第2話 5
――わたしがこの世界に来て、もうじき一年になろうかという頃。
その日もわたしは、いつものようにお店の入口前のカウンターでお勘定番をしていた。
その時対応していたお客さんは、文字が書けない人だったから、名前を教えてもらって宿帳に代筆。
『花付き』をご希望だったから、要望に合った
勇者としてあちこち旅するようになってから知ったのだけど、普通の娼館っていうのはお客さんの要望があれば、娼婦に拒否権はないそうで。
そしてそれは娼館に所属していない、個人の娼婦もそうだった。
『春の彩』では、紹介した
それが当然だと思っていたから、旅の間に見かけた娼婦の扱いに愕然とした。
「――金を払ったんだから、てめえは黙って股を開けば良いんだよ!」
お金がなくて路地裏で野宿してる時なんかに、幾度となく見かけた光景。
「――誘って来といて、なに勝手言ってやがる!」
路地裏で強引に行為に及ぼうとする男と、拒否して殴られる娼婦。
初めて見かけた時は、割って入って止めたのだけれど。
「……助けてくれてありがとう。でも、これであたしは常連をひとり失くしたわ……
――我慢してればよかっただけなのに……」
口で言っても男は止まらず、酔っていたのか殴りかかって来たから、わたしも容赦なく返り討ちにした。
それがまるで余計な事だったかのように吐き捨てられて。
彼女は乱れた衣服もそのままに路地の向こうに消えていった
それから……わたしは娼婦を見かけても、見ないフリをするようになった。
『春の彩』のカッコ良い
虚ろな目をして路地裏に立ち、その日を生きる為……微々たるお金の為に身体を明け渡す彼女達は、
ただただ、その境遇を哀れに思い……それだけ。
たぶん、わたし自身がボロボロだったから。
……わたし以上に辛い人を、見ないようにしてたんだと思う……
あんな風にはなりたくなくて……
――話が逸れた。
夜の営業が始まってすぐやって来たお客様達への対応も終わり、厨房でマウリおばさんを手伝おうかと考えたところで、ドアベルが鳴った。
「いらっしゃいませ! 『春の彩』へようこそ!」
すっかり慣れた笑顔でそう挨拶すると、ドアから入って来たのはベアおじさんとアイラ
「あれ? 珍しいね。ベアおじさんが夜に来るなんて。アイラ
首を傾げるわたしに、ベアおじさんとアイラ
「ミィナ、今日はあんたに紹介したい人がいるの!」
「俺とアイラの知り合いなんだがな。おまえの話をしたら、ぜひ会ってみたいって言うから、連れて来たんだ」
そうしてふたりは後に立ってた男の人に場所を空ける。
上等な生地のスーツを着込んだその人は、茶色に近い濃い金髪を後に流していて、わたしと目が合うと、胸に手を当てて会釈。
「ノリス・オールセンだ。ミィナ嬢、会えて嬉しいよ」
洗練された――それでいてひどく慣れた動作。
姓がある事と言い、すぐに貴族だとわかった。
「――は、はじめまして、オールセン閣下。
わ、わたしはミィナと申します」
と、わたしは慌ててカウンターから出て、ノリス様の前でカーテシーした。
いずれ貴族のお客さんの相手をする場合に備えて――そう言って礼儀作法を教えてくれたアイラ
「……ほう」
後になって、ノリス様は同僚や部下の人に、何度もこの日の話を持ち出すようになる。
そして、わたしを指導したアイラ
短く感嘆を漏らしたノリス様に、わたしは内心ガッツポーズ。
初めての貴族のお客様だけど、出だしでつまずくようなヘマは避けられたみたい。
「さてミィナ嬢。受付を頼めるかい?」
「は、はい!」
促されて、わたしはカウンターの中へと戻り、宿帳を開く。
「失礼ですが、取り決めですのでお名前をご記帳願えますか?」
そう言ってペンを渡そうとしたのだけれど、ノリス様はアゴに手を当ててニヤリとして。
「すまないが、代筆を頼めるかい?」
お偉い人は、自らペンを持つなんてしないのかもしれない。
そう考えられる程度には、わたしもこの世界の下町に染まっていたから。
「かしこまりました。ヘェイ文字での記帳でよろしいですか?」
「ああ、構わない。
――いや、名前の後に、『伯爵』とプラゥス文字で記入してくれ。
貴族御用達となれば、店にとっても都合が良いだろう?」
ノリス様はその切れ長な青い目を細めて、わたしの顔をうかがうようにしてそう仰った。
「承りました」
この頃にはもう、わたしはヘェイ文字だけじゃなく、プラゥス文字も常用字程度なら扱えるようになっていた。
シュバルツさんが辞書や本を貸してくれるようになって、わからない字は成り立ちから教えてくれたのが良かったのだと思う。
ノリス様のご要望通りに記帳を終えて。
「何泊ご希望ですか? あちらが料金表です」
と、わたしはノリス様にカウンターの後に飾られた看板を示して見せる。
「では、素泊まり――いや、食事付きで」
「銀貨一枚、五十エムシィを頂戴致します」
もうすっかりお勘定番に慣れたわたしは、即座にそう応える。
「ああ、言い忘れた。ベルーダの会計も僕が持つから一緒に計算してくれるかい?」
え? ベアおじさん、泊まってくの?
お家はすぐそばなのに珍しい――そんな事を考えながら。
「銀貨二枚、百エムシィになります。お持ちでなければ、小金貨でも結構ですよ」
お忍びでやって来た貴族が、市場で買い物しようとして金貨を出してお店を困らせるというのは、下町の笑い話でよく聞く話。
「ああ、すまない。金貨しか持ってないんだが……」
「では、小金貨四枚、四百エムシィのお釣りですね」
わたしはカウンターの下に置いた、シュバルツさん謹製の魔道金庫のボタンに触れて、魔道を通す。
カラカラと乾いた音と共に、下の受け口に小金貨四枚が転がり落ちてくる。
以前は袋に全部の通貨がごちゃ混ぜで放り込まれてて、お釣りを出すのも、閉店後に売上を数えるのも大変だったから、シュバルツさんにお願いして造ってもらった魔道器だ。
上の受け口にお金を放り込むと、中で種類ごとに分別してくれる。
取り出したい通貨と枚数を指定して魔道を通せば、それが下の受け口に転がり出てくるという造りになっている。
「お待たせしました」
お釣り用の木皿に小金貨四枚を乗せて差し出し、戻す手でノリス様が金貨を乗せた木皿をこちらに引く。
「――ちょっと待った」
その手を不意に掴まれた。
「君のような小さな娘が、そんなスラスラ計算できるものか?
本当に合っているんだろうな?」
ああ、またこの手のお客さんか。
相変わらず小柄なままだったわたしは、この手のクレームをよく受けた。
どうもこの世界の人には、わたしが十歳以下に見えているらしい。
小娘、幼女と侮られる事にすっかり慣れたわたしは、失礼にならないようゆっくりと吐息。
「オールセン閣下。計算が正しい事を説明致しますので、お手を離して頂けますか?」
わたしも金貨の乗った木皿から手を離して見せて、そうお願いする。
「ほう、できるのか? では、してみると良い」
手を離されて、わたしはカウンターの隅に置いてある、わたしの相棒を手に取る。
前に似たようなクレームを受けて悔しい思いをした時に、ゴン爺に頼んで作ってもらった、大切な商売道具だ。
わたしはそれを手に、再び後の料金表を指し示す。
「では、オールセン閣下。あの料金表、数字の横に絵が書かれているのがご覧になられますか?」
「ん? ああ、あれは……通貨の枚数を表しているのか?」
「はい。文字が読めない人でも、ひと目で料金を把握できるように作りました」
正確にはゴン爺が。
「次にこちらをごらんください」
と、わたしはノリス様に相棒を突き出す。
木の枠の中に、木製の玉を串刺しにして連ねたそれは――
「これ、そろばんって言うんですけど、まあ計算の為の道具ですね」
クレームの時に作ってもらい、その後も文字が読めないお客さんや計算が苦手なお客さんに説明するのに役立ってくれている、わたしの大事な相棒よ!
よりお客さんに理解してもらいやすいように、一、十、百のそれぞれの位は通貨の色に対応させている。
「この下枠の四つの玉が小通貨。上枠のひとつだけの玉が通貨と考えてください。
一泊は料金表にあるように、銀貨一枚なのでこの銀の列の上段の玉を」
ゴン爺が木を丁寧に磨いて塗り上げてくれた銀色の玉を指で押し上げる。
「ここでオールセン閣下は二人分と仰いましたので、銀貨二枚――つまり桁が上がって小金貨一枚――」
押し上げた玉を下げて、隣の金貨を示す黄色の玉の列から、下段の一番上を押し上げた。
「料金は正しく、小金貨一枚。お持ちでしたら、銀貨二枚でも少銀貨十枚でも結構です」
「ふむ……わかった。だが、釣りはどう説明する?」
「一緒ですよ」
一度玉をすべて下に落とし、わたしは上段の黄色の玉をひとつ押し上げる。
「閣下は金貨一枚五百エムシィをお支払いに使おうとなさって、料金は小金貨一枚百エムシイ。
先程ご覧になったように、このそろばんの下段の玉はひとつ小通貨一枚を指します。五枚になったの場合は、上段の通貨に。
なので、金貨を示すこの列で、金貨から小金貨一枚を引いた場合、下の四つの玉が上がる事になります」
上段の玉を下げて、下段の玉四つを押し上げる。
「これで小金貨四枚、四百エムシィが間違いなくお釣りです」
と、そろばんの横にお釣りが載った木皿を並べて、わたしはぺこりと頭を下げる。
「……ご納得、頂けたでしょうか?」
そう告げて、わたしは顔を上げる。
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