3:手作り兵器の実力

 本屋での買い物を終えると、理乃の家へ向かう前に、俺たちは手近なスーパーに立ち寄った。


 理乃はそこで、中辛のカレールーと赤ワインを一瓶、そして特売のニンジンを購入した。

 カレールーは、数年前にCMで、一晩寝かせたそれと同じコクが出るとか評判になったやつ。赤ワインは、千円と少しで買える安物だったが、理乃に言わせるとこれで充分だそうだ。ニンジンは今朝の新聞にチラシが入っていて、家にまだ少しあるが買い足しておきたかったのだという。


 理乃は、買い物しながら、スーパーのチラシは四隅にお買い得品がレイアウトされることが多いので、そこに掲載されている品物は要チェックだとか、ここのスーパーはネットでは商品の割引クーポンを無料配布するサービスもやっているとか、そんな豆知識トリビアを楽しげに披露してくれた。

 率先するように店内を歩く理乃の姿は、俺が今日誘ったデートコースのどの場面よりも、生き生きとしていた。

 それを見ていると、それなりにアレコレ悩んで彼女を映画館や本屋に連れて行った労力に報いがなかったようにも思えるが、まあそれはこの際言及するまい。

 何より、誰がどう好意的に聞いてもこれは惚気のろけでしかないのだが、やっぱりそうして生き生きとしているときの理乃が、俺にはとても可愛らしく思えたからだ。



 買い物を終えて、理乃の家に着いたときには、時刻はもう一八時過ぎだった。

 家の玄関では、理乃の小母おばさんが出迎えてくれた。小母さんは笑顔で俺を居間に通すと、恋人二人をその場に残し、自分は気を利かせて二階の別室へ席を外してくれたようだった。

 まだ付き合い始めて比較的日の浅い娘の彼氏に、どうして理乃の小母さんが然したる戸惑いも見せず対応したのかについては、いささか複雑な事情があるのだが、それは追々ご理解頂けるかと思う。

 そんなことより、今はカレーだ。


 理乃は早速、居間とダイニングを挟んで奥まったところにあるキッチンに歩み寄った。

 手際よく調理台に、スーパーで買ってきた材料や、元々買い置きしてあった食材を並べていく。

 炊飯器の中身を確認すると、すでに白米は炊き立てで充分な分量がそこにあった。カレールーさえ作ってしまえば、すぐさま夕食に有り付けるという状況だった。


 理乃はエプロンを身につけると、ジャガイモやニンジンを水洗いしたのち、サクサクと皮むきしはじめた。たまねぎは微塵切りにして、それぞれ個別のボウルに分けておく。

 次いで、深めのフライパンに油を引いて熱が通るのを待つと、頃合を見計らって、微塵切りにしたばかりのたまねぎをニンニクと一緒に炒め始めた。特にたまねぎは、飴色になるまで火を通すのが鉄則だ。それだけで、野菜の少し甘い香りが漂ってきた。


 俺は、理乃が手早く調理してゆく後ろ姿を、ダイニングの椅子に座りながら黙って眺めていた。

 自分でも、自分がたぶん酷く気持ちの悪い人相になって、エプロン姿の恋人を見ているのであろうことが、よくわかった。

 どうかご容赦願いたいものだが、やはり男子にとってエプロンを着用に及んだ女の子が台所で見せる後ろ姿というのは、ささやかなロマンのひとつなのだ。憧れと言ってもいい。


 おそらく、世の男性が結婚願望を抱くに至るには、こうした光景と遭遇し、何か漠然とした夢想に浸るというプロセスを踏むパターンが、少なからずあるのではないかと思う。

 エプロン姿の女の子がトントンと小気味の良いリズムで野菜を刻む音をBGMにして、幸せそうなご機嫌オーラを振り撒き散らしつつ、まったりとした時間を過ごす。それで、ああこんな風に暖かい空間で、緩やかな癒しを得るのも悪くない……と、そんな安らいだ気持ちに包まれながら、将来に想いを馳せたりしていると、心がそちらに傾いて抗いようもない気分になってくるのだ。


 理乃は、フライパンで炒め終わった野菜を、水を適量張った鍋の方へ移し変えた。今度は、脇に用意しておいた軽く小麦粉をまぶした豚肉を、油を引きなおしたフライパンの上で焼きはじめる。

 鍋の様子を見ながら、豚肉に綺麗に焼き色が付いたのを確認した上で、理乃はフライパンの火を止めた。そのまま豚肉も鍋の野菜と合わせ、少し蒸発した分の水と一緒に、先ほど買ってきた赤ワインを足した。こうして煮込むと、ワインが肉の臭みを消しつつ柔らかくする一方、アルコールは飛んで旨みのコクだけが残るのだとか。

 そこにローリエの葉を一枚加え、ひとまずじっくり待つこと一時間ほど。


 徹底的にこだわるなら、もちろんカレールーはスパイスから作るのがベターではある。

 だが、今回はそこまでの時間はないし、何より現代日本のスーパーマーケットには各食品会社が試行錯誤を重ねて商品化した、優秀なカレールーが市販されている。その種類と味は多種多様であるが、物理的制約を前にこれを馬鹿にして利用しないという手はない。


 ただ、理乃はここでも一工夫する。元々家に買い置きしてあった辛口欧風カレールーと、これまた先ほど購入してきたばかりの濃いコク中辛カレールーを、六対四の割合で鍋に投入した。

 これで市販のルーを使用していても、微妙な味の変化を楽しむことができるわけだ。

 そして、カレールー投入後、再び少々煮込み続け、居間のアナログな壁掛け時計の短針が二〇時を回り掛かったところで――



 ついに、理乃のお手製豚肉カレーが完成した。


 改めて言うが、女の子の手作りカレーライスというのは、男心を惑わす危険な兵器である。

 また同時に、普遍性の象徴なのかもしれない。

 子供から大人までが美味しいと感じる料理。俺もまた、子供の頃から好きで、今も変わらず好きであり続けている味。

 おそらく俺は、これからもずっとカレーライスが好きで、死ぬまでこの味なしでは生きていけないのだろうと思う。


 理乃はカレーを盛り付けた皿を、俺と自分の席のダイニングテーブルの上に配膳した。

 俺は、食器棚の引き出しから取り出したスプーンを手渡され、理乃の生み出した魅惑の兵器を前にしていよいよ臨戦態勢に入った。


「――いただきます」


 それが開戦の号令だった。

 俺は告げるや否や、スプーンをカレールーがライスに覆い被さり掛かった境界線あたりを目掛けて突き立てる。掬ったスプーンの先端に、ルーとライスが思惑通りのバランスで乗った様子を確認してから、そのままおもむろに一口目を味わった。


 カレールーの香りと辛味が、たちまち俺の口内を席巻する。

 市販のルーを使用しているとはいえ、ほんの少しアレンジが加わっているだけで、やはり理乃が作るカレーの味は格別だ。深みと奥行きのあるルーは、しかしもったりとした口当たりなどは一切なく、ライスと見事に調和している。

 適量のワインやスパイスが効いた香りには、鼻腔を抜けてゆくような爽やかささえ備わっており、俺の食欲中枢を刺激するには充分だった。


 おそるべし、手作り兵器カレーライス。


 丹念に炒められたたまねぎの旨みが舌先の神経を刺激するたび、食の快楽が俺の心の防衛線をズタズタにした。

 ルーに埋もれたジャガイモを掘り返し、ひとくち食べてホクホクとした具の中身が口の中で解体されてゆくと、すでに兵器製作者に対する敗北感が漂いはじめた。他の料理ではちいさな子供に疎まれ邪魔者扱いされることの多いニンジンすら、この魅惑のメニューにおいて明確な役割を与えられると、甘さと食感のアクセントで次々に抵抗する者をなぶり殺しにする残酷な殺戮者だった。


 豚肉に至っては、もはや味覚の大量破壊兵器である。

 カレールーの中にときたま現れるそれを、スプーンで口に運んだ瞬間が運の尽き。奥歯で噛むと同時に染み出す肉の風味がスパイスと化学反応を起こし、その都度口内は美味の焦土と化すのであった。眼前が真っ白になるような衝撃で、噛むたび眩暈めまいを覚えたとしても、誰がその兵士を責められよう。


「どう、美味しい?」


 自らも自身が生み出したこの凶悪な戦闘兵器をスプーンで口に運びながら、理乃は少しだけはにかんだような笑顔で問い掛けてきた。

 普段は何かと自分に自信が持てない様子で、街中でデートしているときもネガティヴな言動が多い理乃にとって、手作りカレーを並べたテーブルは、彼女が潜在能力を最大限まで発揮する最高の戦場フィールドなのだ。その地の利を得た指揮官の精神的優位性が、今の彼女の表情には控えめに浮かんでいた。


 それは俺に降伏を促す、理乃の手短な勧告だったと言っていい。

 理乃の笑顔は、本当に可愛らしかった。

 悔しいけど、抗う術などどこにも見出せなかった。


「美味いな。腹が立つほど最高だ」


 俺は、正直に敗北を宣言した。

 まだカレーはライスもルーも皿に半分以上盛られていたが、スプーンを動かす手は止めることができず、みるみる残り少なくなってゆく。


「腹が立つほどって、何が気に入らなかったの?」


「あんまり美味すぎて、せっかくカノジョの家に上がり込んでるのに、色気のある発想なんて遥か彼方に飛んでしまいそうな自分にがっかりしていたんだ」


「色気より食い気ってこと?」


「ああ。俺は小学生かと」


 理乃はグラスに水を注いで、それを俺のカレーの皿のそばに置きながら微笑んだ。


「そういえば、そろそろ付き合いはじめて一ヶ月なのに、キスひとつしてないね」


「別に、交際期間でキスするタイミングが決まるもんじゃねーけどな」


「そうだけど、人によってはもっとエッチなことだってしてるでしょ。一ヶ月経ってたら」


「――それこそ期間で計るようなこっちゃないな」


 理乃は、自分自身のグラスにも水を注いで、それを口につけて少し傾けた。

 肩の上だけちょっとうつむきがちに、下からこっちを覗き込むような姿勢になる。

 そして、グラスを両手で挟み込み、「あー」とか、「うー」とか、理乃は言葉にならないようなつぶやきを何度か繰り返しつつ、こちらの様子をうかがうようにしていた。

 それから、さらに数秒挟んで、ようやく遠慮がちに切り出す。


「……ね。折角だし、あとでしとこうか。キス」


「カレー味でかよ」


 別に俺は、理乃の提案を嫌がって言ったわけじゃない。ただ、甘ったるい流れが苦手なだけだ。

 なんたって、カレー好きだからな。ただ辛ければいいというわけではないが、甘口よりはほどほどにスパイシーな方が好みだ。


 だが、理乃にそれは伝わらなかったようで、すぐに恥ずかしそうな、不満そうな、拗ねた顔になって視線をこちらから逸らした。


「……もう。ちょっと、頑張って言ってみたのに……」


「ロマンスの欠片もないキスでいいなら、それでもいいぜって意味だよ」


「はあ。少女漫画って、やっぱり女の子だけの幻想なのかな」


 そいつは、なぜ少年誌のラブコメ漫画で主人公の隣の席に必ず美少女が座っているのかと、ほぼ同じレベルの愚問というやつだが、俺はあえてそこまでは言及しなかった。

 どちらにしろ、理乃はもうすでに少し興を削がれてしまった様子だ。


 一方の俺はというと、実は密かにさっき理乃が調理していた間中、彼女のエプロン姿を充分拝見させてもらって、それなりに幸福感を堪能し終えている。まあ、といって健全な男子としての性欲も人並みにはあるつもりなのだが、心理的にある程度はすでに満たされた心地になっていたことも、否定できない。

 理乃の願望に、甘いセリフで対応できなかったくせ、一人で勝手に楽しんでいたのかと問い詰められれば、それは素直に申し訳なかったと謝罪するほかなかった。


 そんなことを考えていたところへ、理乃がふと不思議そうに言った。


「それにしても、透弥くんは晩御飯、本当に私の作ったカレーなんかでよかったの? 二人で街まで出たんだし、美味しいお店いっぱいあったのに。帰ってきてから作って食べるにしても、私カレーより美味しい……かは保障できないけど、もう少し手の込んだ料理だって作れるよ」


「カレーが好きなんだ」


 俺は、即答した。


「それこそアレだ、漫画のキャラクターなんかで、やたらとプリンが好きとか、ほうれん草が好きとか。そういう感じだな。俺はカレーが好きなんだよ」


「カレーが大好き、ほにゃららレンジャー的な?」


「……そのネタが理乃の口から出るとは思わなかったが、概ねその通りだ」


 理乃は、くすくすと笑い出した。


「ヘンなの。ずっと前から好きなの?」


「ああそうだ。ずっと好きだった。たぶん、それこそ小学生ぐらいの頃から。進歩ねーな俺」


 俺は自嘲気味だったかもしれないが、理乃は穏やかにこちらを見詰めていた。


 そんなやり取りを続けている間にもスプーンを動かす手は、着実にカレーを俺の胃袋の中に運び続け、やがて一五分も経った頃には、この恐るべき手作り兵器の完全勝利を決定付けた。

 蓮水理乃はカレーライスによって、俺の心を制圧することに成功したのである。


 無自覚の征服者たる理乃は、俺によりさらに一○分ほど遅れてカレーを食べ終えた。

 それから、すぐさまキッチンの蛇口を捻って、食べ終えた皿の後片付けをはじめた。

 俺は再び、キッチンに立つ理乃の後ろ姿をぼんやりと眺めるという、緩やかな癒しの時間を得ることになった。



 瞑想的な心地になりながら、俺は自分が手作りカレーの虜囚りょしゅうとなってしまった過去の経緯を思い出していた。

 実は、今、目の前に居る理乃には決して言えない話なのだが、俺がカレーライスを愛してやまない身体になった原因は、彼女と交際をはじめる前に付き合っていた、一人目の恋人から大きな影響を受けている。

 引き摺っていると言ってもいいし、女々しいとなじられたとしても、俺は反論の余地を持たない。


 俺にとって最初の恋人は、俺と同い年の幼馴染で、十五歳だったときに、俺から告白して交際をはじめた。お互い、はじめての恋人だった。

 彼女は、身長一五〇センチ台前半の小柄な女の子で、体つきはよく言えばスレンダー、悪く言えば色気がないということになるが、まあこれは中学生だったのだから当然か。

 面立ちもどちらかというと童顔で、ロングヘアは黒くて染めたりしたこともなく、服装など含めて見ても目立つ容姿とは言い難かった。

 むしろ、地味な女の子だったと言えるだろう。


 ただ、その子には少しだけ他人より長じている特技があり、俺はそこにやられてまんまと告白の言葉を引き出されてしまった。


 その特技とは、料理を作ることだ。


 なんだ、たかが料理スキルかと侮ってはいけない。

 男という生き物は、つくづく女の子の手料理に弱いものなのである。

 特に、その幼馴染の作るカレーライスの破壊力は抜群だった。



 俺にとって一番最初の恋人だったその女の子は、名前を蓮水理乃という。


 過去も未来も、俺のすべてを手作り兵器カレーライスで制圧していった、無自覚の征服者だ。

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