2:週末デート日和

 俺と理乃は、そろそろ交際一ヶ月、今日は三度目の週末デートだった。


 本日のスケジュールは、昼頃から街で映画を見て、そのあと夕方まであたりをぶらつきつつショッピング、晩御飯は理乃の家でご馳走になるという、ごくごくありふれた定番パターンを想定している。

 いや、定番とはいえ、これこそ世に言うリア充というやつだろう。


 俺は、身なりを整え支度を終え、予定通り昼の一二時四五分に自宅を出ると、予定時刻より五分早い、一三時二五分に駅前広場の大時計に到着した。

 待ち合わせ場所には、しかしそんな俺よりさらに早く、我が恋人の蓮水理乃が立っていた。

 理乃は、この日も落ち着いた色合いの服装で、ワンピースの上からカーディガンを羽織り、ちいさなバッグを抱えながらいかにも所在なさそうに、駅前の雑踏の中で待っていてくれたのだった。


 待たせたか?と問うと、理乃は今来たところ、とこれまた定番の返事を寄こした。


 俺たちは早速、駅前を離れると、街中の映画館まで並んで歩いた。

 週末の市街地を行き交う人波は、さながら潮の流れに乗った魚群の様相だ。

 目的の映画館までは、五回横断歩道を渡って、そのうち三度信号待ちに捕まった。


 近頃の映画館といえば、駅前のデカいビルに組み込まれた複合型映画施設、いわゆるシネコンに集約されがちなのだが、俺と理乃が今回目指しているやつは違う。

 自主制作映画なども取り扱い、マイナーであっても良作を特に厳選して上映することでコアな客層の支持を得ているタイプの、昔ながらの映画館だ。


 俺と理乃は、最近テレビで知った、地元ではここでしか上映していないというサスペンス映画を見るつもりなのだ。

 一応、映画には原作小説があって、実は理乃には内緒でそちらも俺は内容をあらかじめチェックしている。

 これには少々理由があって、理乃は過度でリアルな流血描写などが苦手なのだ。

 だから、俺としても映画の表現内容については、理乃の視聴に差し支えないかを慎重に判断した上で、映画館まで誘う必要があった。

 今回のサスペンス映画は、殺人事件を描いた内容ではあるものの、ストーリー的にはむしろ犯人が自分の犯した罪の重さと家族への想いとで葛藤する要素をメインテーマとしている。映像化を手掛けた監督が下手な色気を出した脚色さえしなければ、理乃が敬遠したがるような描写はたぶん出てこない。


 もちろん、あくまでそれは希望的観測なので、実際に上映された映像を目の当たりにしたら、想像していたより残酷なシーンが映し出されている可能性は否定し切れないのだが、そのときは俺が理乃の手を引いて座席から立ち上がり、颯爽と映画館の外へ脱出する算段だ。


 そして、映画館の外へ出たら、こんな映画に誘ってすまなかった、理乃は何も悪くないぞと言ってやって、過激な描写を撮った映画監督にひとつかふたつ悪態を吐きつつ、彼女の前でおもいきりカッコつけてやろう。

 男はこういうとき、好きな女の子の前ではカッコつけたい生き物で、それはたぶん有史以来ずっと使い古され、草臥くたびれた価値観なんだろうけど、俺もさらさら異論を唱える気はなかった。


 しかしながら、注意力の比重を他に割いていたせいで、肝心の部分を失念するというのは、往々にしてよくあるハプニングだ。

 映画館の前までたどり着いたとき、俺と理乃はスクリーンの前に座るつもりだった上映開始時刻が、すでに一〇分以上過ぎていることを知った。


 スマートフォンで映画館のサイトを改めて確認すると、上映時刻を完全に勘違いして覚えていたらしい。

 まるでラブコメ漫画。ヒロインと初デートの主人公がやらかすみたいな、ベタなミスをリアルで披露してしまった。



 次の上映時間まで二時間弱、俺と理乃は仕方なく暇を潰すために、手近な喫茶店に足を運んだ。


 常々密かに思うのだが、きっと映画館のすぐ側にあるこういう喫茶店というのは、俺たちのように上映時刻にあぶれたお客の受け皿となることで、利益の何割かを稼ぎ出しているのではあるまいか。


 俺と理乃が入った喫茶店は、小奇麗なビルの二階にあるちいさな店で、店員はカウンターの中に立つマスターらしき人物を含めても二人だけだった。

 他のお客はカウンター席に座って、ノートPCと向き合いながらコーヒーを啜っている中年ぐらいの男性(PCの電源は店から提供してもらっているようだ)と、壁際席に対面で座っている男女が一組。狭いが静かで清潔感もあり、店の雰囲気は悪くない。

 俺と理乃は、表通りが見下ろせる窓際席に座った。


 オーダーを取りにきた店員に、俺はブルーマウンテン、理乃はダージリンティーと告げた。

 理乃は、注文を決める直前まで紅茶単品ではなく、オレンジシフォンケーキとのセットを選択すべきか真剣に苦しんだ様子だったが、最後は節制の精神が誘惑に勝利を治めたらしい。

 理乃は、俺から見る限り充分小柄で痩せ型なのだから、我慢する必要などないように思うのだが、彼女によるとその油断こそ最大の敵なのだそうだ。


「一度増えた体重を落とすのは、ただ難しい試練だというだけじゃないんだよ。恐ろしい副作用を伴うことだってあるんだから」


「なんだよ、ダイエットの副作用って」


「……主に、減らそうと思っていない部分から痩せてしまうこととか」


 理乃は、弱々しい声でつぶやいて、せつなそうに自分の胸のあたりに視線を落とす。

 すまなかった、話題を変えよう。


「あー……そういえば、映画もいいが、たまはもっと開放感のある場所にも遊びに行きたいよな。海とか、山とか」


「海とか、山とか、谷間とか?」


「なぜ谷間」


「やっぱり、水平線よりは山と山が隣り合って谷間が見える景色がいいのかなって」


 理乃は、自分の胸元に落とした視線の位置を固定したまま言った。

 わかったから、そこから離れなさい。


「夏になったら海だよな、そう、海だ! 照りつける太陽と白い砂浜、やっぱこれだろ」


「そして、水着の谷間は水平線だね」


 いかん、これは理乃さん、ときどき滲み出す悪い癖で、天然のネガティヴオーラが漂いはじめていらっしゃる。


「私、海に行くなら水着はワンピースでもいいかな……。セパレートは自信がないっていうか」


「えーと、そのですね理乃さん」


「……それとも、私みたいのでも、透弥くんはビキニがいい? あの、よくいうけど――例えば白くて、水に濡れるとちょっと透けそうな感じの、とか」


 前々から知ってはいたが、やはり理乃は本当に自分の体型がコンプレックスなんだなと、俺はこのとき改めて痛感した。まさかシフォンケーキひとつ注文するかしないかにはじまって、話題を変えようとした先の海とか山とか(プラス谷間とか)から、ここまで引きずられるとは思わなかった。


 いや、だがここは彼女の恋人として、少し男を見せねばなるまい。

 よくよく考えてみたら、理乃が気にしている胸の話題を誤魔化そうとして、軽々しく海だ山だと逃げ出そうとしたのは、きっと俺の態度にも誠意がなさすぎた。

 ここは覚悟を決めてはっきり言おう。男なら。


「――理乃」


 俺は、真正面から彼女を見詰め、力を込めて宣言した。


「俺、貧乳派だから!」



 不意に時間が止まった。

 理乃は顔を上げていて、すでに自分の胸を見てはいなかった。

 しかし、理乃の視線は対面に座っている俺ではなく、彼女の左側、俺から見て右側のテーブル脇に立つ別の人物の方に向けられていた。

 喫茶店のウェイターが、そこに立っていた。


「こちら、ご注文のブルーマウンテンとダージリンティーになります」


 ウェイターは落ち着き払ったというより、無機質な機械の合成音声みたいな口調でオーダーされた品を確認しつつ、コーヒーと紅茶を、それぞれ俺と理乃の前に置いて一礼すると、


「ごゆっくりどうぞ」


 これまた無機質な声で付け加えてから、カウンターの方へ戻っていった。

 その店員は決して無愛想だったわけではない。むしろ、お客である俺のために、最大限の努力を払っていてくれたのが如実に見て取れた。


「……ここのお店、お砂糖はガムシロップなんだね」


 理乃もまた、努めて穏やかな口調で、ようやく話題を変えてくれたのがわかった。

 いや、できることなら、もう少し早いタイミングでお願いしたかったんですけれども。


 理乃が小さく透明な器をティーカップの上で傾け、ガムシロップを紅茶の中に注ぎながらスプーンでぐるぐると混ぜている真向かいで、俺は運ばれてきたばかりのブルーマウンテンのカップを、ブラックのまま全力で口元に運んだ。


      ○  ○  ○


 初めて入った喫茶店の店員に、目の前で自分の性癖暴露をかますというプレイを実行したのち、まだ白い湯気の立つコーヒーで舌に軽度の火傷を負いながら、俺はその後なんとか一時間半ほど、理乃と共にその場で暇を潰すというノルマを達成した。

 まさに満身創痍、文字通り身も心もボロボロとはこのことだったが。特に心の方。


 喫茶店を出て映画館へ引き返した俺たちは、今度こそ一五時台の上映開始に合わせてチケットを購入し、館内中段の座席を確保した。


 果たして、スクリーンに映し出された映像は、俺と理乃の期待を裏切らなかった。

 サスペンスの物語は主に犯人側の視点で進行し、徐々に警察によって追い詰められていく過程にはハラハラさせられたが、暴力性を感じるシーンなどはほとんどなかった。むしろ、登場人物の巧みな心理描写がせつなく、安い言葉を使えば感動的であった。


 映画が終盤に差し掛かると、左隣に座っていた理乃は右手で、館内の薄い暗がりの中、きゅっと俺の服の左腕の袖を引っ張ってきて、そのまま最後まで離そうとしなかった。

 俺としては、子供みたいに袖を引っ張られるより、ここは手に手を重ねて握ってくれでもした方が嬉しかったし、そうすればこちらからも握り返すにやぶさかではなかったのだが、まあそれはこの際致し方ない。

 どうやら、この服の裾を引っ張るというのは、理乃のいくつかある癖のひとつらしかった。



 つつがなく映画が終了し、本日の予定を無事に消化した俺と理乃は、二時間ほど予定が押してしまったものの、やはり次も当初の計画通りショッピングへ向かうことにした。

 まあ、ショッピングと言っても、理乃のこの日の最大のお目当ては、大型書店で少女漫画の新刊本を物色することにあるらしい。


 正直言うと、服やアクセの買い物に付き合わされるより、男の立場からすれば本屋で漫画の棚の前をうろついてくれる方が遥かに有り難い。

 明らかに恋人の荷物持ちといった風体で、ブランドの洋服が並ぶブティックに連れて行かれ、借りてきた猫同然に買い物が終わるまで呆けた顔を周囲にさらし続けるよりは、ずっと。

 少女漫画自体はあまり読んだことがないけれども、ちょっと隣の棚を覗けば少年漫画や青年漫画だって並んでいるのが、本屋という場所のいいところだ。まあもちろん、小説だって全く読まないというわけではないのだが。


「――あった。ちゃんと発売日に入荷してたみたい」


 理乃は、にこにこと笑顔で少女漫画が並ぶ棚のコーナーエンドから、平積みになっていた単行本を一冊両手で持ってうなずいた。


「なになに……これが理乃の探していた漫画か」


 ピンクと白を基調としたデザインがいかにもそれらしい装丁の本を、俺は横から覗き込んだ。

 繊細なタッチの線と、ハイライトが華やかに飛んだ瞳、独特のデザインの学生服を着た女の子が表紙に描かれている。なるほど、可愛らしくて清潔感のある絵柄だ。


 どんな内容かと、俺も理乃の脇から平積みの山に手を伸ばしてみる。

 ひとつ取って、単行本カバーの裏面に記述されたあらすじに視線を落とした。


 そこに書かれていた内容は、ざっくりいってこうだ――

 主人公の女の子は、複雑な家庭の事情から、無理やり父親に決められた高校に進学することになる。ところが、その高校は今年度から男女共学になったばかりの元名門男子校で、新入生女子生徒は全部で合計たったの六人。しかも周囲の男子は全員政治家や学者、財閥の子息ばかりだという。

 入学早々、偶然のトラブルに巻き込まれた主人公は、長身だが目つきと言葉遣いのやけに悪い少年と、激しい口論になる。だが、彼はその言動からは想像もつかないことに、二年生の生徒会副会長なのだった……


「逆ハーレムですね、わかります」


「違うよ。主人公以外にも、あと五人女の子が居るって書いてあるでしょ」


 理乃は、真剣な表情で抗議した。


「いやけど実質これ、ヒロインと身近な五人以外はみんな男ばっかりじゃん」


「でも、ヒロイン以外の女の子たちの恋愛も描かれてるもん。ヒロインだって、読めばちゃんと最初に好きになった男の子に一途なんだよ。雑誌連載のときから内容、調べてあるんだから」


 どうやら、理乃には理乃なりのこだわりのようなものがあるらしい。


 別に俺は、否定的な意味で逆ハーレム要素について言及する気はこれっぽっちもなかったのだが。

 少年漫画によくあるハーレム構造ラブコメは、そこに積極的に魅力を見出すかと問われたらNoではあるが、内容さえ面白ければ特に悪いとは思わない。

 ゆえに、女性が逆ハーレム構造の少女漫画を嗜好したところで、個人的にはそんなもんだよなーという印象しかない。


「透弥くんは、きっとBLボーイズラブ漫画も少女漫画の延長ぐらいに考えてるタイプだよね」


「BLって、男同士でアレなやつだろ? ……違うのかよ」


「もう。違うよ、全然違うんだから、読者層が。まあBLオッケーな子には、少女漫画も普通に読めるって人も多いみたいだけど」


「理乃は、BLは苦手なのか」


 俺に問われて、理乃はコクリとうなずいてみせた。

 うーむ、よくわからん。


 何か毒にも薬にもならないことでも言って軽く流そうかなどと思いつつ、俺が適当な言葉を探していると、不意に理乃がそれに先んじてつぶやいた。


「……ねえ。透弥くん」


 それまでと、少し声のトーンが変わって、どこか搾り出すような口調だった。


 理乃は、少女漫画の表紙を見詰めながら、


「透弥くんは、私と付き合う前に、何人の女の子と付き合ってきた?」


 それは、唐突な質問だった。


 しかしようやく俺は、なぜ理乃が逆ハーレム設定に否定的なのかを何となく察した。

 俺は、もしかすると迂闊な恋人だったのかもしれない。

 理乃の気持ちを察しながら、その質問に俺は誤魔化したりせず、事実を回答することにした。


「一人だな。理乃は、二人目のカノジョだ」


「――そうだよね。透弥くんはそんな感じだと思ってた」


 理乃は、俺の顔を見ようとはしない。


「私ね、主人公がきちんと一人の、一人だけの男の子を好きになれる少女漫画が好き。それは逆ハーレムは絶対ダメとか、そういうことじゃないんだけど……憧れだったから」


 俺は、何も言えなかった。

 第三者が今の理乃の言葉を聞いたら、どんな感想を抱くのだろう。

 辛辣しんらつな見方をすれば、自分が過去に十人以上の恋人との交際経験を持っていることについて、遠回しに相手の口から許容のセリフを引き出そうとしているようにも感じられるのかもしれない。

 だが、理乃がそんな打算的な女の子だとは、恋人の俺が考えてはいけない気がした。それが彼女の本心だと、素直に言葉そのままの意味で信じることは、たぶん今の俺の務めのひとつだ。


 しかし、理乃自身もまた、自分の言葉が相手にどういう意味合いをもって受け止められているのか、その可能性については感じ取っているようだった。

 だから、二人のあいだには、このとき何秒間かの沈黙があった。


「……これ、買ってくるね」


 俺が次の言葉に迷い続けていると、理乃が先に切り出して、小走りにレジの方へ離れていった。

 こういうとき、本当に自分の語彙能力の低さには嫌気が差す。

 俺は理乃の背中を見送りながら、仕方なく隣の少年漫画の棚の前に移動した。



 それからややあって、俺が最近アニメ化決定したという人気バトル漫画の単行本をチェックしていたところへ、買い物を済ませた理乃が戻ってきた。


 理乃は少しうつむきがちに歩み寄ってくると、俺にしか聞こえないちいさな声で、「さっきはヘンなこと訊いたりしてごめんなさい」と謝罪した。

 この謝罪の言葉については、待っているあいだに何となく理乃なら言いそうだなと予想が付いていた。なので、こちらにも用意しておいたリアクションがあって、つまり俺はそんな理乃に素知らぬ態度でわざととぼけてみせた。


「何の話だよ。俺、ヘンなことなんて、さっき何か訊かれたか?」


「……そう。なら、いいよ」


 理乃はそれだけささやくように告げると、映画館の中に居たときみたいに、きゅっと俺の服の袖を掴んできた。


 それで、俺はまた自分が下手な芝居をしてしまったことに気付かされた。

 どうやら、俺に役者の才能はないらしい。

 まあ、ずっと前から知っていたけどな。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る