りたいです。小さなことでも、それが真実ではなくても、私はここに引っ越してきた以上向き合わなくてはいけない気がします」

「そう」


 由美子のまっすぐな視線に、日向はお茶をすすった。リビングの奥の部屋からは、カズがヒーローごっこをしている元気な声が聞こえる。


「この団地にはね、変な噂があるの」

「噂……」

「20年くらい前だったかしら、当時この棟の404号室でねがあったみたいなの」

「焼身……?」

「そこには家族が住んでいたんだけどね、奥さんが火を放って家族を巻き込み、自殺。もちろん、家族も助からなかったわ」

「家族を……え、でも404号室ってそんな風には見えないんですけど」

「そうよね、そうなのよ。不思議なことに、中身だけが丸ごと焼けて外壁は無事なの。だから、もしかしたらこの話自体が嘘なのかもね」

「それなら、安心です。もしかして、誰か入ってますか? ここに来たとき、上の階で物音と足音がして」


 あくまでも、確認だ。上に人が居ないのは確かだと思うし、物音なんて何かの聞き間違いだろう。でも、肯定をしてほしいのも事実。安心が欲しかった。


 が、日向は目を大きく開くと頭を左右に振った。


「……なにかの、聞き間違いじゃないかしら。中は、ススだらけみたい」

「そうですよね」


 やはり、空き部屋だったのか。


「あ、でも」

「?」

「その事件の焼け跡から、旦那さんと息子さんの遺体は見つかったのだけど」

「息子……?」


 その単語に、由美子は息を飲む。しかし、日向の本題はそこではないらしい。由美子の反応に気が付かずに話を進めた。


「娘さんがね、行方不明らしいの。焼け跡にも遺体は無くて燃え尽きたってのも、おかしな話じゃない? だって、娘さんより年下の息子さんでさえ、腐敗がすすんでいたらしいけど遺体は残っていたのよ」

「……」

「もしかしたら、逃げだしたのかも。その娘さんが、上の階に帰って居たりして……」

「っ……」

「なんてね。亡くなった奥さんが、娘さんを探しにこの団地敷地内を徘徊してるって噂もあるくらいよ」


 焦げた匂いは、あの部屋から。

 黒い影の女は、もしかしたら。


 頭が……脳が、勝手に結びつけてしまう。

 もしかしたら、息子とはあの男の子のことではないだろうか。でも、そしたらどうして――


「もし、そのお話が本当だとして……どうして、304号室の私たちに関係があるのでしょうか」

「……」

「なにか、知ってますか?」

「そうね……。飛平さんがいる部屋は、奥さんのだったみたいなの」

「仕事部屋?」



 ぐらり。


 何処からともなく微かに漂う焦げ臭い匂いに、由美子の視界は揺れた。


「……っ」

「飛平さん?」


 思わず辺りを見渡す。この部屋の中にが居ないか。ここはだめだ、この暖かい場所は汚されたくない。


「ぁ……や」


 ――オネエチャン


「や、来ないで……」


 ――イッショニ、アソボウ


「だっ、め……」

「飛平さん?!」

「や、ここは…………駄目……」




 薄れゆく意識の中。


 

 ちいさなこどもが、にっこりとわらったようなきがした。




 




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