06 俺と契約するか?

 説得は出来そうにないと踏んだのか、はぁ、とバアルが大げさにため息をついてみせる。


「うん……」


 例えば通学路で彼の名前を叫んだところで、それが聞こえるほどの地獄耳をしているのだろうか。黒乃はそんなことを考えながらも疑問は口にせず首を縦に振った。


 すっかりと空になった他の食器を集める黒乃の前で、食事に満足したのかバアルは大きく伸びをする。シャラシャラと首やら腕やらに巻きついた金属が派手な音を奏でた。

 その様子を見て、やっぱり彼を学校へ連れて行くことは出来ないな、と黒乃は心内で思うのだった。


 そして、やっぱり普通ではない見た目の男を改めて観察し、沸々と今更になって色んな不安が胸に込み上げてくる。

 黒乃はひとまずその不安だけでも解消しておこうと、ひとつ訊ねることにした。


「あの……」

「ん? やっぱり一緒に行くか?」

「ううん、そうじゃなくて……あのさ、バアルは悪魔なんだよね?」

「おう、そうだぜ」

「バアルを喚び出せたのは、あの指輪があったから……で、あってる?」

「あぁ、それであってる。ありゃあソロモンの指輪のひとつだからな」


 ソロモンの指輪。その名称に聞き覚えはあったが、ひとまずそれは置いておいて黒乃は問いたいことを問う。


「あの指輪は、お父さんから貰ったもので……その、お守りだから、って」

「…………」


 不安げに右手の薬指を触りながら喋る黒乃を前に、バアルは口を挟まず黙ってその様子を見守る。


「お父さんはあの指輪の使い方を知ってた……君の喚び出し方を知ってた……」

「……そうだろうな」


 次第に思いつめたような表情に変わっていく黒乃に、バアルは思わず眉をしかめる。なにやら良くない想像をしていると見える。


「……バアルはお父さんのこと知ってるの? お父さんは、悪魔と契約してたの?」


 そう言って黒乃は弾かれたように顔を上げた。バアルは何やら考え込んだ様子で口を開く気配を見せない。


 黒乃は考えていた。

 危なくなったら指輪を嵌めろと言った父の言葉は、そうすれば悪魔を喚び出せると確信があったからこそのものだっただろう。


 一か八かの賭けになるようなことを、危険が迫った折に行なえというわけがない。黒乃が知る自分の父親とは、そんないい加減な人間ではなかった。

 世間一般から見れば少し変わり者ではあったかもしれないが、十分に良い父親だったと黒乃は思う。


 黒乃の父親は、刑事としていつでも人の為に働いていた。

 病弱で入院生活が続く自分の妻に対しても献身的で、よほどのことがなければ毎日のように見舞いに訪れるような人間だった。

 そしてその為に息子を蔑ろにするということもなく、休みの度に自分が疲れていようと黒乃の相手をする。

 良き夫であり、良き父親でもあった。


 そんな男の唯一変わったところと言えば、いわゆるオカルト好きだったというところか。特に西洋の悪魔学は彼の好奇心をくすぐって仕方がなかったようだ。


 その結果、羽生家の本棚には悪魔学に関する書物が多数並ぶこととなった。ソロモン七十二柱の悪魔に関してのものは、ことさら種類も豊富であった。

 そしてその血は黒乃にもしっかりと受け継がれているようで、黒乃は幼い頃から父親にそんな物騒な本を読んでと夜ごと頼み込んでいたものだ。


 そういうわけで、父親が「ソロモンの指輪と思しきもの」を所持していたこと自体には驚かない。

 それでも、実際に悪魔と契約していたとなると話は別だ。


 黒乃は悪魔という存在を忌避しているわけではない。むしろ、その存在には大いに興味があるし、どうにも人間くさい彼らのことを、黒乃は好きですらあった。

 けれど、色んな書物を読めば読むほど、悪魔と契約するということがどういうことか知識として入ってきてしまう。


 悪魔との契約。それはなんらか負の感情を抱きながら成し遂げたい事柄がある場合に行なうものと、黒乃には思えてならなかった。

 悪魔について人より多くを学んでさえ、いや、学んだからこそ、契約というその言葉にはやましい何かを感じてしまう。


 少年の不安を読み取ったか、バアルがひとつため息をついてようやく重い口を開けた。


「……そうだなぁ、俺は確かに時定(ときさだ)……お前の父親と昔、契約してた」


 神妙な面持ちでバアルが答えた。

 その言葉に黒乃は瞠目する。少し悪魔学が好きなだけの、普通の人間だと思っていた父が悪魔と契約をしていた。


 その事実は黒乃にとって重大なものだった。


「悪魔と契約して、何をしようとしてたの?」


 その言葉の直後、黒乃は自分の発言を取り消すように首を横に振る。


「ううん、その前に、悪魔と契約するのに代償は必要ないの?」

「代償か……そうだなぁ、ちゃんとした契約をするってんなら、一つ何かしらの約束事をしてもらうことにはなるけどよ。別にこれといって……例えば自分の命を差し出すとか、そういうのは特にないな」


 すぐにまたのんきな表情に切り替えてバアルが答える。それを聞いて黒乃はほっとしたように小さく息を吐いた。


「じゃあ、お父さんがあんなことになったのは、悪魔と契約したのが原因じゃないんだね」


 気になっていたのは、二年前の事故のこと。父が、昏睡状態に陥った事故。

 いや、事故かどうかすら分かっていない。その場に居たのは意識不明の父だけで、なにがあったのかは今もわかっていない。ただ事実として残ったのは、その日以来、父が眠り続けているということだけ。

 父と組んで仕事をしていた知り合いは、事件として今もなお捜査を続けているようだったけれど、結果はあいにくと出ていない。


「時定のことは……まぁ、契約自体が原因ってわけじゃあねーよ」

「そっか……」


 悪魔との契約という響きが酷く恐ろしいものに思えていた黒乃にとって、その答えはほんの少しではあるが、確かに不安を取り除くものではあった。


 バアルが黒乃の顔を覗きこむ。


「俺と契約するか?」

「…………」


 けれど、やはり得体のしれないものであるということに変わりはない。黒乃はその問いには答えられず、ぐっと口を引き結んだ。

 黒乃の心の揺れを知ってか知らずか、バアルは穏やかな声で告げる。

 

「まぁ良いさ、急いで答えを出す必要もねぇ。ちょっとゆっくり考えて、どうするか決めれば良い」


 快活に笑うバアルを前に、黒乃はいまだ不安げな声で訊ねる。


「もし僕が契約しないって言ったら、バアルはどうなるの?」

「んん? うーん、その場合はまぁ、また猫に戻ってのんびり暮らすさ。魔力が切れるまでな」

「魔力が切れる……?」


 バアルの言葉の一部を繰り返した黒乃の声を、部屋に響いた振り子時計の鐘の音が掻き消す。

 反射的に時計を見た黒乃は、慌てて食器を抱えたまま台所へと駆け込む。


「わーもうこんな時間! ご、ごめんバアル、学校に行ってくるから、続きはまた帰ってから聞かせて!」

「おう、了解した。あとは俺がやっといてやるから行ってこいよ」


 バアルの言葉に嬉しそうな顔をした黒乃が、短く礼を告げて居間を後にする。

 バタバタと忙しない足音は彼の自室へと消えていき、それからすぐに玄関の方へと向かっていった。

 やがて引き戸を引く音がバアルの耳に届く。それから行ってきますという声。月に一、二度ある光景だ。

 猫の姿をしていた頃は鳴いて見送るだけだったが、今日はちゃんと「いってらっしゃい」と告げられた。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

黒の悪魔使いと冥界の王 黒崎 @siro24kuro

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

フォローしてこの作品の続きを読もう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ