第20話 直美

 奥さんは、その日一晩、岡部に付き添った。


 岡部の寝顔を見て、岡部が家に来た日のことを思い出している。

わずか十日ほど前の事なのに、もう遥か昔の事のように感じる。




 ――あの日、いつものように戸川が朝早くに目覚めるので、一緒に起きあさげの準備をした。


 夫は、今日は休みだけどちょっと出かけてくるとだけ言っていた。

たまの休みだし日曜なのだからどこかに一緒に出掛けたらどうかと言いたかったが、夫の曲がった背中と俯いた顔を見たらとても言い出せなかった。


 前日どうやら会長さんが厩舎に来たようで焦燥しきった顔で帰ってきた。

会長が来た日はすぐわかる。

いつもこの調子だ。

自分が何を言っても夫はあまり返答をしないので、最近は自然と夫婦の会話が減ってしまっている。

会長が来た次の日は特にその傾向が強い。


 暫く客間で新聞を読んでいた夫だったが、ふらっと無言で出かけて行った。

夫の丸まった背中を見ると、もしかしたらこのまま帰って来ないのではないかと強い不安感に襲われた。



 夫が出かけてすぐに娘が起きてきた。

まるで夫と顔を合わせるのが嫌だから家を出るのを待っていたかのように。


 娘は私と目を合わそうとすらしない。

昔はそれなりに明るい娘でよく口喧嘩もしたのに、いつの頃からか話しかけても黙って俯くようになってしまった。


 黙々とあさげをとり、もちもちとずっと咀嚼している。

その顔は少なくとも美味しそうに見える顔ではない。

夫もそうだが何を作っても美味しそうに食べてはもらえない。


 母親からは『料理は女が作れる家族の元気』と教えられており、自分が料理の腕を磨けば家族が笑顔になるとずっと信じている。

だが今のところ成果は目には見えていない。


 娘は無言で膳を下げ食器を洗うと、無言で自分の部屋に戻っていった。

結局、その日ひるげまで娘は部屋から出てはこなかった。

曇り空ながら梅雨の合間の日曜だというのに。



 洗濯をし部屋の掃除を終え、電視機をぼっと眺めていたがすぐに飽きてしまった。

せめて自分だけでも笑顔でいなければと気を張り直し、外に出て車の内燃を始動させる。


 久御山まで車を走らせ大型総合商店に向かった。

数年前にできた三星商社の経営する大型総合商店は、日曜ということもあり若者と恋人で溢れかえっている。

とくに何かを購入するわけでもなく、ただぶらぶらと商店を見て回る。


 やはり一人ではつまらなくてすぐに飽きがくる。

せめて娘でも付き合ってくれれば少しは違うのだが。

娘はこういう所が苦手らしく、特に人の多い日曜には絶対に来たがらない。

娘ができた時には、将来母娘二人ではしゃぎながら服を選ぶ未来を想像したものだが。

今のところ、実現は極めて困難なように感じる。


 結局、特に甘味処に寄るでもなく、ひるげとゆうげの買出しだけして車に乗り込んだ。



 家に帰ってもしんと静まり返っている。


 ひるげの支度をし娘を呼ぶと、無言でゆっくり階段を下りてきた。

娘は俯いたまま食卓についた。

相変わらず食が細く、茶碗に半分程度のご飯をもちもちと無言で噛み続けている。


「梨奈ちゃんこれね、総合商店で試食しててね。美味しかったから買うたんよ」


 娘は唐黍のから揚げを見て、無言で一つ箸にとった。

やはり目を合わせてはくれない。


「どうやろうか?」


 うんとだけ、か細い声で言うと、から揚げを後生大事にちびちびと食べ始める。

唐黍を一粒づつ食べて一体何が美味しいのだろう……


 幼少の頃より体質が弱かったのだが、それがここまで内気に育つとは。

姪っ子――娘にとっては従姉にあたる娘は歳相応の元気で無敵な女学生で、比べてはいけないと思いながらもどうしても比べて娘を見てしまう。


 娘はちらりとこちらを見ると、やはり無言で膳を片付け食器を洗い自分の部屋に帰っていった。



 若い頃は、会派の孫という友人に誘われて、八級の福原ふくはら競竜場で竜券の売り子をしていた。

当時、戸川調教師は若手の有望株で、福原競竜場に赴任し、何度も顔を合わせているうちに気が付いたら夫婦になっていた。

すぐに懐妊し夫も昇級して皇都に家を持った。


 だが、そこから軌道が変わったかのように何かがずれ始めた。

身ごもった子は難産の末死産。

夫は皇都に縛られるかのように成績が頭打ちになった。


 妻は一家の土台なのだからお前が夫を支えなかったら家は傾くんだと、母親から励まされたのを今でも覚えている。

死産で悲しみに暮れている娘に何て酷なことを言う女なんだとかなり怨んだ。

もう妊娠は望めないかもしれないと医師は言っており、自分の夢見た将来像はもう得られないのだと諦めていた。


 ところが娘を身籠った。

最初の子の死産以降、嬉しそうな夫の顔を久々に観た。

その時、母が励ましで言った言葉をやっと理解した。



 『禍福はあざなえる縄のごとし』とはよく言ったもので、娘が生まれた翌年父が他界した。

数年後には母も後を追うように他界した。


 その頃から、夫は会派の会長との折り合いが悪くなったらしく、落ち込んで帰ってくる日が度々できた。

最初はその都度焼肉の用意をし、麦酒を呑んで忘れさせてあげようとした。

だが徐々に焼肉もいらないと言いだし、ただ酒量だけが増え、最近ではもうどうしてあげたら良いかわからなくなっている。


 娘は夜中に頻繁に熱を出したが、夫が早朝に出勤する為看病はいつも自分一人。

何度も挫けそうになったが、たまに夫にかけられる労いの言葉が本当に心に沁み、やる気を入れ直した。

調教師仲間という人が遊びに来ると、夫が私の事をできた妻だと自慢すると暴露していった。

照れる夫を見ては、かすかな幸せを感じたものだった。



 ゆうげの支度をして夫の帰りを待ったが、何時まで待っても夫は帰って来なかった。

娘と二人無言のゆうげを取ると、娘は早々に入浴して自分の部屋に帰っていった。

静まり返った食卓で一人夫の帰りを待った。


 待ち疲れてもう先に寝てしまおうかと思った時だった。

夫が帰宅した。

しばらく見なかった満面の笑顔での帰宅だった。


 一体何があったのかと尋ねると、拾い物をしたと言う。

変な子なんだが行くところが無いというから、暫くうちで預かろうと思うと言い出した。

ゆうげはどうしたのか尋ねると、外で食べてきたという。

ほのかに酒臭い。


 こいつは何を言っているんだと怒りがこみ上げ頬を強くつねった。

だが夫は頬をつねられても、玄関で嬉しそうな顔をしたままだった。

その態度で、その子は夫にとってかなり大事な存在なのだろうと察した。


 その子はどこにいるのと尋ねると、外で待たせていると言う。

かわいそうだから早く家に上げてあげたらと言うと、夫は嬉しそうに弾みながら外に出て行った。


「あ、岡部と言います。騎手をしています」


 男性は丁寧に挨拶をした――




 どうやら、いつの間にか眠ってしまったらしい。

目を覚ますとベッドで寝ていた岡部は、もう目を開けていた。


「綱ちゃん、おはよう。気分はどう?」


 岡部は朝日がまぶしいという顔をしている。


「おはようございます。えっと、体のいたるところが痛いですね」


 ナースコールをし目が覚めたことを伝えると、看護婦が岡部の体調を調べにきた。




 ――最初の子の出産日が近づいた日のことを思い出した。

夫が一枚の紙を持って、嬉しそうにベッドに駆け寄ってきた日のことを。


「直美ちゃん! 子供の名前考えてきたんや! 見てくれるかな?」


 丸めた紙には、わざわざ筆で男の子の名前が書かれていた。


「『幸一郎』いうんやけど、どうかな?」


「女の子やったら、どないするんよ?」


 夫は鳩が豆鉄砲を食ったような顔をしている。


「先生が男の子や言うから、もう男の子としか考えてへんよ」


「そんなやから、いつも詰めが甘いんよ」


「会長みたいなこと言わんといてや」


 二人は幸せそうな顔で笑いあった。

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