第八歩 東の我が家



 激しく扉が叩かれた。

「キール。キール。居るんだろ。キール!」

 何度も扉が叩かれる。思わず飛び起きてあたりを見回した。

 自宅ではない、見慣れない天井やら壁やらに、一瞬目を回しかけたが、すぐに昨日のことを思い出した。

「キール!」

 扉に飛びつきかけて、直前であわてて寝台を振り返った。

 ディンバーも既に起きていて、床に足をつけるところだった。

 万が一誰かがディンバーを害するために、階下のアンを脅したとしてもディンバーには逃げてもらえばいい。

 一瞬のうちにそう判断して、キールは扉を開けた。

「キール! よかったやっぱりここにいたんだね」

 はたして扉の向こうには、恰幅の良い女性が立っていた。階下で食堂を営んでいるアンだ。彼女が真っ赤な顔をして口を開く。

「早く家に帰ってやんな。昨日、見回りであんたの妹が引っかかったって」

「え。引っかかった……って」

 とたんに血の気が引いた。ひきつったような音が喉から出るが、それだけで、後は言葉にならない。

キールはアンを押しのけるようにして部屋を飛び出した。




 ドアが激しく叩かれた時から、何か嫌な予感がしていた。

 年若い友人の顔が一瞬でこわばり、真っ白になった。倒れるかと思うくらいに血の気が引いていた。

 「大丈夫か」と声をかける前に、はじかれたようにキールの背中が扉の外へと飛び出していった。

 押しのけられたアンが転びそうになるのを支え、「すみません、後で戻ってきますから」そう言って、アンをしっかりと立たせるとディンバーも走り出す。

 道路に出ると、既に開門の時間は過ぎていたらしく道には荷台が溢れ出していた。ディンバーは左右を見渡し、なんとか白い背中を見つけ、後を追う。

 路地に入られてしまったら行き先が分からなくなる。

 表の商店街とは違い、裏通りは入り組んだ作りになっているのだ。

 ディンバーはどんどん遠ざかるキールの背中を見ながら、どうやって追いつこうかと考えを巡らす。スピードはキールの方が早い。地理だってキールの方が詳しい。

 キールは商店街を南側に向かって走っている。まっすぐに走れる道を選び、最短距離で自宅へ向かっているのだろう。左側に寄って走っているところを見るとキールの自宅は東側の地区か。

 東側の地区に行くには商店街の脇を走る水路を超えなくてはならない。何本か橋がかかっているはずだがキールもそのどれかを渡るはずだ。

「ここで見失うよりは可能性があるか」

 ディンバーはキールが路地に入るよりも早く、手前で目に入った路地に飛び込んだ。すぐに水路が見えてくる。

 水路の両側は細い通路になっており、走るには不向きだ。そこを何とか走り抜けながらキールが橋を渡る姿を見落とさないように目を凝らす。

 すぐに二本ほど先の橋をキールが渡るのが見えた。

 自宅を行き過ぎてから橋を渡るとは考えにくい。となると渡った橋よりも南側にキールの自宅があると考えるのが自然だろう。

 ディンバーは、キールが渡った橋よりも一本手前の橋を渡った。東側に歩を進めながら、自分の右側の路地をチェックしていく。しかしキールの姿は見つけられなかった。

比較的大きな通りにぶつかったところで足を止めた。

「いないか。ってことはここより水路側の可能性が高いな。完全に見失ってなければ」

 少しスピードを落として通りを南下する。先ほどキールが渡った橋よりもやや南側に来た当たりでディンバーは足を止めた。

「多分、この辺のはず……だと、……いいんだけどな」

 おおっぴらにキールの自宅を聞いて回っても良いのだが、彼のまわりがどのような状況なのかが分からないうえ、何か異常事態が起きたことだけは確かという現在の状況を考えると、そう簡単に動かない方が良いような気もした。

 できればそれとなく、町の人間がおおっぴらにキールの家を探している風でなく、彼の家にいけないものか。

 あの様子ならば、なにか困ったことが起きたのは確かだろう。



 周辺には申し訳程度の木材を積み上げた小屋のようなものが立ち並んでいる。扉の無いものも多く、布をたらして通りとの境界としていた。

 通りにはやはり布を敷き、その上で不格好な果物や中古の器などを並べている。どれも品数は少ないが、それなりにやり取りがあるようだった。

「妹とか言ってたな、キールが多分15くらいだから」

 ディンバーはでこぼこのリンゴを売っていた少女に声をかけることにした。おそらく10歳くらいで、この界隈で商売をしているということは情報に疎いということもなさそうだ。利発そうな茶色の瞳がディンバーをとらえていることも好感が持てた。

 好奇心があるということは頭がよい証拠だ。

「ちょっと、聞きたいんだが」

 ディンバーは腰を折って少女に話しかけた。

「あたしは果物売ってるの」

「あ、ああ……あ、そうか。そうだよな。じゃぁ、それを……シュゼットさんにの家に行くお土産にしたいんだけど」

 少女はにっこりと笑った。歯が二本ほどないところを見ると、10歳よりも幼いのかもしれない。

「じゃぁ、お兄ちゃんの分も入れて5個必要。5個で150バル」

 ディンバーはポケットの中に手を突っ込んだ。小銭を手のひらに乗せてコインをいじる。

「シュゼットさんのおうちにはお見舞いに行きたいんだ。もう少し包んでくれないかな」

 少女はさらににこにこと笑った。

「じゃぁ、後ふたついれて……」

 少女はちらりとディンバーを見る。大汗かいて息を切らした男は彼女にはどう映ったのか、少女はいたずらっぽく笑った。

「メイのお見舞いには私も行きたいんだ。でもお店があるからいけない。ほんの二つ向こうの角を水路の方に曲がるだけなんだけど、お仕事だから」

 ディンバーは思わず目を見張った。

 メイというのは女性名だ。キールの妹に何かが起きたということだから、メイというのはキールの妹の名だろう。

「まいったな。ありがとうお嬢さん。もちろん君の分のお見舞いも伝えるよ」

「じゃぁこれは私からのお見舞い。ひとつはお兄さんからのお見舞い。全部で七つだけど180バル」

 ディンバーは一瞬少し多めの金を渡そうと思った。しかし「私からのお見舞い」といった彼女を見ると、その心に金を払うのは間違いのような気もした。

彼女はしっかりとした目をしている。

 ディンバーは小銭を渡し、さらにお釣りを受け取った。

そして少し迷ったがその釣りを彼女の手のひらに落とす。

「親切のお礼をしたら失礼かな」

 正直にそう言うと少女は首を振った。

 茶色の髪が太陽の光に透けて、やわらかい赤みを帯びた色を見せる。肩のあたりで適当に切られているが、それでも清潔感を保つ努力が見られて好感が持てた。

 でき始めたそばかすがかわいらしい。

「今度お花を買いに行くと伝えてくれる?」

「……もちろん。そうだ、君の名前を聞いてもいいかな。友達になってくれると嬉しいんだ」

「私はリエッタ」

「俺はディンバー。ディッツって呼んでくれ」

「いいわよ、ディッツ」

 いつか彼女に恩を返そう。そう心に決めてディンバーは少女に礼と別れを告げる。手の中のリンゴは形に似合わずおいしそうな香りを放っていた。

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