第2話 2
マウリおばさんに連れて来られたのは、『春の彩』というお店だった。
一階が食堂になっていて、大人の男の人達がお酒を楽しみ、しばらくすると二階への階段を登っていく。
まだこの世界の文字が読めず、幼かったわたしは、はじめの頃はしぃちゃんから借りた本に出てきてた、この世界の宿屋のようなものだと思ってた。
マウリおばさんが出してくれた晩ご飯は、なにも食べてなくてお腹をきゅうきゅう鳴らしてたわたしにとって、すごく美味しく感じられて。
素直にそう言ったら、
「――ふん。野菜くずのスープをありがたがるなんて、おかしな子だよ!」
って、マウリおばさんはそっぽを向いて厨房に引っ込んじゃったんだ。
今ならおばさんが憎まれ口を叩くのは、照れ隠しなんだって知ってるけど、あの時は怒らせちゃったのかと思って、ベアおじさんに泣きそうな顔を見せちゃった……
それでベアおじさんが。
「ありゃ、姐さんの照れ隠しよ。ここに来る連中は姐さんの料理の味なんて気にしたりしねえからな。嬉しかったんだろうさ」
そう、教えてくれて。
その後は、お店の裏手の厩舎にベアおじさんと二人で向かった。
厩舎に馬は居なかったんだけど、お客さんが馬や馬車で来た時の為の設備なんだって、これもベアおじさんが教えてくれた。
ふたりで干した飼い藁を抱えて、従業員用の階段で三階まで登る。
廊下の先にある屋根裏部屋がわたしに与えられたお部屋だ。
ギシギシ鳴る板張りで、決して広くはないし天井も低いけど、小さな机と椅子が置かれていて、その前には木戸が閉じられた小窓がある――絵本に出てくるみたいな素敵なお部屋。
机の横の床におじさんとふたりで藁を敷いていると、マウリおばさんがシーツとランプを持って階段を登って来て、ベアおじさんとふたりでシーツを藁の上に広げて、ベッドを作ってくれた。
「さ、疲れてるんだろう? とっとと寝ちまいな」
マウリおばさんはぶっきらぼうにそう言うと、ベアおじさんと一緒に階段を降りて行こうとしたから。
「――あのっ! マウリおばさん、ベアおじさん、ありがとうございますっ!」
階段に向けて、わたしが声をかけると、マウリおばさんは鼻を鳴らし、ベアおじさんは手を振ってくれた。
そうして、いろいろな事がありすぎたからか。
その晩、わたしは横になるとすぐに眠くなってしまい、夢を見る事もなく、深く眠ってしまった。
――これがしぃちゃんが貸してくれた小説の主人公だったら。
きっと、「どうして異世界に来ちゃったんだろう」とか「どうやって帰ったら良いんだろう」とか色々考えられたんだと思う。
でも、あの時のわたしは本当に子供で。
――あんたなんか産むんじゃなかった!
今でも気を抜くと、脳裏を過ぎるお母さんの声。
あの時のお母さんの顔や言葉を思い出したくなくて、わたしはあえて日本の事を考えないようにしていた。
だから、朝からお仕事がたくさんある『春の彩』での日々は、わたしにとってすごく幸せな環境だったと思う。
この世界に来た翌日。
朝、起こしに来てくれたマウリおばさんは、家を飛び出した時のまま――中学の制服姿のままだったわたしを見て、困ったような表情を浮かべて。
「少し待ってな!」
そう言って屋根裏部屋から降りて行き、数着の服を手に戻ってきた。
「そっちは仕事用。そっちは寝間着。そっちのは……まあ休みの日にでも使うんだね」
と、マウリおばさんは、娘さんのお下がりだというそれらの服を、藁ベットの上に並べてそう説明してくれて。
この世界の庶民にとって、制服の生地は上等過ぎて、そんな格好でうろちょろしてたら、裸に剥かれて奪われてもおかしくないんだとか。
ベアおじさんも、わたしを貴族かなにかと思ってたみたいだったし。
その後は、わたしはマウリおばさんに付いて回って、お仕事の流れを覚えた。
――わたしの一日の基本的なお仕事の流れはこう。
朝、身支度を整えたら、一階に降りて厨房の手押しポンプを漕いでバケツに水を組み、洗濯用の大鍋でお湯を沸かす。
着火には魔道器を使うんだと、マウリおばさんに教えてもらって、この世界には魔法があると知った時は、すごくワクワクしたのを覚えてる。
お湯が沸くのを待つ間、お客さんが使ったお部屋の扉と窓を開け放ち、シーツを回収して回る。
時々、変な臭いのするシーツがあって、お酒を呑み過ぎたお客さんがうっかり吐いちゃったのかな――とか、その時のわたしは考えてたんだけど、本当の事を知った時は、恥ずかしさで顔から火が出るかと思った。
シーツの回収を終える頃には、お湯が沸いているから、マウリおばさんとふたりで大鍋を持って中庭へ。
いつもしかめっ面のマウリおばさんは、最初の頃は大鍋は自分が運ぶって譲らなくて、役立たずと思われてるのかもしれないって、しばらく不安に思ったりもした。
でも、実際は年の割に小柄なわたしに、熱い大鍋を運ばせたくなかったんだよね。
それに気づいてからは、持ち手を左右からふたりで持つ事を提案して。
「まあ、少しづつ重いものを持てるようになってもらわなきゃいけないしね」
そう応えたマウリおばさんの目尻が、ほんの少しだけ、いつもより下がっていたのを、わたしは見逃さなかった。
小さな井戸のすぐ横で、大きな木桶にお湯を注ぎ、ナイフで石鹸を削り落として、シーツを放り込む。
素足になって、シーツを踏んで、頃合いを見て、シーツを引き上げて汚れチェック。
しつこいシミは両手で擦り合わせて揉み洗い。
わたしは非力だったから、絞るのはマウリおばさんがやってくれた。
石鹸洗いを終えると、木桶の中身を空けて、井戸から水を汲んですすぎ洗いする。
マウリおばさんがシーツを絞ってる間に、わたしは壁に立てかけてある物干し台を中庭に広げて行って。
そうしてふたりで、シーツのシワを伸ばしながら、物干し紐にシーツを掛けていく。
洗濯が終わると、マウリおばさんは昼営業の料理の仕込み。
わたしは箒とチリ取り、それにブラシと雑巾を手に、客室を回ってお掃除して行く。
わたしが来るまでは、お掃除もマウリおばさんひとりでやってたっていうんだから、すごいと思ったのをよく覚えている。
『春の彩』の客室は、お部屋そのものはわたしが与えられた屋根裏部屋くらいの広さで、ベッドがあるだけなんだけど、なんとお風呂がついていた。
なんならベッドのあるお部屋より、浴室の方が広いくらい。
現代日本から来たばかりのわたしにとって、宿にお風呂があるのは当たり前と思ってたんだけど、お城務めも経験した今なら、それがどんなにすごい事かよくわかるんだ。
大人の男の人が脚を伸ばしてもまだ余裕のある大きな浴槽には、温水を生み出す魔道器が付いていて、わたしはそこに魔道を通して、浴槽を磨いていく。
――え? 最初から魔道器が使えたのか、ですか?
いえ、わたしの世界には、魔法も魔道器もありませんでしたから、最初はぜんぜん動いてくれなくて。
でも、何度かマウリおばさんが魔道器を使うのを見てたら、魔道の動きが感覚的にわかるようになって……それで試したら、できたんですよ。
――魔眼? いいえ、見えはしないですよ? なんとなくわかるっていうか……ん~、なんというか……手足と同じというか……感覚が繋がるような感触が、わたしが魔道全般を使う時の感覚ですね。
この頃は周りに使える人が居なかったので、魔法も使えなかったんです。
はい。魔法が使えるようになったのは、もうちょっと後――お城で働くようになってからですね。
あ、はい。続けますね。
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