第2話 3

 客室の掃除を終えたら、マウリおばさんの仕込みも一段落してるので、ふたりで一緒に、朝ごはん兼ちょっと早い昼食を取って。


 食べ終わる頃には、昼番のねえさん達が出勤してくるので、わたしはお勉強の時間。


 一月も経つ頃には、わたしはこの生活サイクルにすっかり慣れていた。


 『春の彩』では、シフトごとに出勤日が決まっていて、昼番と夜番を合わせて、全部で十六人のねえさん達が代わる代わるに勤めていた。


 昼番はだいたい、二人、多くても三人のねえさん達が持ち回りで。


 と言っても、食堂としての『春の彩』は、あんまり人気がないのか夜ほど混み合う事はほとんどなかった。


 そんな空きテーブルの目立つホールの片隅で、わたしは黒板とチョークを握ってお勉強。


 マウリおばさんの娘さんのお下がりだという黒板は、ノートを広げたくらいの大きさ。


 マウリおばさんが木板に書き出してくれた、この世界の基礎文字――ヘェイ文字のお手本を参考に、わたしは黒板に文字の書き取り練習をした。


 しぃちゃんの本だと、転移チートとかで文字の読み書きできるものもあったけど、どうやらわたしには、そういう特典はなかったみたい。


 とはいえ、言葉が通じるだけでもかなり助かったと思う。


 文字を覚えるのにも、言葉が通じるから英語の感覚で覚えられた。


「なぁに、ミィナ。また勉強なんてしてるの?」


 基本的に昼営業は、お客さんが少なくて、ねえさん達は暇を持て余してる。


 だから、ねえさん達はマウリおばさんに料理や繕い物を教わったりしてたんだけど、そんな中でアイラねえさんは、よくわたしの世話を焼いてくれた。


 いつも綺麗な金髪をなびかせてて、お客さんの前では眠そうなトロンとした表情をしているのに、普段のアイラねえさんはキリっとしていて、大人の女って感じでカッコよかった。


 そうそう。ミィナって呼ばれ出したのは、この頃から。


 この店で働く人は、みんな本名じゃなく――この時はよくわかっていなかったのだけれど、防犯の為に仮の名前を名乗らなくちゃいけないみたいで、わたしはまだ良いってマウリおばさんに言われていたんだけど、早くみんなの一員になりたくて、そう名乗るようにしたの。


 ――能美のうみ玲那れいなから、苗字と名前をそれぞれもじって、ミィナ。


 みんなも玲那って呼びづらいみたいで、変な発音でレーナって呼んでたから、ミィナ呼びに馴染むのは早かった。


「うん。文字を覚えたら、マウリおばさんの代わりに買い出しなんかもできるようになるでしょ?

 わたし、頑張って役に立ちたいんだ」


「あはは、アンタ、本当に良い子だねぇ」


 なにかあるたびにわたしの頭をわしゃわしゃと撫でるのは、アイラねえさんの悪癖だ。


 毎朝、マウリおばさんが梳かしてくれる髪が、ボサボサになっちゃう。


 でも、アイラねえさんに撫でられるの自体は、嫌いじゃなかった。


 頭を撫でられるなんて、お父さんが居なくなってからはなかったから。


 乱れた髪を手で整えていると、アイラねえさんはわたしの隣に座って。


「ふ~ん。だいぶヘェイ文字は書けるようになってるじゃない」


 黒板を覗き込んでそう呟く。


「じゃあ、今日はプラゥス文字も覚えてみようか?」


 そう言うと、アイラねえさんは黒板の文字を消して、画数の多い文字をいくつか書き込んだ。


「貴族なんかが使う文字でね、これで空とか天って意味。こっちは大地とか地面、床って意味でも使われるかな? こっちは街で、こっちは人」


 アイラねえさんが教えてくれたプラゥス文字は――


「――ひとつの文字に、複数の読み方や意味があるって事? 確かにヘェイ文字だけだと、同じ発音で別の意味の言葉で混乱するもんね」


 つまりプラゥス文字って、漢字のような役割の文字という事だと思う。


 わたしが小首を傾げながら確認すると、アイラねえさんは目を見開いて、厨房に顔を向ける。


「ちょっと女将さんっ! この子、天才だよ! プラゥス文字の役割を理解しちゃってる!」


 アイラねえさんの言葉に、厨房からカウンターに顔を覗かせたマウリおばさんは苦笑。


「なにをいまさら。その子はね、文字の読み書きはできなかったけど、計算ならアンタらよりよっぽどできるんだよ!」


 少し得意げなマウリおばさんに、わたしはつい照れてしまう。


 いずれお会計もさせようと考えていたのか、マウリおばさんはお金の価値をわたしに教えてくれていた。


 この世界――アーガス王国のお金は、エムシィという単位で呼ばれている。


 通貨は銅貨、銀貨、金貨が一般的で、大貴族になると単位の元になってる、エムシィ貨という通貨を使う事もあるみたい。


 当然、『春の彩』では誰も見たことなかったし、わたし自身も勇者になって、あちこち旅した今でも、実物を見たことはない。


 小銅貨一枚で一エムシィ。


 小銅貨五枚で銅貨と同等で、五エムシィ。


 小銅貨十枚か銅貨二枚で、小銀貨になって十エムシィで。


 銀貨は五十エムシィ、小金貨は百エムシィ、金貨が五百エムシィという風に価値が上がっていく。


 通貨の価値としては、パン一個が地域にもよるけど、だいたい一個で小銅貨三枚から銅貨一枚。三エムシィから五エムシィというところ。


「へ? ミィナ、あんた算術できるの!?」


 驚きの目を向けてくるアイラねえさんに、わたしはうなずきで応えた。


「ええと、ウチに食事付きで三泊したらいくらになる?」


 『春の彩』の一泊はいくつかメニューがあって、食事なしの素泊まりだと小銀貨3枚の三十エムシィ。


 朝晩の食事付きだと銀貨一枚の五十エムシィで、『花付き』と呼ばれるコースだと、銀貨十枚の五百エムシィだ。


「三泊なら、五十かける三で百五十エムシィ。銀貨三枚かな」


「……お客が金貨でそれを払ったら、お釣りは?」


「五百引く百五十で三百五十エムシィ。銀貨で七枚」


 算数レベルの問題だから、わたしはスラスラと暗算で答えた。


「――なに、この子! マジで天才じゃない!」


 途端、アイラねえさんはわたしを抱き締めて来た。


 勉強で褒められるなんて、お父さんが家に居た頃以来で。


 しかも算数程度の問題で褒められたのだから、嬉しいやら照れくさいやらで、あの時のわたしはひどく困惑したのを覚えている。


 ……あの頃は気づかなかったけど、正解を自分で導き出せてた時点で、アイラねえさんも十分に算術ができていたんだよね。


「女将さん、この子、こんなトコで埋もれさせるなんてもったいないわ!」


「……こんなトコって、アイラ。アンタねぇ」


「良いから聞いてっ! この子なら、このまま勉強を続ければ、王城で侍女くらいできるようになるわ!

 ミィナ、これから毎日、あたしが勉強を教えてあげる!」


 ……今にして思えば。


 元貴族――いわゆる没落令嬢だったアイラねえさん――アーリネイア様は、わたしをより良い生活にのし上げる為に、世話を焼いてくれたんだと思う。


 自分が堕とされた身だからこそ。


 わたしなんかに優しくしてくれて、知恵を身に着けさせて、アーガス王国で女の身でも生きて行けるように……


「こう見えてあたし、コネだけはめちゃくちゃあるのよ!」


 そう言って胸を張って天井を指差すアイラねえさんは、いつものようにカッコ良くて、わたしは知らず手を叩いていた。

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