第21話 病室
翌朝、岡部はあっちこちの検査室で検査を受けることになった。
一旦病室に戻ると、今度は診察室の待合に並ぶように案内された。
診断としては、骨には異常は見られないが、後頭部と背中と腰部に打撲の症状が見える。
後頭部を打ったせいか少し記憶障害が出ている。
むちうち症状が出るかもしれないので、暫く入院した方が良いとの事だった。
病室に戻ると戸川が来ていた。
厩舎は調教助手の長井に任せ今日は早退したのだそうだ。
医師の診断の結果を話すと奥さんは非情に心配そうな顔をした。
退院したら一度、あん摩か整体を受けた方が良いかもしれないと戸川は案じた。
なお、日野には研修は一時中断だと言ってあるので、そちらは気にしないで良いという事だった。
「多くの方にご心配をおかけしてしまって申し訳ないです」
岡部は痛恨という表情を戸川に向けた。
「そう思うんやったら、一日も早く厩舎棟に元気な顔を出すことやな」
戸川は優しい顔をして微笑んだ。
岡部が無事な事を確認し胸を撫で下ろした戸川と奥さんは、一旦家に帰っていった。
岡部は、真っ白の味気ない病室で塩味の欠片も感じない味気ない昼食を食べ、午後のまったりとした時を過ごしている。
窓の外をぼんやりと見ていると、窓ガラスに薄っすらと戸川が映った。
開口一番、戸川は暇そうだと笑い出した。
岡部が無事であると確信し、すっかり一時の混乱から脱したらしい。
「おかげさまで、これといった体の不自由も泣く暇を持て余していますよ」
「丈夫な体に生んでくれたご両親に感謝せなあかんな」
そう言って戸川は顔をほころばせた。
病床横の見舞い用の丸椅子に腰かけると、戸川は少し真面目な顔をしどこか痺れはないかと尋ねた。
「そうですね。打ち身は痛いですけど今の所痺れは特には」
「長井が聞いたら、若いいうんは羨ましい言うてひがむで」
戸川はがははと笑い出した。
暫く笑うと戸川はまた真面目な顔をし、落ちた時の事を思い出せるかと尋ねた。
岡部も目が覚めてここまで色々考える時間があり、何度も落ちた時のことを思い出そうとはしている。
追い出したところまでは完璧に思い出せる。
コーナーに差し掛かり長井の竜を抜かそうとして、目の前が歪み急速に視界が白くなった。
何度思い出そうとしてもそこで記憶が途切れている。
体調の変化も何も感じず、突然の出来事だった。
速度の問題だろうかと戸川は唸るが、前日に一杯で追っており速度は関係ないと思われる。
「どっちにしても、原因が判明するまで資格を取っても調教はさせられへんな」
戸川は少し寂しそうな顔をする。
すると岡部は露骨に落ち込んだ顔をした。
戸川は岡部が騎手になりたがっていることを知っている。
できれば少しづつでも竜に乗せてあげたいとも思う。
だが原因がわからなければあまりにも危険すぎる。
最悪の場合次は無いかもしれないのだ。
「そう気落ちせんと。ゆっくりと訓練していったら良えんやから」
そう慰めるのが精一杯であった。
単走で襲歩ができているので、もう午後の研修は合格の条件を満たしており、後は二日座学をすれば『厩務員免許』と『調教資格』は得られれる。
一度得てしまえば自分の限界まで働ける資格だから、仮に騎手としての道が閉ざされたとしても、調教助手として竜に乗り続ける事はできる。
そう説明すると戸川は席を立った。
「一旦厩舎に連絡してくる。この椅子、ちとケツが痛いわ」
戸川は笑いながら病室を後にした。
色々と連絡しているらしく、戸川は中々帰って来なかった。
かなり時間が経って寝そうになっていたところでやっと戻って来た。
かなり曇った顔をしており、病床の岡部よりずっと顔色が悪そうである。
「あんま帰りたないけども、今日のところはこれで帰るわ」
「何かあったんですか?」
「……梨奈がカンカンに怒っとる」
岡部は何かを言おうとしたが、言葉が見つからなかった。
「家の前で僕とすれ違うたんやって。何で待ってくれへんかったってキイキイ鳴いてたわ」
「じゃあ明日待ってるよって伝えてください」
「そうやな。そう言うとくわ」
この時期は暇だからまた明日来れると思うと言って、戸川は病室を後にした。
その夜、急な激しい頭痛に襲われ、岡部はナースコールをした。
鎮痛剤を飲み、効くまで苦しみ続け、その反動で眠りに落ちた。
だが夜中に薬が切れ、再度鎮痛剤を飲んだ。
再度反動で眠りに落ちた。
目が覚めると、朝食の時間はとうに過ぎていた。
見ると腕には点滴が打たれている。
痛む体を押してトイレに向かう。
途中窓から外を見ると、濃灰の厚い雲に覆われた空から絶え間なく雫が降り注いでいた。
病床に帰ってくると看護婦と奥さんが待っていた。
病床に横になると、看護婦は事務的に体調を検査し去って行った。
奥さんは花瓶と花を一輪買ってきており、それを病床横の棚に飾っている。
昨日から梨奈が癇癪をおこして大変だと奥さんは笑い出した。
朝から学校休んでお見舞いに行くと喚き続けていたらしい。
「余計な事言っちゃいましたかね?」
「綱ちゃん入院してから情緒がおかしいんよ、あの娘」
奥さんはやれやれという仕草をして困り顔をする。
「そういえば、入院してから姿見てませんもんね」
「さすがに午後には連れてこんと暴れるやろうね。それも見てみたい気するけど」
奥さんは悪い顔をして笑っている。
「来たら来たで知らない人いっぱいでシュンとする癖にね」
その光景は岡部にも容易に想像がついた。
暫くすると医師の回診があり昨晩の頭痛の話をした。
後頭部を打っているし緩衝着や防護帽を身に付けても、交通事故並みの衝撃があったと思って欲しいと説明を受けた。
痛み止めの飲み薬を処方され、痛い時には我慢せずに飲むようにとのことだった。
医師が退室すると奥さんは、夜寝れなかったのと心配そうな顔をした。
鎮痛剤を飲んだからと微笑むが、心配そうな顔は変わらなかった。
奥さんは、家の事があるからとお昼を前に一旦帰宅。
真っ白な部屋で、岡部は一人相変わらずの味気ない昼食を取ることになった。
一人になると、どうしても色々な事を考えてしまう。
何故あんな事になってしまったのか、その事をまた考え始めた。
戸川は『仮に』と言っていたが、間違いなく今回の事で騎手への道は限りなく険しいものになっただろう。
原因を探れば対処はできるかもしれない。
だがもし対処が困難だとしたら……。
考えれば考えるほど思考は暗く沈んでいく。
降り注ぐ外の雨をぼうっと見ていると、窓ガラスに二人の影が映りこんだ。
振り返ると、何とも言えない表情をする戸川と、その戸川の後ろに隠れる梨奈の姿があった。
戸川の顔を見ただけで、大体ここまで何があったかは想像がつく。
そして案の定、梨奈は知らない人ばかりで小さくなっている。
病室に入り丸椅子に腰かけると、戸川は頭痛があると聞いたが大丈夫かと心配そうな表情を浮かべた。
昨晩少しあったと答えると、梨奈がか細い声で大丈夫なのと聞いてきた。
「心配しなくても大丈夫だよ。ほら、点滴もしてないでしょ?」
「でも、最初見た時機械ぎょうさん付いてはって、えらい心配したんよ」
「ありがとう。でもだからって、わがまま言って困らせたらダメだよ」
梨奈はばっと戸川の顔を見た。
戸川はそれを察して、梨奈からさっと顔を反らした。
「わがままなん言うてへんもん。心配やって言うてただけやもん」
「数日で帰れるから、そんな心配しなくても大丈夫だよ」
そっかと言うと、梨奈は安心した顔で岡部の顔を見た。
安心して緊張が一気に緩んだ梨奈は、下半身の緊張も緩んだらしくトイレに駆けていった。
「実際、どんくらいで退院できそうなん?」
梨奈がいなくなったことで、戸川は本当のところを聞きたがった。
「残念ながらまだ医師からはそういった話は出てないですね。頭痛が治まり次第ではないかとは推測しますけど」
「怪我や病気いうんは、昔から神様からの体を休めいう合図やいうからな。もしかしたら疲れが溜まってはったんかもしれへんな」
岡部は、疲れなど若い自分には関係ないと思っていた。
だがそう言われてしまうと、ゆっくり休まないとという気持ちにはなる。
「君は若いから気付き難いやろうけど、走り続けたらどんな生き物も疲れは溜まるんやで?」
戸川は続けて何か言いたい事があるようだが、何か非常に言いづらそうにしている。
岡部が、そんな戸川を見ていると梨奈が病室に戻ってきた。
梨奈は岡部をじっと見つめ、恥ずかしくなって視線を反らし、戸川の顔を見て口を開いた。
「ねえ、綱一郎さんを振り落したん、父さんの竜なんでしょ?」
梨奈の問いかけが戸川を責めるようにも感じられ、岡部は戸川の顔が気の毒で見れない。
実際には戸川厩舎の竜ではなく研修用の竜ではあるのだが、それを言っても梨奈は納得はしないだろう。
「振り落とされたわけじゃないよ。僕が一番危ない所で竜の手綱を離しちゃったんだよ」
「どうしてそない危ない事したん?」
「それがわからないんだよね。どうしてあの時気が遠くなったのか」
梨奈は一呼吸置いて目を潤ませた。
「そない怪我までして竜に乗らなあかんの?」
梨奈が何を言いたいのか岡部にも何となく察せられる。
その思いが非常にありがたくもある。
「僕はね、もう竜に魅入られちゃったんだ。だから竜とずっと一緒にいたいし、できればまた竜に乗りたいと思ってる。登山家の登山と一緒なんだよ」
岡部が戸川の表情を確認すると、目を少し潤ませとても嬉しそうな顔をしていた。
「だったら、早よ元気な顔を竜に見せたげないとな。可愛いうちの竜たちが君に再び会えるんを楽しみに待ってるで」
戸川は岡部の肩にそっと手を置いた。
岡部は楽しみですと言ってはにかんだ。
そんな二人を見て、梨奈は複雑な顔をしている。
戸川が、あまり遅くなると母さんが心配するからと帰ろうとした。
すると梨奈は、まだ帰らないと駄々をこねた。
まさか置いていくわけにもいかず、戸川は困り顔をしている。
「梨奈ちゃん、病室って暇でね。明日、客間にある前に貰った地理の資料持ってきてくれないかな?」
梨奈はそれを聞くと、絶対明日持ってくるからと言って、早く帰ろうと戸川を急かした。
ふいに戸川が病室を覗いた。
「研修の資料も持ってくるから、ちゃんと復習するんやで」
そう言って笑って去って行った。
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